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青野の鑑賞記録 ~溢れる思いを、心ゆくまま~

『おんな城主直虎』45話~直虎、家康、「武家のルール」からの脱却~

因果は巡る

 45話ではついに信康・瀬名殺害事件の序章が切って落とされました。この事件は『直虎』において最も有名な(しかし真相はよく分からない)史実の一つであり、おそらくは物語の終盤に一つの要として配置することが最初から想定されていたであろうエピソードです。『直虎』では変奏曲のように一つのテーマが何度か形を変えて繰り返し提示されます。そしてその繰り返しに関連性を持たせるため、大小の様々な伏線が張り巡らされています。

 「信康・瀬名事件」は遠くは11話の直親謀殺、近く31話「虎松の首」、そして33話の政次処刑と関連しています。さらにいえば、11話の前段ともいえる1話の直満謀殺、さらに遡って佐名人質差し出しの件も関わっているといえるでしょう。いずれも戦国の世において「主家や力の強い武将に難題を振りかけられた武家は、家の存続のために身内から犠牲を出さなければならない」というルールに従って生きるしかないということ、そしてそのルールに従う限り、状況によって犠牲を出させる側、出す側のどちらにも追い込まれうるということです。

 家康はかつて家の都合で再興を約束した井伊家を見捨て、そのことが政次の処刑につながりました。ドラマでは描かれませんが、家康が一介の人質から今の地位に上り詰める過程では、さらに大きな犠牲を出させる立場に置かれてきたことでしょう。だからこそ、於大の方がいみじくも諭したように、「そうやって生き延びてきたのだから、自分だけがそこから逃れることはできない」のです。

 その過程を間近で目撃する万千代は、かつての井伊家の苦悩を追体験します。井伊は今川に臣従する過程で何度も謀反の疑いをかけられ、そのたびに人質や首を差し出すことで生き延びてきました。そして井伊家の意図に逆らって独自の動きを示すように見える小野が「獅子身中の虫」として行動することで、今川の疑いをそらし、井伊家取り潰しという最悪の事態を避けようとしてきました。

 

井伊家のサバイバルと小野

 私は今話を見て、32話での政次の演説を思い出しました。政次は「井伊と小野は二つで一つであった。井伊を抑えるために小野があり、小野を犬とするために井伊がなくてはならなかった。そして生き延びる他なかった」と言いました。私は当時、その言葉の意味が半分は分かっていたかもしれませんが、もう半分は分かっていなかったのではないかと思います。

 今でも正直「小野を犬とするために井伊がなくてはならなかった」の部分には少し分からない点もあります(なぜ「なくてはならなかった」のか)。しかし、井伊が今川という主家に所領を安堵されて生きる敗戦の国衆であれば、今川の意向にはどうしても従わなければならなかったということは分かります。もしも今川がこれ以上土地の争奪がない安定国家における絶対的君主であれば、今川は井伊の謀反をむやみに疑うこともなかったかもしれませんし、井伊に無理難題を押し付けることもなかったのかもしれません。しかし戦国の世では今川自体が生き馬の目を抜く競争にさらされているのです。そして今川と国衆は忠義で結ばれている関係ではありませんから、今川は時には本気で国衆の謀反を疑ったり、自家の戦略上の都合で国衆の首をすげ替えたりしなければなりません。

 すなわち当時の井伊は、①今川に謀反の疑いをかけられないように注意深く行動し、②今川が自家の戦略上の都合で振りかける無理難題に対処し、③今川の弱体化の際には離反も視野に入れて身を処す、という3つの事柄を同時にこなさなければならなかったのです。その井伊が具体的に採った策が、小野という隠れ蓑を使うということでした。すなわち小野を今川の懐に飛び込ませ、今川に小野と井伊は敵対していると思わせて油断させ、今川からの攻撃を直接攻撃ではなく小野経由の間接的なものにすることでその破壊力を鈍らせてきたのです。そうした意味で、小野は井伊の盾だったのです。

 盾として、小野はよく戦いました。政直時代から通算すれば、まず佐名を差し出して義元の怒りを沈め、直満を密告して井伊本家に害が及ぶことを避けました。政次時代には徳川接近という③の任務を直親と極秘裏に進めながらも、それが失敗したために直親を犠牲にすることで井伊家取り潰しを逃れました。徳政令後に今川から虎松の首を要求された際にも再び盾となって悪役を演じ、偽装工作を行って井伊家断絶を避けました。その間直虎とともに③の徳川接近工作を再開させていましたが、家康の裏切りによって井伊家再興は実現せず、最終的には積もり積もった恨みの責任をとって処刑されました。小野は戦い抜きましたが、それでも井伊家を守り抜くことはできず、力尽きてついに倒れたのです。

 政次を刺したのは直虎でした。政次の政策の失敗は、直虎の失敗でもあります。今川のデスノートに書かれていた名前は直虎です。徳政令の結果、死んだのは「直虎」としてのおとわでした。おとわは物理的な命は永らえたのかもしれませんが、戦国の世の武家の当主としての「直虎」は、政次が死んだ瞬間に一緒に死んでしまったのではないかと私は思います。私は以前の感想で「ドラマの直虎は政次を槍で衝くことで彼(のファルス)を完全に所有してしまったのではないか」という趣旨のことを書きました。政次を殺すことで手に入れたものは、しかしながら彼女が欲しいものではありませんでした。彼を槍で突き殺した瞬間に、彼女はこれまでの彼と彼女を縛ってきた、そして井伊から多数の悲劇を産んできた「武家のルール」に心底失望したのではないでしょうか。

 

武家のルール」のオルタナティブ

人柱の連鎖

 堀川城の悲劇を経て、さらに近藤を癒やすという赦しの経験をした彼女は、「武家のルール」から降りることを決意します。その後の彼女は井伊谷を力の論理ではなく、教育と経済で繁栄させる小ユートピアとして再生させていきます。

 私は今後の家康は、おとわが絶望の淵で掴んだ再生のきっかけと世界観の転換を、信康と瀬名の死を契機に追体験するのではないかと思います。ノベライズ等を読んでいないので全くの勝手な予想になってしまいますが、おとわと同様に絶望を味わった家康は、おとわが井伊谷という小宇宙で行った改革を、今度は日本全土というスケールで行っていこうとするのではないでしょうか。そして家康にとっての「信康・瀬名事件」は、おとわにとっての政次処刑と同じような意味を持ってくるのではないかと思います。

 その手がかりになるのはやはり前述の於大の方のセリフでしょう。

 

武家とはそういうもの。家を守るためには親兄弟も、我が子の命すらも人柱として立てなければならない。その中で生かされてきたのだと。そなただけ逃れたいと言うのは、それは通りませぬ。」

 

なぜ「武家は我が子の命すら人柱として立てなければならない」のでしょうか。それは当時の「日本」が戦争や殺人行為という力と血の論理で世の中を治める覇権主義の小国が群雄割拠する時代だったからでしょう。かつて武田信玄が語ったように、山間の厳しい土地である武田は戦に勝つことで敵国の領土を奪い、その奪った領土を分け与えることで国力を伸ばしてきました。覇権主義の群雄割拠が続く限り、武家は常に他家の領土を奪うことで自分の力を伸ばし、家臣には土地を安堵し、農民には耕作地を与えなければなりません。限られたパイの奪い合いをするために、武家は調略と戦争を繰り返します。調略はしばしば戦争を避けるために行うものですが、そこで戦争の代償として等価交換されるものは一族の首なのです。

 ですからこの群雄が土地の争奪をめぐって戦争を繰り返すというサイクルを止めない限り、「人柱」の因縁は続いていくのです。

 

「戦国という病」の処方箋

 土地とそこに住む人にとっても戦争は歓迎されるものではありません。人は減り、土地は荒れ、森林は切り出され、それが次世代に引き継がれて悪循環が繰り返されます。また『直虎』の世界観のベースになっているとも言われる<戦国=プチ氷河期>という考え方にも注意を払うべきでしょう。それはすなわち、戦争するから貧しいのではなく、貧しいから戦争が起こるという、原因と結果を逆転させる視点です。この視点から見れば、平和主義を理念的に唱えたり非戦を実行することだけが大切なのではなく、むしろ戦争の原因である貧困の解消こそが最重要の課題なのです。

 政次の死を経て武家のルールに嫌気が差した直虎は、領主時代の経験を生かして、この根源的な問題に取り組みます。「万千代編」で直虎が手がける綿産業や森林の再生は、このドラマの「戦国という病」に対する処方箋で、これこそが<城主直虎>が試行錯誤の末に行き着いた究極の政策なのです。

 さて、45話の展開を見て、私は今話が想像以上に11話、31~33話の展開に寄せてきていること驚きました。私は以前のエントリで、『直虎』の全体構造を予測し、3期に分けて考えるということについて書きました。その中で、城主編たる第2期(12~38話)は前半と後半に分かれており、それぞれのミッドポイントに政次関連のエピソードが置かれているのではないかという考えを示しました。

 第3期万千代編は、全体が第2期の城主編のダイジェスト版のリフレインのように構成されています。まず直虎と万千代の対立が描かれ、そして政次の悲劇と重なるように「信康・瀬名事件」が語られます。この事件は万千代が直虎にとっての「政次事件」を追体験するのと同様に、家康に「武家のルール」に従って生きることの本当の意味をつきつけ、むしろ彼に生き方の根本的な変革を迫るものになるのではないかと思います。

 家康が行った政策には色々ありますが、武家支配を肯定しつつも大名の軍事力を削ぎ覇権主義を廃したことは江戸時代の安定的継続に大きく寄与しました。また開墾、森林政策、治水事業など直虎が行ったのと同様の政策を全土に広げ、制度化したことも功績の一つです。野心的なことに、このドラマは家康を幼少期から登場させ、直虎の経験を家康に追体験させ、直虎が井伊の小宇宙で実現させた政策を家康が列島全土に実現させるという作りにすることで、直虎の功績を印象付けようとしているのではないでしょうか。

 次回気になるのは、この事件が直虎と万千代にとって持つ意味です。もしかしたら直虎は政次事件を思い起こしてしまうのかもしれませんし、万千代はそんな直虎と家康から何かを学んでいくのかもしれません。明日はこの点にも注目して見ていきたいと思います。

『おんな城主直虎』44話~3つの親子関係

    今話では万千代の手柄と出世のストーリーラインを軸にしながら3つの親子関係が描かれました。一つは直虎と祐椿尼、もう一つは直虎と万千代、そして最後は家康と信康です。

 

和解する親子:祐椿尼と直虎

 祐椿尼と直虎の会話は、今話の副題「井伊谷のばら」の元ネタ『ベルサイユのばら』におけるオスカルと父親のジャルジェ将軍の会話を下敷きに展開しました。直虎が生涯結婚せずに男の役割を担い、武家支配を疑問視して他の階級の人々と親しく交わるというキャラクター設定にしたときに、作者の中には『ベルばら』のオスカルのイメージがあったのではないでしょうか。このネタを終盤で入れることによって、ずっと悩み抜いてきた直虎が最終的には自己肯定する様子を描きたかったのではないかと思います。

