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青野の鑑賞記録 ~溢れる思いを、心ゆくまま~

『おんな城主直虎』総括②~『直虎』と過ごした私の365 days

はじめに

 私が『直虎』を総括するなら書いてみたいと思っていたことの一つは、『直虎』を1年間見てきた自分の「心の旅路」です。『直虎』は視聴者の数だけ感動や萌えのポイントがあり、多彩な解釈を許す懐の大きな作品でした。Twitterやブログを読んで面白かったのは、感想を通じてそれを書いた人の人柄や考え方が伝わってくる点でした。私にとって『直虎』最大のドラマは、それを見た人のそれぞれの「心の旅路」の軌跡でした。そこでこのエントリでは、私がこの1年、『直虎』を見ながら何を考え、どんなことを思ったかを書いてみたいと思います。

 ちなみに私が考えていたことの90%は「政次」でした。ですからこのエントリの本当のサブタイトルは「政次と過ごした私の365 days」です。時は2017年1月に遡ります…。

 

(一部の登場人物や展開について否定的な感想を述べている箇所がありますが、個人のブログの感想ということでご容赦ください。)

 

 

2007年1月

 前年の真田丸は、豊臣秀吉が死ぬあたりまでは割と熱心に見ていましたが、関ヶ原で親子兄弟の運命が分かれるあたりから源次郎の最後の予感がして少し辛くなり、時々視聴する程度になっていました。大河ドラマはだいたい前半は熱心に視聴するのですが、後半脱落することが多かったと思います。

 『直虎』も、「また今年も大河が始まった…」程度の軽い気持ちで見始めました。番宣は「女子会編」を見ていただけでした。その番宣で初めての直親と政次を見たときも、(罰当たりです…許してください)二人とも正直あまり印象に残りませんでした。

 当時は三浦春馬さんと高橋一生さんでは、まだ三浦さんのほうが多く過去作を見たことがあり、高橋一生という役者さんのことはあまりよく知りませんでした。三浦春馬さんについては、現代劇でのシュッとした感じと比して、総髪姿が格別に彼の美しさを引きたてているとは思えませんでした。高橋一生さんについては、「大河のイケメン枠によくある感じとは違うタイプだな」と思った程度でした。

 その程度の認識ですから、『直虎』を見始めた頃の意識は相当低かったと思います。1月8日の初回放送の日、仕事を片付けながらの「ながら視聴」で何となく見始めました。

 見始めてすぐに、亀の子役の俳優さんの可愛らしさと、鶴丸の切ない片思いに釘付けになりました。そしてドラマが始まってわりとすぐに起こった亀の父の非業の死に仰天し、さらに亀の命までが狙われる塩展開、そしてそれが幼馴染の鶴の父によって仕組まれたものであるという関係性の業の深さに背筋が寒くなりました。このドラマには「何かがある」と確信した瞬間でした。

 しかし、その後何かの記事で「子役で一ヶ月」という情報を知り、少し敬遠する気持ちが芽生えました。子役の三人はがんばってはいたけれど、これで本当に一ヶ月間持たせるのかな、早く大人になった三人の展開が見たいと思いました。ですから2,3,4話は見てはいたけれど、それほど熱心には見ていませんでした。子役時代の物語を改めてじっくりと見直したのはそれよりずっとあとのことです。

 

2月

 いよいよ成長した直虎が登場した5話、私は「仕切り直しをするなら今話からだ」と思い、少しきちんと視聴しました。直親の帰還、政次の片思いとなかなか興味深い回でした。そして6話「初恋の別れ道」、直親と直虎の恋物語が盛り上がる間もなく、直親はしのと結婚してしまいまいます。前触れでは直親は直虎の運命の人ということでしたから、これほど早く運命の人が他の人と結婚してしまうことに驚いたことを覚えています。「カビたまんじゅう」の喩え話からも、『直虎』は典型的な”Boy meets girl”の話ではないのだと悟りました。

 信じられないことに、当時私はどちらかと言えば<直親-次郎>のカップリングの方を推していました。政次については、最初は高橋さんの演技というより、鶴時代からの不憫な片思い設定の方に萌えていました。私は典型的な「第2のリード症候群」ですので、ドラマではたいてい主人公に片思いする男性に感情移入するのですが、当時は直虎が可哀想過ぎて、<直親-次郎>カップルとの間でまだ迷いがあったように思います。

 第6話で好きだったのはこの会話です。

 

直親「いくら待ってもおとわはそなたのものにはならんぞ」 

政次「考えたこともございませぬが」 

直親「そうか、俺にはそうは思えぬがな」

  

直親が表面には見せなかった「おとわとずっと一緒にいられて、これからも婚姻の可能性がある政次への羨望とコンプレックス、そしてライバル意識」がキラリをと見えて、ドキッとしました。それと同時に、他の誰も認めてくず、本人さえも諦めている<政次-次郎>の可能性を直親だけが認めてくれたという嬉しさを感じました。

 私の政次に対する思いが固まったのは7話、いわゆる「検地回」です。この回で直親は一気に「真意の読めない油断ならない男」になり、政次は「直親に翻弄され、次郎に疑われる可哀想な男」になりました。『ほぼ日』ウェブサイトでも話題になった「直親と政次の演技者の解釈の違いから生まれたケミストリー」のマジックに魅惑されました。特に隠し里で政次が直親から無茶振りをされたときの表情の七変化に驚き、一気に高橋一生さんのファンになりました。

 今から考えると、おそらく直親には二心はなく(そもそも政次を最初に疑って直親の心に疑念を産み付けたのは次郎でした)、政次は政次で実際には直親を裏切ろうとしていた可能性もあったのではないかと思います。政次の真意は誰にもわかりません。紙面では直親は「真っ直ぐな男」であり政次は「何を考えているか分からない信用ならない男」だというのは、そのとおりなのでしょう。しかし実際のドラマでは二人はそれとは逆の印象を与えました。この回以降、私ははっきりと高橋政次のファンになり、<政次―次郎>を推すようになりました。

 

3月

 桶狭間、瀬名幽閉、政次の奥山刺殺、直親の死と様々なことが起こった激動の月でした。この頃には私は完全に高橋政次の虜になり、アカウントもないのにブラウザでTwitter#おんな城主直虎のタグ追いを始めていたように思います。特に#虎絵には大いに楽しませていただきました。

 この月は、第一の「ノベライズの壁」にもぶちあたりました。確か3月下旬にノベライズ2巻が発売されたと思いますが、その頃から私の中には二つの懸念が生まれました。

 

 1.政次退場はいつか

 2.政次と直虎はいつどこでどのように結ばれるのか(爆)

 

 2つめの懸念など、当時の自分の頬をひっぱたいて「目を覚ませ」とぶんぶんやりたいところですが、その頃の私はなぜか純粋に信じていたのです。直虎と政次は政次が死ぬ前夜くらいに結ばれると。

 その確信の根拠は、もちろん「この大河は『ベルばら』、フェルゼンもアンドレもいる」という脚本家さんの発言と、「政敵が最良の伴侶に」という公式HPの文言でした。このような前フリをされて、その可能性を考えない人がどこにいるでしょうか。今から考えても、あれは仕方なかったと思います。

 こうした懸念は人一倍強くあるのに、絶対にネタバレを読みたくなかったので、公式ガイドブックなども買いはしましたが、ストーリーは読みませんでした。ノベライズ2巻発売後はしばらく薄目を明けてTwitterを眺め、「ノベライズ」という文言を人力スキャン検索で飛ばし読んでいました。

 3月で一番萌えたのは10話「走れ竜宮小僧」の奥山刺殺事件です。あの回は<政次-次郎>サービスシーン満載のエピソードでした。まず斬られて子犬のように次郎のもとに避難する政次の怯えた様子に、そして至近距離で片肌脱いで治療をされる政次の様子に、そして次郎に匿われて彼女の部屋で一晩一緒に過ごした様子を想像してドキドキしっぱなしでした。あまり注目されていませんが、あの夜二人は一つ部屋の中で一夜を過ごしたんですよ。おそらく最初で最後、政次にワンチャンあったとしたらあの時だったのではないでしょうか。弱っている姿で同情をひくとか、事件解決の翌朝ホッとして気が緩んだところでニコッと笑い合い、目が合い、ふと真顔に戻って…とか、何かもっていきようがあっただろうと今でも悔しく思います。しかし鈍感猪姫の次郎にはそんな隙はなく、政次も重症を負い返り討ちに合うや合わないやの極限状況でしたから、そんな余裕はなかったのかもしれません。しかも事件解決のあとは余韻もなくすぐに瀬名事件に移ってしまったのも残念でした。

 その次の注目すべき<政次-次郎>イベントは、11話の井戸端の幼馴染の集会でした。ここでも直親は他には誰も口にもしない<政次-次郎>の可能性を再び話題に出し、あまつさえそれを応援するような発言をしてくれました。

 

直親 「今川から抜ければ、次郎様もすぐに還俗できる。 そうなれば、俺はお前と一緒になるのが良いのではないかと思っておる」

政次 「次郎様がお望みにならぬでしょう。」

 

やはり直親は政次のライバルでありながらも、<政次-次郎>の最大の応援者でした。しかも私は愚かにも次のように考えてしまったのです。「今は誰も問題にもしない<政次―次郎>だが、直親がこれほど分かりやすい前フリをしてくれたということは、鬼の伏線回収で知られる森下脚本のことだから、後に直虎が『お望みになる』驚きの展開が待ちうけているのではないか」。このような誤った期待が、その年の初夏の私のメンタルをギリギリと痛めつけてくるとも知らず…。

 直親の最後は前半最大の悲劇でした。私も彼の最後に涙を流し、後に読んだノベライズで切られ方の悲惨さを知って、死体を見た直虎のショックはいかばかりかと思いを馳せました。

 12話は、次郎の人物造形に対する疑念を確信した回でもありました。1話からおとわは鶴の気持ちには鈍感でしたが、直親には「どんなことをしても戻ってこい」と言ったのに、数年ぶりに再会した政次には「生きておったのか」と一言、そして事情も聞かずに「裏切るつもりで裏切ったのか」とはあんまりじゃありませんか。せめて生きて帰ったことを喜び、事情を聞いてほしかったと思います。

 

4月

 政次と直虎の「対立」が段々と激化する一方で、政次の秘めた思いが一層色濃く画面に出て、見ているのが辛くなるような切ないシーンが目白押しでした。特に私にとっての神回である15話「おんな城主対おんな大名」16話「綿毛の案」が次々に放映され、毎週の視聴タイムは高揚感に溢れたものでした。

 ただしこの頃、私の胸に暗雲も立ち込め始めました。先の2つに加えて、第3の懸念が生まれたのです。

 

 3.新キャラの龍雲丸は直虎とどのような関係になるのか

 

龍雲丸については、当時出ていた柳楽さんのインタビュー記事に「直虎との胸キュンシーン」という文言があったため、当初から警戒心をもっていました。「直虎を巡る四人の男」の一人ですから、当然ある程度直虎と個人的に関わる人物なのでしょうし、いつかの時点では恋愛めいた関係になるだろとは思っていました。しかしこの時点では結果的にあそこまで直虎に深く関わる人物になるとは想像できませんでした。それというのも、彼の記事の中にこんな発言があったからです。

 

「直虎が人生を振り返った時に『あんな男、いたな』と思い出してもらえるような存在でありたいですね。」

 

これを読んで、私は勝手に「一時期は関わるけれど、あとで寅さんのように立ち去るんだろう」と解釈してしまいました。ご本人も「寅さんをモデルに」と語っておられましたし…。

 そんなある日、よせばいいのに某サイトを眺めていて、ノベライズ2巻を読んだという人が書いたと思われるこんな一行を目にしてしまいました。

 

「直虎は龍雲丸に惚れるよ、政次は不憫なまま。」

 

これを見たのは時間にしてほんの0.5秒ほどのことだったと思います。見た瞬間に目を閉じたのですが、それは緋文字のように私の眼球の裏に鮮明に焼き付き、決して消えることはありませんでした。私は気分が悪くなってしまい、しばらく精神的に立ち直ることができませんでした。

 しかしそれでも私は自分に言い聞かせたのです。「この情報が正しいという確証はどこにもない。もしかしたら煽って楽しむ愉快犯の犯行かもしれない。あれは見なかったことにして、とにかく目の前の一話一話を自分の目と心で見ていこう。仮に一時期龍雲丸に惚れたとしても、彼が去ったあとで改めて政次と恋仲になればいいではないか」と。その時の私にはもはや『ベルばら』「伴侶」「直親様のお言葉」しかすがるものはありませんでした。目の前の事実から目をそらし、自分の都合のいい情報しか信じない、そんなネット時代のダメ人間のお手本のような内向きの姿勢でした。

