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青野の鑑賞記録 ~溢れる思いを、心ゆくまま~

『おんな城主直虎』新ポスターに思う~38話以降に期待すること~

はじめに

 新ポスター発表になりましたね。菅田将暉さんの清々しいビジュアルと、直虎の成熟した眼差しの対比に心が浮き立つのを感じました。新しいことが始まる高揚感が楽しくて、「第三幕」について何か書いてみたくなりました。そこでこのエントリでは、箸休め的に、38話以降の演技陣に期待することを気楽に述べてみたいと思います。

 

第一幕~直親の成長と「主従関係」~

    38話以降について述べる前に、その前段階として、前回のエントリに補足して『直虎』全体構造の中における12話までの位置づけについて、主として政次と直親を中心に整理してみたいと思います。

 前回のエントリでは『直虎』を「三幕構成」という視点から3つのパートに分解し、特に第二幕について詳しく論じました。そして第二幕の前後半に、それぞれ小ミッドポイントがあるのではないかという考えを提起してみました。

 その際に第一幕についてはほとんど言及しませんでした。しかしあのエントリをアップした後に、12話程度のまとまりを前後半に分けるという考え方は、おそらく第一幕にも当てはまっているのだろうと考えるようになりました。

 その視点から第一幕を捉え直すと、少ミッドポイントは7話「検地がやってきた」になるだろうと思います

 

第一幕城主誕生編(1~12話)前半 次郎法師(竜宮小僧)誕生編(1~7話)

               小ミッドポイント 7話 検地がやってきた

                                                             (直親と政虎の主従関係の確立)

               後半 直親成長編(8~12話)

 

 川名で岩松殿を騙すために必死に工作し、目線と目線で会話をした直親と政次。その後の井戸では直親から「おとわのためにともに井伊を守る」という提案が行われ、政次はそれに言葉で同意こそしないものの、否定しないことでそれに乗ります。二人は、緊張関係を孕みながらも、おとわのために手を携えて「主従になる」ことを了解したのです。ここでいう「主従になる」というのは、二人が同じ目的を持ち、リーダーたる直親を政次が支えることで共闘する同志になるというような意味です。

 7話終盤の政次と直親の井戸での会話は、今思えば18話の政次と直虎のシーンに重なります。このときも直虎と政次は言葉で「主従になる」と宣言しはしませんでしたが、二人はかつての政次と直親と同じような暗黙の了解で共闘する主従関係を結びました。

 そのような視点で見ると、第一幕の後半は城主(正確には後継ですが)になろうとする直親の成長の物語と捉え直すことができます。そしてそれは第二幕で直親の移し身として同じような段階を踏んでいく直虎の物語のプレリュードでもあったのです。

 だとすれば第一幕後半の影の主役は直親であり、ここで最も重要なのは直親と政次の「主従関係」です。二人は最初は対立していましたが、井伊のために協力して隠し里を守り、それが遠州騒乱の折の井伊の避難所として機能しました。また時期尚早で失敗したとは言え、今川から離れ松平につくという方向性も二人の同意で決められました。直親が生きていれば、もっと多くの事柄を二人で成し遂げることができたかもしれません。

 続く第二幕においては、対立を経て結ばれた直虎と政次の「主従関係」が井伊の繁栄の鍵でした。そしてその主従関係がなくなったとき、直虎は一歩も先に進めなくなってしまいます。ここから読み取れるのは、『直虎』において主従関係の段階的発展、すなわち主従の対立から和解、共闘関係の確立は、「主」を成長させる主要ファクターなのです。

 第一幕で主従を演じた三浦春馬さんと高橋一生さん、「検地回」では高橋さんの演技が注目されましたが、三浦さんの演技も繊細かつ堂々とした立派なものでした。実年齢では高橋さんより10歳も年下の三浦さんですが、全く気後れする風もなく互角に渡り合って存在感を示しました。今でも直親が色あせないのは三浦さんの演技のおかげもあるしょう。

 第二幕では、直虎と政次の演技のケミストリーが物語の鍵でした。この二人の演技に緊張感が欠けていたり、力量のバランスが崩れていたとしたら、ドラマの説得力が大幅に損なわれていたでしょう。すなわち『直虎』において、「主従関係」の緊張感は演技上の大きなポイントであると言えます。

 第三幕ではどのような「主従関係」の緊張が描かれるのでしょうか。まず考えられるのは、直虎と虎松です。この二人は厳密な意味での主従ではありませんが、直虎は主役ですから、旧リーダーと新リーダー間で井伊の方向性を巡って初期には何らかの対立があるかもしれません。

 その他に考えられるのは、家康と直政、そして直政と亥之助・直久です。そのうち家康と直政については、この二人の圧倒的に不平等な関係性を考えると、直政が家康とあえて対立する道を選ぶとは思えません。となると残りは井伊家内部、すなわち亥之助・直久との関係です。

 私は亥之助・直久がドラマの中でどれほどの重要性を占める役であるか全く知りません。彼らと直政は全く対立せず、政次と玄蕃のように終始良い関係が描かれるのかもしれません。しかし彼ら三人は、いわば旧世代の幼馴染三人組の継承者です。できれば何らかの葛藤や対立を経て、井伊を守るという強固な目的のもとに共闘する絆を築く過程を見たいものです。

 

第三幕に望むこと=若手の演技合戦

 38話以降で楽しみにしていることの一つは、若手俳優さんたちによる新世代幼馴染「主従関係」の演技合戦です。

 第一幕では直親と政次の俳優さんの年齢差は10歳でした。しかし虎松役の菅田将暉さんは1993年生まれ、亥之助役の井之脇海さんは1995年、直久役の冨田佳輔さんは1991年生まれです。わりあい年齢も近く、第一幕の二人とはまた違ったケミストリーが生まれることが予想されます。

 私は俳優さんに詳しいわけでもないですし、このブログでも俳優さん一人ひとりのプロフィールについて深く論じているわけでもありません。しかし今回はあえてそのあたりに少しこだわり、芸能記事的なものも参考にしながら何を楽しみにしているかを語ってみたいと思います。

 若手の男性俳優といえば、その登竜門としては戦隊モノや仮面ライダーがメジャーです。それを足がかりに、次には『35歳の高校生』のような同世代の男性俳優が大量出演する群像劇に出て知名度を上げるのがセオリーです。そのような群像モノの現場には、すでに売れている俳優とこれから売り出す俳優が混在しています。舞台裏報道ではしばしば、キャストは仲良く、撮影は和気あいあいとした雰囲気で行われていると伝えられます。しかし生き馬の目を抜く芸能界、実際にはライバル意識や嫉妬も渦巻いていることでしょう。そのような、同世代の同業者なら持っていて何の不思議もないライバル意識や嫉妬は通常はほとんど報道されません。しかし今日紹介する記事にはそれらのことがわりあい素直に書かれていて、私は興味を持ちました。

 その記事とは、直政役の菅田将暉さんと映画監督永井聡さんが映画『帝一の國』(2017年)について語ったインタビューです。

 

菅田将暉の勝負作『帝一の國』 「僕がここで消えるか、残るか。消えたらそれで負けです」 映画『帝一の國』菅田将暉&永井聡監督インタビュー - インタビュー&レポート | ぴあ関西版WEB

 

 『帝一の國』はエリート高校の生徒会長選挙をめぐるコメディで、男子高校生役として菅田将暉さん、野村周平さん、竹内涼真さん、間宮祥太朗さん、志尊淳さん、千葉雄大さんらが出演しています。ここで菅田将暉さんは、主役の重みと責任感、そしてある意味で損な面についても率直に語っています。

 興味深いのは、「主役をはること」に関して、『直虎』では龍雲丸を演じた柳楽優弥さんに対して次のように語っていることです。

 

菅田:あ、ただ『ディストラクション・ベイビーズ』(2016)は、初めて自分で負けを意識しましたね。主役を張っていた、柳楽優弥という男に対して。

(中略)

――菅田さんが主役としてそうやって臨んでいるからこそ、共演者のみなさんの意気もあがりますよね。『帝一の國』はリーダー論の映画でもありますが、それこそ先ほど挙がった『ディストラクション・ベイビーズ』の柳楽優弥さんなんかは、現場全員を引っぱっていたことが作品から伝わってきましたし。

 

菅田:本当にそうです。柳楽くんは一番考えていたし、もっとも悩んでいた。監督とも深く話し合っていた。そういう作業が大事ですよね。どんな形でもいいけど、自分の本気度を示すのが真ん中に立つ人間の役割ですよね。

 

 私は柳楽優弥さんの作品を初期の映画以外それほど見ていないので、菅田将暉さんの言う柳楽さんのすごみがまだ本当には実感できていません。『直虎』での柳楽優弥さんは、むしろ暴走しないように、主役を立てるように、そして直虎と政次の物語を邪魔しないように、少し抑えた演技をしていたように思えます。破天荒で、キレキレに演じようと思えばいくらでもできた可能性のある龍雲丸をあのように演じたのは、好意的に見れば柳楽優弥さんが全体を見る目を持っていたからなのかもしれません。

 逆にそのようなバランス感覚を良い意味でもたない若手俳優が、龍雲丸をとことん突き抜けて演じていたら、直虎、政次、龍雲丸の関係はどのようになっていたでしょうか。そして政次を他の誰かがもう少し冷たい、覚めた感じで演じていたら…。興味深い「もしかして」の世界です。

 しかし柳楽さんに「負けた」と思わされた菅田将暉さんも、他の共演者からは逆に敗北感を抱かれているようでした。

 

永井:そういえばさ、『帝一の國』の関係者試写会の後、(共演の)竹内涼真くんが悔しがっていたよ。

菅田:え、なんで?

永井:「菅田くんが凄い、やっぱり違う」って。作品自体はすごく楽しんでくれたけど、でも役者としては菅田くんの凄さを目の当たりにして落ち込むところもあったそうです。

 

 竹内涼真さんは、その正統派のルックスからは想像できない丁寧で繊細な演技で最近注目されている役者さんです。私も『ひよっこ』を見て、彼の間のとり方や表情の作り方の絶妙さに感心していたところでした。そんな恵まれた存在の彼も、菅田将暉さんという規格外の才能に対して色々とコンプレックスがあるということが興味深いと思いました。

 しかし私がこのインタビューで最も着目したのは、次の永井監督の発言でした。

 

永井:やっぱり、役者同士でそういうことがあるんだと思う。たくさんの若手俳優やエキストラがこの映画には出ていて、みんな、メインキャストに対してきっと「なぜこの人たちが売れているんだ」、「俺だってチャンスを与えてもらえれば」とギラギラしていたけど、菅田くんたちの演技を見て、「自分に足りないものが分かった」と言っている人が多かった。覚悟の違いを感じた、って。

 

 これを読んで私は、すでに売れているメインキャストの6人、特に主役の菅田将暉さんにライバル意識を燃やしながらチャンスを伺う若手の俳優さんたちのハングリー精神を想像し、胸がぞわぞわとするように感じました。

 さらに胸熱なのは、この『帝一の國』キャスト集団の中に、亥之助を演じる井之脇海さんも含まれているということです。勝手な想像ですが、井之脇さんも、「なぜ自分があの六人の中にいないのか」「なぜ自分が主役ではないのか」と思いながら映画に出演し、菅田将暉さんの「覚悟」に敗北感を抱いたか、あるいは心の底では「機会さえあれば、やはり自分のほうが」と思ったのかもしれません。

 だとすれば、『直虎』は彼にとっての「機会」だといえます。この世代の俳優を確実に牽引している存在である菅田将暉さんと、真っ向から演技で勝負して自分を証明するチャンスです。

 若手同士の切磋琢磨について、菅田将暉さん自身は次のように語っています。

 

菅田:映画の冒頭、帝一が生徒たちの前に立ち、「僕は、自分の国を作る」と宣言して始まるじゃないですか。実際、そのシーンでみんなの前に立ったとき、同世代の役者が前にずらっと並んでいて、「僕はこれだけの人のアタマ(主演)なんだ」と強く感じたんです。仁王立ちしながら、自問自答していた。「大丈夫だ、誰にも文句を言われない作品にしよう」と決意できる瞬間でした。帝一同様、野心を持って撮影に挑んでいました。せっかく同じ世代が集まったので、それぞれ個の強さを磨いていこうって。

 

 切磋琢磨していく、それぞれの個を磨いていく、しかし自分があくまで主役として牽引していく、これらが同世代の役者に対する菅田将暉さんの意識のようです。こうした意識を持った菅田将暉さんが井伊谷パートにおける家臣団をどのように牽引してくれるか、そしてそれに応えて井之脇海さんや冨田佳輔さんがどのようにケミストリーを起こしてくれるか、それが私にとっての第三幕の見どころの一つです。

 最後に「主役」についての菅田将暉さんの意見を見ておきたいと思います。

 

――主役が損をして、脇役が得をする傾向は近年とくにありますし、あえて脇を選ぶ人もいますね。

 

菅田:だけど、それは甘さでもあると思うんです。その損得をみんなが一度知ってしまったから。でも、昔の映画を観ていると、不器用でぶっきらぼうで、芝居としては良くないのかもしれないけど、それでも引き込まれるスター俳優さんはいましたよね。あの格好良さが僕の理想の一つ。真ん中でやるということから逃げていない。

 

 おそらくは、菅田将暉さんも主役ということにこだわりのある役者さんの一人だと思います。柳楽優弥さんもその一人で、彼はインタビューでもはっきりと将来大河ドラマでの主役も意識していると言っています。菅田将暉さんと柳楽優弥さんは、このまま順調にキャリアを積めば、そのうち大河の主役が回ってくる位置にいるのかもしれません。