 思えば直虎は自分の「役立たずさ」をずっと呪ってきました。その最たるシーンは12話の井戸端で酔いつぶれるシーン、36話で井伊谷をたたむと決めた時に井戸端で号泣するシーンです。彼女は12話では女であることを、36話では知恵や力が欠けていることを嘆きます。特に「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」という嘆きは自分の実存に関わる本質的な自己否定感だったことでしょう。

 直虎と比較すると、『ベルばら』のオスカルの悩みは今から見れば多少可愛くさえ思えます。オスカルは普段は自分が女であるということをほとんど気に留めていません。ジャルジェ将軍も自分をごまかしてオスカルを男として育て、男としての彼女に家督を譲ろうとします。オスカルは女でありながら当然のように男性の職につき、(部下の不信感や揶揄はあるとしても)そのことを制度の面から疑う人はいません。彼女の悩みは「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」ということではなく、「男性を愛した時に、男装している自分が女として見てもらえなかった」というものでした。しかもオスカルの恋が実らなかったのは彼女が男装していたせいではなく、男性に別に好きな人がいたからでした。

 それに対して直虎の悩みはより深刻です。彼女は自分が唯一の嫡出子でありながら女であるがゆえに家督を継げず、直親を死なせてしまいました。さらに直虎には「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」ということの他に、「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」という別の悩みもあります。これは祐椿尼に対して、そして自分の中の女性性に対しての申し訳の無さのような気持ちです。こうした思いは彼女がよく口にする「子もなさず」「孫を抱かせてやれず」という台詞に表れています。

 祐椿尼と直虎の親子はお互いに対して負い目を感じています。祐椿尼は直虎に対して「出家をさせ、後見につかせ、苦しい思いをさせ、女としての幸せを経験させてやれなかった」と思っています。その背後には正室でありながら男子をあげることができなかった自分を責める気持ちがあります。

 直虎は祐椿尼に前述のように「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」という二つの負い目を感じています。本来この二つは併存するものではないはずなのに、ダブルバインドのように直虎を呪っているのです。

 すなわちこの親子は二人とも「女と生まれたからには、<女の幸せ>(=結婚し、子をなす)を経験すべきである」という自分の考えを相手に投影し、母は娘を「かわいそう」だと考え、娘は母に「申し訳ない」と思っているのです。

 この状況に対して直虎は、「自分は不幸ではない」と母に伝えて安心させ、広い世界を経験できたことのメリットを強調します。さらに「嫌なことを強制されたことはない」と伝え、現状が母のせいではないと伝えて母の罪悪感を取り除こうとするのです。

 このやりとりは、直虎の自己肯定の宣言であると同時に、死に際の母の重荷を下ろすための最後の親孝行でもあったのでしょう。

 しかし私はやはり若干の疑問を感じざるをえませんでした。直虎が「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」という悩みを持つことは理解できます。そのために実際に直親に家督を譲るしかなかったのですし、それゆえに直親は殺されたのです。しかし「嫌なことを強制されたことはない」と言いながら、しかも何十年も出家していた身でありながら、なぜ彼女はいつまでも「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」、すなわち「子を持つ」ことがなかったことを自嘲気味に語り続け、自分を責め続けているのでしょうか。

 以前のエントリにも書きましたが、このドラマに時折感じられる「女の幸せ=結婚して子をなすこと」という通俗性がここにも感じられます。私は直虎の悩みはオスカルのようにもっとシンプルでもよかったのではないかと思います。すなわち「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」というもの一つで十分ではなかったでしょうか。その彼女にさらに「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」という悩みまで載せるのは少し酷なような気がします。それを載せてしまったら、彼女はまずどちらかの悩みが解消されてももう一つの悩みが必ず残るためそれに縛られ続けます。さらに「広い世界を知ること」というメリットは「子を持つこと」というデメリットのトレードオフとして位置づけられるため、広い世界を知って幸せだったとしても、それは「子を持たなかったこと」というデメリットを少しばかり上回るメリットにすぎないことになってしまうからです。

 とても感動的なシーンではあったのですが、そもそも「女の幸せ」を「(母が)与えられなかった」、「(娘が)受け取れなかったこと」の代償としての「広い世界」の称揚に思えてしまったという点において、100%感情移入することをそがれてしまいました。

 しかし、『ベルばら』ファンとしてはこのような引用は刺激的であり、考える素材を提供してもらった点には感謝したいと思います。とてもクレバーなシーンであり、非常に楽しんで視聴しました。

 

対立する親子:直虎と万千代

 祐椿尼と直虎が「和解する親子」であったとすると、直虎と万千代は「対立する親子」でした。「話をしよう」で始まる井戸端のシーンといえば18話を思い出さずにはいられません。今回はあの時に迫るテンションで直虎と万千代はお互いの本音をぶつけ合います。万千代は「井伊の領地に手出しはしない」と言っているのに、直虎はなおも粘って「徳川に井伊谷を与えられたらどうするか」とまで聞いてきます。

 万千代の論理は若く、武家のセオリーに従った真っ直ぐな正論です。万千代は他の考え方を知りませんから、「不当に奪われた(ように見える)先祖代々の土地は力で奪い返して当然だ」と主張します。それに対して直虎は「武力で奪った土地をまた武力で奪い返されるなど不毛、見栄の張り合いなどくだらない」と切り捨てます。

 万千代の論理が青い正論であることは、次回あたりに岡崎の悲劇が起こった時に「力による奪い合い」の不毛さが万千代に示されることであぶり出されるのではないでしょうか。むしろ私は直虎の論理の極端さに注目したいと思います。

 直虎は「井伊谷は近藤と自分でうまく回しているのだから、引っ掻き回さないで欲しい」という理屈で万千代による井伊谷奪還を牽制します。しかしこの理屈はかつて井伊谷を追われ、近藤のせいで家を取り潰された18歳の万千代の目にはどのように映るでしょうか。ものにはいいようがあります。直虎がもう少し友好的な態度で万千代に一から噛んで含めるように話してやってはどうかと思うのです。前提を共有しない相手に対して、まず相手を否定の言葉から入るのは、相手の警戒心と反発を強めることしかしません。直虎は経験豊富な親代わりなのですから、事情を知らない万千代に彼の不在の井伊谷の様子を話して聞かせ、彼の気持ちを受け止めた上で、なぜ近藤と組むことが得策かを論理的に説明すればよいのではないでしょうか。

 それらの作業をすべてすっとばして、いきなり万千代に「近藤とうまくやっているからお前は手を引け、勝手にやれ」と言い放つのはあまりに分かりにくく、しかも親族の情に欠けるのではないかと思います。最近の直虎には政次みが増しているという指摘もありますが、私は直虎がここで政次を演じる必然性は必ずしもないのではないかと思います。なぜなら直虎と万千代は本来的には対立する関係性ではないからです。考え方が違うとはいえ、万千代は直虎の後継者、しかも親族です。もっと素直に心配してやったり愛情をかけてやってもよいはずですが、直虎はなぜか万千代にことさら冷たくあたります。

 おそらく万千代パートでかつての政次と直虎の対立を再現し、直虎がいまや政次となって万千代を導く立場にあることを強調するための演出なのでしょう。しかしその形にはめるために直虎に必要以上に万千代に厳しくさせている気がして若干違和感があります。つまり対立を作らなければならないという形式上の要請のために必然性のない対立が人工的に作られているように思えてならないのです。

 その矛盾は直虎の政策の不思議さに表れます。直虎はなぜそこまで近藤を信頼するのでしょうか。近藤は悪い人物ではありませんが、武家の論理に従って生きる典型的な武士です。近藤は直虎が自発的にファシリテーターとして仕えてくれる都合の良い人物なので重用していますが、一度事が起これば近藤家の利益のために民衆を犠牲にする用意のある人物であることにかわりはありません。すなわち直虎自身は戦のない繁栄した社会を作るという理想のもとに奮闘しているのでしょうが、その彼女が仕えるトップは戦を生業とする普通の武士なのです。

 「今の立場の方がやりやすい」と言っていますが、やはり自分がトップとして直接政策を行うほうが話が早く、しかもやりやすいことも多いのではないかと思います。ですから直虎がこれほどまでに近藤の顔色を伺い、万千代の行動を敵対視する必要があるのかどうか、疑問に思います。

 しかし前述したように、これは政次と直虎になぞらえて親子の対立を頂点まで描くためのプロット上の工夫なのでしょう。そしておそらくは万千代の方が直虎の正しさを知るという展開が早晩起こるのでしょう。

 ただし私はこの対立が早めに解消し、万千代が直虎が学んだこと学び、井伊谷の歴史や政次の深い思いを踏まえて更に一歩踏み出すような展開が早く来ることを望みます。

 

理解から誤解へ:家康と信康

 最後の親子関係は家康と信康、今週は「理解から誤解へ」と坂を下るように関係が暗転するさまを見せられました。二人の直接のからみはなかったものの、おそらくは武田が放った間者は家康暗殺というベストシナリオは逃したものの、浜松と岡崎の間に不信感を生むというプランBは達成しました。来週はあの幸せそうだった親子がどうなって悲劇へとつながっていくのか、その過程を手に汗握って見たいと思います。シェイクスピア悲劇のような、あるいは(そして)黒澤明監督の『乱』のような華麗な悲劇が見たいですね。

 「和解する親子」「対立する親子」「関係が悪化していく親子」という三種の<親子関係>のバリエーションで楽しませてくれた今話。次回は夫婦、親子という家族の問題が焦点になりそうな気がします。それが直虎と万千代の間柄にどのように影響していくのかも注視して鑑賞したいと思います。

『おんな城主直虎』43話~報奨分配の技術、森林の再生、『ほぼ日』対談について

2つの戦後処理

 43話では万千代の小姓としての活躍と、井伊谷での森林伐採の後日譚が並行して描かれました。どちらも切り口が興味深く、さすがの脚本と思わされる展開でした。私たち熱心な視聴者はこのクオリティに慣れて当たり前のように考えがちですが、他のドラマと比較すると脚本の練られ方の差は一目瞭然。ここまで細かく言えば疑問符のつく回があったかもしれませんが、ほぼずべての回でメッセージ性の明らかな密度の濃い作話がなされていることは驚きに値します。特に万千代編になってからは、浜松と井伊谷の両方で一話ごとに一つずつ小アーチが描かれており、脚本の密度はさらに上がっているように感じます。そのどちらも、片方だけでも一話できそうな歯ごたえのあるテーマです。それが2つ並行して語られて、しかもなぜか齟齬を起こさない。一つのドラマで二倍美味しいような充実感があります。

 それはおそらく、2つのプロットが一つの大きなアンブレラ・テーマのもとに収まっているからでしょう。例えば今話では、万千代の浜松における活躍は長篠の戦いの論功行賞をめぐって行われ、直虎の井伊谷での課題は森林の乱伐のあとの土砂崩れや水害でした。ある意味どちらも「戦の後始末」、さらにいえば戦争という経済活動の利益と損害をどのように処理するかということにテーマがおかれました。戦記物の大河多しとはいえ、ここまで戦後処理にフォーカスして描いた大河が過去にあったでしょうか。歴史を通して現代社会にコメントするという意識の特に高い『直虎』ならではのエピソードでしょう。