 

5月

 この頃になると、私は来るべき政次の死について真剣に考えるようになりました。ノベライズもガイドも読んでいなかったので、彼がいつ死ぬか全く見当がつきませんでした。ネット界隈でも、全体の配分から考えて「政次は5月で死ぬはず」まことしやかに囁く人もいました。実際にはノベライズ2巻はもう出ていたので、政次が5月に死ぬかどうかは知ろうと思えば知ることができたのです。結果が分かっていることにあれこれ悩むのはいかにもバカらしい。でもノベライズを読むという選択肢は私の中にはありませんでした。

 そして運命の18話の足音がひたひたと近づいてきました。当時、柴咲コウさんが5月8日放映の18話について期待を高めるような発言を各所でされていました。政次が5月で死ぬかもしれないと思っていた私は、18話の展開について妄想しすぎて情緒不安定になるほどでした。仮に政次が5月で死ぬとすれば、それまでに徳川が井伊谷に攻めてきて、政次が井伊谷城を占拠して、井伊谷三人衆の働きがあるはずだけれど、今からそれが5月中に全部起こるのだろうか。だいいち今のところ政次に対して誤解と憎しみしかない直虎が、どうやって5月中に政次と結ばれるまでに接近するのだろうか。一体18話には、何が起こるのだろうか。こんなことを考えて、期待と不安で胸が押しつぶされそうでした。

 そして迎えた5月8日。私は最悪この回に政次が死ぬという可能性も視野に入れて、決死の覚悟で視聴に望みました。その日のことは忘れられません。連休最終日でしたが、ある事情でやむなく山登りをすることになったのです。かなり本格的な登山でしたが、初夏の新緑の美しさも、鳥のさえずりも、なにも頭に入ってきませんでした。

 そして光の速さで帰宅して手に汗握って見た18話。結果的に政次は死なず、政虎は結ばれることもありませんでした。それどころか、一見すると直虎に「恋愛はありえない」と宣言されたような展開に、若干拍子抜けした思いでした。もちろん勝手な思い込みや期待なしに見れば、見ごたえ十分のエピソードだったのでしょう。しかしその日の私は、を誤った先入観で見てしまったために提供されたものを正しく鑑賞することができませんでした。

 その後、よせばいいのにまたしても某サイトの情報を見てしまい、18話以降政虎の進展はしばらく期待できないこと、そしてノベライズ2巻終了時点では政次はまだ生きているという情報を何となくキャッチしました。

 19話「罪と罰で龍雲丸が本格登場してからは、私にとって精神的に辛い日々が続きました。政次とは全く進展しないのに、龍雲丸は登場したときから殿の待遇が破格でした。この違いは何なのか、なぜ殿は政次に目を向けないのか、と悶々と悩みました。

 私にとっての唯一の救いは、龍雲丸がそのうち寅さんのように去ってくれるであろうという淡い期待でした(すみません)。龍雲丸は政次が死んだ後に本格活躍する人かと思っていたら意外と早く登場したので、もしかしたら一旦退場して忘れた頃に再登場するのかと思いました。そして龍雲丸が一時退場している間に、やっと待ちに待った政次と直虎の愛の物語が始まるのだと期待しました。

 

6月

 6月は私にとって試練の月でした。5月後半から龍雲丸パートが来ると分かっていたので、覚悟してそれを見続けました。いわゆる「材木パート」の直虎は公私混同甚だしく、龍雲丸に対しては原理原則を曲げた行動が多く見られました。材木の窃盗は大罪なのに、なぜ彼女がここまで盗賊をかばい、罪を不問にしたうえに雇おうとまでするのかがよく理解できませんでした。直虎の人物造形に対する疑念が更に深まった時期でもありました。

 さらに、6月には私にとって頭の痛い第4の懸念が持ち上がりました。

 

 4.ノベライズ3巻のネタバレをどうやってかわすか

 

ノベライズ2巻は生き延びた政次ですが、3巻となるとだいぶ怪しくなってきます。普通に考えれば、ほぼ確実に死ぬことになるのでしょう。私は前回の失敗に学び、もう某サイトは決して見ない、そしてTwitterのタグ追いも控えようと決意しました。

 しかしその時までにはタグ追いは完全に私の生活の一部でした。ドラマを見て、その後にTwitterを読むというこの至福のルーティーンがもうできないなんて、考えられませんでした。

 そして一大決心をします。自分でアカウントを開設し、ネタバレをしないと思われる方のみを選んでフォローすれば問題ないのではないか。そしてアカウントを立ち上げました。

 さて、次はフォローです。どなたをフォローしよう…。しかしそこでは私の手は止まりました。私がこれからフォローするかもしれない方々がネタバレに言及されるかどうかを確かめるには、まずタグ追いをしなければならない。タグ追いをしているうちに被弾したらどうしよう。

 そして最終的に選んだ道は、なぜか「しばらく自家発電をする」ということでした。「読みたいものは、自分で書く」ではないですが、しばらく自分で考えてきたことを書いて、このモヤモヤを発散させようと考えたのです。

 そしてしばらく壁打ちのようにツイをしまくりました。最初はタグもつけませんでした。それなのに私を見つけてフォローしてくださる方が出てきました(ありがとうございます)。その方たちは私の「ネタバレしたくない」というプロフの願いを尊重してくださって、配慮してくださいました。

 そのうち、かなり多くの方がネタバレを避けておられる様子が分かってきました。Twitterタグの大海にも少しずつ漕ぎ出すことができました。そしてネタバレしたくないものに対する配慮も行き届いている界隈だということが分かってきました。

 そして迎えたノベライズ3巻発売日。私はよせばいいのに被弾しないように気をつけながらもタグ追いをしてしまいました。そして薄目で見てしまったのです。33話のサブタイを書いたツイを。

 

33話 嫌われ政次の一生

 

目に入ってきた瞬間、鈍器で殴られたような痛みを感じました。とうとう、来るべき時が来てしまった。政次は死ぬんだ…

 「いやまて」。ここでも自分にだけ都合の良い心の声が聞こえます。「このサブタイトルが政次が死ぬ回のものだと決まったわけではない。私が見たのはサブタイトルであって、回のあらすじではない。もしかしたら、政次が周りの人の誤解を解いてやっと皆に好かれることになる、心温まる回かもしれない」。

 心のどこかでは「自分を騙している」という自覚はあったのですが、当時の私は半分は本当にそう思ったのです。というのも、また別の某所で「政次は9月まで登場するらしい」という情報も読んでいたからです。33話といえば8月、9月に死ぬのなら、やっぱり33話は政次死去の回ではないのではないか。

 ちなみに私のこの幸せな妄想は、7月の終わりくらいまで崩れることはありませんでした。柴咲コウさんが「30~33話はぜったい見て」とインタビューで発言されているのを聞いて、やはり33話があの回なのかとようやく諦めの境地に達することができました。

 

7月

 龍雲丸は一旦は去ったものの、わりとすぐに復帰しました。期待した政虎の展開は思ったように進まず、さすがに私の少女漫画脳にも疑念が芽生えてきました。当初からの懸念であった

 

2.政次と直虎はいつどこでどのように結ばれるのか

  

について、それまでの私の懸念は、「<いつwhen、どこでwhere>起こるのか」というものでした。しかしそれはいつのまにか、「起こる<whether ~かどうか>」に変わっていきました。

 本当に政次と直虎は結ばれるのか、もしも仮に結ばれないとしたら、私の過去数カ月の煩悶は一体何だったのか。

    もどかしかったのは、その答えはクリック一つで分かるところにすでにあったということです。ノベライズ3巻はすでに発売されて、ファンの多くは詳しい展開をすでに知っている状況でした。自分だけがストイックに悶々とするのは本当にバカらしい。でもノベライズは読みたくない。

    そこで私は、柴咲コウさんが宣伝する「注目の30~33話」最後の望みを賭けることにしました。直虎の展開のペースから言えば、4話分もあれば政次と恋に落ちて成就するには十分、他の歴史エピも入れられる。そうやって私は最後まで希望を捨てない決心をしました。

    ちなみに25話あたりに何かがあるという情報は、さすがの私もうっすらと知ってはいました。しかし当時の状況はまだ龍雲丸にお目々キラキラでしたし、本当の進展は30~33話に待っていると思い込んでいたので、それほど大きな期待はしていませんでした。

    またしても誤った心構えで見ていたため、有名な「冷た家老」にもそれほど心動かされることはありませんでした。どちらかというと親が子どもを心配しているようだな、と思いました。ただし直虎が政次のことをちゃんと「昔から誰よりも冷たい(温かい)」と認めてくれたことはとてもうれしい驚きでした。

 

8月

 普段から出張が多いのですが、7月下旬から8月の中盤あたりはほとんど家にいないくらいの出張続きでした。しかし奇跡的に日曜日のたびに帰宅でき、天王山である「30~33話」はじっくりと視聴することができました。

 政虎の進展に注目して見ていたのですが、なかなかそのような雰囲気になりません。それどころか30話の終わりには政次は直虎に刀を向け31話では満足に話すこともできずにまさか再度の忠誠心の疑われ案件32話ではなつの突然の攻撃にトドメを刺され、最終的には33話でも二人が言葉を交わしたのは死ぬ間際の一瞬、という残念な結果に終わりました。

 最後の砦だった「30~33話」にも裏切られ、私の心は真っ白な灰になりました。私は自分の心を供養するように、ブログを書き始めました。

 ブログ開設について少し書いてみます。Twitterをはじめてすぐに、私は限界にぶち当たりました。自分で言うのも何ですが、私は長文体質です。よくTwitter140文字でおしゃれにパンチの効いたキャッチコピーのような短文を書く方がおられますが、私にその才能はありません。

 最初は自分にリプライしたり、番号をふった分割ツイをしたりして工夫しました。Twitterの「モーメント」という機能を使ったりもしました。しかしそれらの機能を使ったとしても、文章が140字毎に分けられるというのは私にとっては頭の痛いことでした。

 しかしブログにコミットするだけの時間が捻出できるだろうかと考えると、おいそれと始めることはできませんでした。2ヶ月くらい、迷い続けました。

 その私の背中を押したのは、二つの出来事です。一つは31話「虎松の首」を見ているときに、これは『聖書』のエピソードが部分的に用いられているのではないかと思ったことです。政次=贖いの死という展開が予想され、一気にそれについて書いてみたいという意欲が湧いてきました。色々な説明をしなければならないので、Twitterでは難しいでしょう。

 もう一つは、32話の衝撃があまりにも大きすぎたことです。私は32話の<政なつ>展開を事前に知りませんでしたので、あれを見た時は言葉を失いました。いつもなら番組が終わったら感想をつぶやくのですが、あの日はショックすぎてしばらく何も書けませんでした。書いたとしても、140字で分割して書けるとは思えませんでした。

 この二つの要因に押されて、私は32話放映の数日後にブログを始めました。毎週更新できる自信はまったくありませんでしたが、見切り発車せざるをえないような切羽詰まった気持ちでした。

 ブログ開設にあたって、私は一つだけ方針を決めました。私にとっては、文章は長くするよりも短くするほうが難しいのです。仕事で書くような字数の決まった文章ではないので、短く編集する時間を省いての時間の短縮を図ろうとしたのです。

 そして32話、33話について思いのたけを書きまくりました。書きたかった「聖書と政次」についてもある程度は形にすることができました。

 ブログを更新し続けることは大変ですが、あの時はそれしか気持ちの持っていきようがありませんでした。2月くらいから期待に胸を膨らませ、待ち焦がれた展開がついに起こらなかった失望を、どうにか昇華させたかったのでした。

 

9月

 政次の死後は、『聖書』リファレンスに興味もあったので、彼の「復活」がどのように行われるかに注目して見ていました。結果的にいえば、それはあるはあったと思いますが、私が期待したスケールでではありませんでした。

 しかも政次の死の直後に直虎と龍雲丸との関係が深まるという、傷口に塩を塗られるような展開が待っていました。

 この時期、直虎の人物造形に対する疑念は私の中でさらに大きくなっていきました。政次を槍で刺殺したあとは、しばらく殺したことを忘れ、正気に戻ったあとは「政次を失った」ことよりも「人を殺めた自分」に恐怖しているように思われました。そして龍雲丸を一人助けたことで、多くを見殺しにした自分に救いを見出し、立ち直っていきました。そこでは私が期待したような「政次の不在をじっくり考え、政次という存在の自分にとっての意味を言語化する」という過程は描写されませんでした。