 その二人のうち、柳楽さんは前述したように『直虎』では破天荒な役どころをやや抑え気味に演じました。柳楽さんにとっては柴咲さんは事務所の先輩でもあり、遠慮もあったことでしょう。しかし同時に柳楽さんがバランス感覚のある人だったから、あのような描写になったのではないかと思います。

    菅田さんもポジションとしては柳楽さんと同じ主役の直虎を支える脇のキャストの一人です。しかし龍雲丸と直政の違いは、直政は直虎のサポート役ではないということです。ここで私は菅田さんが直虎をも食う勢いでキレキレに演じるのか、バランス感覚が感じられる抑えた演技をするのか、その点にも注目しています。

 菅田将暉さんがここまで率直に考えを開陳できるのは、彼のオープンな性格のなせる業なのはもちろんのこと、彼が今それができる年齢と地位にいるというということも大きいと思います。今の高橋一生さんならば、もうここまで率直に語ることはないでしょう。柳楽さんは性格上ここまでは語らなさそうです。ですからこのインタビューは若い俳優の夢や覚悟や自負心が素直に表れた、私にとっては非常に興味深い読み物でした。そしてその「夢、覚悟、自負心」は次のような現実に対する焦燥感に立脚しているものだと思います。

 

菅田:(前略)勝ち負けについて考えるなら、現在まで役者を続けてくることができたという意味で、それを勝ちとするならば、トーナメントでいうところの負けていった人たちも当然いるわけで。この8、9年間でいなくなった人もたくさんいます。中には「あの人、凄い俳優だったのに」と尊敬していた方もいた。だからこそこれからも生き残っていけば、30代、40代でもっと何か大きなことが起きるんじゃないかって。

 

 彼が若い世代の役者が抱える必死さについて素直に吐露してくれたことに感謝し、『直虎』第三幕の若手演技合戦に注目して見ていきたいと思います。

『おんな城主直虎』36話~全体構造からみた36 話の位置づけと直虎、政次の人物造形~

連続ドラマのリアルタイム各話感想を書くことの限界

 36話を視聴して、あらためて連続ドラマを各話ごとにリアルタイムで批評することの難しさについて考えてしまいました。文学や映画の批評は作品を最初から最後までまるごと読んだり見たりして、時には何度も読み返して、全体から部分を考察することができます。何にせよ作品の批評とは本来そういうものだろうと思います。

    しかし連続ドラマのリアルタイム各話批評をすること、しかも先の展開が分からずに途中経過で何かを考えることは、「全体」というフレームワークなしに何らかの構造的な解釈を加えていかないといけない。喩えて言えば、文学や映画の批評者が完成されたパズルの全体を見ながら様々な構成要素についてあれこれ考えることができるのに対し、連続ドラマのリアタイ視聴者は、パズルのピースを手にしながら完成図を予想し、時には盛大に的をはずしつつ、完成図をすでに知っている制作者に対して圧倒的に不利な戦いを挑んでいるようなものです。要するに視聴者と制作者にはものすごく大きなインフォメーション・ギャップがあって、それはもう部分だけを見てウロウロ迷う子羊と、それを空から笑ってみている神様くらいの違いだと思うのです。

    こういうタイプの批評が存在するジャンルは他にあるでしょうか。新聞や週刊誌などの連載小説を、日毎、週ごとに各話で感想を書く人はあまりいないと思います。他にあるとすれば、実写やアニメの連続シリーズか、コミックの連載などでしょうか。このようなジャンルの感想が陥りがちなのは、全体像の欠如から来る、部分へのアンバランスな注目です。具体的に言うと、個々のストーリーラインの断片を個別に見て、それぞれに対してしばしば感情的な反応をすることです。これはまさに木を見て森を見ずの状態で、それによって本当に見るべき部分を見失ってしまうことが多々あるように思います。

    たとえ連続ドラマであっても、それでも何かまとまりのあることを言おうと思えば、少なくとも数話の単位で物語のアーチごとに全体を見る必要があります。『直虎』でいえば、例えば30話~33話、龍雲丸が活躍した21~23話などがそれにあたるでしょう。

    しかし36回のようないわば中継ぎの回に対して単独で何か言えるとしたら、直虎が(一時的に)井伊再興を諦めること、あるいは龍雲丸と結婚する(ように見える)ことになどといった彼女のアクションの途中経過について、価値判断や希望的観測を述べるしかありません。それはリビューワーに問題があるのではなく、そのような感想しか抱きようがないというリアタイ・ドラマ・リビューワーの立場が構造的にもつ限界の問題なのです。

    今回このような前置きをするのは、36話の個々のストーリーラインについて私がオリジナルに言える、あるいは言いたいと思うようなことはほとんどなかったからです。すべてがあまりに途中経過すぎて判断に困るようなことが多かったですし、うっかり書くと感情的に龍を叩きそうになったり、直虎を叱咤激励したくなったりしてしまいそうで、それは本意ではありませんでした。

    そこで、今回のエントリでは少し目先を変えて、あえて36話を単体として論じるのではなく、まだ未完の物語ではありますが、『直虎』の全体の構成について予測し、リアタイドラマ視聴者が宿命的に奪われている「『全体』というフレームワーク」を勝手に得たつもりになって、そこから見た36話の位置づけについて考えてみたいと思います。そして個別に直虎、政次、最後に少し南渓谷、龍雲丸についてもそれに位置づけて整理してみたいと思います。

  

『直虎』全体構造を勝手に予想~「三幕構成」~

     今回私が全体構成の予測のために使用する補助線は、「三幕構成」という概念です。

    いつだったか、「大河ドラマではよく33回あたりに一度クライマックスが来る」というような趣旨のtweetを見かけたことがあります。これは的を射た観察だと思います。それはおそらく、『直虎』を含めた多くのドラマや映画がいわゆる「三幕構成」を採用していることと関係しています。

    「三幕構成」はエンターテイメントの王道の構成だと言われ、次のようなパーツに分かれています。

 

第一幕 ビギニング(場面設定、主人公のキャラ設定)

第二幕 ミドル(葛藤)

第三幕 エンド(解決)

 

    この3つの長さの黄金比は1:2:1だと言われています。第二幕は尺として一番長く、しばしば前半と後半に分かれます。そしてここが物語の「本論」のような部分です。第二幕の前半と後半の中間地点に置かれるのがミッドポイントです。この構成を『直虎』にあてはめ、分解してみましょう。

 

第一幕 城主誕生編(1~12話)

第二幕前半 城主成長編(13~27話) 前半(13~18話)政次との対立編

                    小ミッドポイント 18話 政虎和解

                    後半(19~27話)材木編

ミッドポイント 27話「気賀を我が手に」→戦わず、潤すことで城主に

第二幕後半 城主試練編(28~37話) 前半(28~33話)政次受難編

                    小ミッドポイント 33話 政次の死

                    後半(34~37話)最大の危機

第三幕 城主成熟編(38~50話)

 

第一幕

    各パートについてさらに詳しく見ていきます。通常、第一幕では最初の方にキャラクター設定が行われ、次に「主人公の欲求」という視聴者が主人公に感情移入して見るための核となるアイデアが示されます(弱小チームを強くしたい、歌手として成功したい、など)。そして第一幕の最後の方で「第一の事件」が起こります。この事件がきっかけとなって物語が本格的に展開していくのです。

    これを『直虎』に当てはめてみると、「キャラクター設定」では、子ども時代に、おとわは無鉄砲な性格であること、何でもとりあえずやってみること、天真爛漫で人を惹きつける存在であること、人のために無条件で何かをしてあげたいと思っていること、学問の素養があること、後先考えない思慮の浅さがあることなどが描かれます。

    「主人公の欲求」については、幼いころに直盛に言われて領主に興味を持ったかに見えますが、その他にも人に言われて亀との結婚に乗り気になったり、竜宮小僧になろうと思ったりと、様々に移り変わっていきます。おとわが自分で選んだのは出家することと、亀の代わりに城主になることですが、これらも何かの反動であったり、リアクションであったりして、それぞれの職業に魅力を感じてそれを志したようには見えませんでした。後述しますが、私はこの「主人公の欲求」設定が、このドラマではこれまでのところそれほどうまくいっているようには思えません。そしてこれが私が直虎というキャラクターに感じる違和感に深く関わっています。

    「第一の事件」は言うまでもなく直親の死と、それに伴う井伊家断絶の危機です。この危機を救うために直虎が立ち上がり、城主直虎が誕生して、ストーリーが本格的に動き出すのです。

 

第二幕前半

    第二幕は、物語全体の核になるパートです。ここで描かれる事柄が、「主人公の欲求」とリンクした物語のメイン・イベントです。まず第二幕前半では第一幕の最後に発生した事件によって悪化した状況を主人公が立て直そうと奮闘する過程が描かれます。そして必然的にここには対立の軸が置かれます。すなわち主人公が成長する過程で衝突し、その衝突を通じて主人公がさらに強くなっていくような敵の存在が必要なのです。

    『直虎』においてはその役割を政次が担いました。『直虎』の興味深いところは、その敵が幼馴染で、しかも本当の敵ではない、むしろ味方だということです。そういうひねりを加えつつ、しかし表面上は「三幕構成」の王道に従って、二人の対立によって直虎が成長する過程が描かれます。それが13~18話にあたります。

 『直虎』は50話からなる長い大河ドラマです。私は作者はこの長い第二幕を、さらに四分割したのではないかと考えます。すなわち第二幕前半をさらに前半と後半に、そして第二幕後半をさらに前半と後半に分けたのです。そして第二幕の前後半に大きなミッドポイントを置いたうえで、第二幕の前半の前後半にも小ミッドポイントを、そして第二幕の後半の前後半にも少ミッドポイントを置きました。そしてその二つの少ミッドポイントは、いずれも政次メインのエピソードでした。

 第二幕前半の小ミッドポイントは、政次が敵ではなかったと明かされ、二人が共闘関係に入ることとなった18話「あるいは裏切りという名の鶴」です。今となれば、ここで二人の関係性は「相棒」のようなものに決定したこと、それを示すための相棒もののフランス映画からの引用だったことがはっきりと分かります。

 18話で敵対する相手がいなくなってしまいましたから、第二幕前半の後半では、主人公が成功への階段を登る過程が描かれます。『直虎』では相棒であり師である政次から指南を受けつつ、共闘しながら井伊を盛り立てていく過程が描かれます。しかし成功の失敗は表裏一体、井伊をささやかな繁栄の絶頂に導いた材木は、井伊を悲劇に陥れる遠因ともなります。幸せに上り詰める過程に悲劇の底流が少しずつ勢いを増して脈々と流れているという二重構造は、この脚本の本当にうまいところです。

 材木は現在の文脈で例えると、石油のような天然資源です。これを手に入れることは富と直結します。直虎は龍雲党を引き入れることで材木の販路を切り開いて富を手にし、これを足がかりに気賀城を築きます。これが27話「気賀をわが手に」、私が考える『直虎』のミッドポイントです。

 

ミッドポイント

    通常ミッドポイントでは、それまでの展開の一つの到達点であり、同時にその後の事件の原因ともなるような事柄が描かれます。またその到達点は、第一幕で設定された「主人公の欲求」のとりあえずの実現として示されます。ここで重要なことは「とりあえず」という点です。ミッドポイントの達成はあくまでも一時的なものでなければなりません。そうでなければ話はそこで終わってしまいます。そしてそれは同時にこれから訪れるさらに大きな試練の前触れでもなければなりません。

    『直虎』においては、気賀城の築城は直虎の城主としての理想像(奪わず、潤す)の体現でした。しかし同時に「材木」は政次の死につながる遺恨の遠因となり、さらに気賀の悲劇の舞台ともなります。

 

第二幕後半

    ミッドポイントは、「良いことが」起きるパターンと「悪いこと」が起きるパターンがあります。良いことが起きた場合は、第二幕後半では悪いことが起きる過程が描かれます。そして第二幕後半の最後に「最悪のこと」が起きるのです。『直虎』ではミッドポイントに「良いこと」が描かれましたので、そこから第二幕の終わりに至る過程は、基本的に破局に向かって事態がどんどん悪くなる苦しい過程が描かれます。

    まず第二幕の後半の前半では遠州騒乱にともなう井伊の試練が、主として政次の試練という形で描かれました。そのクライマックス、すなわち小ミッドポイントが33話です。ここで城主直虎は片腕ともいうべき相棒を失ってしまいます。二人三脚、両輪で運営していた組織の片方の車輪がはずれれば、運営がうまくいかなくなるのは必定、井伊はバランスを崩し、直虎も精神的ダメージを深く受けてなかなか立ち上がることができません。その直虎に追い打ちをかけるように第二幕の後半の後半ではさらなる悲劇が連発され、まず気賀が殲滅、最後にこの物語の最大の危機である武田の襲来が起きるのです。

    この第二幕の最終盤で起きる最大の事件が「三幕構成」における「第二の事件」です。これは通常主人公にとって最大の困難であり、絶体絶命のピンチです。これを乗り越える過程こそが主人公の成長の山場となります。この部分を描くのが第三幕のメインテーマとなることでしょう。

    以上が私が考える『直虎』の全体構成です。次項ではそれを踏まえた個々のキャラクターの設定や描写について見ていきましょう。

 