 

「空白」の存在感

 万千代が「色小姓」を自称するきっかけにもなった長篠の戦いの論功行賞は、利害の異なる雑多な新旧家臣団に戦争の功績をどのように分配するかがその焦点になりました。家康は論功行賞をうまく行うことが自分の最も重要な役目だと語ります。「働きに応じて報いなければ人は動かない」という家康、論功行賞は、「人を使うことが最もうまい」という現代の多国籍企業のCEOのような性格付けをされた家康が、その真価を発揮すべき重要なタスクです。

 その難題について、家康は万千代にアイデアを求めます。それに対して万千代は、「まずは情報を整理してからインプットしてはどうか」と進言し、各武将を出身地と首の数でソートした一覧表を作成します。そのうえで表を分析し、首の数に表れない貢献をした岡崎にさりげなく報いることを進言します。ここで万千代が行った作業を「現代で言えばExcel」と評したTweetを読んで、世の中には優れた表現を思いつく人がいるものだなあと感心しました。それにあえて付け加えるとすれば、ここで万千代はExcelシートをもとに量的に分析したうえで、その社会的背景についてさらに質的分析を行い、最終的には数値だけにとらわれない量と質のバランスの取れた結論を出しています。

 この過程を見て、私は何故か学校教育の現場と全国学力調査の関係を想像しました。学力調査のようなもので出てきた数値は重要なのでしょうが、それで高得点をとった学校だけに機械的に予算を重篤にするというような措置は政治的に見てもおかしなものです。それぞれのその学校が置かれた地区の状況も関係してくるでしょうし、学校の性質の違いもあります。学力調査で測る数値が全ての教育活動の唯一の尺度ではありません。別の尺度で成果を上げている学校にも相応の評価を与えなければ、行政府に対する不満は募るでしょう。

 万千代の作成した表をきちんと画面に見せたことはとても面白かったと思います。表を見て、私たちにも岡崎の周辺の空白が視覚的に理解できました。「表の分析においては、空白は埋まっている箇所と同じくらい意味がある」といいます。この不自然なほどの空白が、家康と万千代にかえって岡崎の功績を印象づけたのではないでしょうか。万千代の進言は家康が功績を認めるということであり、家康の結論はそれを行ったうえで城を一つ今川勢に任せるというものでした。今川を厚遇することは、岡崎を贔屓するようには見せずに瀬名と信康の立場を良くすることにつながります。しかし最大のポイントは、トップである家康が目立たない働きでもきちんと認めているというジェスチャーをすることでしょう。量的分析を踏まえた質的分析によって空白のメッセージを読み解いた二人の、血の通った戦後処理の方策がここにありました。

 ただし、忘れてはいけないことは、これは戦の勝者の収益の分配であるということです。これは私たち『直虎』視聴者には慣れない場面です。これまでの井伊谷は負け戦に次ぐ負け戦で、敗戦処理は常に負債の整理でもありました。そのツケが徳政令騒動を引き起こし、井伊谷滅亡=井伊谷破産という結果を招いたのです。戦争は博打のようなもので、当たれば大きいのかもしれませんが、はずれは文字通り死を意味します。戦争は究極的には経済的利益のために行うものです。今回の徳川の仕置は、あくまで戦争という血とカネと命の博打のゲームのルール内で行われていることです。戦争を回避し、生産活動によって経済的利益を生み出そうとした直虎の姿勢とは根本的に異なる政治的調整がここでは行われていることには注意を払っておくべきでしょう。ですから表面的には収まったように見えて、いつ禍根や陰謀に足を救われるかわからない束の間の小康状態なのです。

 

未来への投資

 直虎が井伊谷で直面したのは、家康や万千代が扱った問題とは性格を大きく異にするものでした。それは戦争によって乱伐された森林のあとの「禿山」をどう処理するかということでした。再植林というのが最も理にかなった答えでしたが、それにはヒト・モノ・カネ・時間の初期投資が必要です。しかも今回問題だったのは、植林の作業を直接の受益者ではない井伊谷の農民が請け負ったということです。そこには甚兵平の絶妙な仲裁がありました。彼の主張は「山は人を区別しない、平等に襲ってくる」というものでした。

 今回の森林伐採問題は、明らかに現代社会における自然環境破壊問題のアナロジーでしょう。誰か遠くの人の利益のために破壊された自然環境に、地元の人がどう向かい合っていくか。破壊したのは彼らだから自分らには関係ない、そう言って捨て置ければよいでしょう。しかし一度天災が起こった時、被害にあうのは地元の住民なのです。この不条理な状況に対して、甚兵衛と直虎は「長期的な投資」が地元の利益につながるという考え方で立ち向かいます。それは直虎が第一次徳政令騒動の時に農民に伝えていた考え(「目先のことばかり考えるな」)と同じでした。

 「清風明月を払い、明月清風を払う」この言葉がどのように回収されるか楽しみにしていました。ものすごいロングパスでここで回収されたのですね。個人的にはこの言葉は政次との関係で回収されてほしいと願っていたのですが(月だけに…)、これはこれでとても素敵な回収のされ方でした。

 森林についてはロケも見事でした。脚本が早いという森下さん、早く上げることで計画的に森林の場面を撮りだめておくことができたのでしょう。よく見ると、破壊された森林の場所と、植林の場面、木がある程度育った場面は別の場所のようです。しかし森林の生まれ変わりの過程を、破壊、植林、再生の3つの場面に分けて見せてもらえて、とても見ごたえがありました。単に「破壊された森に再び木を植えて、それが育った」とセリフで言うのと、実際にその過程を見せられるのでは感動の深さが違います。最後におとわが甚兵衛に語りかけるシーンは、無理なく年月の流れを描写して未来への展望を感じさせるものでした。

  今話の『直虎』は奪った側の利益の分配(浜松)と、奪われた側の負債の整理(井伊谷)の話でしたが、むしろ奪われた側の方に希望が感じられました。なぜならそこには血とカネと命の禍根がなく、奪われた側自身があえて自分から与えるという正の循環が生まれているからです。『直虎』の大きなアーチの一つである「戦わないこと」「奪わないこと」という姿勢の勝利が静かに歌われているような清々しさが感じられました。

 しかし直虎と万千代、仲直りをしないままに三年の時が過ぎてしまいましたね。薬の件に関しては、直虎は万千代のもとに渡ると知っていて黙認しつつ協力したような形になり、万千代もそれを薄々感じていたとは思います。しかし表立った感謝の言葉もなく、さらには万千代の方に家康の信頼厚い直虎に対する嫉妬や反発も感じられるありさまで、なんだか思ったよりも直接的な交流がないまま多くの時が経ったように感じます。これで直虎は万千代の有効なメンターたりえているのでしょうか。少し不安でもありますが、次回の展開を見守りたいと思います。

 

おまけ:『ほぼ日』インタビュー雑感

 『ほぼ日』の「連ドラチェック」、思わぬ舞台裏の話が聞けたりしていつも楽しく読んでいます。前回も直親と政次の真相が聞けたりして面白かったのですが、今回は政次と龍雲丸の話という核心に触れる内容で、手に汗握って読みました。

 政次の死については、最初は直虎は読経をするという構想だったのですね。そこから「直虎は何か行動するのでは」と思い立ち、ただひとつできる行動である「槍ドン」をさせることにしたのだそうです。読経に比べて「槍ドン」は、その行為だけ見れば直虎の性格にも合っていますし、インタビューでも書かれていたように高橋さんにとってはやりがいのあるシーンだったと思います。このインタビューでは名前のないインタビュアーさんが結構よい発言をされていると思うのですが、これもその方の発言です。

 ──

    だって、いままさに死ぬという間際に、

    井伊家に反する立場を「演じる」わけだからね。

    それを役者として「演じ」て、

    二重に「演じながら」死ぬわけだから。

 

 演劇や映画の世界ではこのような自己言及的(self-referential)な演技は高度な技術と言われており、それをやりこなせる役者は評価が高いとされています。しかしここで高橋さんが演じているのは単なる演じる人を演じるというだけの役ではありません。時代劇における武士の死という最大の見せ場で、演技する人を演じながら、愛する女と相対し、その女に刺されて死ぬのです。どれだけたくさんの要素を同時に操りながら演じなければならないのかと考えると気が遠くなりました。ここで政次は世にも恐ろしい処刑の恐怖と向き合いながら、突然現れた直虎に驚き、彼女に突然刺された痛みに耐えながら、彼女をかばいつつ、必死に悪役の演技をして、彼女に最後のメッセージを告げているのです。これを大河の枠で演じられるのは、高橋さんにとって役者冥利に尽きる経験だったことでしょう。

 しかしこのような壮絶な場面を見ているからこそ、私たち視聴者は2つの意味で後遺症が残りました。一つはこれほどの犠牲を払った政次の存在の「事後処理」について、もう一つはその後の高橋さん出演のテレビドラマに対するフラストレーションです。ただしこれらは進行中の課題ですし、私もこれまで部分的に言及してきているので、ここでは繰り返しません。

 このインタビューでは、直虎と政次の関係に関する森下さんの考えの一端のようなものも聞くことができました。

 

あやや

    そう。

    あれは、ほんとに‥‥愛ですよね!

森下

    まぁ、そうですねぇ。

    きっと、そうとしか言いようのないものですよね。

 

 なにか相手に促されて言わされている感は否めませんが、森下さんの中でも直虎と政次の間には「きっと、愛としか言いようのないものが、まあ、あった」という認識があることは分かりました。ただし「まあ」「きっと」など、何か歯切れが悪い感じがすることも確かです。

 それに対して龍雲丸に対する解答はとても明快でした。

 

森下

    龍雲丸に関しては、いろんな意見があって。

    オリジナルキャラクターと

    実在の人物を結びつけるなんて!

    という人もいれば、

    やっとしあわせにしてくれてありがとう、

    みたいに言ってくださる人もいて。

    でも、政次が浮かばれないじゃん! イヤ!