 さらに家をたたんでからは市井の人間として普通に幸せに暮らし、たとえ一時期とは言え政次とともに必死で守ってきた井伊を捨てて堺に行くことまで決めてしまいます。これは初回からおとわを見てきた人には信じがたいことでした。色々な意味で、直虎の思考回路は理解はできても共感はできないと感じさせられる34話以降の展開でした。

 政次と直虎の関係は、本当に33話で終わってしまったのだな(というより脚本家が政次に区切りをつけて次=龍雲丸→万千代に進みたかったのだな)、ということを否が応でも受け入れざるを得ませんでした。

 

10、11月

 「万千代編」菅田将暉さんの演技のパワーで楽しく見ることができました。万千代編は、次郎編、城主編のテーマの変奏と継承が主題でしたから、脚本の構成力の技をじっくりと堪能しました。

 この頃からTwitterの感想には、少なくとも私の知る範囲では、「政次ロスを嘆くもの」と、「現在進行中の物語に言及するもの」という二つの大きな流れがあったように思います。私はブログの感想の中で政次に言及することはありましたが、Twitterではあまり政次についてつぶやくことはできませんでした。

 それは8月と9月に受けた傷が大きすぎて、なかなか立ち直ることができなかったからであり、またブログに思いを書きつくしたので、それ以上書きたいことが出てこなかったからでもあります。次第に私にとって政次は、語ると自分が辛くなるもの、もう永遠に戻ってこない青春の日々のような、痛みとともにしか思い出せない存在になっていきました。

 

12月

 「万千代編」は、それ自体として驚きの完成度だったと思います。捨て話が一話もなく、各回の構成は一話完結の物語としても、12話のシリーズとしてもまとまりがありました。明るいコメディタッチでありながら、瀬名・信康事件ではきっちりと悲劇を描きました。演技は個人としてもチームとしても秀逸で、特に徳川家中のドラマは単独で見応え十分でした。

 おそらく「万千代編」の徳川パートが、『直虎』全体から見ても総合的な完成度は一番高かったといえるのではないでしょうか。

 しかし、やはり何か違うドラマを見ている感があるのも確かでした。政次が背負った悲劇性や運命の重荷のような、光と影の「影」の部分を担う人がいないため、軽いトーンで話が進んでいくように感じられました。「城主編」が、色々と問題がありながらも、独特の重厚さを持って胸に迫るのは、この影の力が大きかったと思います。

 シリーズの終了が近づくに連れ、放送を見て、Twitterを読んで、感想を書くというルーティーンが終わるのだな、と思うと感慨深かったです。特に8月後半から9月は辛い気持ちで書いていましたし、10月から年末にかけては仕事が忙しすぎて物理的に感想を書く時間を捻出するのが正直大変でした。

 『直虎』は私にとって永遠に心に残るドラマになるでしょう。しかしそれは、「そうであれかしと思ったことが、ことごとくかなわなかったドラマ」として残ってしまうのではないかと思います。

 私が見たかったのは、直虎が「政次の気持ちを考え、その愛に気づき、できれば気持ちを受け入れ、無理ならば感謝くらいはする」、そして政次は「せめて一度くらいは告白する」、という展開でした。身勝手な要望かもしれませんが、私はこれらのことがすべて不可能だったとは思いません。逆にこれらのことが何一つ起きなかったことは不自然だったと思います。大河は恋愛が主眼のドラマではありませんが、人間ドラマにおいて恋愛は重要な一部です。こうした「起こらなかったこと」とが直虎を共感し難い人物にしている一因であると、私は個人的には考えます。

 私の『直虎』との2017年は少し悶々とする気持ちとともに終わりました。そして迎えた2018年、まだこうして総括を現在進行形で書いています。2017年は終わっても、私の『直虎』は完全には終わっていません。

 

 独りよがりな独白におつきあいいただいてありがとうございました。総括③を行うならば、「ここがヘンだよ『直虎』」的なものになるかもしれません。まだ考えている途中です。

『おんな城主直虎』総括①~直虎の思想的成長から再整理する全体構成

はじめに

 『直虎』の総括するにあたり、まずは全体の構成について改めて考えてみたいと思います。このブログで私は『直虎』の構成に着目したエントリを何回か書いてきました。そのたびに、「これは未完成のパズルだから、全て終わった時に全体像を見てみたい」というような趣旨の中間まとめをしてきました。そして放映が終わった今、それが少し鮮明に見えてきたように思います。

 以前のエントリで私は『直虎』の構成は「三幕構成」に則っているのではないかと書きました。その考えは、基本的には今でも変わりません。しかしあれを書いたのは確か36話あたり、武田が攻めてくるようで攻めてこず、おとわは「逃げるが勝ち」とばかりに隠遁し、龍雲丸と子どもをもつだの堺に行くだのというような話も持ち上がり、正直これからどんな風に話が進んでいくのか不安になっていた時期でした。

 その後龍雲丸と決別し、井伊谷で影のフィクサーとして働き、万千代が活躍するようになってから、直虎の考えややりたいことがかなり明確になってきました。以前のエントリでは三幕を直虎の身分や属性で区切りましたが、今回はキャリアの内容や思想的な成長の面で区切っていきたいと思います。

 

『おんな城主直虎』三幕構成の内訳

第一幕 竜宮小僧期 (1-12話) 困っている身近な人を助ける

第二幕 城主期 (13-38話)

    前期 城主奮闘期 (13-31話)武家のルール」のもと戦わず民を潤す道を探る

ミッドポイント (31話)「虎松の首」政令の受け入れ

    後期 城主動揺期 (32-38話)武家のルール」への幻滅、家を捨て民を守る

第三幕 フィクサー(39-50話)武家のルール」から脱却、「奪わずに生きる」世を

 

政令施行延期~直虎唯一の史的業績

 直虎が第三幕でたどり着いた思想を一言で表すと「奪わずに生きる」ということではないかと思います。「奪わない」には「殺さない」も含まれますが、殺しは奪い合いの結果として起こることだとすれば、根本にあるのは「(暴力的な)奪い合いのない世」の創出という理念です。

 この思想をドラマの中の直虎は生涯かけて成熟させ、実行に移しました。しかし考えてみれば直虎は実在していた(であろう)とはいえ、その業績についてはほとんど知られていません。ましてや彼女がどのような思想を持っていたのかなどは、現時点では知る由もありません。ということは、ドラマの中の直虎の思想と行動は、作者が直虎に関する史料、彼女の当時の身分や立場、直政との関係、その後の直政の業績などから想像して膨らませたものです。またそれと同時に制作陣が現代社会の世相を反映しつつドラマのメッセージとして世に問いかけたいテーマでもあります。

 さて、それでは制作陣が創作の原点として参考にしたであろう直虎の業績とは何でしょうか。彼女に関する唯一の直筆の一次史料は31話「虎松の首」で彼女が書いた徳政令の施行に同意する花押入りの文書です。その文書から、彼女が城主となって以来数年間徳政令を引き伸ばしてきたことが伺えます。逆にいえば、直虎の知られている唯一の業績は、「徳政令の引き伸ばし」だけなのです。

 ですから彼女が城主となって初めて相対する問題が「徳政令」問題であったというのは非常に示唆的です。今回総集編を見て改めて気がついたことは、彼女の城主としての業績は政令に始まって徳政令に終わるということです。リアルタイムで見ていたときは、直虎についてネタバレを避けるために関連書籍などもあえて読んでいませんでした。ですから彼女のキャリアにおける徳政令の重要性をあまりよく認識していませんでした。しかし史料のことなども少し理解したうえで改めて総集編を見返すと、きちんと徳政令を最重要の課題として描いていることが理解できました。

 直虎が城主になったときに、甚兵衛を始めとする農民たちは井伊谷城を訪れて、徳政令の施行を願い出ます。民の窮状を聞いた直虎は、徳政令出すことを安請け合いします。私も徳政令の意味合いなどを深く理解していなかったので、リアルタイムで見ているときは直虎が民に同情して徳政令を出そうとすることに心情的には賛成したい気持ちでした。しかし直虎はそうことは簡単ではないことを学んでいきます。彼女は国衆と農民と銭主の関係、そして徳政令を受け入れれば井伊家が滅びることを知ります。それだけではなく、徳政令を受け入れることは長い目で見れば民にとってもデメリットが大きいことも理解します。私も視聴者として直虎の同じペースでこれらのことを学んでいきました。

 14話「徳政令の行方」で直虎は次のように述べます。 

「目先の話ばかりするな!確かに徳政令が出れば、今ある借金は消えてのうなる。じゃがその後はどうじゃ?人はおらぬし、何時凶作になるとも限らぬ。方久は欲深じゃ、借金を棒引きにはしてくれなんだ。なれど村を任せば、そなたらが潤い、自ずと借金が返せる仕組みを作ると言うてくれた。ならば、その方が良くはないか?」

ここには、すでに彼女の思想の基本的な姿勢が表れています。「借金をしなくてもよい仕組みづくり」、すなわち民を「潤す方法」を提示しているのです。

 私は36話の感想で、『直虎』の三幕構成のうち、中心となる第二幕のミッドポイントは27話「気賀を我が手に」における気賀城築城ではないかと書きました。確かに気賀城築城は、直虎が「戦わずに領地を手に入れた」のですから、彼女の「不戦」戦略の一応の勝利を示しているのでしょうし、また戦国城主としての一番の功績である「城取り」に成功したという点では、「武家のルール」に則ったうえでの最高の業績であると言うことができます。ミッドポイントにおいては通常、それまで主人公が苦労して行ってきたことが一定の評価を得るようなエピソードが描かれますので、そういう意味ではセオリー通りの配置であるといえるでしょう。おそらく物語構成の構造的な観点からは、やはり27話が一つの頂点であるといえると思います。実際に総集編もそのような編集になっていました。

 しかし『直虎』の恐ろしいところは、この「成功」が、その前提となっているルールを含めて直後に全否定されるところです。不戦は貫きながらも「武家のルール」に従って殖産興業しあまつさえ領地拡大や新城建築まで果たした直虎ですが、その「武家のルール」ゆえに政次の命を差し出すはめになり、気賀は虐殺の場となり、お家は取り潰しになります。意気消沈した直虎はお家再興さえ諦め、絶望の中で「武家のルール」を降りることを決意するのです。

 私は「奪わずに生きる」というその後の思想にもつながる、直虎が民を潤すために行った業績の真の成果の表れとは、むしろ30~31話で描かれた、百姓からの「徳政令は望まんに」という嘆願だったのではないかと思います。

 13話で直虎が城主になったとき、農民たちは徳政令を望む嘆願をしました。そしてそれを拒否するところから直虎のキャリアは始まります。直虎はその後農民たちを「教育」し、徳政令が決して上策ではないことを示しました。その後殖産興業(綿、林業)を行い、農民たち自身がが「産み出す」道を作ります。そうした地道な働きの成果が、農民からの「徳政令は望まない」という嘆願でした。すなわち農民たちは、自ら徳政令のデメリットを理解し、直虎のビジョンに共感したうえで、当初とは逆の嘆願をするまでに成長したのです。これは直虎の「人を育てる」という政策の成果であり、「徳政令施行延期」という彼女の知られている唯一の業績の成功の最高の証左ではなかったかと思います。

 

直虎の思想的成長から整理する各時期のまとめ

 それでは、「徳政令施行延期」がその最大の業績であるところの経済領主・直虎が、「奪わずに生きる世」を実現するというビジョンを形成していく過程として、物語全体を三幕4パートに分けて整理してみましょう。

第一幕 竜宮小僧期(1~12話)

 直虎は竜宮小僧としてそのキャリアをスタートさせました。第一幕では出家の身でしたから直接政治には関わりませんでしたが、彼女の、井伊谷の民のためにその人生を捧げる生き方はその時期に決定づけられました。ですから『おんな城主直虎』において最も重要な関係は直虎と井伊谷の民の関係だったと言うことができます。

 第一幕で、次郎たる直虎は民の暮らしに近いところでともに額に汗して働きました。そして彼らと個人レベルの交流を持ち、身近な人を助けることに生きがいを見出しました。しかしその当時は民が置かれた問題を構造的に捉える視点は持ち合わせていませんでした。

 

第二幕前半 城主奮闘期(13~31話)

 第二幕の前編で、彼女ははからずも城主になりました。そして民が置かれている苦境を城主の視点から理解します。しかし当時の彼女の構造把握は武家のルール」の枠内で行われたものでした。武家支配の正当性を当然のこととしたうえで、当時の井伊の戦力の状況を踏まえて「戦わない道」を選び、経済的苦境を脱する政策を行います。それは孫子の「敵を知り見方を知れば百戦危うからず」という教えを実践したものでした。