直虎~リアクションではなく、アクションを~

    まずは直虎です。

    前述したように、私は、本来第一幕で行われるべきであった直虎のキャラクター設定の核、すなわち「主人公の欲求」の設定が、思いの外うまくいっていないように感じています。

    直虎は一体何がしたい人なのでしょう。幼少期にまず直盛によって「領主」という空想ルートが示されました。しかし女子であるという現実の前にこのルートが開くことはありませんでした。次に「亀の嫁になる」というルートが開かれました。最初は乗り気ではなかったのですが、母に説得されてすぐにその気になります。しかしこれもうまくいかず、鶴の嫁にさせられそうになり、逃れるために出家をします。しかし熟慮の末の行動ではなかったのですぐにまた後悔し、逆に鶴から「竜宮小僧になること」というルートを示されて、その気になります。色々あって直親が死に、今度は和尚様から改めて「領主」ルートが示されました。これを直虎は「直親の移し身になる」という理由から「選択」する(と自称する)のですが、これも「直親のために頑張りたい」という感情主導の行動であり、領主になることの何たるか、自分の適性、領主をしたいかどうかなどに考えを致した行動ではありませんでした。

    このように見ていくと、直虎はこれまで常に自分の役割を周囲の人の言葉や起きた事件に影響されて決めてきたことが分かります。すなわち直虎はリアクションの人なのです。付記すると、「欲求」以外の面でも直虎は分かりにくい人物です。彼女は基本的にすべての思考過程を何かの出来事のリアクションとして開始するので、何も出来事がない時に何を考えているのかがよく分かりません。従って、彼女が自発的に何か賢げなことを言っているシーンがたまに挟まれると違和感があるのです。

    いくらその他の選択肢が限られていたとはいえ、城主については「自分で選んだ」仕事でありながら、適性で選んだ仕事ではないため、直虎は城主としての自分に自信がありません。それは27話で気賀城築城という業績を成し遂げても、32話で政次に認められても、変わることはありませんでした。32話では「領主を降りてもよい」と語っていますし、36話で井伊をたたむことを決意したのも、気力とともに能力の欠如を痛感していたからでしょう。それは一時的な意欲の減退だったのかもしれません。しかし直虎自身の中に「自分は成り行きで城主の座についてしまった中継ぎであり、知力も経験適性も不足している」という意識があるので、城主という座を石にかじりついてでも守りたいという強固な欲求を持つことがなかったのでしょう。政次を失い、井伊谷城を失い、お家取り潰しにあうというこれ以上ない不運の連続も彼女の自信を奪います。

    しかし我々が見ているのは『おんな城主直虎』というドラマです。最初の出発点がどうであれ、直虎は「主人公の欲求」という物語のエンジンを持つ必要があります。そしてそれは「よりよい城主になりたい」というものであるべきなのです。

    私は直虎は自信はなくとも、それと示さなくとも、心の底では「よりよい城主になりたい」という気持ちをずっと持ってきたのだと思います。自分の業績に少しは手応えも感じていたでしょうし、領民を幸せにするという仕事にやりがいももっていたはずです。

    遅ればせながらですが、今後直虎には「よい城主でありたい」という強い「欲求」を強く前面に押し出すような展開が望まれます。その「欲求」こそが物語を動かす動力ですし、そこにこそ視聴者が感情移入するのです。そしてリアクションではなく、アクションをおこす城主に成長してもらいたいと思います。

    最後に少し希望的な観測を述べておきます。「三幕構成」の話に戻ると、36話は第二幕後半の終盤に位置します。第二幕後半の最初のエピソード28話サブタイトルは「死の帳面」でした。ここに書かれた「井伊直虎」の上の朱の✕印は記憶に新しいところです。デスノートに名前が書かれた人は死ななければなりません。政次も死にました。当然直虎も死ぬ運命なのです。

    36話は寿桂尼の呪いがついに成就した回でした。「直虎」はその翼を折られ、生身の肉体ではなく城主としての精神が殺されてしまいます。直虎が龍雲丸と夫婦約束をして「とわ」と名乗った瞬間は、「直虎」が死んだ瞬間でもあったのです。

    しかし政次=直虎ですから、政次が死んで復活したように、直虎も復活するはずです。この物語は『おんな城主直虎』なのですから、「よい城主であること」が直虎の「主人公の欲求」であるはずです。その核を失っては、もはや物語とは言えません。ですから「直虎」は城主として必ず復活します。そしてその時はきっと「よい城主になりたい」という熱く強い思いを胸にだいて、政次のスピリットと共に一人ですっくと立ち上がるのでしょう。

 

政次~設定の盛りすぎ✕予想を超えた怪演=混乱~

    次に政次です。

    今回全体像を整理してみて、私は政次というキャラクターの重要性を再認識しました。なぜなら政次中心のエピソードが、第二幕というこの物語の「本論」の展開の要所に戦略的に配置されているからです。それらを具体的には第二幕前半の小ミッドポイント(18話)と、第二幕後半の小ミッドポイント(33話)です。

    政次は13~18話では直虎の成長に必要不可欠な敵対勢力の役割を演じ、19話以降では城主としての直虎の相棒・片腕になりました。25話以降は聖霊パワーで離れていても意思疎通ができるほどのシンクロしていた二人、お互いの内部の中にお互いが生きているような感覚だったのかもしれません。そしてそれら全ての関係性の底流には、幼馴染だったおとわと鶴の絆がありました。これは本当に名前のつけられない特別な関係です。

    ドラマでは高橋一生さんの好演もあって、政次に感情移入する視聴者が予想を超えて急増しました。感情移入するキャラクターに、主人公と結ばれて欲しいと思うのは視聴者として当然の願いです。しかしそれが叶えられなかったので、各方面からフラストレーションの声があげられました。

    私はその現象は2つの点、すなわち一つは直虎の人物造形との関連で、もう一つは政次の人物造形との関連で面白いと思いました。

    視聴者が政次にこれほど感情移入したのは、逆に真の主役である直虎に視聴者が感情移入しにくかったということの裏返しです。前述したように直虎は「主人公の欲求」という核を持たないリアクションのキャラクターです。天真爛漫で優しさはあるのかもしれませんが、短慮で、感情的で、何を考えているのか分からない人物でもあります。このような得体の知れない人物が、視聴者がひいきにする政次を袖にし、ぽっと出の素性も知れない男を選び、政次の死の遠因になったその男と結婚するなど、多くの視聴者には納得のいかない展開でしょう。私は主人公の結婚がこれほどまでに冷ややかに受け止められた例を他に知りません。

    もう一つは、作者が政次という人物の造形についてコントロールしきれなかったという点です。政次は設定が複雑な人物です。原作の段階で色々な要素が盛り込まれすぎて、もはや各シーンでその設定のどれがその時の彼の行動の中心動機なのかが分かりにくくなっていました。そして最後のなつへのプロポーズでさらに混乱度が増しました。加えて予想を超えた高橋一生さんの好演、そしておそらくそれに伴う死刑シーンの変更によって、メッセージはさらに混乱したものとなりました。それでも高橋一生さんの演技から、政次の根底には直虎への愛があるということが伝わり、それが彼の「欲求の核」として一貫性があったので、直虎よりは感情移入しやすかったと思います。

    しかし最後まで問題として残ったのは直虎との関係でした。私は作者は政次と直虎の関係をもう少し分かりやすく整理して提示すべきだったと思います。本音を言えば、ここまで設定を盛ったのだから、政次は最後まで直虎を女性としても密かに愛していた、というシンプルな設定のままでよかったと思います。恋愛のストーリーラインを立てるために役割を作為的に龍に振ったから、このような混乱が起きたのです。そうではなく、恋愛のラインをあえてことさら立てずに、直虎は政次を、彼が望むような形と強さで愛し返すことはできなかったけれど、彼の男性としての愛を理解して、受け止めた、というあっさりした形でまとめればよかったのです。

    作者はどういうわけか、幼馴染三人には現世で三人の輪の外に配偶者をあてがいたかったようですので、亀に史実上の配偶者がいるなら、直虎にはオリキャラを、そしておそらく最後に政次になつ、という組み合わせが浮かび上がってきたのではないかと思います。しかしこれは必ずしも必要ではなかったように思います。なぜならこの物語は『おんな城主直虎』です。ある城主が、相棒・片腕、そして自分を愛してくれた同士を失い、一人になって少しの間休息し、そこからまた英気を養って一人で立ち上がる、このシンプルな構成のどこに問題があるのでしょう。

    たらればを言ってもせんないことですが、私は、直虎が周囲の人に支えられながらも究極的には一人で政次の死に向き合い、弔い切ってから次へ向かう展開のほうが、主人公の強さと覚悟が感じられ、視聴者からは静かな共感を得られたのではないかと思います。

 

南渓~井伊谷キングメーカー

    今回の南渓の「キングメーカー」ぶり、なかなかしたたかでした。ただし私は南渓は最初から直虎を見限って虎松に首をすげ替えようとまで計算していたとは思いません。最初に碁石を取り上げたのは、純粋に「重荷を取り除きたい」という伯父として、僧としての慈愛の気持ちからだったと思います。しかし虎松の思わぬ抵抗を見て、考えが変わったのでしょう。そこから先は、「キングメーカー」の本領発揮、虎松に色々言い含めたに違いありません。虎松の不敵な笑顔が全てを物語っていました。

    私は直虎の自立のためには、彼女が南渓を「キングメーカー」の地位から追い落とす必要があると思います。直虎は誰かの思惑に動かされて自分の行動を決める段階をそろそろ脱するべきです。そして彼女こそが次の井伊の「キングメーカー」になるべきなのです。

 

龍雲丸~究極の架空キャラ~

    最後に龍雲丸について少々。今回、物語の全体構造を整理をしながら、龍雲丸は本当に「材木」の物語のアーチのキーパーソンで、井伊の繁栄と悲劇の両方の引き金になる人だと分かりました。そして改めてそのマルチプレーヤーぶりには驚きました。盗賊であり、商人であり、木こりであり、人材派遣会社社長であり、建築士であり、海賊であり、忍びでもあります。このように考えていくと、彼は本来ならば別々の人に当てはめてもよいような役割を集約させた、別の意味での設定盛り合わせのキャラクターだといえます。それはもはや現実味の薄い究極の架空キャラ、すなわち文字通りの「オリジナル・キャラクター」なのです。龍雲丸は多面性と矛盾を抱えつつも何らかの一貫性を持とうとするアイデンティティのある人物というより、むしろ直虎に本来ならば別々の人が別々の段階で与えたかもしれない様々な影響を一人で与える使命を課された役割の集合体です。

    そのように考えると、直虎との結婚も、もしかしたら井伊取り潰しから武田襲来までの空白期間、直虎にあったかもしれない一市井の女性としての生活を象徴する役割の一つのようなものだとも考えられます。

    私が龍が究極的には不要なキャラだと考えるのはこのあたりに理由があります。すなわち恋愛面ではその設定自体必要なかったと思えますし、その他については役割別に別のキャラがいたとしても問題なかったからです。

    ただこのように考えると、あの井戸での事故もそんなに深刻に捉える必要もないように思えて、少しは気が晴れるような気もします。

 

おわりに

    今回も長くなりました。直虎には早く龍の話に区切りをつけて、本来の仕事である城主に戻って欲しいものです。そして、今度こそは、リアクションではなく、アクションを!

 

『おんな城主直虎』35話「蘇りし者たち」~医療と宗教、そして聖霊の働きについて~

    35話では様々な復活譚が語られました。龍雲丸、近藤、方久、政次、氏真、直虎。そのどれもが考察に値しますが、このエントリでは特に近藤と方久、そして政次の復活について考察したいと思います。前者は医療と宗教の関わり、後者は「政次とイエス」というモチーフの進展という意味で、私にとって興味深かったからです。

 

 近藤と方久の復活と医療~罪の許し、セカンドチャンス~

 近藤は徳川方について参戦し、足を負傷して瀕死の重傷を負います。そしてやむにやまれず龍潭寺の僧に医療的ケアを求めます。このドラマにおいて龍潭寺昊天は早くから薬の知識に明るいことが言及されてきましたし、桶狭間の時も龍潭寺の僧が治療に参加している様子が描かれました。しかし今話ではそれを一歩進めて、昊天が西国で医療を体系的に学んできた人間であり、龍潭寺の医療技術の水準が近藤の軍のそれを上回る高いものであることが初めて明らかにされました。

 中世までの日本において医療を支えてきたのは僧侶であったと言われています。医学を学ぶには基礎学力が必要ですが、それを備えていたのは僧侶だったからです。南渓が昊天に医学を学ばせたというのは興味深い事実です。それは龍潭寺が井伊の菩提寺であったことと関係しているに違いありません。

 井伊は国衆として多くの戦を戦ってきました。戦争に必要なのは医療です。戦時において井伊を医療的に守るという意味で、医学の心得のある昊天の存在の意義は大きかったことでしょう。医療的バックアップがある軍は戦士の士気も高いですし、回復が早ければ軍事力も増大し、一緒に参戦すれば従軍医師の役割も果たしてもらえます。

    今話では戦争と医療が大きなテーマとしてクローズアップされました。それを具体的に示したのが龍雲丸、近藤、方久のエピソードでした。

 このうち私は特に近藤のエピソードが面白いと思いました。近藤は足に重傷を負っています。そこへ直虎がやってきて、その足の治療をします。史実によると近藤は負傷のため歩行困難だったということですが、その事実をここで生かして、直虎に足の治療をさせる場面を入れた展開は興味深いと思います。治療をするためには、まず傷を洗わなければなりません。龍雲丸の治療のシーンでもまず傷を洗うプロセスが最初に描かれました。ノベライズでも直虎は湯と布を持ってくるように指示しています。