    とか、いろんなご意見があるんですけど、

    私がいま、一周回って思ってるのは、

    たったひとり結ばれた人がオリキャラなんて、

    なんか、それはそれでしみじみ悲しいなぁ、と。

  

 この発言から、視聴者の反応というのは結構正確に制作陣に届いているのだなということが分かりました。そして「一周回って」の作者の感想が「たった一人結ばれた人がオリキャラとは悲しい」というものだったのは興味深いと思います。やはり作者というのは、あくまで主人公の視点を中心に考えるのですね。本来ならば誰とも結ばれないはずの直虎だったが、龍雲丸がオリジナルキャラクターだったからこそ結ばせることができた、しかしオリジナルキャラクターだからこそ、本当な誰とも結ばれていないのであり、やはり主人公は「悲しい」存在なのだ、ということのようです。直虎が「悲しい」存在だとは思えなかった私にとっては、新鮮な驚きでした。

 

森下

    そうそうそう、

    だって、しあわせな恋愛、

    あんまり書く気ないもん(笑)。

  

 作者が「普通の」「幸せな」恋愛は書く気がない、というのは何となく分かる気はします。龍雲丸との恋愛も、口に出さずとも二人にとっては政次の屍の上に築かれた砂上の楼閣のようなもので、二人の社会的立場が消滅していた一定期間にのみ可能な不安定な関係でした。

 しかしそんな関係ですら、直虎にとってみれば唯一の「結ばれた相手」だったのが龍雲丸であり、それは作者の主人公に対する愛情から出た精一杯のご褒美のようなものだったのですね。

 私はやはりこのあたりの考え方が、作者とは根本的に違うのだろうと思います。収支決算をするように恋愛要素を入れなくてもよいのではないかと思いますし、また普通の恋愛を描く描かないは脇に置くとしても、何がロマンチックかということに対するポイントの置き方も違うのだろうと思います。

 ロマンスに関する作者のセンスと視聴者である自分の感性が合わないというのは、もう如何ともしがたいものです。それに対する対処方法は人によりけりなのでしょうが、私はこうやって時々振り返って考えながら、ドラマの方はその他のメリット(現代社会に対するコメンタリーとして、脚本の練られ方の巧みさを愛でる、菅田将暉さんの演技を楽しむ)を享受しながら最後まで見ていきたいと思います。

 冒頭でも述べたように、これまでの全体を通しての脚本、演技、演出、音楽、衣装の完成度は非常に高いものです。21~23話、34~38話には疑問の残る展開がありましたが、それでもここまでクオリティを維持してくれ、あまつさえ終盤に向けて巻き返している感があることには本当に感謝です。

 次回はなんと「井伊谷のばら」。ここにきてなぜ『ベルサイユのばら』を蒸し返すのか、何か挑発的な香りのするサブタイトルに、期待が高まります。

『おんな城主直虎』42話~万千代と家康に見る理想の上司・部下関係、おまけで高橋一生さんにやってほしい役など~

一人じゃないのよ

 直虎対万千代の第三ラウンドを期待した今話、残念ながら本格的な対決はありませんでした。今話では万千代と家康の関係に焦点が置かれ、人が見ていないとこでする努力と、それを見定める上司の力量をテーマに話が進行しました。

 万千代は留守居を命じられた上に、酒井の一門の小姓から武具の手入れを押しつけられます。そこで腐らずに、丹精込めて手入れをする万千代と万福。出世に目がくらんでいるとは言え、人が見ていないところで手抜きをせずに全力を尽くして努力する万千代の姿には、かつて下伊那に落ち延びて努力の末に武芸を磨いた父、直親の姿が重なります。二人とも、何の後ろ盾もない他人のフィールドで、いつか認められる日が来ることを信じて努力を重ねたのです。

 思えば直親と万千代はその育ちに共通性があります。二人とも幼いころに家を終われ、命を狙われて、流浪の地で他人に認められることを唯一の頼みとして身を処していかねばなりませんでした。しかし万千代が親世代と違うところは、彼は一人ではないということです。

 最近『直虎』の最終シーズンのポスターを見ていて改めて感じたことがあります。万千代のポーズは、城主編のポスターで直虎がとっていたポーズ(あぐらをかいて座っている)と同じです。しかし直虎が一人で広間に座っていたのとは対照的に、万千代は井伊家の先祖を表す井戸端に、井伊の象徴である橘の木をバックとして座っています。そして向かって左手の背後には直虎が守護天使のように立ち、右手で直親の太刀を守り神のように立てています。これが象徴するのは、万千代は「一人ではない」ということです。井伊家のすべての人々の奮闘と命のリレーが万千代の背後にあり、そしてその左右は直虎と直親がしっかりと固めているのです。

 一人で奮闘した直虎、直親、政次と違って、万千代には腹心の部下である万福がいます。そして万福とは別の意味で政次を思わせるブレーンのようなノブもいます。故郷にはメンターである守護者の直虎もおり、上司には人を使う才能に溢れた家康がいる。「直政編」が井伊家滅亡の後日譚でありながらどこか希望に溢れているのは、むろん私たちがこの後の井伊家の繁栄を知っているからでもありますが、万千代が周囲の人に支えられ、守られているということも大きいと思います。ほぼ十ヶ月間、命の削り合いのような「直虎編」を見続けてきた視聴者が、ようやく少し安心して万千代の出世物語を楽しめるのは、これまで物語が蓄積してきた井伊家の苦しみ、恨み、悲しみといった負の感情のエネルギーが、ようやく万千代という集積ポイントかつ発射口を得て、正の方向へはけ口を見出したからなのでしょう。

 

さすがは裏切り者

 万千代の影の働きは、一度は酒井の小姓の小狡い手柄の横取りによって日の目を見ずに終わるかに見えました。しかしここで万千代はノブと重要な会話を交わします。ノブは万千代に「さすがは潰れた家の子と言われるような働きをすればよい」とアドバイスします。しかし万千代は最初はその意図が分からず、苛立って「ではノブはさすがは裏切り者と呼ばれるような働きをするということか」と返します。ノブは一瞬怯みますが、すぐに「もちろんそのつもりだ」と自信満々に宣言します。

 「さすがは裏切り者と呼ばれるような働き」とは何なのか、現時点では我々には分かりません。しかし一つだけ連想されるのは、かつて裏切り者と呼ばれた政次の働きです。政次は、小野が犬となって井伊と対立することで井伊の命脈を守ろうとしました。ノブが考える「裏切り者としての働き」も、もしかしたら人々の「あいつはどうせ裏切り者」というレッテルや先入観を逆手に取った策略になるのかもしれません。

 同様に万千代にとっての「さすがは潰れた家の子と呼ばれるような働き」が何なのか、こちらも今の私たちには分かりません。しかし万福が言った「井伊の殿が今、井伊で行っていること」が参考になるのかもしれません。直虎は潰れた家の主であることを生かして、近藤に警戒心を与えずに井伊谷の民にとって役立つ政策を提言し、必要ならば調整役も買って出て井伊谷をよりよい方向に向かわせようとしています。万千代もおそらく近い将来、直虎の方針に学ぶような働きを徳川でする機会があるのではないでしょうか。

 

究極の上司とは

 闇に葬られそうになった万千代の働きですが、人を見る目のある家康は酒井の小姓の嘘を見抜いて万千代の働きに気づきます。そして誰の顔を潰すこともなく、密かに万千代を寝所に呼んで労をねぎらおうとします。

 『直虎』は徳川家康を一貫してやや臆病なところのある普通の人に描いてきました。しかし一つだけ人より優れたところがあるとすれば、それは忍耐強く周囲とよい人間関係を築いていくということでしょう。その最初の兆候は、今川館で雀を手なづけたところに描かれました。その後も直虎に興味を持ったり、近藤の二心を見抜いたり、今川氏真を救ったり、堀川城を救おうとしたりと、その人柄の良さと人を見る目の確かさを示すエピソードは何度か挿入されてきました。

 家康と信康との会話はそれを象徴しています。信康は自分は「人の子」だから、常人ではない信長と親しくなることはできないと言います。疎遠に思われている家康と信康が実は親子の情を結び、仲良く囲碁を打つ姿に、家康の信康へのこれまでの接し方や彼の人柄が垣間見られます。だからこそ、ここまで良い関係を築いている瀬名と信康をどのような経緯で切り捨てることになるのか、ますます謎が深まります。

 理想の上司像には様々あることでしょう。明確なビジョンを描いて強いリーダーシップで皆を導くタイプもあれば、仕事が円滑に進むようにきちんと計画を立てて堅実に物事を進めていく事務処理能力の高いタイプの上司もいるでしょう。しかしどのようなタイプであっても上司に共通してもっていてほしいクオリティとしては、「人を見る目が確かである」ことと「適材を適所に活用することができる」ということがあげられると思います。人を生かすのも殺すのも、才能を見出し、使ってくれる人がいるかどうかにかかっているからです。

 最近『民衆の敵』を(1.5倍速ぐらいで流して)見ながらも、ふとそんなことを考えました。主人公は学歴や職歴のない女性で、市議会議員の立候補の動機も元はといえば「よりよい転職先」程度のものでしたが、彼女にはリーダーや代弁者としての資質や、人のために何かするという純粋な心がありました。それを見出し、彼女に実務的なサポートを与え、彼女をプラットフォームに載せたのは、石田ゆり子という実務能力のある女性でした。篠原涼子のキャラクターも逆に支持者である「ママ友」たちの中に様々な能力を見出し、それを引き出して活用します。

 世の中に才能や能力のある人は大勢いますが、皆がそれを認めてくれる人に出会えるわけでも、能力を活用する場が与えられるわけでもありません。私たちが『直虎』の今話の展開にカタルシスを感じたのは、人間なら誰でも多少は持っている「自分の能力や努力を正当に理解してほしい」という願望が、万千代を通じて擬似的に満たされたからではないでしょうか。

 他人の能力を正当に認めるということは、口でいうほど容易いことではありません。人は皆、どこか不安を抱えて生きています。上司と呼ばれる人も、やはり自分自身が一番可愛いのです。だからこそ自分の不安を脇におき、他人の優れた点を認めるということは、並大抵のことではないでしょう。そんな得難い存在であるから、家康は『直虎』において一番の大人物であり、究極のボスたりうるのだと思います。

 家康の衆道疑惑は非常に面白い展開であり、純粋にエンターテイメントとして楽しめました。しかし『直虎』のことですから、これを単なるサービスエピソードとして放置することはないでしょう。次回あたりで早速回収して、私たちが予想もつかない展開でさらに楽しませてくれるのではないかと期待しています。

 

おまけ:一生さんにやってもらいたい役

 今週Twitterで「一生さんにやってもらいたい役」で会話がはずみました(と言うわりには私自身はあまり参加できなくてすみません。今週は本当に忙しくて、Twitterは書くことはおろか読む暇さえもあまりないほどでした)。トニー・レオンからウォン・カーウァイ監督へと話が進み、その他にも中国語圏の映画を中心に高橋さんにやってもらいたい役について想像が膨らんで、楽しかったです。

 私自身が推したのはウォン・カーウァイ監督の『花様年華』のような映画です。他のウォン・カーウァイ監督作品を思い返してみて、それよりもっと似合う役があるか考えたのですが、やはり『花様年華』が一番だという結論に達しました。

 『欲望の翼』のレスリー・チャンの役も候補として考えてみました。高橋さんならチンピラな人でなしのプレーボーイもはまると思うので、この役もある程度はこなせるでしょう。しかしあの役はレスリーの自分勝手さ炸裂の強烈なスター性があってこそのものです。『ブエノスアイレス』を見ても、攻めのレスリー・チャンに対して受けのトニー・レオンという感じで、トニー・レオンには自分勝手な人に振り回される役がよく似合っています。また自分を前面に出すより、やや後方から抑えた存在感を放つ役もぴったりです。一生さんにトニーの役柄が合っているというのは、本当に言い得て妙だと思います。

 『花様年華』は『欲望の翼』の精神的続編とも言われていて、マギー・チャンの役などはほぼ『欲望の翼』を引き継いでいます。トニー・レオンは妻とうまくいかない寡黙な作家の役です。トニー夫婦はある日マギー・チャン家の隣に引っ越してきます。トニーとマギーはお互いの配偶者同士の不倫を疑い、それをきっかけに結びつきを強めていきます。しかし二人の関係は容易には発展しません。お互いを探りあいながら本当にゆっくりと少しずつ二人の関係性は変化していきます。夜の屋台帰りの階段での邂逅、そして作家の部屋でのひとときと、赤と黒を基調としたダークな色調に二人の抑圧した思いが静かに色濃く浮かび上がる、詩的で芸術的な映画です。