 しかしここで直虎に最初に武家のルール」を疑問視させるきっかけをつくった(と脚本が持っていきたかった)人物が登場します。龍雲丸です。彼との会話の中から直虎は武家が略奪者であるという見方を知ります。ただし、その時点での彼女の暫定的結論は、「武家は略奪者かも知れないが、自分は武家としてそれを認めたくない。あくまで武家として「潤す」方策を考える」というものでした。そしてそれが材木取引につながっていきます。

 その一方で、直虎は徳政令施行の延期を実現させます。考えてみれば、今川家からの徳政令施行の原因を作ったのは政次でした。当時は直虎を後見から下ろすため、政次が今川に進言したのがこの政策の始まりでした。直虎は徳政令施行の延期のために謀反を疑われ、それを晴らすために駿府に申開きに来るように要求されます。それが15話での寿桂尼との対決でした。

 ドラマではこの申開きが結局後見の正当性についてのものなのか、徳政令延期についてのことなのか、やや曖昧になっていたように思われます。なぜなら徳政令のことで呼び出されたのに、寿桂尼の最後の言葉は「井伊直虎、そなたに後見を許す」だったからです。しかし結果的には寿桂尼に後見を許されたことで徳政令の件も曖昧に処理され、その後その件は不問に付されました。ただし徳政令施行はねつけという黒歴史寿桂尼の中では消えることはなく、『死の帳面』にきちんと書き残されました。

 その後直虎の殖産興業政策は成功し、それが気賀城築城につながりました。しかしその一方で今川の凋落は明らかになり、井伊への徳政令施行強制も、井伊領直轄という意図のもと本格的に始動します。直虎が城主になりたての頃に今川が井伊を飛び越えて瀬戸・祝田村に与えた徳政令が施行され、それを直虎は受け入れます。それを拒否しようとしたのは、他ならぬもともと徳政令を望んだ瀬戸・祝田の農民でした。 

第二幕後半 城主動揺期(32~38話)

 第二幕の後半は、直虎が武家のルール」の範囲内で死力を尽くして井伊家と井伊谷の民を守ろうとして、半ば失敗する話です。すなわち、直虎は材木の件がもとになり近藤の恨みを買い、それがめぐりめぐって戦の最中に近藤の裏切りにあいます。その贖いとして政次の命を差し出してすんでのところで井伊家と民の命を守ります。しかし気賀城はそうはいきませんでした。徳川に制裁を加えられ、龍雲党のメンバーを含む多くの民が死にました。「半ば失敗」というのは、直虎は政次や気賀の民を失いましたが、井伊の民の命だけは(政次の犠牲によって)守り通したからです。そのための方策は「逃げる」ことでした。その「逃げる」には二つの意味がありました。一つは井伊谷から隠し里に逃げること、もう一つは「武家のルール」から逃げることです。

 逃げる過程で、直虎は武家のルール」を根本から疑う視点を持ったのだと思われます。「思われます」と書いたのは、私はこの過程の描写はあまりきちんと画面に表れていなかったと思うからです。この直虎の姿勢の転換は35話~38話あたりに起こったはずです。しかしこの間の直虎は、初期には政次の死と気賀の悲劇に見舞われて極度に自信を喪失し、「家があるから災いが起きる」とばかりに家の存在を否定し、城主を続けていく自信がないという理由で泣きながら城主を降りました。そして龍雲丸と一緒になり、政治から離れて一人の民として普通の暮らしをしばらく送りました。しかし武田が攻めてきたことから井伊谷の民を守ることに再び目覚め、龍雲丸と別れて井伊谷に残り「領主的な役割を果たす」ことを決意します。そして39話になった時点では、「家にこだわらずに土地の民が幸せに暮らしていくように計らう」というスタンスを確立しているように思われました。 

第三幕 フィクサー期(39~50話)

 第三幕では、彼女が「奪わずに生きる」という思想を井伊谷だけではなく日本中に広めていくという野心を持つ過程が描かれました。また彼女の殖産興業の方針もより持続可能エコロジカルな方向に発展しているようでした。第二幕前半の殖産興業や教育の振興が、産業化の黎明期の、日本で例えて言えば明治期の殖産興業政策のような性格を持っていたのに対し、第三幕のそれはポストモダニズムの趣すらありました。そのことが顕著に表れたのが、伐採の後の植林のエピソードでした。直虎と農民の絆もより深まり、特に甚兵衛とは直虎の政策の成功を象徴するような人間的な信頼関係を築きました。

 『直虎』の(現世の)最終ショットが農民のショットであったことは偶然ではないと思います。それは彼女の最重要政策が「徳政令施行延期」であったことの表れです。

 

構成の美しさ

 私は「徳政令施行延期」という史実が示す彼女の唯一の業績から、彼女が経済政策に力を入れていたであろうことを想像し、地理的な状況から綿産業、材木とのつながりを連想し、地政学的な状況から気賀との関係を想像し、龍雲丸というキャラクターを生み出し、さらに直虎に「奪わず生きる」という思想があったことを創造し、それを直政という媒体を通じて日本に広めようとしたと考えた作者の構想力は驚くべきものであると思います。もちろんこれまでこのブログでも指摘してきたように、細部に色々と指摘したことはあります。しかし今回総集編を見て、この「徳政令施行」という史料から想像を広げて、ここまで話のスケールを大きくする力量、それでも史料の業績に忠実に描こうとする姿勢、そして直虎の思想の成長を段階ごとに描いていく緻密な積み上げの力は賞賛に値するものであると改めて認識しました。

 私は『おんな城主直虎』を、主人公である直虎の人格的成長の物語であると考えてきました。しかしその成長の軌跡の内実は、実は最近になるまでそれほど明確には分かっていませんでした。しかし総集編まで見終わった今では、それを次のようにまとめることができます。

 

『おんな城主直虎』とは、経済領主として成功し、失敗した直虎が、武家のルール」を脱却して「奪わずに生きる」世を実現しようと奮闘する物語である。

 

もちろんこれは私の個人的な総括です。視聴者の数だけまとめの形があるでしょう。しかし少なくとも私の考えでは、『直虎』は全体としては主人公の成長を段階的に丁寧に示したビルドゥングスロマンとして十分に成功していると思います。

 

おわりに

 このエントリでは、直虎のキャリアや思想的の成長という点からみた物語の全体構成に着目してシリーズを総括してみました。もちろん構成の美しさと、細部の展開や個々のキャラクターについての評価はまた別次元のものです。ブログでも何度か指摘してきたように、直虎の性格、政次との関係、龍雲丸というキャラクターについては理解できない点が多々ありました。しかしそれらがあったからといって、この作品が果敢に挑戦した「歴史の空白を誠実に大胆に埋め、小さくて大きい物語を語る」という試みそのものを過小評価すべきではないでしょう。私は『直虎』の構成の美しさは、それ自体として賞賛する価値があると思います。

 

 

ps.(ここから先は独り言です。)

 

 

 再度話を戻しますが、だからといって直虎の人物造形に共感できるかどうかというのは、本当に別問題です。正直に言って、私はこのレベルでの共感を諦めたからこそ、あえて「構成の美しさ」に目を向けたのだと思います。総集編を見ていても、登場回数の少ない脇の人物ほど魅力的に描かれているように思いましたが、最も掘り下げるべき主人公は、鈍感で繊細さに欠けるように思えて、理解はできても共感はできませんでした。

 『直虎』を掘り下げて見るような視聴者層は、どちらかといえば物事を分析的に考える人が多いような気がします。ひょっとすると、そのような人と直虎の単純さや鈍感さは相容れない面があったのではないでしょうか。

 多くの人が語る、「すごい作品だとは思うが、疑問点も多い」という感想は本当にその通りです。ただし、2017年に、いやおそらく私の人生でも最も労力をつぎ込んで視聴したドラマですので、期待すればこその落胆もある、ということで、できるだけのことを言葉を尽くしてよいと思った点については書いておきたいと思います。

『おんな城主直虎』50話~意思を継ぎ、それを広める井伊の使徒たちの行伝録

はじめに

   最終回は第一部「自然の首」、第二部「おとわの死」、第三部「潰れた家の子の働き」の三部構成とも言えるような作りなっていました。直虎が井伊の「負債」に落とし前をつけ、死してなおその魂が働き続ける様が希望溢れるトーンで描き出されました。『真田丸』のような究極の二者選択の突きつけのような緊迫感はありませんでしたが、小さな井伊谷の里から広がる明るい未来のような暖かさが感じられ、この「小さくて大きな物語」の総括にふさわしい希望が感じられる最終回でした。それもギチギチに計算して伏線を回収したような不自然さは感じられず、むしろ物語が命を吹き込まれて独自の成長を遂げた結果、そこから自然にある地点に到達したような違和感のない着地点が示されたように思いました。

 

第一部「自然の首」~助けられたから、助け返す

 第一部で語られたのは、自然の首をめぐる問題の顛末でした。私はこの自然のスレッドをどのようにまとめるのかにとても興味を持っていました。井戸に捨て置かれた拾い子というのは井伊家初代当主の逸話を彷彿とさせます。どこかで「井伊のあり方」に関連させた展開を用意しているのだろうと思っていました。

 実際に示されたのは、大芝居を打ってあの手この手で自然の首を守りきるという、寓話のような不思議な味わいのあるエピソードでした。正直に言うと初見ではよく理解できない点も多くあり、今でもきちんと理解できているのかどうか不安な面もありますが、私なりに整理してみたいと思います。

 井伊家は1話から子どもの命を所望され、それをどうにか守って命脈を繋いできました。直親と虎松のエピソードは完全にパラレルになっています。直親も虎松も命を追われた結果、寺に匿われ、その後は見知らぬ人々の哀れみや善意にすがって生き延びました。自然も人質として差し出され、見知らぬ井伊の子捨ての井戸に残されました。いわば、直親や虎松のような立場の子どもが、今度は逆に井伊にやってきたのです。

 万千代は、お役目とはいえ、かつては自分が同じ立場に立ったその子どもを殺めるために引き渡すように直虎に伝えます。それに対する傑山の怒りは、これら全てのプロセスに関わった彼ならではの実感のこもった言葉です。

 

「若はどうやって生き延びてこられた。」

 

ふだん負の感情を発露することがない彼から発せられた言葉だからこそ、万千代の胸にもずしりと響いたのでしょう。

 このエピソードから、それまでの万千代は父と自分が他人の善意によって生き延びたということの重みや、相手に与えたかもしれない苦痛やリスクを本当には実感していなかったということが分かります。逆の立場に立って初めて相手に強いる犠牲の大きさに気づくのです。

 私は自然のエピソードは、もちろん於大の方の我が子への愛と直虎の全ての子への愛を対比するものでもあったとは思いますが、それと同時に、子どもの首を守ってもらった井伊が、今度は子どもの首を守る役割を果たすことで恩返しや贖罪をすること(虎松のために犠牲になった子どもの首の弔いを含めて)、そして万千代に「一人の子どもの命を守る」ことの重要さを当事者として実感させるという目的があったのではないかと思います。

 子どもを守ってもらうことでようやく生き延びた井伊が、最後には徳川や織田を相手にいわくつきの子どもを堂々と守ってみせた(あまつさえ信長まで利用して)というのは、井伊の成長を示す胸のすくエピソードです。自然が信長の子であるという伝説や、信長から送られた茶碗などからここまで想像力を膨らませて話を組み立てる作者の力量に瞠目します。

 

第二部「おとわの死」~脱性化のユートピア

 大河ドラマの最終回はたいてい主人公の死が描かれ、しかもそれは回の最後の方に起こります。しかし『直虎』ではそれが中盤に描かれたため、私は当初とても驚きました。そして残りの時間に何が起こるのか、少し不安になりもしました(全くの杞憂でしたが)。

 主人公の死は大抵は悲しくて目を覆いたくなるようなものが多いのですが(昨年のように)、今年の死はおとぎ話のようなふんわりとしたユーモラスでさえある描き方でした。まず井戸に子どもを配するというアイデアが素晴らしいと思います。あれが大人であって、直親、政次がいるところに龍雲丸が現れては、見ているこちらが手に汗握る展開になってしまっていたことでしょう。しかし子どもですから、全てがファンタジーのように可愛らしい展開でも不自然さはありませんでした。

 あれはおとわの心象風景です。ですから幼馴染の三人のなかに、彼女にとって重要な人だった龍雲丸が混じっていても、彼女的には違和感がなかったはずです。自分が好きだった人たちを属性無視して全員集合させ、みな引き連れて旅立ったというのは、いかにも天然なお姫様育ちの彼女らしい最後でした。