 直虎が近藤の足を洗う。これは何を意味するのでしょうか。

 近藤の家臣に協力を要請されて、直虎は当初それを拒みました。しかし龍雲丸に「より大きな恩を売れる」と言われ、しぶしぶ井伊谷城にやってきます。政次を磔にした人物が重傷を負っている光景を前に恨みと同時に憐憫を感じ、この男も戦の犠牲者であることに思いを至らせます。

 敵に医術を施すというのは、敵を赦すという行為です。『聖書』の有名な「山上の垂訓」を引き合いに出すまでもないでしょう。

 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。(『ルカによる福音書』6章)

 特に足を洗うという行為からは、イエスが最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗ったことが連想されます。

それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。(中略)イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。(『ヨハネによる福音書』13章)

足を洗うということは罪よって汚れた人間の心を清めることの象徴です。すなわち罪を犯した人間を咎めるのではなく、赦すということです。裏切り者とはイスカリオテのユダのことですが、ここでイエスは裏切りを行おうとしていた罪人ユダの罪すらも彼の足を洗うことによって清めようとしているのです。

 このブログでは近藤がイスカリオテのユダの役割を担った人物であると仮定しています。近藤とその家臣は直虎が自分に恨みを持っていることを自覚しています。近藤の家臣が助け求めて来た際のこわばった表情からも、近藤自身が直虎が刃を持っているのを見て恐怖していることからもそれが分かります。政次を殺したことによって近藤は罪のない人を貶しいれるという罪を犯してしまい、それを彼自身が自覚しているのです。

    直虎が近藤の足を洗ったということは、すなわち直虎が近藤の罪を許し、その汚れを取り除いたということです。罪を許された人は、罪を犯さなかった人以上に与えられた愛の重みを感じます。

 物理的に傷を治したということにも大きな意味があります。原始キリスト教において、生前はイエス、イエスの復活後は弟子が行った病気の治療は布教の大きな鍵でした。イエスはラザロを始めとした幾人かの人々を死から蘇らせ、また多くの不治の病を治しました。この世に病気を治療してもらうこと以上の分かりやすい奇跡はそうありません。

    おそらく近藤と近藤の家臣にとって「罪を許された」という意識と「ケガを治してもらった」という事実は今後大きな意味を持ってくるのではないでしょうか。

 方久にとっても医療との出会いは彼の人生の再スタートのきっかけになりました。昊天の仕事ぶりを注意深く観察していた方久は、戦争と医療の関係を鋭く見抜きます。そして戦には武器や兵士だけではなく、それを治す医療や薬の存在が大きいことに気が付きます。戦で武器が売れるということは、同時に薬も売れるということなのです。そこに気がついた彼は、なんと出家して医療を学ぶことを決意します。

 戦争で儲かるという意味では武器も薬も変わりないのかもしれませんが、薬や医療は平時にも需要があります。そして誰もがいつ何時でも必要とするものなのです。戦で無一文になり、関わった多くの人を亡くした方久にとって、「殺すのではなく、生かす」医療にビジネスチャンスを見出せたことは幸いでした。

 私は個人的にはこの方久の観察眼には学ぶことが多いと思いました。昊天はずっと医療を行っていて、方久もそれをずっと眺めていたはずですが、今までそれにビジネスチャンスを見出すことはできませんでした。そのつもりで見ていなかったからです。きちんと見て観察すること、見ている対象についてよく考えること、タイミングが合って、その対象に興味が向いていること、これらが新たな人生の展開を切り開くアイデアを得るための必要条件なのですね。

 

 政次の復活と聖霊の働き

 今話では政次の復活も始まりました。政次の復活とは、もちろん彼の魂の復活のことです。キリスト教の世界では、「復活」において重要な役割を果たすのは聖霊の働きです。この項では政次の復活について、聖霊の働きのアナロジーという視点から整理してみたいと思います。

 聖霊とは、三位一体(父・子・聖霊)の第三位格であり、信徒に働きかけ力を与えて支え導き、神の業を遂行するものです。少し分かりにくいかもしれませんし、聖霊の人格性に異議を唱える宗派もありますが、ここでは大まかに人の間を漂うパワーという程度に捉えておきたいと思います。そして聖霊はよく活力、息、指、手の動きとして表現されます。

 ドラマでは龍雲丸が直虎に髪を拭いてもらいながら(!)、政次の働きの結果について「井伊は大して負けていない」という言葉で表そうとしました。しかしそれについて深める前に之の字が川名からの書状を携えてやってきました。

 そこには二つの重要なことが書かれていました。一つは亥之助と直久の囲碁の勝負について、もう一つは川名の人々が農業や家事を手がけて共同生活を始め、但馬の話題も出るようになったということについてです。

 

囲碁による継承と政次スピリット

 まず亥之助と直久の囲碁の話について見ていきます。手紙には亥之助と直久が石ころを集めて囲碁をするようになり、彼らの手筋が二人とも但馬そのものである、すなわち但馬の考え方が若い世代に引き継がれているということが書かれてありました。

 囲碁はもともと直虎が、人が奪わず、奪われずに生きていけるために井伊谷に教育を普及させる必要を感じた時に、「考える力がつくから」と政次に依頼して子どもたちに教えさせたものでした。彼らが囲碁を通じてつけた力には、「どこで間違ったのか」を辿る力、すなわち現代風に言えば「論理的に考える」力、物事を大局的に見る力、集中力、相手の意図を読む力などがあります。政次は自分の持てるこうした力を、まるで息吹を吹き込むように若い彼らの中に注ぎ込んでいったのです。

 亥之助と直久は誰にいわれるでもなく、自ら創意工夫し、手作り囲碁セットを作ってまで碁を再開しようとしました。そうした彼らの意思や活力の中に、そしてもちろん彼らの手筋そのものの中に、政次の魂が息づいています。

    思えば直虎も政次との数え切れない対戦を通じて、彼がどのような意思や意図を持っているかを考えに考え抜いて、ついに離れていても彼の意図が分かるようになりました。私は今話の囲碁シーンを見て、直虎と政次の「エア碁」に関する長らくの疑問が半分解けたような気がしました。あれはすなわち、(井伊谷的な世界観における)聖霊が二人の間を動き回り、パワーを送り合っていたのではないかと。聖霊がよく手の動きとして表現されることを考えれば、二人の囲碁シーンで政次の手があれほどクローズアップして描かれたのも、このためだったのかと今では思えます。

 井伊谷における囲碁を通じた継承が(井伊谷的な)聖霊の業だとすると(もちろん厳密な意味でのキリスト教的な聖霊とは違います)、囲碁によって政次の魂が若い二人にも引き継がれているという描写には納得がいきます。囲碁井伊谷スピリット継承の手段であり象徴なのですね。

 

川名の共同体のオプティミズム

 手紙で語られたもう一つの場面は川名での自給自足の共同生活についてでした。この光景を見て、私は『使徒行伝』の冒頭部分を思い出さずにはいられませんでした。

 イエスの復活と昇天後、エルサレムには各地から集まった信者が共同生活を送り、復活の興奮冷めやらぬまま、生き生きと共同生活を送っていました。人々はそれぞれ違った言葉を話していましたが、五旬祭の日に聖霊が降りてきて、皆が自分が知らない言語で神の証をし始めます。その様子を傍から見た人は「新しいぶどう酒に酔っているようだ」と評しました。

 新しい共同生活に活路を見出し、「但馬のモノマネ」に興じる人々の和やかな様子を見て、私はこの「昇天」後のキリスト教原始コミュニティのオプティミズムを連想しました。ここにも政次のスピリットが降りてきて、人々に活力と明るいムードをもたらしたのではないでしょうか。この共同体は、その後に来る様々な困難によっていずれは初期の楽観性を失い試練の時を迎えるのですが、それはまだ先の話になるのでしょう。

 最後に一つ、なつさんが魚を焼いていたシーンも印象的でした。当初、魚を焼くという行為には違和感がありました。川名は隠し「里」というくらいですから、山奥にあるのでしょう。川も近くにあるのかもしれませんが、水の恵みが豊富であるという印象はありませんでした。そこでなぜわざわざ焼き魚なのか。その違和感から始まって、考えているうちに『聖書』の次の一節を思い出しました。

彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(『ヨハネによる福音書』21章)

 復活したイエスは弟子たちの前に姿を現し、食べ物を所望します。それに応えて弟子が焼き魚を差し出し、イエスがそれを食べる、そんな様子が幾分ユーモラスに描かれています。少し前に十字架刑の処され、世にも悲惨な死を遂げたばかりのイエス。そんな彼が復活して、弟子の間をウロウロと動き回っている様子は場違いなほどに牧歌的で、なんだかほっとするような雰囲気すらあります。

 もしかしたらなつさんも同じように、政次が好きだったかもしれない焼き魚を焼き、皆にふるまうと同時に政次にも供えたのでは、と想像して、少し楽しい気持ちになりました。

 さて、今話についての私の感想は以上です。今話の復活の物語的な焦点は直虎と龍雲丸の関係にあてられているのだと思いますが、今のところtwitterに部分的につぶやいたこと以上の感想はありません(私があまり龍雲丸に関心がない、ということが原因かもしれませんが…)*1。もしも36話の放映までに何か気がついたら補足するかもしれませんが、そうでなければ政次の次の復活を楽しみに次回を待ちたいと思います*2。

 

*1 ”政次とは対照的に虎とのスキンシップが描かれてきた龍。政次とは魂は近くとも身体は共にいられない。龍とは思想も境遇も違うが身体は近くにある。サバイバーズ・ギルトを共有する二人、手を重ねて生きている互いの体温を確認し合う。残された者は体を寄せ合い立ち上がるしかないのか。” (2017/09/03 twitter投稿)

*2聖霊についてはtwitterでのお友だちであるkontaさんとの会話からヒントを得ました。Many thanks!

『おんな城主直虎』34話~政次とイエス②二つの破壊とその予言~

【今後の史実に言及します。ご注意を】

  

34話の『聖書』アナロジー

 34話感想は一つにまとめるはずでしたが、「政次とイエス」シリーズで思いついたことがあったので、備忘録的にまとめておきます。

 「政次の死はイエスの死のアナロジーで語られる」というのが私のこのブログにおける中心仮説の一つです。31~33話が「受難」だとすれば、34話以降には「復活」編が来るはずですが、それはまだ先のことのようです。しかし死の直後の34話に後日譚のアナロジーがまったくないのも何か変だと思っていました。

 そこで思いついたのが、今回の話の特に気賀のパートはイエスの死の直後(復活の前)に起こる、ある「破壊」のアナロジーなのではないかということです。その「破壊」は来るべきもっと大きな本当の「破壊」序曲のような事件でした。

 『直虎』において、第三期の最大の山場は武田軍による井伊谷焼き尽くしです。そこからの復活と、政次の「復活」には何らかの関わりがあると考えてよいのではないでしょうか。もちろん「復活」というのは体の蘇りではなく、魂の蘇りのことです。

 武田軍の侵略がその大きな破壊(『聖書』ではその部分は実際には描かれませんが)だとすると、予兆としてのその「破壊」こそが気賀での虐殺に相当するように思われます。

 

第一の破壊 ~気賀~

 それではまず、イエスが自分の死後の世界についてどのようなことを予言したか整理してみましょう。ここでは『マタイによる福音書』を参照します。

 イエスエルサレム入城後、ユダヤ教の神殿で、その建物の崩壊を予言します。

エスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。(マタイ24)

そして十字架の上で息を引き取った直後、次のようなことが起こります。

エスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。(マタイ27)

 イエスの死後、地震が起こり、予言にあった神殿の破壊が部分的に行われます。「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」のくだりは、35話で展開されるであろう、瀕死の龍雲丸が生き返る様子に重なっていくような気がします。

    しかしこのことはあくまで迫りくる本当の破壊の前触れでしかありません。

 

第二の破壊「大きな苦難」~武田侵略~

 この「本当の破壊」について、イエスは生前次のように予言しています。

預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。(中略)そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。(マタイ24)

 「憎むべき破壊者」とは武田信玄、「山」とは隠し里に相当するのではないでしょうか。武田が攻めてきて、かつてないほどの略奪と虐殺が起きるが、希望を失うな、そこに「人の子」が来て、ユダヤ(=井伊谷)は蘇る、というメッセージです。

 ここで示唆的なのは「神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」というくだりです。

 ドラマがどのような展開になるかは予想できませんが、史実では武田は1572年秋に井伊谷を攻め、井伊谷城を奪います。しかし1573年4月に信玄が病に倒れて撤退したため、井伊は再び井伊谷城を取り戻したとされています。この信玄の病による「時間切れ」で一命を取り留めるあたり、「期間を縮める」という予言にぴたりとあてはまるの気がします。

 これからの展開を勝手に予測すると

 34話 政次(=イエス)の死の直後、復活前、神殿の破壊(=気賀)

 35話~ 死者の蘇り→政次(=イエス)の魂の復活

 ~38話くらいまで 武田の侵攻=予言された「大きな苦難」→人の子の到来

  というふうに話が進んでいくのではないかと思います(完全な妄想ですので、そうならなかったらすみません)。政次がいつどのような形で「復活」するのか、今からとても楽しみです。