 即興性を愛するウォン・カーウァイ監督作品ですから、セリフは極力少なく、あったとしても本当に重要なことはほとんど語られません。感情を抑え、言葉を使わずに、究極の感情のほとばしりを描く、まさに政次みのある役柄です。こんな究極のラブ・ストーリーを高橋さんが演じてくれたならどんなに素敵だろう、と想像してとても楽しくなりました。

 言葉の壁があるかな、とも思いましたが、ウォン・カーウァイ監督の映画には過去に木村拓哉も出演しています。タランティーノの『キル・ビル』にも出演した高橋さんですから、不可能ではないでしょう。邦画も良いと思うのですが、海外の巨匠と組んでぜひ映画を撮ってもらいたいと思います。

 というのも、最近の高橋さんの出演作を見ていると、高橋さんの能力を最大限に活用しているものばかりだとは思えないからです。どれも佳作だとは思いますが、高橋さんのリミットに挑戦するのは、やはり『直虎』くらい歯ごたえのある脚本でなくてはならなりません。出てきただけでその場に変化を与えられる今の高橋さんであれば、ウォン・カーウァイ作品のようなものもいけるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。あるいは日本の才能ある映画監督が、よい脚本の映画で彼をぜひキャスティングしてほしいですね。

『おんな城主直虎』41話~直虎の進化、井伊と小野~

直虎 vs. 虎松、第二ラウンド

 41話は脚本の巧さに改めて驚かされた回でした。話の規模としては小さいかもしれませんが、多くの登場人物のそれぞれのスレッドを巧みに操り、核となる登場人物毎に少アーチを描きながら全体をまとめ、しかも一つの回としてのメッセージも打ち出していました。一番の核となるのは直虎と万千代の対立のスレッドでしょう。出世それに六左とノブという二人の妙齢の男性の対照的なセカンド・チャンスの物語が効果的に挟み込まれていました。

 まずメインのスレッドである万千代と直虎の対立について見ていきましょう。第一ラウンドでは浜松に乗り込んで直接対決した直虎ですが、第二ラウンドでは前回できた家康とのコネクションを生かし、家康を通じて万千代の処遇を遠隔操作しようと試みます。地理的に離れた二人を対立させる方法として、これはなかなかにうまい仕掛けだと思います。

 40話で対面した際に、家康は直虎に万千代の処遇に関して大切な視点を示しました。それは万千代を効果的に「育てる」という視点です。家康は万千代を厳しい環境にあえて置くことで、彼の奮起や創意工夫を引き出そうとします。家康は段々に大きくなる徳川の家に人を育てるという文化を作り、才覚次第で出世できる体制を作ろうとしているのです。

 家康の話を聞く以前の直虎は、筋の通し方を知らない万千代をたしなめることに専心していました。しかし話を聞いてからは、彼女自身も万千代にとって何が一番良いことかを考えて行動し始めます。直虎がはからずも虎松のメンターとなった瞬間でした。その第一歩が草履箱に名札を貼り付ければよいという助言です。

 ところで万千代が勤務を命じられた玄関とはどのような場所でしょうか。そこは登城する全ての人が通る交通の要所であり、人を覚えたり観察したりするには絶好の場所です。小姓となれば殿のそばに控え、家臣の本音などを聞く機会はそうそうありません。しかし草履番ならば上級家臣は歯牙にもかけていませんから、表情を観察したり本音を漏れ聞くこともあるでしょう。お家の情勢が何となく分かる、人と情報のハブのような場所なのです。ハブでの情報収集と言えば、16話で直虎が方久の茶屋で人買い情報を得ようとしたことが思い出されます。家康が目をかけている万千代やノブを玄関に配置したのにはそれなりの理由があるのです。

 しかし同時に、玄関は一段低い場ですから、身分の低いものの働きの場所であることは否定のしようがありません。後ろ盾となる家がない万千代や一度失敗したノブが、出世のための出発点として臥薪嘗胆する試練の場なのです。しかし逆に言えば、ここから出発して這い上がれば、周囲のものもその才覚を認めざるをえないでしょう。家康は、通常ならば登用しにくい万千代やノブを、ここから始めさせることで最終的に自分のもとに置くことを他の家臣に認めさせようとしたのではないでしょうか。

 出世を焦る万千代は、ノブの情報収集術によって得られた情報をもとに、さっそく家康に「材木を調達する代わりに初陣を飾らせて欲しい」と交渉を持ちかけます。万千代は井伊谷を自分の土地のように思っていますから、南渓に頼めば何とか都合をつけてもらえるという甘い見通しを持っていました。しかしそれを聞いた直虎は万千代の甘い考えを一蹴しつつも、しかし最終的には万千代の出世を助ける方向で、近藤に対して角が立たないように事を進める算段を始めます。

 その算段とは、家康から近藤に材木調達を命令してもらい、井伊はあくまで近藤の依頼を受けて木を切り出すということでした。そのことで、近藤の顔を立てつつ実質的に井伊が家康を助け、万千代の出世の一助としようとしたのです。直虎がこの策を一人で考え出し、実行したことには直虎の大きな成長が伺えます。城主時代の直虎は、材木に関して配慮に欠いた行動に走り、それが後に大きな禍根を残しました。直虎にもう材木の件で失敗することは許されません。様々な経験を経て視野を広げた彼女は、まず近藤の懐柔をはかり、家康とも連絡をとりながら、慎重に事を進めます。

 今話の直虎は南渓さえも自分の駒として使う徹底的なマスターマインドぶりを発揮します。南渓を頼る段階を脱し、ついに本当の指揮官として独り立ちしたのです。皮肉にも城と家がなくなった今になって、直虎はようやく本当の城主として完成の域に近づきました。

 材木の切り出しは、龍雲党から技を学んだ六佐と井伊谷の民によって行われ、そこで六佐は気さくに龍雲党に親しんで得た技を披露し、本領を発揮することができました。この「技を盗む」というアイデアは、もともと政次が提案したものでした。政次の植えた種が実を結び、それが井伊の利益となって花開く様を見て、たとえそこにいなくても、政次の考え方がしっかりと直虎と井伊谷に受け継がれているように思えました。

 今回の直虎の裏方としての働きは、かつて政次が直虎に対して行っていた役割によく似ています。直虎の策は回り回って万千代のメリットとなるものでしたが、出世を焦り視野が狭くなっている万千代にはそのことが分かりません。ですから自分の思い通りにさせてくれない直虎を敵だと思い込み、反発します。

 かつて直虎も、政次を敵だと思い込み、本当は彼女のためにやっている政次の働きを恨んで反発していました。政次の方も、直虎の才能を認めつつも、彼女が筋が通らないことをしようとしたときは決然として妨害しました。たとえば材木泥棒事件の際、政次は、仕置ができない直虎を飛び越えて龍雲丸の処遇に手を回したり、直虎に「殿がいま守らねばならないものは何だ」と詰め寄ったりしました。

 それが今では、直虎が万千代に対して敢えて適役を演じ、政次の思いをトレースしながら万千代を教え導いているのです。彼女が策を考える時、おそらくは「政次ならどうするか」と自然に考え、頭のなかでエア碁をしているはずです。

 そして一番面白いと思うのは、万千代が直虎に反発するのは、かつて彼女を信じ、信頼し、尊敬していたからであるということです。ですから万千代の反発には、心の奥に一種の「甘え」のようなものが見え隠れします。これは政次と直虎に関しても同じだったと私は思います。直虎は政次を信頼し、尊敬していました。だから一層彼に反発したのですが、やはり彼女の心の奥には「甘え」のようなものがあったのだろうと思います。

 今話は材木が大きなテーマになっていたため、自然と過去の政次の影の働きのあれこれを思い出すことが多い回でした。今話でメンターとしての直虎のポジションが明確になったことで、今後の直虎と万千代の関係がある程度政次と直虎の過去の関係をトレースしていくという方向性が見えてきたように思えます。

 城がなくとも城主として大きく成長した直虎と、かつての直虎を凌駕する猪突猛進ぶりを見せる万千代の次の対決はどのようなものになるのでしょうか。どうやら直虎は次回は長篠へ出かけていくようです。第三ラウンドを楽しみに待ちたいと思います。

 

二人のセカンドチャンス

 今回の印象深いサブ・スレッドは六左とノブのセカンド・チャンスの物語でした。

 中でも六佐の物語はビギニング、ミドル、エンドが明快で、しかもエンドがきちんとメインのスレッドに有機的に絡んでいる点が大変に見事でした。松下でも近藤でもお荷物のように扱われる六佐、しかしそんな彼にも「武功」を立てたいという密かな夢があります。そして彼は最初は一般的な意味での武功を立てようと苦労するのですが、うまくいきません。しかしそれでも腐らずに諦めないでトライし続け、ついに別の意味での「武功」、すなわち彼の長所を生かした木の切り出しという場面で成果を上げることができました。木は戦の備えです。それを調達することは立派な武功なのです。そのことはかつて中野直由も直親にきちんと伝えています。

 

戦の支度で勝敗の八割が決まります。

 

自分が思ったタイミングで、思った方法で事が成就しなくても、諦めなければ違った方法で、しかもしばしばよりよい方法で報われることがある。セカンド・チャンスを信じる人には励ましになるような心温まるエピソードでした。

 ノブのスレッドは六佐とは対照的なものでした。彼も一度失敗して再気を図る人ではありましたが、彼の場合はその圧倒的な才覚で格の違いを見せつけ「この人ならいつどこでも頭角を表すだろう」と思わせました。

 まずノブは醸し出す雰囲気から違っています。自然体、不敵な態度で、「手柄を立てたい」などという欲は微塵も感じさせません。そもそも草履版にさせられたことにそれほどストレスも感じていないようですし、若い万千代に指図されてもどこ吹く風、飄々と自分のやり方で仕事を覚えていきます。おそらくは家康が万千代を探るためにつけたか、あるいは自分から志願してこの役目についたのでしょう。

 彼の草履番としての仕事のやり方は、万千代のシステムはあるが大部分体力勝負な方法とは異なっていました。家臣の退城のケースをひたすら観察し、まずビッグ・データを蓄えた上で、それを分析して個々の家臣の退城パターンを割り出し、予め草履を置いておきます。そして変則的な事態が起きた場合は理由を探り出し、そこから家内の情勢に深く切り込んでいきます。すなわち前者はコンピューター的な計算、後者はソフトパワーを用いた戦略立案をしているのです。

 このような描写から、ノブが周囲とは比較にならないの知恵者であり、万千代とは別の意味で才気溢れる徳川を支える人材であることが分かります。彼もまた、家康の人材育成プログラムの重要な素材です。玄関の片隅は「はきだめ」どころか、人材の「宝庫」、すなわち出世のファースト・トラックの通過地点なのです。