 子ども姿にしたことの効果の一つは、性のにおいを取り去ることだと思います。人は年を取ると子どもに戻るといいますが、老人になると性にまつわる人間関係の煩わしさから解放されて、逆に子ども時代のように男女分け隔てなく友人として接することができるという面があるのではないでしょうか。色々なことを経て、おとわの心は子どもに戻り、性的な緊張感なく三人と接する心境になったのでしょう。大人であれば、直親と龍雲丸は他人同士ですし、龍雲丸と政次にも何らかの緊張感は漂っていたしょう。そのような描写を一切省くのは不自然です。それらの厄介な問題を解決する方法として子ども時代に戻してしまうというのは、なかなかよいアイデアだったのではないでしょうか

 ただし、おっとりした亀、せっかちな鶴、天然なおとわという三人のコンビネーションは最高で、この三人の絆やケミストリーには他の人たちは容易には入っていけないものがあったと思います。個人的には井戸の集まりは三人のあいだに止めておき、龍雲丸には南蛮で活躍してもらいたかったと思います。

 

第三部「潰れた家の子の働き」~日本の使徒行伝録

 おとわの死は、それ自体が重要だったのではなく、むしろ彼女が万千代に何を残せたのかという方が重要なことでした。ですから彼女のフィジカルな死自体はあっさりと描かれ、最終回の本当のクライマックスは彼女の”Life after death”、すなわち万千代の中に生きる直虎、あるいは永遠の命をもった直虎におかれました。その意味では直虎の死後も、この物語の主人公は直虎であったと言えます。

 万千代は直虎の死に目には会えませんでした。南渓和尚から白い碁石を託された万千代、「これは井伊の魂」だと聞かされます。井伊の魂とは何でしょうか。

 

「井伊は、井戸端の拾い子がつくった国で……故にか、殿はよそ者に温かかったです。民に対しては、竜宮小僧のようにあれかしと……泥にまみれることを厭わず、恐れず……戦わずとも、生きていける道を探る」

 

これを聞いて、私はこれは井伊の魂というより、直虎の生き方ではないかと思いました。最初の井伊は「拾い子が作った国」というのはその通りなのでしょうが、「よそ者に温かい」というのは直虎ならではの態度でしょう。直盛の代までの井伊は、小野を目の敵にし、同族結婚を繰り返す典型的な血族国衆でした。竜宮小僧も直虎のモットーですし、泥にまみれたのは直虎が僧だったから、そして「戦わず生きる」のは政次と直虎の代以降の新機軸であり、それ以前の井伊は脳筋が支配する好戦的な一族でした。

 直虎の影響があまりに大きかったので、彼女の思想や生き方が「井伊の魂」になったのかもしれませんが、もともと碁石も政次の遺品ですから、直虎=政次時代の「NEW井伊」の方向性、あるいは直虎の魂でもよかったのではないかと思います。さらにこの「魂」の説明は少し長い。もう少し短い言葉でまとめてほしかった。例えば「奪わずに生きる」など。

 このような個人的な思いはありましたが、ともあれ、この碁石の伝達式を経て、また自然の首事件も経て、さらには築山事件も経験し、万千代は正式に「井伊の魂」を継ぐものとなりました。碁石を受け取った瞬間に、万千代は直親の血はもとより直虎や政次の思想の息吹が吹き込んだハイブリッドな井伊の新当主になったのです(キリスト教風に例えて言えば、万千代は水のバプテスマを経て、聖霊バプテスマを受けたのだと言えます)。

 彼の新当主としての最初の働きは、旧北条勢の懐柔でした。彼は家康に「潰れた家の前髪」ならではの和睦を結んでみせると豪語します。そして一人ではなく、万福、六佐、直之とともに国衆を訪ね歩き、自分たちがいかに惨めな境遇にあったか、そして徳川にどのように救われたかを伝えて回ります。

 私はこの展開を、いま一度『聖書』のアナロジーとして読みたいと思います。あくまでも個人的な考えですが、私は脚本の森下さんが、北条への使者を万千代だけではなく万福や六佐などを加えたチームにしたのには意図があると思います。すなわち、彼らの働きをイエス・キリストの死後の使徒たちの働きになぞらえたのではないでしょうか。

 

そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。(『マルコによる福音書』16:15)

 

 『聖書』において、イエスは死後復活して弟子たちの前に現れます。そして弟子たちに、世界中に良い知らせ(good news)を伝えるように指示します。古代キリスト教がヨーロッパ世界に広まったのはこの使徒の働きがあったからです。それは罪深い弟子たちがいかに罪を許され、イエスの教えのもとに新たな命、永遠の命を得たのかを伝え、彼に付き従うように勧めることでした。使徒たちがペンテコステを経て世界中で布教活動を行う様子を描いたのが『使徒行伝』です。

 『直虎』の最終回を見ながら、私はこれはまるで『使徒行伝』ではないかと思っていました。これまでも『聖書』のモチーフを使ってきた森下さんですから、最終話にそれを使ってもおかしくはありません。インタビューで最終話は「筆が滑った」と述べておられましたが、私はおそらくはそれはこの第三部を指して言ったのではないかと思います。

 もちろんこれまでの『聖書』の引用と同じように、この部分の引用も形式を借りる程度のものなのでしょう。しかし勝手に妄想させていただくと、おそらく作者は執筆の過程で最終回に『使徒行伝』が使えると気がつき、興奮したのではないでしょうか。サブタイトルが「石を継ぐもの」、というのも頷けます。万千代とその一団は、ペテロとその一団がそうだったのと同じように、バプテスマを受け(石をもらい)、取るに足らない存在であった自分が救われた福音を異教徒に触れ回り、改心して徳川に臣従する(バプテスマを受ける)ように勧めるのです。そうして従った者たちは、暴力で押さえつけられたのではありませんから、徳川への臣従を新しい人生への希望を持って受け入れます。そしてこれらはすべて、万千代とその一団がやっているように見えて、実はおとわのスピリット(聖霊)が行っていることなのです。

 これは『直虎』のモチーフにふさわしい展開です。特に万千代編は直虎の活用方法に苦慮したと思われるパートでしたが、その弱点を逆に活用して、『聖書』で福音が広がるように、直虎の思想が万千代を通じて普及していくさまを描くというのは、『直虎』のような空白の大きな物語ならではの創意工夫ではないでしょうか。これまで直虎の思想は万千代や家康に深く、しかし狭く伝わっていましたが、最終回でその地平線がぐんと広がり、水平に普及するさまを描くことができました。直虎の息吹が吹き込んだ万千代が、直政となって徳川の世で「奪い合わない世」を実現していく。まさに『使徒行伝』において福音が浸透していくのと同じパターンです。最後まで作者の構成力の高さが光る展開でした。

 

 最終回にまさかの『聖書』モチーフの活用(だと私が考えるもの)を持ってきた『直虎』、ファンには嬉しい驚きでした。辞世の回収もあり、最後は明るいトーンで終わってくれ、爽やかな視聴後感が残りました。総集編もありましたので、今後はまた全体の総括もしていきたいと思います。

『民衆の敵』と『直虎』に関する二題 ~男女バディ物とは、一貫性のある役柄

はじめに

   今週最終回を迎えたフジ月9の『民衆の敵』、最終回には高橋一生さん演じる藤堂の登場シーンが数多くありました。中でも父親との対峙と佐藤との二度の対決は最大の見せ場と言ってよいでしょう。表情筋を最大限に使って繊細に感情表現する高橋一生さんを見ながら、今年の初めに『直虎』での演技に引き込まれた感覚を思い出しました。しかし、似ているようで何かが違う。藤堂役の演技は上手いのだけれど、政次に感情移入したような感覚は少なくとも私には感じられませんでした。その違和感をきっかけに、『おんな城主直虎』と『民衆の敵』を比較しながら、藤堂・佐藤ペアと政次・直虎ペアの違い、そして高橋さんにとっての政次役について考えてみました。

 

民衆の敵』~真の男女バディがそこにある

    『民衆の敵』の藤堂は、その設定において政次に似ている登場人物です。主人公とはある種の緊張関係にありながら、女性のボスである主人公を補佐する役割を担い、二人で色々な難題に挑んでいくという展開は『直虎』の「城主編」を彷彿とさせます。そのせいか、藤堂と政次の類似性は当初から指摘されていました。

 私は『民衆の敵』における佐藤と藤堂のタッグのケミストリーがとても好きでした。お互いに敬意を払い、お互いを必要とし、なおかつ絶妙のコンビネーションでお互いの足りないところを補い合って、二人で1+1以上の力を発揮するコンビ。これこそまさに「バディ」ではないでしょうか。

 はてな・キーワードによるとバディものとは

 

バディ物【ばでぃもの】

対照的なキャラクター2人組が難題に立ち向かうといった展開をする話やドラマ・映画の総称(バディ=buddy)。1970年代の米国ドラマ「刑事スタスキー&ハッチ」や1991年の映画「テルマ&ルイーズ」、日本では「俺たちの勲章?」や「相棒」などがバディ物の代表例。

 

とあります。それは基本的には二人の人物の相性の良さややり取りの面白さでストーリーに説得力を持たせたり感情移入させたりするしかけのあるジャンルであると言えるでしょう。

 その中でも男女バディ物は特殊なジャンルであり、それらは大まかに言って

 

①男女の恋愛感情的な緊張感がある組み合わせ

②男女の恋愛感情的な緊張感がほとんどない組み合わせ

 

という二つのサブカテゴリに分けられます。前者には『キャッスル』などが、後者には『エレメンタリー』などがあげられるでしょう。

 このうち、①の男女バディ物は、バディ物であってバディ物ではない微妙な立ち位置にあります。恋愛の要素が強すぎるとバディ物として成立しません。絶妙のさじ加減で時折恋愛味を加えることで、同性のバディ物や純粋な恋愛物と一線を画し、緊張感を伴った独特の面白さを作り出しています。

 私は『民衆の敵』はこの①のタイプではなく、②のタイプの男女バディ物だと思います。佐藤と藤堂の間には恋愛感情的な情緒はほとんどありません。もちろん男女ですから緊張感が全くないわけではなく、時折藤堂が佐藤を守る姿に男女ならではの空気感が感じられて、それが面白みを増しています。しかしこの脚本はそこをあまり掘り下げませんでした。ですから画面から感じられる二人の男女としての緊張感は、高橋さんが抑えに抑えて、少しだけ風味を効かせる程度でしかありませんでした。

 そのようになった大きな理由は、佐藤が幸せな結婚をしており、藤堂にも思う人がいたからです。二人とも他に相手がいますから、恋愛関係に発展する要素は基本的にはありません。藤堂の方には少しはあったのかもしれませんが、彼は佐藤が家族を愛していることを知っていますから、その間に入り込むような余地はありえませんでした。

 この制限のおかげで、私たちは純粋に佐藤と藤堂の政治家同士としての共闘や対立を楽しむことができました。この二人は男女であって男女ではない、同性のバディ物に限りなく近い関係でした。その関係を私は安心して見ていることができました。全ての男女関係が恋愛関係である必要はありません。男女であっても仕事上の共闘関係やライバル関係が何よりも重要であってもよいでしょう。

 ひるがえって『直虎』はどうでしょうか。私たちは政次が直虎を女性として愛していることを知っています。後には上司としても敬意を表するようになりましたが、仮にも一方に恋愛感情があるかぎり、男女バディ物の分類において、この関係はセオリーに従えば①に分類されるはずです。

 しかし作者は直虎と政次の関係はどちらかといえば②であると主張しました。制作陣の考え方としては直虎と政次の間にあるのは恋愛感情ではなく、あくまで共闘する「男女を超えた」パートナーとしての絆でした。

 私はこの考えには最初から違和感を持ってきました。直虎と政次は恋愛ではないと書かれる度に、なにかしっくりと来ないものを感じていました。直虎と政次の関係は、『民衆の敵』の佐藤と藤堂のような、さっぱりとしたバディ関係だったと言えるのでしょうか。

 私は、直虎と政次の関係が②の関係だと片付けるには、政次の思いは重すぎたと思います。たとえ①の男女バディ物であっても、コンビ間の恋愛感情は、あくまで微妙なもので、時々合間に顔を出すスパイス程度のようなものでなければなりません。そうでなければ、それはたんなる恋愛物になってしまうでしょう。ですから直虎と政次の関係(というより政次の思い)は①としても男女バディ物の枠をはみ出すほどのものであったと思います。

 直虎と政次の関係は、それを男女バディ物であるとカテゴライズするのであれば、政次の思いの性質から言って、少なくとも①の路線で話を進めなければならなかったのではないかと思います。しかし直虎の方からは全く秋波が出ないので、彼らの関係は男女バディものでありながら、①でもなく②にも収まりきらないという少し特殊なものになってしまいました。公式の立場からすれば②なのでしょうけれど、②でありながら、バディの一方がもう一方にヘビーな片思いをしているというのは、そのキャラクターにとって「不憫」であるとしかいいようがありません。