『おんな城主直虎』34話 二つの悲劇の交差点~直虎はなぜ<政次の死>を悼まないのか~

二つの悲劇

    34話では、政次を失った後の直虎の悲しみと、気賀における民の殺戮という、静と動、個人と集団の二つの悲劇が同時並行に語られました。二つの悲劇は最後の直虎の幻想で交差し、来週の動きへとつながる予兆で話は終わります。

    この二つの筋には、相互に関連性がないわけではありませんが、それぞれ独自の意味や役割があります。そのためそれぞれを別々の観点から論じる必要があると思います。本エントリでは、まず気賀に何が起こったか、次に直虎の心に何が起こったかについて考察します。最後にこの二つが出会う地点についても少し触れておきたいと思います。

 

1.  気賀で何が起こったか

 今回、主人公である直虎は気賀で起こる歴史上の事件に直接的には関わりません。政次の死の衝撃で心身が正常に機能しておらず、気賀の動きに目を配ることができなかったからです。通常の直虎ならば、縁のある気賀の危機を黙って見過ごすようなことはしなかったでしょう。身の危険も顧みず、とりあえず気賀に飛んで行っていたに違いありません。しかし今回の直虎には、あえてそれができないような設定上の足かせがはめられています。この脚本が、直虎が気賀に直接関わることができないような客観的な状況(心神喪失で機能停止)をあえて作り出したのだと考えるのが自然ではないでしょうか。

    なぜそのようにしたのかというと、第一に、直虎を気賀に関わらせないことを通じて、井伊と気賀の状況を対比させるため、第二に、政次の死と気賀の悲劇の時系列をあえて逆にすることで、直虎がまず政次の死を経験し、その後に気賀の悲劇に対応するという順序にしたかったためではないかと思います。

 まず井伊と気賀の対比について考えてみます。私はこのドラマが、小野但馬による井伊谷城乗っ取り、徳川の侵攻、堀川城の虐殺、小野但馬の処刑をどのように関連させて描くのか、以前から興味を持っていました。史実では、小野但馬は井伊谷三人衆に井伊城を追われた後、しばらく近くに隠れていましたが、おりから堀川攻めにやってきた徳川勢に見つかり、捉えられ、堀川城虐殺の後に処刑されます。小野但馬の井伊谷城を乗っ取りが1568年11月、井伊谷三人衆の襲撃が同年12月13日、堀川城の悲劇が翌1569年3月27日、小野但馬処刑が同年4月7日ですから、実際の小野但馬は井伊谷城を追われたあと、堀川の虐殺を横目で見つつ、5ヶ月近くも生き延びたことになります。城を追われてコソコソ隠れた挙句、捕まって処刑。これでは単なる逃亡犯ですから、これをそのままドラマに描いては、政次の死にヒロイズムや正当性を見出すことは難しかったでしょう。

 この難題を解決するために、ドラマは大胆に政次の処刑を12月13日の井伊谷三人衆の襲撃のすぐ後に設定しました。そうすることで、徳川の遠州侵攻の流れを、前期(12月の井伊谷編)と後期(3月の気賀編)分け、それを対比させて描くことができたのです。すなわち①「政次の死で救われる井伊谷」と「方久の遁走で滅ぼされる気賀」の対比、②「名前の残る一人の死」と「名前の残らない多数の死」の対比です。

    ①の対比とはどのようなものだったのでしょうか。33話で政次は、牢から逃亡する意志がないことを龍雲丸に告げた際、次のように述べました。

「殿や俺は逃げればよいかもしれぬ。しかし恨みが晴れなければ、隠し里や寺、虎松様、民百姓、何をどうされるか分からぬ。そして、井伊にはそれを守りきれるだけの兵はおらぬ。俺一人の首で済ますのが最も血が流れぬ。」

政次は「恨みが晴れなければ」という一点にこだわり、禍根の根本を正確に見定めて、それを断ったのです。

  今回の徳川勢による気賀攻めは、前回の井伊谷襲撃と構造的に非常に似通っていました。どちらもリーダーは直接決断せず、実働部隊が独断で鉄の制裁を加えるのです。徳川家康は気賀の民を救うという温情策を示しましたが、実行部隊である酒井忠次は大沢が容易い相手ではないと見定め、「見せしめ」が必要だと考えました。井伊での見せしめは城主たる「政次の首」でしたが、城主が逃げてしまった気賀での見せしめは無実の「民の命」です。

 あえて似たような構造のエピソードを続けて見せることで、この二つの事件が似たような経緯からスタートしたにも関わらず、結果は大きく異なってしまったことを対比的に示します。その違いとは、その地を命に代えても守ろうとするリーダーの働きがあったかなかったかでした。

 井伊の場合は、南渓和尚が近藤に「これ以上のお咎めなし」という言質を取ったことで、近藤の恨みが晴れ、城をとった近藤は目的が達せられたことがはっきりしました。それは政次の死が「一つの命で多数の命を救い、将来の禍根の根をも断つ」ものであったことの証左でした。

 しかし気賀の場合、商人である方九も中村屋も気賀の地に代々の封建領主ほどの思い入れはありません。自分の命が危うければ逃げますし、何よりも実利が優先です。逃げられる手段をもった人はよいでしょう。しかしそれを持たない民はなぶり殺しにあうしかないのです。政次が「俺や殿は逃げればよいかもしれぬ」と言ったことの重みが改めて思い起こされます。

 しかしこのドラマは決して武士の論理を称賛しているわけではありません。むしろ②の対比において描かれる「名前の残らない多数の死」こそが、このドラマが描きたい「戦」の姿なのです。大多数の無名の民にとっては、戦とは、大義名分などとは無関係で、厄災のように巻き込まれ、意味なく死んでいくようなものなのです。

 気賀(堀川城)の戦いは、「士郷や農民が今川方について徳川方に抵抗した一揆」であるとする解釈が一般的ですが、このドラマでは農民は今川方に無理やり駆り出され、閉じ込められたという解釈をとりました。たしかに武士とは本来利害が一致しない末端の農民までが、支配されていた今川方に自発的につき従って武装・徹底抗戦するとは考えにくいと思います。ここでは龍雲党を含めた民は今川にも徳川にも利用され、裏切られ、見殺しにされた存在として描かれます。

    中世までの武士同士の戦は、名乗りをあげ、対戦する相手が誰かが分かったうえで、お互いの名誉をかけて争います。しかし近代の戦争は殺傷の力の高い武器による大量虐殺が主流です。そこでは名乗りもなければ名誉もない、死に意味など見出しようもありません。

 気賀の民は、まるでこうした近代戦に駆り出された無名戦士のようでした。徳川勢は大量破壊兵器こそ持っていませんが、農民は非武装、戦力の差は圧倒的です。

    無名戦士(市民)の死に私たちが感情移入するためには、私たちがその市民のストーリーを個人的に知っていなければなりません。「よく知っている市民」の役割を果たしたのがここでは龍雲党のメンバーでした。私たちが彼らの死を酷いと感じるのは、私たちが彼らの性格、歴史、願いなどを多少なりともこれまで見てきたからでしょう。統計が物語になるのはこのような瞬間です。

    気賀城の悲劇は、こうした理由から井伊谷と対比され、<リーダーの欠如>と<大国に踏みにじられる民の悲劇性>が強調して描かれました。直虎はその大半に関わることができませんでしたが、もはや裾を踏んで止めてくれる政次もいないなか、虐殺に加担も巻き込まれもしなかったことは彼女にとっては幸いでした。しかし主人公はいつまでも歴史の流れに無関係に立ち止まっているわけにはいきません。直虎と気賀が筋がクロスする地点が、あの劇的な夢の中の龍雲丸の刺殺のシーンなのです。

 

2.直虎に何が起こったか

 直虎は政次を「槍」で「突き殺し」たあと、一時的で選択的な記憶喪失になります。その後「政次の辞世」をきっかけに「正気に戻り」、直後に龍雲丸を「槍で突き殺す」という夢を見ます。

 この一連の出来事には「槍(武器)」「殺し」「否認」「夢」などといった精神分析学的なキーワードがちりばめられています。私は最初それらをなるべく見ないようにして、できれば「実際に起こったこと」のレベルだけで考察したいと思っていました。しかしその試みはあまりうまくいきませんでした。なぜならそのアプローチでは「なぜ夢の中で龍雲丸を突き殺したか」が理解できなかったからです。今話は本来ならきちんと精神分析学的に批評することが適切なのだろうと思います。できればジジェクにでも語ってもらい、私もぜひそれを聞いてみたいところです。しかしそうもいきませんので、及ばずながら見よう見まねでそれに近いことに終盤で少しだけトライしてみたいと思います。

    まず34話の直虎パートにおける、私にとっての最大の疑問を最初に述べておきます。前述した「なぜ夢の中で龍雲丸を突き殺したか」はもちろん大きな疑問なのですが、それに端を発して考えたあげく、最終的に最も疑問に思ったのは「なぜ直虎は<政次の死>を悼まないのか」ということでした。

    このように書くと「何を言っているのか、直虎は34話でずっと政次の死を悼んでいたではないか」と反論されるかもしれません。しかし本当にそうでしょうか。注意深く見てみると、直虎は前半では政次の死を「忘れて」います。そしてそれを思い出した後は、主として<人を殺した自分>に恐怖しているのです。政次の追悼はまだ本格的に始まってすらいません。

    これについての私の暫定的な結論も最初に書いておきます。脚本家は、当初の予定では直虎が<政次の死>に向き合う様子を34話で部分的にでも書こうとしたのだと思います。しかし33話のラストを変更したため、ドラマ内の直虎の心はより複雑で引き裂かれた、整合性を欠いたものになってしまいました。そしてその矛盾をそのままにしたままで、変更前の設定を引き継いで34話を描きました。その結果、直虎はまず悼むべき<政次の死>を悼んでいないような印象を与えてしまったのではないかと思います。

    こうしたことについて詳しく説明するため、この項では、直虎について①実際に何が起こったのか(ドラマ、ノベライズ)、②直虎の精神世界という二つのレベルで整理してみたいと思います。そのために今回はノベライズ3巻の32~34話を参考にします(私はノベライズ未読派ですが、これを書くために諦めて最近32~34話を読みました。35話は未読です)。なぜなら、ノベライズには脚本家が当初考えていた展開が描かれていると推測されるので、それとドラマの違いを分析することで、「あるべきだった展開」と「実際の展開」の齟齬が明確になるからです。

①-1 ドラマでは実際に何が起きたか

 直虎は政次を槍で突き殺したあと龍潭寺に戻り、その後ひたすら一人で碁をうちます。あまりにも辛い記憶から自分を守るために解離性の健忘になっているようです。やがて時がたち、直虎の白い頭巾の血のシミも消えた頃に、政次の辞世をきっかけに政次の死を理解します。その後、寝付けずに、震えながら自分の手を見つめて恐怖するシーンが描かれます。そして最後に龍雲丸を槍で突く夢を見るのです。

 直虎は政次殺害後に錯乱状態に陥りますが、ドラマでは彼女をそこへ追いやった原因は二つ考えられます。一つは<政次の死>の衝撃、もう一つは<人を殺した自分>への衝撃です。錯乱の世界の迷い込んでしまった直虎は、実はそのどちらについてもきちんと受け入れて向き合うことができませんでした。そして長い間、すなわち政次死亡の直後(12月半ば)から気賀の悲劇の直前(3月中旬)くらいまでその錯乱状態は続きました。ようやく錯乱から覚めた瞬間、彼女は二つの重たすぎる現実に直面します。二つを同時に処理できない直虎の意識は、ます<人を殺した自分>への恐怖や嫌悪感の方に集中したように見えました。ここで直虎が考えているのは主として<自分>のことです。

    ここで鍵となるセリフは

「ああ、もう但馬はおらぬのですね。私が…。」

 この「私が…」は当然ながらノベライズにはないセリフです。そしてドラマの直虎は明らかに恐怖に震えています。この短いセリフが、その後の直虎の意識の優先順位が何なのかをはっきり示しています。

 もちろん<人を殺した自分>と和解するのは困難なことです。34話の冒頭は処刑シーンから始まりますが、短縮された編集の効果によって場面がより直虎視点で再現され、ぐさりと人体を刺す手ごたえや、目の前で殺めた人が死んでいくという恐怖が生々しく伝わってきました。私も思わず直虎視点で見てしまい、あたかも自分が政次を殺しているような感覚を追体験してショックを受けました。やりたくない殺人を犯してしまった事実に夜も眠れないほどの衝撃を受け、自分を責めてしまうのは無理からぬことです。

 しかしこの<人を殺した>ことへの罪悪感や恐怖が、直虎の<政次の死>への反応を覆い隠してしまっていることもまた事実です。なぜこのようなことが起こってしまったのでしょうか。それは前述したように、ノベライズから処刑シーンを変更したからです。ドラマでは直虎の錯乱の原因が<政次の死>と<人を殺した自分>に分散し、そのため一つ一つの要素の質量が半減してしまいました。加えて錯乱から覚めた後の感情が<人を殺した自分>への恐怖に見えるような演出だったため、その後の龍の描写とあいまって、<政次の死>への対処を後回しにしているような印象を与えたのです。

 私を含めたある程度の数の視聴者はおそらく、政次の死を悼む直虎を見たかったのだと思います。最初は否認したとしても、次には政次のことを考えると期待していました。しかし期待を裏切って直虎は龍雲丸の夢を見たので、政次よりも龍を優先しているような違和感を覚えたのです。