 六佐と違い、ノブにとってセカンド・チャンスはあくまでクールにしたたかに戦略的に狙う達成可能な課題です。しかしそんなノブにも、上司である家康に、彼の才を認める目と、育てるという意思がなければチャンスは回ってこなかったでしょう。本多忠勝の反発を見れば、ノブの登用がいかに世間の常識からはずれたことだったかが分かります。ダイヤモンドが転がっていても、その価値が分かる人でなければそれを使うことはできません。ノブの活躍は、上司である家康の器の大きさを映す鏡でもあるのです。

 

井伊と小野

 今週も万千代と万福のコンビの活躍は私たちを楽しませ、なごませてくれました。前項で私は直虎と万千代の関係は政次と直虎の関係を思い起こさせると書きました。しかし万千代と万福の関係もまた、直虎と政次の関係を彷彿とさせるものです。

 しかし二人が旧世代と大きく違う点は、彼らは陽の光のもとで堂々と主従でいられるという点です。井伊はすでに潰された家ではありますが、それゆえに失うものがない強みがあります。しかも今は松下家の庇護も受けていて、主家の徳川家には今川のように戦に負けて臣従したわけではなく、罠にかけられたり、脅されたりする心配もありません。新世代の奮闘は、彼らにとっては死活問題なのかもしれませんが、旧世代の逼迫感とは根本的に違う、どこか牧歌的で、最終的には守られているような安心感が漂っています。これは直虎と政次が必死に努力して作り上げた状況でもあります。

 ところで、万千代と万福は主従である自分たちの関係を自明のものとして疑いません。しかし井伊家と小野家のこれまでの関係を考えると、二人の主従関係は必ずしも当然のものではなかったのではないでしょうか。

 私は先日BS-TBSで放映された『にっぽん!歴史鑑定 #131 井伊直虎小野政次の関係』という番組を仕事の傍ら流し見していました。その番組は、小野の家格は井伊とさほど変わらず、小野は今川の命で井伊の家臣団に加わったため、井伊に対する忠誠心は薄かったと言っていました。さらにドラマの時代考証を担当した小和田哲男さんも出演し「この時代の主君とナンバー2というのは同格に近いような立場。しかも、井伊家側は小野家が今川とつながっていることは承知しているため粛清できなかった」と述べていました。

 戦国の世の武家であれば自らの家の繁栄は何よりも大切な優先事項、しかも家格も変わらず血縁もない小野であれば井伊の領地を狙うのは当然のことです。したがってドラマにおける政直の行動や態度の方が、小野家の当主としては自然な振る舞いだといえます(政直でさえも井伊家の利益を少しは考えていた風もありましたから、ドラマではこの時点ですでに小野家は心情的にも少しは井伊家に臣従していたと言えるかもしれません)。

 しかし小野家は政次の代になると、直虎や直親との絆を重んじ、自らの家を家臣として格下に見て、井伊家を乗っ取るなどとは露ほども思わないようになります。私たちの多くは『直虎』の政次が政次のスタンダードだと思っていますので、ドラマの中の政次の行動のエキセントリックさが今一つ実感できません。しかし独身設定とも合わせて、政次の考えや行動は当時としてはかなり風変わりで私欲に欠ける不思議なものだったといえます。

 このような突飛な行動に出るには、背後にそれなりの強い動機があったと考えるのが普通です。ドラマにおいてそれは、今川の犬としての役割に対する嫌悪感や友人に対する優しい心、そして直虎に対する愛などだったと考えられます。

 なかでも愛というのは何よりも強い動機ではないでしょうか。人が金銭欲や権力欲といった根源的な欲を放棄するとき、その裏にはしばしば理屈では説明の付かない「愛」のような強い感情があります。

 その「愛」は時に恋愛であったり、親子の愛であったり、もう少し大きな無償の愛であったりします。なかでもドラマや小説などでは強い衝動性がある「恋愛」が動機としてしばしば使われます。政次が独身を通し、家の繁栄を諦め、臣従する必要もない衰えた主家に自ら臣従するという不可解な行動を取る原因は、直虎を「愛していたから」だと説明するしかないのではないでしょうか。

 このように『直虎』におけるプロット・ツイストの要ともいえるこの政次の愛ですが、それがドラマではきちんと定義され、描写され、掘り下げられていたでしょうか。もちろん高橋一生さんの演技には非の打ち所がなく、脚本の行間を読んで出来得る限りの表現をしてくれたと思います。しかし脚本や演出のレベルではきちんと一貫性を持って分かりやすく描かれていたでしょうか。政次がなぜ自分を追い込んでまで悪役を演じ続け、恨みを買っても井伊家を支え続けたのか。観客も騙す必要があったとはいえ、動機の部分は観客の解釈に任されている面が大きかったのではないかと思います。説明のセリフがあったかなかったかということではなく、状況の描写としても証拠不十分のように感じました。ですから32話で種明かしのように語られる政次の「思い」は私たちには唐突に感じられ、理解が難しいものでした。

 高橋さんのインタビューを読んでも、彼自身が政次の思いの正体を把握するのにやや苦労している様子が見て取れました。それは彼のせいではなく、やはり明確な定義と過程の描写が省略されすぎていたためだと思います。

 同じことは直虎にも言えます。この二人の関係は、ドラマの中心の男女関係だったにも関わらず、お互いに相手に対する心情の描写があまりにもなさすぎたのではないでしょうか。行間を読む楽しみがあるといえばそれまでですが、ほかの登場人物の気持ちはこれほど丁寧に描いているのに、なぜここだけこのように分かりにくくしたのかと改めて不思議に思います。

 最近『わろてんか』を見ていても痛感するのですが、近年いわゆる王道の恋愛ドラマが低調ななか、ドラマにおいてその関係性に心を奪われるような特別なケミストリーのあるカップルは本当に稀です。『直虎』においてはそれが奇跡的に存在しました。しかし思ったように掘り下げられず、中途半端なままに終わってしまった感があることが残念です。

 最近どの回の感想を書いても、結局画面に一秒たりともでてこない政次の感想に収斂しているように思います。あと9話、政次の面影を感じることがあるのか、それも楽しみに見ていきたいと思います。

『直虎』の魔法は高橋政次とともに

『直虎』のマジック・モーメント

 『直虎』の感想を32話以降書き始めて一つ気がついたことがあります。それは、私はこれまで『直虎』を2つのレベルで受け止めて楽しんできたのだなあ、ということです。あえて単純化すると、一つは感情のレベル、もう一つは理性のレベルです。

 最初は感情のレベルでドラマに引き込まれました。1話を見て「結構面白いな」と思いましたが、その後子役時代が4話もあると聞いて、正直少し敬遠したいような気持ちになりました。それでも何とか見続けて、6話で「おや」と改めて興味をひかれ、7話「検地回」で、「このドラマには何かがある」という確信を得ました。

 その後熱心に視聴するようになり、理性のレベルでもドラマの構成に関心を抱くようになりました。最初は丁寧な伏線の張り方に感心し、そのうち女性主人公の扱い方や、中世の社会経済の描き方にも注目しました。のちにはキリスト教のリファレンスや、ドラマの全体構造などについても考えるようになりました。

 そのどちらも、私にとっては楽しい作業です。後者のほうが大変そうだと思われるかもしれませんが、私は感覚的な言葉を紡いだり、登場人物の心理を慮ったりすることが特に得意なわけではありませんので、一つ一つコマを積み上げるような後者の作業の方が性に合っていると思うことすらあります。

 しかし物事にはバランスというものがあります。ドラマの感想などは特に、感情と理性の2つの要素が両方あるほうが望ましいのでしょう。しかし32話以降、回を追うごとに自分の感想の軸が理性のレベルに寄りつつあるなあと感じています。

 それはなぜかというと、おそらく私の感情のレベルに強く訴えかけるモメントがドラマの中に少なくなっているからだと思います。万千代が出てきてやや改善の兆しが見られましたが、34話~38話あたりは感情的な印象を書くのは非常に難しく、苦しい時期でした。

 思えば、私が感情レベルで最も強くドラマに反応していた時期は、おそらく7話から19話までの間です。その中でもベストの回は7話、15話、16話あたりです。なぜかというと、これらの回は私のセンス・オブ・ワンダー(素晴らしいものや超自然的なものを見て瞠目する感受性)を刺激する魔法の瞬間に溢れていたからです。普段長文ブログを書いていますが、このような魔法の瞬間を言語化するのは本当に難しいことです。あえて言えば、脚本、演出、演技、衣装、音楽など様々な要素が絶妙の配合で正の化学反応を起こし、魔法のような素晴らしい時空が生み出される瞬間ということです。その千載一遇の瞬間を目にすることは、視聴者にとってのこの上ない幸せです。

 そして私のセンス・オブ・ワンダーを刺激した要素のうち一番重要なものは、高橋一生さんによる小野但馬守政次の演技でした。

 私は高橋一生さんの演技力を賞賛してはいますが、自分は「イセクラ」とまでは言えないのではないかと思っています。それを最近強く感じたのは、『わろてんか』における高橋さんの演技を見たときです。彼はまだ数回しか出演していませんし、今後この伊能栞という人物を彼が驚くべき演技力で掘り下げる様が見られるかもしれません。しかしこれまでのところ、この登場人物から政次に感じたようなマジカルな特別感は感じません。

 『あさが来た』で五代さんが登場したときは、最初から何かが違っていました。出た瞬間から何か素敵なことが起こりそうな「違いを生む」空気が流れていました。

 もちろん政次も最初からずっとマジカルだったわけではありません。ですから栞さんにはもう少し時間を与えるべきでしょう。しかし私がある時期から政次に感じ始めたマジックは、栞を見て「ああ演技がうまいな」と思うような理性的な反応とは次元を異にする、臓腑に直接訴えかけてくるような感覚でした。

 小野政次を演じたことは、おそらく高橋一生さんにとってこれまでで最高の業績の一つでしょう。ドラマ自体の視聴率が振るわないのであまり高々そうと言うことがはばかられるような空気がありますが、私はそれをきちんと書いておきたいと思います。

 高橋一生という役者が、長い助走期間を経て、心技体が一致したこの2016~2017年という時期にNHK大河ドラマで準主役級の役を与えられた。それは彼にテーラーメイドされたような、難しくも挑みがいのある複雑な役だった。この役に取り組むにあたって、彼は「能面」「言葉で語らず演技で語る」「役として生きる」などのことを自分に課して、驚くべき解釈力で脚本を読み込み、誰も予想しなかった独自の政次像を作り出した。その政次の真骨頂は直虎への思いを秘めながら直虎と対立するシーンで遺憾なく発揮され、二面性の表現の見事さ、すなわち氷のような冷たい態度で切り捨てながら、直虎を深く思いやる政次の苦悩の演技の豊かさで観客を魅了した。その瞬間は奇跡のようなマジカル・モーメントとして私たちのイマジネーションを捉えたのです。

 このようなマジックはそう頻繁に起こることではありません。一つのドラマで一度でも起こればそれは幸運なことです。私にとっては、『直虎』の前半でそれは確かに起こり、そのことはずっと覚えておきたいことなのです。

 