 もちろん直虎と政次の関係はそれだけ独特なものだと主張することはできるでしょう。しかしその独特さの内実とは、要するに政次にとって不公平な関係であったということです。いっそのこと、直虎にも政次にも恋愛の相手は他にちゃんといて、二人は純粋に政敵として対立したり、時に共闘したりという緊張関係がある(そして佐藤と藤堂程度の男女感が時折感じられる)関係だったほうが、男女バディ物という枠組みのなかではむしろ安心して面白く見られたのかもしれません。ただしその展開を積極的に望んだかどうかはまたまた別の話ですが。

 

一貫性のある役柄を演じること

 高橋さんの演技は独特の魅力があり、それは『民衆の敵』や『わろてんか』でも楽しむことができます。しかし、twitterなどに見られる感想の多くは、それらの作品の役柄は「政次ほどの感情移入をして見ることができない」というものでした。

 『民衆の敵』の最終話における藤堂の父親や佐藤との対決のシーンは、高橋さんにとって演技上の見せ場だったと思います。もちろん彼はそれぞれのシーンを説得力を持って丁寧に演じていました。しかしそれでも『直虎』ほどの感動がない。それは演技のせいではなく、脚本や演出におけるキャラクター造形の問題だと思います。

 役者さんはどんな小さい役であっても、与えられた役を演出家の演出プランに沿って演じなければなりません。『民衆の敵』や『わろてんか』を見ると、役者や視聴者が納得できるような一貫性のあるキャラクターというのは案外少ないものだということをしみじみ感じます。たとえ主人公であっても、その人物の成長の軌跡に十分な必然性や説得力を感じることはそうそうありません。ましてや脇役となるとなおさらです。

 『わろてんか』では伊能さんの出演回数は限られており、たいては出演の度に前回の出演時とは違う境遇にあるため、人物像の掘り下げは難しいのではないかと思います。かといって『あさが来た』のディーン・フジオカのように女性主人公のナイト役という分かりやすい役割が振られている人物でもありません。

 『民衆の敵』でも、藤堂の出演場面はランダムで、全体としては藤堂が何をしたい人物かということは最後までよく分かりませんでした。彼の「本当の考え」も場面の積み重ねとしてではなく、長いセリフで説明されており、一貫した人物造形は難しいキャラクターではなかったかと思います。

 それに対して、政次は非常によく書き込まれたキャラクターでした。出演回数も多く、登場人物の多い大河ドラマにあって、彼がどのような性格の人物で、どのような成長曲線を描き、またある行動を何のためにとったのかということは、とても分かりやすく示されていました。しかも演技の要求が、「言葉にせずに思いを演じる」という難易度の高いものでした。これは役者にとっては大いにやりがいのあるものではないでしょうか。

    私が役者なら、藤堂や伊能といった役は、自分のなかで役の個別のストーリーの一貫性をはっきりと認識して確信をもって演じるのは難しいと感じると思います。もちろん役者さんはプロですから、たとえワンシーンであっても考え抜いてそこに全力投球するのでしょう。しかしキャラクター造形がしっかりと書き込まれた一貫性のある役柄であれば、そのやりがいは一層増すのではないでしょうか。

 政次役は高橋さんにとってもきっと本当にやりがいのある役だったことでしょう。しかし彼のポテンシャルを考えると、もっとやりがいがある役に挑戦してほしいとも思います。そのためには、①脚本が練られており(プロットが面白く)、②人物造形がしっかりしており、③主役で(いちばん人物造形がしっかりとなされているであろうから)、④繊細な人間ドラマである作品に出会って、それに出演していただいたいと思います。2018年は彼の新たな当たり役とも言えるような、そんな作品をぜひ見たいですね。

ハリー王子によるオバマ元米大統領インタビュー、即問即答コーナー(抄訳)

12月18日にイギリス王室のハリー王子がオバマ元大統領にインタビューを行い、その模様が12月27日のBBCラジオで放送されたようです。政治家のSNS利用の是非などシリアスな内容も含まれていたようですが、中にはこんな軽めのコーナーもあったようです。訳すまでもない簡単な内容ですが、その一部を抄訳してみました。言葉遊びや冠詞の使い方によって意味を変えるなどの遊び心も見られ、軽く聞ける内容でした。ハリーとオバマは旧知の間柄のようですね。

 

ハリー王子VSオバマ米大統領、即問即答コーナー(抜粋)

*( )内は補足です。

 

ハリー王子「速く聞くので、速く答えてください。」

オバマ米大統領「分かりました」

ハリー「『ホワイトハウス・ダウン』と『エンド・オブ・ホワイトハウス』(どちらもホワイトハウスがテロで危機に陥る映画)、どちらが好き?」

オバマ「どっちも見ていない」

ハリー「どっちか選んで」

オバマ「どうやって?見ていないのに」

ハリー「『ホワイトハウス・ダウン』の方がいいよ」

オバマ「そう言うなら」

ハリー「映画館(cinema)かボーリング場、どっちが恋しい?」

オバマ「映画館(cinema)。我々はmovie theaterと呼ぶけどね」

ハリー「トランクスかブリーフでは?」

オバマ「そういう質問には答えられないね」

ハリー「レブロン・ジェームスかマイケル・ジョーダンでは?」

オバマジョーダン。レブロンも好きだが、僕はシカゴの男だ」

ハリー「アレサ・フランクリンティナ・ターナーでは?」

オバマ「アレサが最高」

ハリー「レイチェルかモニカ(『フレンズ』の登場人物)では?」

オバマ「レイチェルが好きだ」

ハリー「OK。モニカには言わないでおくよ。キムかクロエ(カーダシアン)では?」

オバマ「(うろたえて)これについては、保留させてくれ」

ハリー「ハリー(王子)かウィリアム(王子)では?」

オバマ「今はウィリアムだ」(よい答えですね~)

ハリー「ハハハ。『タイタニック』か『ボディ・ガード』では?」

オバマ「『タイタニック』」

ハリー「『スーツ』か『グッド・ワイフ』(どちらもアメリカのドラマ)では?」

オバマ「もちろん『スーツ』だ」(『スーツ』にはハリーの婚約者のメガン・マークルさんが出演)

ハリー「良い答えだ。タバコとガムでは?」

オバマ「今はガムだよ、ベイビー」(?謎)

ハリー「ホワイトハウスとバッキンガム宮殿では?」

オバマホワイトハウス。バッキンガム宮殿は芝生刈りに時間がかかりそうだ。維持が大変そう」

ハリー「そうかもね。クイーン(バンド)と(エリザベス)女王では?(”Queen or The Queen?”)」

オバマ「女王だ」

ハリー「またまたいい答えだ。ザ・ロック(俳優、プロレスラー)とクリス・ロック(俳優、コメディアン)では?」

オバマ「面白い質問だね、両方好きだ」

ハリー「Slip 'N Slide(スライドして遊ぶ玩具)かエレクトリック・スライド(ダンス)では?」

オバマ「エレクトリック・スライド、僕はその世代だ」

ハリー「素晴らしい答えだ。最後の質問。あなたの最後の5ドル。バーガーか宝くじ、どっちを買う?」

オバマ「バーガーがどれくらい美味しいかによるね。でも美味しいバーガーは大好きだ」

 

『おんな城主直虎』49話~「呼び出し」の終焉、虎と龍、脚本家インタビュー

 今話では①家康の上洛、②直虎の画策、③光秀の動向、④信長の思惑という4つの筋が並行して語られました。中心となるのは①と②です。描写が極限まで省かれている③と④をめぐるミステリに翻弄される人々の行動が時にユーモアを交えて語られました。

 そしてこの表の筋の裏には、これまのテーマの踏襲と伏線の回収、さらには大団円を迎えるシリーズの総括やファンサービスもふんだんに散りばめられていました。

 

「呼び出し」の連鎖の終焉と人材育成政策の勝利

 まず①家康の上洛の顛末について述べます。この筋は、表面上は④信長の思惑(家康を呼び出して暗殺する)と、③光秀の動向(その策を逆手に用いて信長を殺す)に対するリアクションとして家康と家臣団がとった様々な行動の物語として語られました。しかしこの筋の裏の主題は「主家から呼び出された臣下の身の処し方」という『直虎』が繰り返し語ってきたテーマに対するファイナル・アンサーでしょう。

 井伊家はこれまで何度も駿府への呼び出しに応答し、その度に犠牲を出したり奇策を弄したりして切り抜けたりしてきました。最初の呼び出しは第一話の直満の謀殺でした。あの時彼は何の策もなく、疑うことすらせず、のこのこと出かけていって殺されました。次は直親の番でした。この時直親は何が起こるか予想し、それに対する覚悟もできていました。直虎も政次もそれが分かっていながら何の手を施すこともできませんでした。直親は一人で責任を背負い、僅かな供と共に誅殺されました。三度目以降は直虎でした。彼女は何度か駿府に呼び出され、その度に命の綱渡りをしました。一度目は一人で考えた奇策(男装)で乗り切り、二度目は方久の機転で面会を回避、政次と言葉を交わすこともままならなかった氏真との対決もありました。そうして死を回避してきたに見えた直虎ですが、実は「死の帳面」の面会の際に、井伊家の滅亡を密かに宣告されてしまっていました。

 このように井伊家にとっては主家への訪問はつねに死と隣り合わせ、特に直虎にとってはほぼ一人で知力の限りを尽くして対処してきたにも関わらず、最終的には井伊家の滅亡を招いた呪いの儀式でした。

 しかしその負のサイクルを集団の力で断ち切ったのが徳川家の伊賀越えでした。主としての信長の恐ろしさや得体の知れなさは井伊にとっての今川のようでした。敵とも見方ともつかない信長は、直虎にとっての寿桂尼を思わせます。寿桂尼も直虎を個人的には気に入っていましたが、個人の感情と政治を分けて考える冷徹さも持っていました。そして彼女の真意は常に分かりにくいものでした。

 信長も寿桂尼のような冷徹な策士です。その真意は意図的に隠されてきました。実際48話の時点では視聴者の多くも光秀の話を信じ、信長はきっと家康を殺そうとしているに違いないと思っていたはずです。今話でも事の真相ははっきりとは明かされませんでしたが、おそらく茶器の描写などから、今回の信長に家康誅殺の意図はないことが暗示されました。

 しかし『直虎』において、主家に意図のない呼び出しなどありえません。「死の帳面」の寿桂尼が表向きは別れのために臣下を呼び出したように、信長も、今回家康を呼び出したのは殺すためではなかったにせよ、接待以外の意図があったのではないでしょうか。

 呼び出しを受けた徳川家も、直虎と同じように戸惑い、悩みました。しかし直虎と徳川家では対処方法やその体制に大きな違いがありました。まず井伊家と徳川家では家臣団の充実ぶりが違います。徳川家には色々な角度から知恵を出せる人間が集まり、結束力もあり、機動力もあります。万千代や常慶が事前準備や情報収集を行い、それに直虎も一枚かんで、様々な事態を想定して準備が進められました。

 そして徳川家臣団には直虎が経験したような家内の内部対立がありませんでした。一枚岩の結束力で、時にユーモアを交えながら不測の事態に対応していきました。

 万千代と万福は、数々の苦難を乗り越え、ようやく再会して無事を喜びあいます。この二人の万感の思いがこもった視線ややり取りが、これが『直虎』における数々の「呼び出し」にケリをつける大団円のエピソードであることを雄弁に物語っていました。かつて政次は、直虎が服毒してまで面会の期日を遅らせようとしたとき、そっと頬に手を当てることしかできませんでした。しかし今は小野家の万福は皆の前で誰にはばかることなく万千代の無事を喜べます。これこそが政次が直虎にしてやりたかったことだったに違いありません。

 この「呼び出し」文化からの脱却は、家康一人、ましては万千代一人の力では達成できませんでした。家の政治力や財力といった基盤の問題もさることながら、結束力のある家臣団の働き、すなわち集団の力がものを言ったのです。それは徳川家が人を育てる家であったことと深く関連しています。直虎も力を入れていた人材の育成という政策が、ここで実を結んだのです。

 実際この後の徳川家は豊臣に肩を並べ、もはや誰かに呼び出されて命を狙われるような弱小な存在ではなくなり、天下をも狙える大大名となりました。コミカルな伊賀越えではありましたが、このエピソードの裏の意味を考えると、ここに直虎→家康の人材育成という取組の成果の到達点を見る思いでした。