 <政次の死>を悼む場面は今後きっといつか描かれることでしょう。しかしそれはおそらく龍雲丸を助けた後のことで、大切な人を亡くした者同士で支え合いながら喪の苦しみを乗り越えていくというような展開のなかで行われるのでしょう。

 しかしそれは私たちが見たかったシーンではないのではないでしょうか。私たちは直虎が政次との純粋な二者関係の中で、ようやく直接に向き合って本音をさらけ出すようなシーンを期待していたはずです。34話のように直虎が歴史の動きに関わらない内省的な回はそう多くありません。このような絶好の機会に、直虎はその半分以上を政次の死を忘れて過ごし、終盤は自分と龍雲丸のことを考えて過ごしました。できれば34話のなかで、悲しみの深さを純粋に政次との内的な二者関係で表す場面がほしかったところです。

 

①-2 ノベライズでは何が起きたか

    直虎の意識が<政次の死>から離れたように見える原因は、人を殺すというあまりに重たい業を直虎が負ってしまったからです。ノベライズでは直虎は政次の死を納得も受け入れもしませんでした。ですから刑場にも行かず、処刑の場面も見ていません。死んだのだろうと心のどこかで気づいてはいましたが、それを意識的に認めようとはしませんでした。

    ノベライズの34話は、直虎の否認の描写から始まります。殺人をしていませんので、直虎が錯乱する原因は純粋に<政次の死>だけです。もしかしたら自分が原因となって政次が死んでしまった、すなわち「政次を見殺しにした」という罪悪感はあったかもしれませんが、いずれにせよ人を直接的に殺めるという行為に対する恐怖とは向き合う必要はありません。したがってノベライズの直虎はドラマの直虎よりも純粋に<政次の死>そのものに対峙している印象があります。龍雲丸をして「直虎の中で、政次はそれほど大きな存在だったのだ」と思わしめているほどです。ノベライズでも直虎の政次への気持ちの内容は語られませんが、その質量はドラマよりもずっと重く感じられ、得も言われぬ静かな悲劇性を醸し出しています。

    この展開であれば、少なくとも直虎の錯乱の原因は<政次の死>に確定されるため、錯乱という事実それ自体が直虎にとっての政次の重要性の何よりの証左になっています。ですからたとえ今話で政次に直虎が直接語りかけなくても、直虎と政次の二者関係の深さはより際立って感じることができます。

② それでもなお分からない「龍を殺す夢」~直虎の精神世界~

    さて、それではノベライズの展開であればすべてはすっきりと片付くのでしょうか。答えは否です。なぜならノベライズでもドラマでも夢の中の龍の刺殺は描かれるからです。この夢はどのように解釈すればよいのでしょうか。

    一つの明白に思える説明は、気賀のシーンに直虎を絡めるために、ここで直虎に予知夢を見させておくとうまく話がつながるからというものです。

    しかしそれはあまりにご都合主義というものです。実際にドラマを見た視聴者の中にも、この突然の龍雲丸の挿入に違和感を持たれた方も多かったはずです。政次のことをまだきちんと考えていないのに、なぜ龍雲丸にいってしまうのかと。

    もう一つの可能性は、大切な人を殺してしまった恐怖心から、自分がまた別の大切な人を殺してしまうのではないかと恐れた、というものです。

    それはあり得る話かもしれません。しかしこの設定では、政次の存在感はより薄くなってしまいます。直虎は<自分>にフォーカスするあまり、政次の死を飛ばして、すでに次の自分にとって意味ある人の死に意識が移っています。

    このように、二つの仮説はどちらも、これまでの緻密な物語構成や、この物語における政次の重要性を考えた時に、違和感が残ります。

    これについては、前述したように「実際に起こった出来事」のレベルでは理解できないので、「直虎の精神世界」に着目して、もう一度ストーリーを再構成してみたいと思います。

    直虎が、政次の辞世を読んで「正気に返る」シーンを見て、私は映画『マトリックス』(1999年)を思い出しました。主人公のネオは虚構の世界に生きていることに気づかずに生活していますが、ある日「現実世界」からやってきたモーフィアスからもらった「赤いピル」を飲むことで、自分が今まで虚構の世界に住んでいたこと、そして「現実世界」が別に存在することを知るのです。

    このマトリックスの二つの界について、ラカン派の考え方ではマトリックスは「想像界」、現実世界は「現実界」であるという解釈があります。ちなみに覚醒したネオが行き着く世界は「象徴界」、ここでは想像界がコードに見えたり、ピストルの玉が遅く感じたりするのです。

    『直虎』ではモーフィアスの役割は鈴木殿が、「赤いピル」の役割は政次の「辞世の歌」が果たします。直虎は<政次の死>という衝撃を受けて、現実界から想像界へ逃げ込んでしまい、そこで偽の日常を生きていました。想像界は自分の都合の良いようにコントロールもできる世界です。そこから、コントロールが効かない泥沼のような現実界に引き戻されてしまうのです。

    直虎はとはどのような女性でしょうか。彼女は女性ですが、母でも妻でもありません。社会的には、男性が担っているリーダーという役割を、ある意味ではやむをえず、しかし別の意味では自ら進んで引き受けている女性です。大雑把に言って、ラカン的な考え方(だと浅学な私が理解しているもの)では男性とはファルス、すなわち象徴的なペニスを持つ存在ですから、直虎は自分にはないファルスを得て象徴界(言語を用いる場所、例えば政治など)に参加したい女だと考えることができます。ファルスは象徴的で実態を伴わないものですから、たとえば<ファルス=知的能力>と置き換えることもできます。

    政次との関係において、直虎は自分にはないファルスを彼に求めていたのです。この場合、まさに<ファルス=知的能力>であったと私は考えます。直虎はよい城主になるために、象徴界での成功を切望していました。そして目の前には自分よりも知的能力が高い男がライバルとして屹立していたのです。

    錯乱中の直虎が「策なしでは政次に笑われる」とつぶやいたことは示唆的です。私にはこのセリフに二人の関係のエッセンスが凝縮しているように思えてなりません。

    しかしノベライズの展開では、直虎は結局政次のファルスを完全には手に入れることはできませんでした。そうする前に政次が突然この世から退場することを勝手に決めてしまったからです。ファルスへの欲望が充足されないまま残された直虎は、当然納得がいきませんし、それを受け入れることもできません。残された欲望は行き場をなくします。

    それに対してドラマの直虎は、政次の死が逃れられないものと納得し、自ら政次を殺害することを決意します。ここでは直虎は政次のファルスをただ欲しがる受け身の女ではなく、自分自身が槍という武器を持ったファリック・ウーマンです。もちろんこの文脈では<槍=ファルス>です。直虎は槍というファルスで政次を突き殺しますが、そのことで自分が貫通する側の主体になり、政次を完全に所有してしまいます。直虎の欲望は形式的には一応は(一時的にでも)満たされたわけですから、ここには象徴的な意味での喪失はありません。ということは、前項でも述べたように、ドラマ版で直虎が本当に向き合っている課題はむしろ<人を殺した自分>の方であるということになります。

    次に「龍雲丸刺殺」について考えてみます。政次のファルスは直虎が直虎であるために彼女が最も必要とするものでした。ノベライズで直虎はファルス入手失敗に伴う焦燥感や喪失感、恨み、不安などを感じて心が消耗していました。直虎はもう二度と欲望の対象を失いたくありません。政次の死に関われなかった直虎は、政次のファルスの代替である龍雲丸のファルスこそはきちんと所有したいのです。その欲望の強さが、彼女をして夢の中で龍を殺すという完全なる所有のシミュレーションをさせてしまいました。なぜなら殺人とは完全な所有のメタファーだからです。

    一方、ドラマ版の直虎にはファルス入手の失敗という苦い経験はありません。ですからあの時点で唐突に龍のファルスを取りに行くという攻撃性を見せる理由が見当たりません。したがって、精神世界に着目したとしても、やはり直虎の夢は解釈が非常に困難です。したがって「ドラマ版の直虎なら、あの夢は見ないのではないか」というのが私のささやかなる結論です。

    さて、私の意見や願いがどうであろうと、実際のドラマでは「龍の刺殺」で二つの悲劇が交差し、ここから直虎は現実の世界での奮闘を再開します。そしておそらく前述したような龍との交流の中から、立ち直りのヒントを得ていくのでしょう。

    33話のラストは確かにドラマ史に残る名場面でした。そして私が今回不完全ながらも行った精神世界の考察においても、あれは直虎による政次の完全なる所有(という概念そのものが幻想だというのがオチではあるのですが)以外の何ものでもないと思います。

    ただし、その完璧さのおかげで、34話に直虎が<政次の死>そのもの感じるシーンが犠牲になってしまったように感じられたことは少し残念でした。

    今後、直虎が<政次の死>を、そして政次が自分にとってどういう存在であったかをきちんと言語化するエピソードが訪れることを切望しています。

『おんな城主直虎』33話~政次の死にみる「イエス受難」のアナロジー~

はじめに~政次の死とイエスの死のパラレル構造~ 

 33話のラストで磔の刑に処される政次を見て、イエス・キリストの十字架の上での死に重ね合わせた方は多かったのではないでしょうか。私も政次の死には「イエスの受難」物語からの引用が多数散りばめられていると感じました。ただしそれは磔や槍といったビジュアル面での模倣だけではなく、もう少し深い意図があっての引用だったのではないかと思います。そしてその「意図」があったからこそ、諸説ある政次の処刑方法のうちで「磔」説が採用されたのではないか、さらに言えば、イエスの死がもつ意味に触発されて、『直虎』における政次の死の意味が形作られていったのではないか、と考えるようになりました。そこでこのエントリでは、どのような引用があったか、そしてなぜが行われたのかということについて考察してみたいと思います。

 よくご存知の方には蛇足かもしれませんが、最初にイエスとその受難(Passion of the Christ)について、概要を説明しておきます。イエスは約2050年前頃に現在のイスラエル北部に生まれたユダヤ人で、30歳頃から地方でユダヤ教に根ざしつつも、ユダヤ教形式主義権威主義に異を唱えて独自の宣教活動をはじめました。そしてついに南部の首都エルサレムに入城し、信奉者を増やして、ユダヤ教権威主義の指導者に妬みや脅威の対象として敵視されるようになります。当時エルサレムローマ帝国支配下にありました。ユダヤ教権威主義者は反逆罪でイエスを逮捕し、不当に裁判し、暴行し、ローマ帝国総督に引き渡しました。総督はイエスが無実であることを知りながらも死刑執行を黙認、イエスは十字架に架けられます。その後彼はキリストとして復活し、それを目撃した使徒たちによってキリスト教の世界的な布教が始まるのです。

 「受難」とはイエスエルサレム入城から処刑までの短期間の出来事を指します。この「受難」の過程が、31話に政次が井伊谷に城主として入城し、33話で処刑されるまでの出来事に非常によく対応しています。ですから私の説明は33話からではなく31話に遡って始まります。

 本題に入る前に3つのお断りをしておきます。第一に、このエントリは宗教・神学そのものについて論じる意図はありません。第二にイエスの位置づけは宗教によって異なりますが、ここでは広い意味でのキリスト教の世界観に従って論じます。第三にキリスト教世界ではイエス・キリストは三位一体の神と考えられていますが、政次は人間ですので、あくまで話の構造上の類似点を指摘するに留めます。

 今回のエントリは長くなりそうですので、最初に結論を述べておきます。私はこのドラマが「イエス受難」を引用した意図は、政次の死が「一つの命で多くの命を贖う」「一つの究極の犠牲で、すべての人の罪を予め償う」という意味をもつものであると強調するためだったと考えます。

    そのヒントは政次の「おそらく、私はこのために生まれてきたのだ」という台詞にあります。これは「忌み嫌われるために生まれてきた」という意味ではなく、「忌み嫌われて、恨みを一身に引受け、罪人として死ぬことで、愛する井伊谷のすべての人の命を救い、恨みの連鎖を断ち切り、さらには罪を犯すたびに犠牲を払い続ける(=井伊谷で失策があるたびに犠牲者を出す)という悪循環を終わりにする」という意味でした。

    キリスト教の世界では「(罪はないのに)罪人として裁かれることで犠牲の連鎖を断ち切り、すべての人の罪を許す」ことこそ、イエス・キリストがこの世に生を受けた理由であったと考えられています。そしてよく知られたこの『聖書』の描写を引用することで、政次の死の必然性や運命性がより浮き彫りになるのです。

 私の仮説では、『直虎』とイエス受難物語の登場人物は次のように対応します。

『直虎』

「イエス受難」

政次

エス

直虎

ペテロ(31話)、マリア、イエス(33話)

家康

ポンテオ・ピラト

近藤

イスカリオテのユダカヤパ

直之

トマス

  政次はイエス、直虎は使徒の一人ペテロ(31話)、マグダラのマリアかイエス(33話)、家康はローマ帝国総督ポンテオ・ピラト、近藤は一番分かりやすいのはイスカリオテのユダ、ただしユダヤ教の大祭司カヤパの要素もあり、脇役として直之は使徒の一人トマス、龍雲丸はメッセンジャー役ですからキリスト教世界で言うところの天使のような役どころです。

 