それでも一つだけやはり指摘しておきたいこと

 政次はやりがいのある複雑な役でした。しかしこのブログでも何度も指摘してきたように、恋愛面における整合性は、なつへの突然のプロポーズ、直虎の不可解なほどの無関心、槍ドンヘのプロット変更などの撹乱要素が重なって、少し後味の悪いものになってしまいました。

 私は折に触れて政次の「もしかしたら」を考えるのですが、最近強く思うのは、32話のなつへのプロポーズ、百歩譲ってこのシーンが起きたこと自体は受け入れるとしても、やはり唐突過ぎたのではないかということです。仮にも政次は準主役です。彼の直虎に対する思いは1話から積み重なってきたロングスパンのスレッドでした。視聴者も政次に感情移入して、彼の思いの成就をずっと応援してきたのです。

 『直虎』は他の登場人物の恋愛感情のビルドアップや前フリはわりあい丁寧に行ってきました。直虎→龍雲丸、龍雲丸→直虎、なつ→政次、しの→直親などは、前フリのせいで違和感なく理解することができました。しかしノベライズを読んでいなかった私にとって、政次のなつへの求婚は本当に唐突で、不可解な展開でした。政次が、いつ、どのような経緯でそのような気持ちを抱くに至ったのか、全く理解できませんでした。そして後からそれを何とか理解しようと過去回を振り返って考察したのがこのブログの出発点です。

 仮に他のことはすべて水に流すとしても、この件に関しては、このような展開にするなら何か少しでも前フリをしてほしかったと思います。観客が、何とか話の辻褄を解釈の次元で合わせようとオロオロするような展開は、理想的な作話とはいえないと思います。

 

 私にとっての『直虎』のマジカルなモーメントは、政次の退場によって終わりました。それがこのドラマの中で一度でも起こったこと自体が奇跡だと思いますし、それを目撃することができて、とても幸運でした。2017年の春から初夏にかけて感じたあのセンス・オブ・ワンダー、毎週日曜日が楽しみで心が浮き立つような感覚は、ずっと忘れたくありません。そして、少数派かもしれませんが、『おんな城主直虎』における高橋一生さんの小野政次役は、彼の最高傑作であり代表作であると声を大にして叫びたいと思います。

『おんな城主直虎』40話~大河ドラマにおける歴代女性主人公と直虎~

女性主人公の役割の分類

 40話では井伊の家名再興のために草履番として働く万千代・万福の奮闘と、それに対する松下、近藤、旧井伊家の反応が並行して描かれました。見どころは家康と直虎の直接対決、松下源太郎の寛容さ、万千代の創意工夫など色々とありましたが、やはり一番のハイライトは直虎と万千代の対立でしょう。

 39話以降は『直虎』の第三幕、すなわち「和解」の章です。私も直虎がこれまで培った経験や知恵を生かして困難を解決するような展開を予想していました。そして今話で確かにそのような展開はあるにはあったのですが、視聴後の印象は単に胸のすくようなスッキリとしたものではなく、どこかほろ苦い後味の残るものでした。そして改めて、ここからが直虎の本当に苦しいところなのだと気付かされました。

 「直虎の苦しいところ」とはどういうことでしょうか。それについて説明するために、まず過去の大河ドラマの主人公が、50話という長きに渡る期間にどのような役割を演じ分けながら「主人公としての妥当性(relevancyという英語がぴったりくるのですが、よい訳が思いつきません…)」を保ってきたのかということを振り返ってみたいと思います。

 これまでの大河ドラマの主人公の多くは、多かれ少なかれ歴史の中で何事かを成し遂げた人(=多くの男性主人公)か、歴史の中で何事かを成し遂げた人の近親者(=幾人かの女性主人公)でした。男性が主人公の場合は、その活躍のパターンがさらに二つのタイプに分けられます。

 

A.全時期の主役…超有名人物。人生の最初から最後までがよく知られている。

B.一時期の主役…比較的マイナーな人物。一時期に歴史の表舞台に立つが、あとは裏方。

 

 「A 全時期の主役」のタイプの例としては織田信長豊臣秀吉徳川家康などがあげられます。このタイプを描く際には主人公の「立て方」にはそれほど苦労はありません(ただしよく知られた人物であるため、いかにして独自性を出すかには苦労があるでしょう)。

 「B 一時期の主役」の例としては真田信繁山本勘助直江兼続などがあげられます。このタイプの主人公の人生には次の二つの時期があります。

 

B1.主人公が歴史の表舞台に立つ時期

B2.主人公が歴史の裏方にまわる時期

 

「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」にはその人物の活躍そのものに焦点をあて、「B2 主人公が歴史の裏方にまわる時期」には彼らを「歴史の表舞台に立つ人」に絡ませることで主人公を「立てて」いきます。このB2の時期をどう描くかが作者の腕の見せどころでしょう。話がわざとらしくなったり、こじつけになったりすることなしに、裏方の時期でも主人公がドラマの主役としての必然性や存在感を持っていることを視聴者に納得させなければならないからです。

 ちなみに男性主人公の場合は主人公が裏方の時期の面白さを保つ手段として、しばしば「群像劇」という手法が用いられます。代表的な例が『真田丸』『新撰組!』などでしょう。『真田丸』などは主人公をほぼ傍観者のようにすることで、多彩な歴史的有名人を投入し、観客を飽きさせませんでした(ただしその『真田丸』でさえ、信繁の秀吉や茶々との過剰な接触には若干の「こじつけ」感が感じられましたが)。

 それでは女性が主人公の大河の場合はどうでしょうか。「A 全時期の主役」タイプの女性はほぼいませんので、女性主人公はその大多数が「B 一時期の主役」となります。彼女らはその多くの時期を「B2 裏方」として過ごしますが、誰の裏方になるかによってさらに次のようなサブカテゴリーに分かれます。

 

B2a. 配偶者の裏方

B2b. 父の裏方

B2c.  兄の裏方

 

B2aが最もポピュラーで、篤姫、八重、文、江、寧々、まつなどほぼすべての女性主人公がこの時期を過ごしました。B2bの時期を過ごしたのは篤姫、B2cの時期を過ごしたのは八重、文などです。

 これまでの女性大河は上記のパターンをいくつか組み合わせながら、女性主人公のシリーズ全編に渡る主役としての妥当性を担保しようと試みてきました。例えば八重は前半は兄の裏方として、後半は配偶者である新島襄の裏方として働きました。文は前半は兄の裏方として、中盤と後半は夫の裏方として活躍しました。江や文などは自分自身の歴史的業績はほぼ皆無でしたので、裏方としての働きの描写のみで全50話を乗り切らねばならず、作者には苦労が多かったことでしょう。女性主人公の大河で「群像劇」をやった人は、私はまだ知りません(やってみると面白いかもしれません)。

 このように考えてみると、38話までの直虎はB2a~cのどのパターンにも当てはまっていないことが分かります。すなわち直虎には配偶者も兄も有名な父もなく、「歴史の表舞台立つ男」の引き立て役となったこともありませんでした。直虎は女性でありながら独立した「個」として意思決定を行い、スケールは小さいながらも歴史を直接動かす立場にありました。すなわち38話までの直虎は、大河の「B 一時期の主役」のなかでも「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」が非常に長い、破格待遇の主人公だったのです。このような視点で見ると、直虎が過去大河と比較していかにユニークで多くの可能性を秘めた女性主人公だったかが分かります。

 しかし『直虎』も第三幕に入り、ついに直虎が「B2 裏方にまわる時期」を迎えてしまいました。直虎にとっての「歴史の表舞台で活躍する男」は養子の虎松です。すなわち直虎は今後

 

B2d. 子の裏方

 

して働きつつ、「主人公としての妥当性」を示していかなければなりません。

    過去大河において「子の裏方」として活躍した女性主人公はいたでしょうか。まず思い浮かぶのは春日局です。しかし彼女の場合は(主君の)子の養育そのものが彼女のキャリアですので、裏方という言い方は当てはまらないかもしれません。篤姫にも、後半に若干それに近い要素がありました。しかし彼女の場合はドラマの後半に最大の歴史的業績があるため、裏方であったという印象は強くありません。「子の裏方」というパターンは意外とめずらしいのかもしれません。

 しかしよく考えてみれば、直虎がいずれは直政の裏方となるという展開は、企画の当初から織り込み済みのものだったのです。そもそも直虎が大河ドラマの主人公に選ばれたのは、彼女に、後に井伊直政という豪傑を生み出した井伊家を女性地頭として率いたという業績があったからです。単に女性地頭だったというだけでは主人公にはなり得なかったでしょう。そして「歴史の表舞台で活躍する男」直政がひとたび登場してしまえば、直虎は表舞台から退き、裏方にまわらざるをえなかったのです。

 ただし『直虎』の制作陣は、「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」から「B2 裏方にまわる時期」へのシフトをできるだけ遅くしようとしたのだと思います。確かに直政の存在を前提とした直虎の人選ではありましたが、その足かせをできるだけ取り去り、純粋に直虎という女性の物語としてこの大河を構築しようとしたのでしょう。それが女性PD、女性脚本家、女性作曲家という女性がブレーンを務める制作チームの矜持でもあったのではないでしょうか。

 直政の知名度や、菅田将暉さんの人気を考えると、直政の登場はもっと早くてもよかったはずです。しかし直虎が「B1 自分が主役」の時期に少しでも長くとどまり続けるために、直政の登場を可能な限り後ろにずらしたのでしょう。直虎をあくまで「個」として立たせようとした制作者の姿勢に、私は好感を持ちます。

 40話で井伊家を再興しようとする万千代と、井伊家再興に反対する直虎は対立します。私は以前のエントリで、34話以降に直虎が井伊家再興を諦める展開を若干残念に感じたと書きました。今でもその気持に変わりはありません。しかし40話以降の展開を見ていると、ひょっとすると制作陣は後に直虎と万千代の対立の構造を作るため、あえて直虎に一旦井伊家再興を諦めさせたのではないかと考えるようになりました。

 というのも、直虎が万千代と同じ方向性を向いて最初から一緒に井伊家を再興しようとする、あるいは直虎が万千代を操って再興させるような展開では、過去の大河の女性主人公の行動パターンとかぶるうえに、直虎、万千代それぞれの個性が際立たず、直虎の独自性や存在意義も若干薄まってしまう(直虎と万千代は同じ考えだから)からです。

 少し話を戻して、「B2 裏方」の時期における女性主人公の役割のパターンについてさらに分解して考えてみましょう。裏方の時期に過去大河の女性主人公がとる行動には次のようなものがあります。

 

B2ア.「歴史の表舞台に立つ男」から学ぶ

B2イ.「歴史の表舞台に立つ男」を支える

B2ウ.「歴史の表舞台に立つ男」を操る

 

 「B2ア」は「男」に知識、経験の面で劣る場合(ただし能力が劣っているわけではない場合が多い。例としては八重、文など)、「B2イ」はほぼ同等の場合、「B2ウ」は「男」に優る場合です。大河では女性主人公の能力の高さや有用性を示すために「B2イ 支える」と見せかけて「B2ウ 操る」さまがしばしば描かれてきました(まつ、寧々など)。直虎も対万千代においてはそのような展開になる可能性は秘めていました。というのもこれまでの通説では、虎松の徳川仕官は直虎が周到に準備し、一家をあげて計画的に実行したものとされていたからです。