 

ファンサービスと龍雲丸の処遇

 ①の家康の動きに②直虎の画策を絡めた今回の展開、主人公を歴史に関わらせる方法としては面白いと思います。ただし、直虎は今回は伊賀越に対してそれほど直接的な貢献はしませんでした。このエピソードは次回に続いているため、この時点で色々と断定することはできません。しかし現時点では、少なくとも直虎や龍雲丸の働きがなくても、家康一行は茶屋の導きで家康は脱出することができていたはずです。ですから、この表層レベルでのこのエピソードの必然性については若干の疑問が残りました。

 むしろ、このエピソードの真の意義と見どころは、城主時代を彷彿とさせる直虎の生き生きとした活躍と、龍雲丸との再会の顛末でしょう。

 前者については、これまで『直虎』を見てきた視聴者へのファンサービスではないかと思います。最近の直虎はすっかり達観し、隠者のような風格で万千代を圧倒していました。しかし今話の直虎は、直之、六左衛門、方久を引き連れ、気賀のパワーアップバージョンである堺で物珍しいものを見てはしゃぎ、中村屋を相手に喜々として策を練ります。まるで城主時代の彼女に戻ったように、喜々として仕事をするその姿は、城主編を愛した視聴者への最後の挨拶ではないでしょうか。

 そして龍雲丸との再会です。堺での龍雲丸は、気賀や井伊谷時代以上に派手な着物に身を包み、やりがいに溢れ、輝いていました。心なしか余裕もあるようで、色気も増し、なかなかに堂々とした男ぶりです。

 しかし彼に再開した直虎は、もはやかつてのようにキラキラとしたBGMつきで目がハート型にはなりませんでした。それどころか、かつて事がうまくいったときに政次を見せたようなてらいのない満面の笑顔で龍雲丸を見て、再会の挨拶もそこそこに協力を請います。今の直虎にとって龍雲丸は仕事のパートナーなのです。

 この展開を見て、いつかどなたかが「脚本家さんは男性登場人物に厳しい、必ずどこかで落としてくる」と書かれていたのを思い出しました。

    私は常々、直親、政次の扱いに比べて龍雲丸の扱いは格別だなあと思ってきました。彼は最初から直虎に特別に好かれ、材木の件で井伊家を窮地に陥れ、政次処刑の遠因を作ったにも関わらず、最終的には直虎と結ばれます。しかも死ぬこともなく最終回近くまで出番がありました。しかし今話で龍雲丸に対する直虎のキラキラな思いに終止符が打たれた(ように見える)ことで、彼にも(軽微ではありますが)それなりの処遇や厳しい現実の洗礼が巡ってきたように思います。何となく収まるところに収まって、バランスが少しとれたような気持ちになりました。

 とはいえ、改めて見返すと、今話で直虎は龍雲丸による「仕事が終わったら堺に来るんだろう」という約束のリマインドに可否は明言していませんでした。もしかしたら次回で再び「頭の待つ堺に行く」と言う展開があるのかもしれません。このエピソードも続きがあるようなので、まずは展開を見届けたいと思います。

 

 今話で直虎は、裏のストーリーではファンサービスや龍との決着(の途中経過)などの活躍を見せましたが、表においてはさしたる成果を上げませんでした。これは筋が作り込まれた『直虎』の展開としては意外なものです。これはもしかしたら、今後の自然の扱いと何か関係があるのかもしれません。

 自然は井戸端で見つかった子どもです。井伊の初代は井戸端に捨てられた子どもでした。この設定の重なりは偶然ではないでしょう。自然は井伊家の初代を彷彿とさせる存在である上に、「裏切り者の家の子ども」でもあります。次話では彼は井伊家の未来と何か関係のある存在として描かれるのではないでしょうか。

 

脚本家インタビューについて

 

 最終回を前にした脚本家さんのインタビューについても少し言及しておきたいと思います。

https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/interview/1134036

https://news.ponycanyon.co.jp/2017/12/22724

 

直親は、最初からそういうふうに定められていて、時が時なら結ばれたであろう自然発生的な相手です。政次の方は、女性として好きな部分と、主君として対していかなければならない部分の葛藤がありました。とはいえ、直虎にとって政次は恋愛の対象ではありません。それよりもっと深い、2人にしか分からない絆で結ばれた主従という文脈で書いていました。

 

 直虎、政次、龍雲丸。この三人の問題に対する私の考えは、インタビューを読んだあとも、以前からここに書いていることから変わっていません。直虎の恋愛の筋が龍に振ってあることは当初から分かっていました。しかし実際のドラマとして提示された作品においては、直虎と政次の関係の方が多くの視聴者のイマジネーションを掻き立てるものであったことは否定し難い事実でしょう。そのユニークな設定、演技、演者のケミストリーなど、全ての要素がクリックして、マジカルな関係性が出来上がりました。

 龍雲丸については、彼を単体として見れば、色々と面白く魅力的なキャラクターだと思います。しかし彼のスケール感は作者の当初の想定よりはだいぶ小さく感じられましたし、直虎との間にもマジカルと言えるほどのケミストリーは感じられませんでした。

 

恋愛の相手には、今まで彼女が生きてきた世界とは全く違うところから出てきた人であってほしかった。彼女が成長していく上で広い視野を持つためにも。弱いとはいえ当時、領主といえば支配階級です。それとは全く異なる生き方やバックボーンを持っているけれど、人としては共感できる尊敬できる相手のことを好きになってほしかったんです。

 

今思えば、龍雲丸のキャラクター造形はこの作品の鍵を握ると言ってもよいほど重要なものだったように思います。しかし政次と活躍の時期が完全にかぶってしまったことが、彼の立場をやや微妙なものにしました。その証左に、脚本家さんは次のような発言もしています。

 

──逆に、なかなか書き進まなかったお話は?
森下 龍雲丸と直虎の関係ですね。当初の予定では、もっと早くに男女感が漂うはずだったのですが、2人の間には、守らなければいけないものや生き方があって。それ故に、なかなか関係が進展するのに時間がかかりましたね。

 

直虎が「守らなければならないもの」は政次の存在と直結していましたから、直虎の生き方の根本に関わっているのは政次です。一方で彼女は「全く異なる生き方やバックボーン」を持つ龍雲丸と恋愛しなければなりません。しかし潰れかけた家の経営に奔走し死線を綱渡りしている直虎は、なかなか「異なった生き方」をする龍と過ごす時間をもてません。だから恋愛の進展は亀の歩みとならざるを得なかったのです。

 このすっきりとしない紆余曲折の展開の理由は、やはり直虎の人生に同時期に「2人にしか分からない絆で結ばれた主従」(政次)と「恋愛の対象」(龍)を併存させたことでしょう。

 しかし作者が上記のインタビューのように「筆が進まなかったエピソード」について客観的に述べているのはとても興味深いことです。それは作者が作り上げた世界のなかで登場人物が命を吹き込まれ、彼らがまるで本当の人間のように心を持って生きていたということを示しています。私たちがその話に引き込まれてしまうのも分かるような、そんなダイナミズムをもった発言だったと思います。

 

 Twitterでは色々な方が『直虎』の総括を行っておられて、それを興味深く読んでいます。私は、これまでの各話がそうだったように、50話も、話が思わぬ方向に進み、前話で考えていたのとは全く違う場所に連れて行ってもらえるような予感がして、とても楽しみにしています。PVの顛末も楽しみ。今年が、長い長い祭りが、本当に終わってしまうのですね。

『おんな城主直虎』48話~日本のフィクサーになった女、『あさイチ』についても

相見~直虎と家康

 前回、直虎は万千代と直之に「家康を使った戦のない世実現の方向性」を示しました。その時点で私は、「直虎が家康に直接説得をするような展開は非現実的なので、間接的にすることを選んだのだな」と思っていました。しかし今話ではなんと直虎が家康と直接対決、自らの口で家康に戦のない世を実現してほしいと語ります。直虎のモットーは「相見」、直接会って話をするからこそ気持ちが伝わるというものです。ずっと以前の回にきちんと前振りがあって、しかも二人は知り合いの間柄でしたから、このような一見荒唐無稽と思えるようなシーンもそれほどの不自然さは感じられませんでした。

 この作品において直虎と家康は相似的です。どちらも戦を好まず、性格的にも戦国の領主に向いているとは言えません。しかし両者とも家臣に恵まれ、周囲とよい人間関係を築きながら、気がつくと頭角を現しているのです。

 しかしこの二人には決定的な違いがありました。直虎はやむを得ない外的な要因もあり、自覚的に「戦を避ける」という戦法をとり、限られた領土で経済政策などで内政の充実を行ってきました。しかし家康は、人質という境遇からスタートしたものの、戦上手であったことから戦国武将として出世してしまいます。戦に明け暮れる家康は、少なくともドラマにおいては戦のない世について積極的に思考したり行動を起こしたりする存在としては描かれてきませんでした。

 現時点で直虎に多少はあり、家康にないものは、戦わない社会をいかに動かすかという試行錯誤の経験と、その世がどのようなものかについての実感や手応えです。直虎は井伊家を失うことで、戦いに参加する資格を失いました。その後は近藤のもとで村の再建と綿産業の充実、林業の発展に努めてきました。しかし家康は、家が潰れていないがゆえに、殺し合いのゲームから降りることができません。今の家康は、政次を失ったショックを龍雲丸を救うことで乗り越えたばかりの、35話くらいの直虎と同じような心境にあるといえるのかもしれません。

 私たちは家康が天下人であることを知っていますから、家康には天下統一の野望が最初からあったように思いがちです。しかしこの時点では数いる大名の一人にすぎません。その彼が「天下統一」という野望を抱くには、なにか触媒となる作用や、動機づけとなる出来事が必要でした。直虎は、その触媒の役割を果たしたのです。

 今話で家康に対峙する直虎は、半分カウンセラー、半分モチベーショナル・コーチのようでした。あえて家康から極端な反応を引き出すような話をして彼を自分のペースに引き込みます。そしてうまく誘導し、家康から「自分は戦が嫌いである、戦が起こらないような仕組み作りを考えたこともある」という言葉を引き出します。そのうえで、「戦のない世を作って欲しい、やってみなければわからない」とけしかけるのです。この権力者を誘導して自分の望む方向に持っていく話術は、もしかしたら直虎が近藤を相手に磨いたスキルだったのかもしれません。

 家康に「戦が起こらない仕組みづくり」という言葉を言わせたことで、直虎は井伊谷フィクサーから日本の(という概念がなかったとしても、かなりの広域における)フィクサーに昇格しました。このドラマでの直虎は過去の女性大河と違い、不自然に歴史的事象に関わったり権力者に一目置かれたりする存在ではありませんでした。しかしここに至って、江戸幕府創始者を自分の望む方向にもっていくという、どの女性大河よりも野心的な役割を果たすことになったのです。それも私利私欲のためではなく、相手に自分の考えを押し付けるわけでもなく、ただ適切に相手を選び、その相手がすでにやりたいと思っていたことをうまく引き出す、という方法でその目的を達成したのです。

 この達成は、彼女が遠江の潰れた家の領主だったからこそ可能でだったのではないでしょうか。もしかしたらこれこそが、ノブが万千代に言った「潰れた家の子だからこそできる働き」だったのかもしれません。

 家康は信長の誘いに乗って安土に向かうことを決意します。しかしミステリ仕立ての今話のポイントは、光秀の話がどこまで本当か、氏真の話がどこまで本当か、さらには信長が本当に家康を陥れようとしているのかどうか、私たちには全く分からないということです。信長の本意をできるだけ見せないようにしてきた本作の作りが、ここにきてうまく機能しています。私たちは本能寺の変が起こることも、家康が伊賀越をすることも知ってはいますが、それがどう描かれるのか今の時点では全く分かりません。終盤にミステリの要素を入れて登場人物を「信頼できない証言者」に仕立てあげ、最後まで興味を引くというという思いもよらないアプローチで突入した最終章、おそらく昨年とは全く違った本能寺の変と伊賀越が見られることでしょう。

 

氏真と直虎

 万千代が最終シーンで直虎を「殿」と呼んで跪いた場面も地味ながら名シーンでした。直虎の悲劇を追体験して成長した万千代が、直虎の実力の前に素直に敬意を払うシーンは、18話での直虎と政次の和解のシーンや、政次が直虎の殿としての実力を認めた32話を彷彿とさせ、じんわりとした感動を呼び起こしました。