31話「虎松の首」~試される信頼~

 33話がクライマックスとすれば、31話はそれに向けての序章でした。この回では直虎の政次に対する信頼が試され、直虎が疑いに苛まれる様子が描かれました。

    冒頭で農民たちの嘆願を見て一つの策を思いついた政次、直虎に刀を向け「俺を信じろ、おとわ」と語りかけます。

  「信じろ」とはどういう意味でしょうか。信じることは、目に見えないものを確信すること。それはイエスのメッセージでもあります。物質的な生贄や目に見える戒律で人間生活を縛る(とイエスが考えた)ユダヤ教に対するアンチテーゼです。しかしあまつさえ刀を向けられて、なお目に見えないものを信じるのは人間にとっては困難なことです。

 それでも直虎は一度は信じました。政次の策に乗って徳政令を受け入れます。しかし隠し里で直之に「それも含めて騙されているのでは」と揺さぶりをかけられます。直之は熱くまっすぐな人物ですが、目に見えることしか信じません。私は直之は十二使徒の一人トマスのようだと思いました。トマスはイエスが復活したことを他の弟子に聞きますが、実際にその目で見るまでそれを信じませんでした。そのことから「疑いトマス」と呼ばれています。

 直之に言われて、直虎の胸に疑念がわきます。あれほど信じあい、通じ合っていたのに、政次が表面的に演じる分かりやすい芝居に騙されてしまいます。それがよく表されているのが、龍潭寺で座禅しながら夜を明かす場面です。疑念で落ち着かず、思わず不信感を表す声をあげてしまいます。その時、鶏が鬨の声を告げるのです。

 この場面はイエスの弟子のペテロがイエスを否認した場面に重なります。イエスの一番弟子を自認していたペテロは「最後の晩餐」の際にイエスに「あなたは今日、鶏が鳴く前に三度私を否む」と予言されます。それを自信満々に否定したペテロですが、イエスが捕らえられた夜、ペテロは追い詰められて「イエスのことなど知らない」と否認してしまいます。そして予言どおり夜明けに鶏が鳴き、それを聞いたペテロは自分が犯した過ちの大きさに打ちのめされ、涙するのです。

 この場面は、『直虎』では直虎が名も知れぬ子の首をかき抱いて号泣するシーンで再現されます。あの涙はもちろん子どもを供養するための涙でしたが、同時に政次に負わせた業と、政次を疑ったことへの後悔に対する涙でもありました。

 ペテロはイエスの死後、信仰心を強めます。あの過ちがあったからこそ、後に岩のようだと言われた彼の固い信仰心が生まれたのです。そして最後には壮絶な殉教をとげます。

 私は31話を最初に見た時、この期に及んでまだ政次を疑う直虎の行動に疑問を感じました。しかし33話を見た後では、このエピソードが是非とも必要であったことが分かります。直虎が岩のように揺るがない信頼を基盤に「我はもう騙されぬぞ」と言うため、そしての政次の演技や悪態に惑わされることなく、目に見えないものを頼りにラストのあの行動に行き着くためには、最終テストのようなこのプロセスが必要だったのです。

 32話「復活の火」~政次とイエス、それぞれの入城~

 32話では主として武田・今川・徳川の歴史的事件の進行と、政虎なつの人間関係に焦点があてられました。イエスの物語からの引用はそれほど多いとは思いませんでしたが、それでも次の三点については指摘しておきたいと思います。

 一点目は、政次が井伊谷城に「主」として入城したことです。政次は井伊谷の王として、そしてイエスエルサレムに精神世界における王として入城します。どちらも華々しい入城ではありませんでした。政次は打ち捨てられ広間に一人孤独に、そしてイエスは貧相なロバに乗って、それぞれの人生の終局の舞台へと上がっていくのです。

 二点目は、政次が家臣に自分の意図を語り、小野家と自分が何者かを明かしたシーンです。一段高いプラットフォームから話す演説のような構図、関口の家臣に語りかけると見せかけて実は視聴者に「そなたらはどうする(俺についてくるか)」と語りかける劇的なアングル。それはまるで『マルコ書』9章に出てくる、イエスが弟子に正体を明かし、これから起こる苦難を前に弟子に希望を与える、いわゆる「イエスの変容」の場面を思い起こさせました。

 三点目、そしておそらくこれが最も重要な点なのですが、それは、政次、近藤、徳川の関係が、イエスユダヤ系の敵対勢力(ユダ、あるいはユダヤ教権威主義者)、ローマ帝国にそれぞれ対応するという構図が示されたことです。どちらも政治的に見れば、同じ側につく者同士の内部抗争に、支配勢力の思惑(あるいは無関心)が絡むという図式になっています。これによって政次の処刑は政治的な構造においてもイエスの処刑と同じであるということが示されました。クライマックスに向けての役者と舞台が整ったのです。

 33話「嫌われ政次の一生」~死によって贖われるもの~

 近藤=イスカリオテのユダ

  32話のラストで、近藤が過去の恨みを根に持って井伊を陥れるための策をめぐらしたことが示されました。近藤とは誰でしょうか。12話で政次が井伊谷に帰還した時、付き従うように今川からやってきた井伊谷三人衆の一人、すなわちもとは政次サイドの人間です。私が近藤がユダかもしれないと考える理由はここにあります。

 ユダがイエスを裏切った理由は古来から色々と推測されてきました。嫉妬、不信、金銭欲、なかには独占欲などといったBL的な解釈まであります。しかしイエスはユダの裏切りを予言していました。それを知りつつ、ユダが裏切るのを許したのです。なぜならユダには裏切るという役目があったのです。裏切りがなければ、イエスの逮捕も処刑もありませんでした。そしてイエスは処刑されなければならなかったのです。

 私には近藤の裏切りは、ユダの裏切りと同じように思えます。近藤は政次をなぜ陥れたのでしょう。材木の件の恨み、政次に対するコンプレックス、領地拡大の好機、理由は様々にあることでしょう。近藤は近藤の論理で生きてきて、目の前の邪魔な人間を追い落とすのに絶好の機会がやってきた。そして彼はその機会を掴まなければならなかった。それが「世の習い」だからです。この物語ではたまたま近藤に裏切る役割が与えられていますが、彼でなければ別の誰かが裏切ったことでしょう。小野が世間を欺いてきたことによる恨みの蓄積は、どこかでブーメランのように跳ね返ってきていたはずです。そして政次は小野の負債と井伊の負債を返す役割が自分にはあると考えたのです。

 

家康=ポンテオ・ピラト

 近藤は「井伊の裏切り」について家康に讒言し、小野但馬を反逆者として断罪するように進言します。家康は近藤の説明の胡散臭さに気づき、これは仕組まれた罠ではないかと推測します。しかし武田からの出兵の催促というより優先順位の高い急務を前に、井伊の再興という望みを無視し、政次が謀反人として断罪されるのを見て見ぬふりをすることに決めます。

 これはポンテオ・ピラトのイエスの裁判への関わり方によく似ています。ポンテオ・ピラトイスラエルを植民地として支配するローマ帝国の総督でした。イエスとユダ、あるいはユダヤ教権威主義者との対立は、彼にとってはユダヤ人同士の内部抗争に過ぎません。彼にとっての優先事項は、できるだけ事態を大きくしないように揉め事を収めることでした。

 ピラトもイエスに罪を認めることはできませんでしたが(しかも彼の妻もイエスを赦すように進言しましたが)、自分の立場が悪くならないように、イエスの運命をユダヤ人の手に委ねてしまいました。罪はないと認められながら支配権力に見殺しにされる。これは「イエス受難」物語の大きな構造的ポイントで、『直虎』では家康をうまく使いながら政次についての構造の類似性をよく描いていたと思います。

 

政次=イエス

 直虎が牢に入れられたと聞いた政次は、一人井戸にやってきます。この井戸は祈りの場です。橘の木が生い茂る井戸の回りの風景は、外界から隔絶された楽園のようで、そこはかとなく異国情緒すら漂う不思議な空間です。それはイエスが毎晩一人で祈りを捧げた、オリーブが生い茂るゲツセマネの園を思い起こさせます。橘もオリーブも常緑木、私はかなりの確率で、この井戸はそもそもゲツセマネの園を想定して作られたものだと思います。

 この井戸で、白い碁石を見つめながら政次は自分の身を差し出すことを考えます。イエスも処刑の前夜、ゲツセマネの園で祈りました。人間でもあったイエスは十字架刑にかけられて死ぬことの苦悩について悲しみもだえます。そして主に「み心なら、この杯を私から取り除けてください、しかし私の願いではなく、み心のままに」と祈ります。そしてとうとう自分に打ち勝ち、自ら逮捕されるために山を降りるのです。

 イエスの苦しみに比べて、政次の決意はずいぶんあっさりとした印象でした。思えば井伊谷の面々は自分の死を前にして淡々としている人が多かった。33話で井戸端で苦しみながら朝まで祈り続けたのはむしろ直虎でした。

 政次は白い碁石を手に、捕らえられるために近藤を襲います。明確な謀反の行動をとり、自分が罪人として罰せられる必然的状況を作りました。直虎と再開した時はすでに捕らえられ、ひどい暴力を受けた後でした。特に顔を豪打されたことがアザや血糊から分かります。『マタイ書』でも、イエスは捕らえられ、裁判にかけられたのち、葦の棒で頭部を何度も殴られたとあります。

 そして処刑当日、政次が牢を出て、足を引きずりながら刑場に向かって歩くシーン、十字架こそかついではいませんが、重傷のイエスゴルゴダの丘に向かって歩く場面を彷彿とさせます。処刑シーンそのものについては、「イエス受難」関連の芸術作品との類似性は他にも指摘がありますので、ここでは言及はしません。

 むしろここでは、政次の死がもつ意味の重要性に焦点をあてて考えてみたいと思います。政次は獄中で龍雲丸と次のような会話をします。

政次「殿や俺は逃げればよいかもしれぬ。しかし恨みが晴れなければ、隠し里や寺、虎松様、民百姓、何をどうされるか分からぬ。そして、井伊にはそれを守りきれるだけの兵はおらぬ。俺一人の首で済ますのが最も血が流れぬ。」

 

 龍雲丸「だいたい、あんたそれでいいのかよ。このまま行きゃあ、あんたは井伊を乗っ取ったあげく、罪人として裁かれるってことだろ。悔しくねえのかよ。井伊のためにって、あんなに、誰よりも、駆けずり回ってたのはあんたじゃねえかよ。」

 

政次「それこそが小野の本懐だからな。忌み嫌われ、井伊の仇となる。恐らく、私はこのため生まれてきたのだ。」

 

そしてBGMとしてグレゴリオ聖歌のレクイエムのような音楽が流れるのです。

 政次はここではっきりと、自分一人の命で井伊全体の命を救いたい、そして自分が罪人として死ぬことで恨みの連鎖を断ち切りたいという意図を述べています。小野は井伊のために汚れ役を引受け、その命脈を保ってきました。井伊が生き伸びるために犯さなければならなかった罪を、小野が一身に引き受けてきたのです。そしてたとえ井伊のために犯した罪であっても、それを背負って死ぬことで、罰が井伊全体に及ぶことを避けることこそが、彼の本懐だったのです。「本懐」とは「本来の望み」という意味です。政次が「私はこのために生まれてきた」というときの「このため」とは「嫌われる」ということだけではなく、「その罪を贖う」ということまで含まれると私は考えます。

 政次の死とパラレルになっているイエスの死の意味についても整理してみます。バビロン捕囚以後、何千年にも渡って流浪と植民地支配に苦しんできたイスラエルの民には、『旧約聖書』の時代から、いつか救世主が現れ、彼が罪を贖って民を救うという預言が与えられていました。

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(『旧約聖書』「イザヤ書」53:5,6)

 イエスの出現は、その預言の成就と言われています。ですからイエスは、自分がユダヤ人の罪を背負い、罪人として処刑される運命にあることを早くから知っていました。

 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである(『新約聖書』「マルコ書」10:45)

 『旧約聖書』の時代、ユダヤ教においては、罪を償うために生贄を捧げる習慣がありました。イエスは何か罪が犯される度にその代償として血が流されるという掟に終止符をうち、自分が究極の犠牲となることで、全ての人の罪を予め償ったのです。

    政次の意図はおそらくこれと同じようなものだと思います。自分が何よりも愛した井伊の過去と現在、そして未来のために自分が究極の犠牲を払うこと、これこそが彼の「本懐」だったのです。

 

直虎=マグダラのマリア→イエス

 最後に直虎について考えてみます。私は33話の直虎は、処刑場に居合わせて政次の死を見届ける女性という意味で、最初はマグダラのマリアではないかと思いました。しかし徐々に、直虎もまたイエスなのではないかと考えるようになりました。

 話題になった「槍で一突き」のシーンですが、ノベライズとは展開が異なっているそうです。ノベライズでは直虎は処刑場に行かず、しかも槍で殺したりはしなかった。私はこれまでの直虎の人物造形、そして物語の構造を考えた時、ノベライズの方がむしろ納得できると考えている少数派です。

    補足説明すると、「あの二人は二人で一人」という南渓の言葉をそのまま受け取り、<直虎=政次>であると考えると、槍で突いても、処刑場に行かなくても、直虎が本質的に向き合わなければならない課題はそれほど変わらなかったということです。

    大きな影響を受けたのは政次の気持ちの方でしょう。政次は白い碁石を持って近藤を襲いました。その時点では二度と直虎と連絡が取れるとは思っていなかったのです。龍雲丸が訪ねたのは予想外の出来事でしたから、彼の生前に白い碁石が直虎のもとに戻ったのは偶然の成り行きでした。ということは、政次は直虎に最後の一手を期待していたわけではなかったのです。すなわち、直虎が何をしようとも、政次の最後の一手は決まっており、それ自体を「今さら」直虎がどうにかすることはできなかったのです。