 しかし『おんな城主直虎』においては上記のB2ア~ウのどのパターンも採用しませんでした。その代わりに

 

B2エ.「歴史の表舞台で活躍する男」と対立する

B2オ.「歴史の表舞台で活躍する男」を教える

 

という道を選んだのです。そうすることで万千代の主体性を曲げず、同時に直虎の「個」を際立たせ、さらに直虎に万千代に対して知識や経験の面で一日の長があることを示そうとしました。

 しかし、いかに直虎の「個」を立てようと努力しても、第三章の直虎が万千代の裏方であるという事実は変わりません。これ以降はこのドラマも過去の女性大河と同様に、直虎を「歴史の表舞台に立つ男」に有機的に絡ませる工夫をしていかなければなりません。40話、特に家康とのシーンを見ながらそのことに思い当たった時に、私は何とも言えず寂しい気持ちになりました。ああ、直虎がささやかでも自ら歴史的業績を残した時期は終わってしまったのだな、と。

 ただしこのドラマの主役はあくまで直虎であり、『おんな城主直虎』は直虎の自己形成の物語です。直虎が最後まで成長する存在であり続け、主役としての妥当性を示し続けてほしいと思います。

 

直虎と万千代の対立の構図

 40話で描かれた直虎と万千代の対立の構図は次のようなものでした。

    万千代は松下の家に背いても、両親に恩を仇で返したとしても、井伊家の家名を再興させたいと思っています。

 直虎は旧井伊家一族が松下に世話になっているという義理があることと、近藤の治世のもと波風を起こさせずに民の暮らしを改善していく現在のシステムが起動に乗っていることから、井伊家の家名を再興させることに反対します。

 単純化すると「名」と「実」の対立と言ってもよいかもしれません。もともとは井伊家のために出家し、井伊家のために「直虎」になった直虎ですが、彼女は様々な挫折を経て「家などない方がやりやすい」という結論に達しました。直虎は非常にプラグマティックな人物です。その強みがあるからこそ、柔軟に方久の案などを取り入れて様々な改革をすることができました。もともと家が大切だと思っていても、その考えに固執せず、実態に合わせて考えのフレームワークを変えていくことができます。

 しかし万千代には直虎のように経験からくる知恵がありません。子どもの時の純粋な誓いそのままに、「殿といっしょに井伊を治めていく」「自分は井伊の虎松だ」ということを信じて疑いません。

 直虎から見れば万千代は自己中心的で視野が狭く、万千代から見れば直虎は「転向」した裏切り者のように映ります。それはそれぞれの経験や生きてきた環境から来る違いであり、どちらが正しく誤っているわけでもありません。

 第一ラウンドの序盤はまず万千代が攻勢に出ます。直虎を「そなた」「百姓」呼ばわりし、その影響力の小ささを知らしめようとします。しかし家康の直虎に対する厚遇を目の当たりにし、彼女の業績の大きさを改めて思い知らされます。

 家康と直虎の対面は、様々な意味で感慨深いものでした。中でも家康が「万千代を育てる」という視点を直虎に与えたことには大きな意味がありました。かつて人材難で苦労した直虎だからこそ、経験的に理解できる視点です。

 しかし同時にこの対面は、前項でも述べたとおり直虎の裏方へのシフトを強く印象づけるものでもありました。今までの直虎ならば、家康という権威がなくとも、彼女自身の社会的地位によってその存在の正当性を保つことができました。しかし「百姓」であり「廃された家の先代」である今の直虎は、その存在や言葉の重要性を家康に権威づけてもらうしかありません。

 今思えば、これまで家康に何度も井伊家に借りを作らせ、直虎に対する興味や尊敬の念を抱かせておいたのは、こうして彼の権威が必要になった時のための伏線だったのかもしれません。

 中盤は直虎が盛り返した第一ラウンドですが、万福の登場により再び形勢が変化します。万福は万千代が井伊家再興を一番直虎と喜び合いたいと思っていたこと、そしてそもそも万千代がそこまで再興にこだわるのは、直虎の一言が原因の一つでもあったことを知らせます。そして最終的には痛み分けのような形で、しかし最後の最後には直虎が万千代に策を授けるという一撃を加えることで、第一ラウンドは終了となりました。

 このような二人の対立はこの先も何度か続いていくのでしょう。そしておそらく最終的には二人は心を合わせて井伊家再興に向かって歩みを揃えていくのでしょう。

 しかしそこに至るためには大きな障壁が一つあります。それは直虎と万千代の物理的な距離が離れているということです。同じ裏方のパターンでも、例えば「B2a. 配偶者の裏方」であれば、たいていの場合「男」は近くにいますから、主人公を「男」と関わらせることにそれほどの苦労はありません。しかし「子」で、しかもすでに他家に仕官している「男」では、女性主人公を彼に関わらせることは容易ではありません。対立や葛藤を人為的に設定し、直虎と万千代が関わる必然性を「創って」いかなければならないでしょう。ここからが脚本の知恵の見せどころだと思います。第二ラウンドの展開を楽しみにしたいと思います。

 

 

直虎 vs. なつ

 直虎となつのシーン、唐突に投げ込まれた「但馬」の話題に私も驚きました。私は直虎の口から政次のことを聞き出すことは半分諦めかけていたので、脚本の意外なこだわりに逆に意表を突かれたというのが正直な気持ちです。

 ただし、よく考えてみると政次に言及したのはなつであって、やはり直虎の口から政次のことを聞くことは今回もできなかったのです。

 あの夜直虎は、松下家の事情を知るなつから兄弟のやりとりを教えてもらっていました。なつはまず、常慶が「兄が良き人でいてくれることが自分の救い」だと言っていたと直虎に告げます。そしてかつての直虎と政次の関係を連想し、なつらしい心配りで先回りして政次の話題を持ち出します。

 

  「義兄は自分たちの前ではそれなり笑っていた、だから不幸だったと決めつけないで欲しい」

  

なつは善意と配慮の人ですから、純粋に直虎を励ますつもりでこれを言ったのでしょう。おそらくなつは「直虎は政次が不幸だったと思っていて、それは自分のせいだと自分を責めているかもしれない。しかし直虎には不幸そうに見えた政次も、彼なりに何気ない日常に幸せを感じて生きる一人の人だった」と伝えたかったのではないでしょうか。そのメッセージは、なつが18話で直虎に言った「目に見えるものだけが全てだと思わないで欲しい」という発言の意図とも通じるものがあります。

 なつは、直虎が政次に対して一面的な見方しかしていないのではないかと心の底で思っているのではないでしょうか。そしてある意味でそれは正しいと私は思います。確かにある次元では直虎と政次はなつが想像もつかない深いところで通じ合っていました。それは二人が政策の方向性で一致したときなどに表れました。しかし別の次元では、直虎は政次のことを全く分かっていませんでした。政次の思いに気付かず、私生活や情緒面にほとんど関心を示さず、彼が龍雲丸に抱く嫉妬にも無頓着でした。こうした直虎の無関心さをよく知っていた政次が、自分の私生活や情緒面の健康にも関心を持ち、日常生活のささいなあれこれを共有していたなつと結びついたのは、もしかすると必然の展開だったのかもしれません。

 なつと龍雲丸は、語り合わない直虎と政次のメッセンジャーのような役割を担っています。龍雲丸は直虎以上に直虎と政次の仲を理解し、気にかけていました。「政次にとって井伊とは直虎のことだ」と告げたのも彼でしたし、「百姓をしていても但馬様は戻ってこない」「前の男に未練たらたらな女なぞ願い下げ」などと、ことあるごとに政次に言及して直虎に政次を意識させました。

 なつも、直虎が心の奥底ではこだわっているであろう政次のことについてあえて話題に上げ、直虎に政次を意識させます。それは同時に、物言わぬ直虎に代わって作者が私たち視聴者に「直虎は政次を忘れていない、自分を許せていない」と伝えているようにも思えます。

 政次が「私たちの前ではそれなりに笑ってくれていた」とはどういうことでしょうか。「なつたちを気遣って、嬉しくもないのに作り笑いをしていた」ということではもちろんないでしょう。

 それでは「政次は井伊家の政(すなわち直虎との関係)においては不幸だったが、家では(すなわちなつとの関係においては)幸福だった」ということでしょうか。私はそうでもないと思います。常慶が善なる兄に仕えることでたとえ自分が悪に手を染めようとも救いがあったように、政次も太陽のような直虎に仕えることで、自分が悪役を引き受けようとも、そこに救いがあった、そしてそのような日常を実は楽しんでいて、それを家では素直に表現していた、と言いたかったのではないでしょうか。

 このような作者の「忘れた頃の言及」を度々見るにつけ、やはり最終的にどこかの地点で直虎に政次のことを振り返ってもらいたいという一縷の望みをつながずにはいられません。政次は、文字通り直虎のためにその命を捧げたのです。もちろん井伊谷の民のためでもありましたが、何より直接的に直虎の身代わりとなって、その生命を贖ったのです。そしていきさつはどうあれ、実際のドラマでは彼は直虎自身が手をかけて殺した唯一の人間でもあります。『直虎』で死んだ男の数は数え切れませんが、直虎のために死んだ男は彼一人です。その男のことを、軽々しく忘れ去るような人では、直虎はないのではないでしょうか。

 

 直虎は歴代の女性大河の中でも「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」をかくも長い間与えられた、稀有なキャラクターです。直虎を通じて描き得る「個」としての女性像には、色々な可能性があるはずです。最近の直虎は「個」がないことが個性、あるいは人のために生きることが最大の個性、という描写に寄りつつありますが、若い頃の彼女には人のために生きつつも、そこに選択の賢明さや視野の広さが感じられ、感動を生んだ場面がいくつかありました。例えば次郎時代に直親との駆け落ちを断ったシーンです。これは彼女の「竜宮小僧」の素養と井伊家の娘としての自覚が遺憾なく発揮され、確固たる意思を持った「個」としての女性の誇り高さや潔さを印象づけた名シーンでした。

 40話時点では解脱した賢者のように老成した印象のある直虎ですが、彼女もまだ不完全な人間であり、成長の余地を残しています。その方向性の手がかりとして私が注目するのが、万千代が井伊家再興にこだわった一つの理由が、隠し里で直虎が言った「共に井伊を護っていこう」という言葉だったという事実です。プラグマティックな直虎は、その時はそれを本気で思ったのでしょうが、情勢が変わると考えそのものを変えてしまいます。しかし一度自分が発してしまった言葉の影響力は永遠です。それをなかったことにすることは誰にもできないのです。直虎は、万千代を通じてかつての自分の思いに再び向き合わざるをえないでしょう。そうなったときに直虎が家の再興と井伊谷の経営にどのように折り合いをつけていくのか、見ものだと思います。

 40話は他にも氏真の開き直りぶりや家康家臣団の多様性など多くの見どころがありました。話のテンポは確実によくなっています。直虎が「B2 裏方」の主人公にシフトしたことを受け止めたうえで、今後どのような創意工夫で制作者が直虎の「個」を描いていくのか、それを見守りたいと思います。