    48話では氏真と直虎の対決も見どころでした。25話の時点では、まさかこんな二人の相見の場が最終回近くであろうとはとても予想できませんでした。柴咲さんが「後に直虎が氏真を憐れむような場面もある」と言っていたのはこのシーンのことだったのかもしれません。氏真が瀬名の仇を取るというのは若干唐突に感じましたが、おそらくは今川滅亡のきっかけを作った信長に対する直近の恨みとしての瀬名の復讐なのだろうと思います。元大名のプライドを捨てて時代の流れに乗ったかに見えた表面上の顔の裏に、矜持と誇りが見え隠れする尾上松也さんの演技は見ごたえがありました。また同じように家を滅ぼされた同世代の二人が、全く違ったやり方でそれぞれの「戦後」を生き延びているという対比も興味深いと思いました。特に戦を嫌っていたように見え、家康よりも早く「蹴鞠で勝ち負けを決めれば良い」とすら言っていた氏真が、敵討ちの戦に一番に誰よりも熱心に名乗りを上げた点が面白いと思います。考えてみれば、かつて今川家で寿桂尼の影響を受けた氏真、家康、直虎は、みななぜか戦嫌いに成長したということになります。寿桂尼による「今川仮名目録」の考え方が、彼らの治世の基本に関する姿勢を方向づけたと考えるのは、穿った見方でしょうか。

 

 

あさイチ柴咲コウさん発言から推測する、柴咲直虎から見た政次

 

 『あさイチ』を見ての感想を、ノーカット、ポエム混じりの長文でつらつらと書いてみたいと思います。読んでいて恥ずかしい気持ちにさせてしまったらすみません(^^;。

 

柴咲:やっぱり政次を見送らなければいけなかった直虎さんの感覚というか感情というか、あのさっき槍で突いたときにはとうてい出せなかった秘めた思いみたいなものが含まれていますね。

 

井ノ原:本当のところはどうだったんだろう、というのはこの曲を聞きながら想像したりするね。

  

 『あさイチ』の柴咲コウさんの「いざよい」についての解説は、ここまで踏み込んで言ってくれた、という点に本当に驚きました。ふつうアーティストというのは曲や歌詞の解釈を限定するような発言は避けようとすると思います。しかしあえてこのように発言したのは、やはり柴咲さんご自身が「視聴者に自分の言葉で思いを伝えるのはこの機会しかない」と思われていたからではないでしょうか。雑誌の記事には編集者の手が入ります。しかし生放送の番組ならば、カットもされず、第三者による編集や解釈の余地もありません。

 その思いとはどのようなものでしょうか。ここから先は私の想像です。柴咲さんが、役になりきって直虎として生きてきた過程で、政次に伝えたい思いがあったとします。しかし脚本の中にはその思いを伝える機会は政次の生前も死後もありませんでした。柴咲さんはドラマを第三者として見る視聴者とは違い、直虎の人生を間接的に生きる存在であり、ある意味直虎自身でもあります。その柴咲さんの中には、もしかしたら脚本の方向性とは少し違った柴咲直虎がきちんと生きていて、その柴咲直虎の感情ベクトルは、私たち視聴者の解釈のベクトルと同じ方向を向いていた、すなわち柴咲さんの中の直虎は政次に「いざよい」の歌詞に示されていたような思いを感じていて、その思いを伝えられないことに忸怩たる思いがあったのではないでしょうか。

 思えば彼女のブログにも、政次の死をめぐっては「伝えたいけれど、伝えきれない溢れる思い」が感じられるような記述があったように思います。彼女は芸能事務所に所属するプロの女優であり、しかもドラマの主役という座長のような役割を担っています。全体のことを考えなければならない立場上、個人的な解釈を直接公言するようなことは憚られたでしょう。まして同じ事務所の所属男優が公式の相手役である状況で、それ以外の役に対するドラマの表現以上の思い入れを語ることは難しかったはずです。

 しかしそれでも、なんとかして思いを表現したかったのではないでしょうか。彼女には歌という表現手段があります。シンガーとして歌詞に思いを込めるのは彼女の自由です。女優として言えない思いを歌手として表す。多面的なアーティストである柴咲さんならではの方法だと思います。

 柴咲さんの解釈では、直虎には政次に対して口には出して言えない「秘めた思い」がありました。そして「いざよい」の語り手(直虎)は相手(政次)に対して「恋しい、愛しいきみ」と呼びかけています。さらに「あさイチ」では、「そんな風に(隠す方向に)行かなくてもいいのに」という政次に対するもどかしい思いも語られました。

 そこから感じられる私なりの柴咲直虎の気持ちは、次のようなものではないかと思います。

 

すべてをオープンにして正面から向き合ってくれたらよかったのに、気持ちもすべて話してくれたらよかったのに、あなたはそれをしてくれなかった。だから私はあなたの周波をキャッチしようと必死で感受性を研ぎ澄ますしかなかった。あなたに素直に気持ちを伝えてほしかったのに、あなたはそれをしてくれなかった。だから私は自分の気持ちを伝えることができなかった。

 

そこから連想される、18話の「女子だから守ってやらねば、はお門違い」というセリフの意図は、「あなたは男性としては対象外だから、私を女性扱いしないで」という意味ではなく、「勝手に私のことを想像してあれこれ配慮しないで、何でも率直に話してほしい。私の気持ちに耳を傾けてほしい」ということだったのではないでしょうか。

 直虎が政次を男性としてきちんと意識していたことは、彼女の仕草からも見て取れます。例えば、彼女は井戸で政次を引き止めるとき、袖を引いてもじもじとしていた様子を見せました。直虎は井戸で何人かの親しい人を引き止めましたが、万千代や直之は落ち着いて声だけで引き止め、瀬名は同性同士の気安さからもっと直接的に腕をがっしりとつかんで引き止めました。こんなに逡巡して、必死に引き止めたのは政次一人なのです。

    龍が現れて、直虎は本能的に龍に惹かれます。龍と直虎はお互いへの気持ちを少しずつ育てていくことができました。その理由の一つとして大きかったのは、龍が自分の気持ちに素直なオープンな性格だったということだと思います。直虎と龍は自分の気持ちについて相手に率直に語りかけることができました。

 政次は直虎に対してそうすることができません。自分の感情を押し殺し、相手を欺くことが習い性になっていますから、今更突然自分の気持ちを素直に語ることなどできません。そのことが時に直虎を苛立たせ、「本音で話せ」という言葉を言わせることになりました。

    思えば、12話以降の政虎の敵対関係も、元はといえば政次が井伊家を欺く計画を一人で勝手に立てたところに端を発します。あの時点で政次が直虎を信頼して何もかも打ち明けていれば、敵対は避けられたはずです。もちろんそれではドラマになりませんので、ありえなかった展開ではありますが、要するに政次の側からのコミュニケーション不足が政虎関係の発展の障害の一因になっていたことは確かでしょう。

 私も含めて、視聴者の中には「直虎から政次への思いの表現の欠如」を指摘する声がありました。確かにそうした表現が脚本に少なかったことは事実でしょう。しかし政次の方にも、直虎に限らず全ての事柄において自分の気持ちや考えを相手にわかり易く伝える、現在の言葉でいえばコミュニケーション能力が不足していたこともまた事実なのではないでしょうか。

 それでも24話時点で直虎は一旦龍に対する気持ちに区切りをつけ、城主の仕事に集中し始めます。直虎は21~23話の混乱期を除いては、政次が生きている間、龍を政次より優先することはありませんでした。政次にも、「政次の考えを一番尊重する」とはっきり伝えています。

 ここからはまた私の想像です。城主をしているときの直虎は、出家の身でもありましたので、意識的に恋愛や結婚を追い求めるような行動は取りませんでした。龍に対してさえも、ある時期からは一定の距離を置きます。基本的に城主時代の直虎にとって恋愛の優先度は低いものだったと言ってよいでしょう。

 しかしだからといって他人に対する恋情や愛情が完全にシャットダウンされていたということにはなりません。その証左に、龍への思いは彼女の心の奥底にずっとくすぶっていました。政次への思いはどうでしょうか。直虎は政次に焦がれるような強い恋愛感情を感じたことはなかったかもしれません。特に龍に感じるような強い性愛の情を意識化することはなかったでしょう。しかしだからといって何も感じていなかったということにはらないと思います。脚本の基本姿勢はおそらく「秘めた思い」のレベルでさえ何もなかった、というものでしょう。しかしドラマで表現されたものは、「語られない思いがあった」という解釈の余地を残すものでした。

 政次と直虎の間にあったかもしれない秘めた思いについて、高橋政次は、わりあい分かりやすく、自由に解釈して表現していました。聖典たる脚本にも政次から直虎への思いについては暗示されていました。

 それに対して、直虎の演技はより難しいものだったのではないでしょうか。脚本には直虎から政次への思いを示す手がかりはほとんどありません。さらに高橋さんと違って柴咲さんは座長の立場です。原典であうる脚本に忠実に演じるという責任感も感じていたことでしょう。さらに事務所の同僚に対する配慮もあったでしょう。ですから政次の生前や死後の展開に仮に疑問があっとしてもそれを抑えて、脚本の方向性に忠実に演じようとしたのではないでしょうか。

 視聴者の立場から見れば、高橋政次の解釈が視聴者の波長と合っていればいるほど(というより、我々が高橋さんの演技のベクトルに引き寄せられているので)、柴咲直虎の脚本に忠実な方向性の方が不可解に思えたのだと思います。そしてそのことに柴咲さんはある程度気づいていたのではないでしょうか。自分の中に表現したい思いはたまっていくのに、それを吐き出す場がない、さらにドラマの反響も耳に入ったでしょうから、視聴者の思いに応えたいという気持ちにもなったのではないでしょうか。

 政次と直虎の物語は公式には終わってしまいました。私の中でも、いつしか「政次と直虎にはワンチャンスさえもなかった」という諦めのような考えが生まれていました。しかし昨日の『あさイチ』を見て、必ずしもそうではなかったのかもしれない、と思うようになりました。実は政次には、いついかなる時でもチャンスがあったのではないでしょうか。言う前から諦めてしまい、気持ちを伝えないという決断をしたのは政次の方です。直虎のモットーは「やってみなければ分からぬではないか」です。もしかしたら直虎にはいつでも、政次の気持ちを受け止め、考える用意はできていたのではないでしょうか。

 特に18話以降、直虎は政次を頼りきっていましたから、チャンスの確率はどんどん上がっていったと言ってもよいのではないかと思います。四六時中その人がどう考えるかを考え、離れていても考えが分かるようになるなど、嫌いな人に対してできることではありません。22話で政次が龍雲党を訪ねたときも、直虎は政次の一挙手一投足を終始気にしていました。このようなディテールににじみ出る思いに気づくのは、本人ではなく龍の方です。政次が死ぬ直前などは、龍には「頭に何が分かる」と言って龍の方をシャットアウトしていたほどです。

 直虎と龍は、政次が死んだからこそ結びつくことができました。その意味では、まさに「お前しか残らなかったから」ということになります。だから頭は、政次の死後も直虎以上に政次の存在を意識していたのでしょう。

 『あさイチ』の柴咲発言から見えてきた、私にとっての直虎の政次観を整理します。

 直虎にとって政次は、一目惚れのような強い自発的な恋愛や性愛の感情を換気するような存在ではなかったのかもしれません。脚本でも政次に友情以上の強い感情を抱くような描写はありませんでした。しかし友として家老として彼を頼り、彼の行動を慮り、彼の思考に波長を合わせようとするなかで、ある意味誰よりも深く彼のことを思うようになっていったのではないでしょうか。直虎の政次に対する感情の根本には「信頼」があったと思います。そして信頼する異性を心の何処かで密かに愛するようになったとしても、その心の動きには、不可解な点や非論理的な点は一つもないのです。

 柴咲さんも視聴者も、基本的にはこの方向性で物事が進むことを予測していたのではないでしょうか。しかし脚本の方向性は不自然なまでに政次と直虎の共闘以外の感情の発展を否定するものでした。

 33話の別れは直虎にとって自己の存続の危機をもたらすようなトラウマティックな経験でした。しかし3話後には直虎は別の男性と結婚してしまいます。その展開が多くの人にとって受け入れがたいものでした。そのことは『あさイチ』で龍が全く登場しなかったことにもある程度反映しているのではないでしょうか。直截に言って、政次を立てれば、龍は成り立たないのです。これは龍を否定しているのではなく、主人公の心は二人同時には捧げることはできないということなのです。

 柴咲さんの思いを知ったことで、私たち視聴者は苦しかった気持ちに「名付け」をもらったのではないでしょうか。それは一つの症状にやっと病名がついたような、苦しい中にも前に進める足がかりとなるような、そんな救いをもたらす「名付け」でした。そしてそれはおそらく、柴咲さんからの私たちに与えることができうる最高のプレゼントだったのではないかと思います。