    私は脚本家はもともとはノベライズの展開でいこうと考えていて、途中から物語の根本構造を変えずに、政次が少しでも報われるように「槍で一突きの」展開に変えたのではないかと思っています。

    なぜ「槍で一突き」は政次にとっては僥倖で、直虎にとっては(もちろん影響はありましたが)根本的な変化ではなかったのでしょうか。

    政次の視点から見ると、まず期待していなかったのに刑場で最後にもう一度直虎に会うことができました。最後の言葉を交わすことができ、しかも自分の愛する人に「送って」もらうことができました。刑の苦痛は和らぎ、さらには直虎からの返戻の気持ちすら生前に受け取ることすらできたのです。

    もちろん直虎の方も、刑場に行くことすらしないという受け身で混乱した(らしい)ノベライズの展開と比べて、政次を殺す覚悟を見せたドラマの展開の方が、より城主としての成長を印象づけるものでした。政次を有効に使い、近藤に、そして徳川に対して、井伊に謀反の意図がないこと、謀反人はきちんと処罰されたことを印象づけることができました。何よりもテレビドラマ史上に残る名シーンが生み出されたことの意義は大きいと思います。

    しかし直虎の本質的な部分を考えると、「政次が誰によってどのように殺されたか」ということより、「政次が自分を含めた井伊の人々の罪を背負って死んだ」という事実そのものの方が重要です。

    「二人が一人」であるなら、直虎にとってはあの日、もう一人の自分が死んだ(殺した、あるいは殺されるのを為す術もなくそのままにした)のです。

    ここでイエスに話を戻します。イエスは処刑の3日後にキリストとして復活し、マグダラのマリアの前に姿を現します。「キリストの復活によってすべての人は生きる」とするのがキリスト教信仰告白の中心をなす教義です。

    政次はメシアではなく人間ですから、復活することはできません。しかし彼には半身たる直虎がいます。政次は直虎を通じて復活することができる、これが二人が「半身」であることの設定上の肝なのではないかと私は思っています。

    『直虎』のオープニングでは、椿の花が槍で打たれて死に絶える様と、その後に新たな芽吹きが起こり、まるで復活のように緑が蘇っていく様が描かれています。この椿は<政次=直虎>だと思います。だとすれば、今後は復活した政次を抱え込んだ直虎が、井伊を再び芽吹かせる様子が描かるのではないでしょうか。

    しかし今後、堀川城や武田による井伊焼き討ちなどのさらなる苦難が待っています。イエスも生前エルサレムの陥落を予言しました。そこから直虎がどのように立ち上がるか、その時彼女の中の政次はどのような役割を果たすのか、その点に注目して見ていきたいと思います。

『おんな城主直虎』33話~直虎と政次、非言語コミュニケーションの果て~

 衝撃のラストを向かえた33話、しかし二人の物語はまだ終わりではありません。政治以外の話の9割を本音と裏腹の言葉でしかコミュニケーションしかしてこなかった二人、あの「ハートに一突き」というアクションですべての言語を超えて一気に魂が結ばれてしまいましたが、その瞬間に比翼の翼の片方は折れてしまったのです。

 ここから、直虎はどこへ向かうのでしょう。私には、直虎が自分の気持ちを言語化してこなかったツケをこれから払うのではないかと思えてなりません。二人のコミュニケーションの歴史を紐解きつつ、残された直虎の状況を整理してみたいと思います。

 政次と直虎は、立場の上からも、また個人的な関係性においても、それがもう習い性になっているように、自分の気持ちを相手に素直に伝えることをしません。しかしそうなってしまった理由は大きく異なっています。

 

政次の場合

 政次から見ていきましょう。1話の鶴、子どもらしく元気はつらつとした聡い少年です。おとわと同じくらい表情豊かで、すべての感情が顔に出ます。竜宮小僧探しに嫌気がさしたときのムスッとしたふてくされた態度、亀のぽやっとした無邪気な表情と対照的でした。鶴は本来、こういう素直で活発で短気で物怖じしない、おとわと似たはっきりとした性格の少年でした。似ているからぶつかりあいます。おとわの欠点を遠慮なく指摘する鶴、何でも受け入れてくれるやさしい亀とはここでも対照的です。

 しかし家臣という立場と小野という家の性質が、だんだん鶴の行動や考えに影響を及ぼしていきます。自分はとわや亀とは違う身分だから一歩引かねば、小野の家のものだから疑われて当然。そのような考えや周囲の扱いが、鶴の中にとわや亀と同列でありたいと願う本来の自分と、家臣として小野として感情を殺して役割を演じる自分という二つの人格を作り上げていきました。

 政次が直虎に自分の気持ちを素直に言えない理由は、一つには直虎が自分に男として関心を持っていないということを幼いころから肌で感じているからです。自分の感情を相手に知ってほしくはないし、ダメだと分かっていてぶつける勇気もありません。何より家臣としてとわと亀の夫婦約束に納得し、トライする前からすでに諦めているのです。

 もう一つは直虎が選ぶ道が、自分との恋愛とは両立しないものばかりだったからです。次郎時代は亀のために出家しており、直虎になってからは敵、そして家臣として政治的な関係性になりました。そしておとわはいつでも自分が選んだ道で輝いていた。その輝きを奪うことは政次にはできなかったのです。

 しかし同時に政次は自分の思いを消し去ることもできませんでした。思いは形を変えつつどんどん膨らみ、とうとう生きる目的にまでなっていきました。

 ここで興味深いのは、政次の直虎に対する思いは、彼は何も語らないのに周囲には盛大にバレていたということです。おそらく最初に南渓和尚が気づき、次になつ、龍雲丸、もしかしたら寿桂尼や六左衛門にまで分かっていたかもしれません。なぜでしょうか。それは政次の直虎に対する気持ちは、本人の中でかなりはっきりと意識化されていたため、彼の行動に一貫性があったからです。もちろんその気持が恋なのかどうかはっきりしない部分もあったでしょう。しかし彼が直虎を大切に思い、彼女を守りたいと思っているということ、すなわち現代的な言葉で言えば「愛している」ということは、彼自身が完全に自覚しており、それは周囲にも透けて見えたのです。

 ですから32話でなつに問い詰められた時、立て板に水のようにそれが語られました。

うまく伝わらぬかもしれぬが…私は幼きときより、伸び伸びとふるまうおとわ様に憧れておったのだと思う。それは今も変わらぬ。殿をやっておられる殿が好きだ。身を挺してお助けしたいと思う。その気持を何かと比べることはできぬ。捨て去ることもできぬ。生涯消えることもあるまい。

 自分の思いを完全に自覚している政次はある意味では幸せでした。直虎からの覚悟と気持ちの返戻を一心にあびて、積年の願いが成就した最も幸せな瞬間に旅立ったのです。

 直虎の場合

 しかし直虎はどうでしょうか。思えばおとわは鶴に無関心な子どもでした。亀にだけ挨拶したり、鶴の気持ちに気づかず何度も残酷な言葉を浴びせたり…。鶴のことをよく知っているはずなのに、皆の竜宮小僧のはずなのに、「鶴の立場に立ってものを考えること」が確かに少なかったと思います。

 この直虎の政次に対する一貫した無関心さには、常々疑問を感じていました。なぜ他の人にはあんなに興味津々な直虎が親しいはずの政次にこれほど無頓着なのか。もしかすると意識的にそのように描いているのか、だとしたらその意図は何なのか。

 33話で政次が牢から出ないと龍雲丸に聞かされて、直虎は次のように述べます。

 忌み嫌われるために生まれてくるなど、そんなふざげた話があるか。お前に何が分かる。政次は幼い頃から、家に振り回され、踏み潰され、それの、それの何が本懐じゃ。

  ここに至って、まだ直虎は政次の意図が分かりません。他の人には透明なヴェールのように透けて見える政次の気持ちが、「比翼の翼」の片方たる当の直虎には全く分かっていないのです。

 あの人の言う井伊ってのは、あんたのことなんだよ。…あんたを守ることを選んだんだ。だから本懐だって言うんでさ。

そこまではっきり言ってもらって、ようやく何かを理解する直虎。それでも

頼んだ覚えなどない。守ってくれなどと頼んだ覚えは一度もない

と反発して混乱する。しかしその後南渓に

誰よりもあやつのことがわかるのは、そなたじゃろ、答えはそなたにしかわからぬのではないか。

と言われ、熟慮、そして一挙に二人の真骨頂、最後のエア碁シーンに突入します。離れているのにお互いに思い出すシーンは「我をうまく使え、我もそなたをうまく使う」。そしてもはや盤面すらもなく、一つの白い石のみで決する最後の手が描かれます。

 この二人の非言語のシンクロ感と、言語コミュニケーションのレベルの徹底した齟齬、ここまでくると、意図的でないと考えるほうが逆に違和感があるように思えます。

 

直虎の愛情が言語化されないことで何が起こるのか

  そこでこれが意図的であると仮定して、どのようしてにそうなっていったか、そしてこれからどうなるのかを考えてみたいと思います。

 直虎は政次への思いを言語化してこなかったし、それ故に意識化もしてきませんでした。そもそも12話までは、幼馴染として親しみは感じていたでしょうが、興味が引かれる対象ではなかったのでしょう。亀という太陽のような分かりやすい輝きにかき消されて、月のささやかな光は直虎の目に入ることはありませんでした。

 それが12話で、嫌でも視界に入れざるをえない存在になります。敵であるとはいえ、直親なきいま、政次が政次としてピンで直虎の前に立ったのです。直虎の最初の感情は強い憎しみと反発でした。当時私は直虎がよく知っているはずの鶴の本当の心を探ろうともしなかったことに少し落胆し、鶴は本当に不憫だと思ったものです。

 18話以降は理解と共闘でした。誤解はとけましたが、18話の井戸での会話もお互いの気持ちに関する内容はなく、表面的には非常にミニマルでビジネスライクなものでした。しかし言語化されない部分で二人の絆は水面下で確実に強まっていったのです。

 18話以降、二人は碁を通じてテレパシーのような特殊な通信方法を確立させていきます。そもそも碁で分かり合う、という行為が言語的理解を避ける装置のようにも思えます。物言わず互いの次の一手を探り合う、そうした行為を続けるうちに、二人はあるレベルでは完全に分かり合っているのに、別のレベルでは全く分かりあっていないといういびつな関係性を作り上げました。ですから囲碁の次の一手は完全にシンクロするのに、政次は頼んでもいないのに直虎を守ろうとするし、直虎は政次の自分に対する愛情に全く気づかないのです。(補足すると、言語レベルで分かり合えていないから、31話で他人の疑いの言葉に心が揺れたのですね。でもそれはまた別の話)。

 そして刑場という切羽詰まった究極の場面において、言葉の相互理解ができないまま、二人は史上最高の一手で通じ合ってしまいました。

 

<悲哀>と<メランコリー>

 直虎は、政次の生前、彼に対する思いを分節化して言語化してきませんでした。ですから政次が死んだ時、本当に何を亡くしたのかが分かっていなかったのではないかと思います。

 これは直親を亡くした時とは対照的です。直虎は直親への自分の思いを完全に理解していましたから、衝撃は大きくとも、少なくとも何を亡くしたかは分かっていました。

 少し堅い話で恐縮ですが、フロイトは『悲哀とメランコリー』において、(簡単に言うと)<悲哀>とは亡くした対象が明確で、それを亡くした時に示す正常な反応であり、悲哀の作業が終われば再び自由になるもの、<メランコリー>とは誰を失ったかは分かっていても、その人の何を失ったかは分かっていない状態で、すなわち意識されない対象喪失であり、しばしば自我意識の低下や自己非難を招くとしています。

 

すなわち

 

  • 直親の死に対する反応 = 悲哀(grief)→ 自由になって城主に 

 

  • 政次の死に対する反応 = メランコリー →❓(今後の展開)

 

  おそらくは今後は直親の死よりも深く苦しい時期が待っているのではないでしょうか。直虎にとって今後必要なのは、政次とは自分にとっていったい何だったか、政次の何を失ったのかを意識化することです。そのためには言語化しなければなりません。政次が自分にとってどういう存在だったかを語るという生前してこなかった作業を、誰かの力を借りてでも、やらなければならないのです。それしか彼女が立ち直る道はありません。

 幸いにも政次の思いについてはなつや龍雲丸といった証人もいます。どのような言葉が語られるのか私は全く知りませんが、いち視聴者として、直虎にはぜひ政次について考え、自分の思いを明確にしてほしいと思います。

 

さらなる妄想

 さて、ここまでが「直虎に意識的に政次について語らせてこなかったのでは」という仮説に基づいた私なりの推測です。いつものように単なる妄想かもしれませんので、当てはまっていなくても笑って許してください。

 ついでに一つ、さらなる妄言を吐きます。<メランコリー>は、エディプス的な関係に当てはまらない関係に起こるという説があります。エディプス・コンプレックスというのは息子が父を殺して母を得たいという欲望のことです。これが満たされないと<悲哀(grief)>が起こります。しかしそうではない関係、例えば娘が父を殺して母を得たいというような同性愛的な関係において、この欲望は正当化されないので言語化できない、すなわち語ることができず沈黙しなければならない。これが満たされないと<メランコリー>が起きるとされます。ですから政次と直虎の関係は、実は母と娘の関係に近いのかもしれないと密かに思ったりもしています。

 それでは34話、楽しみに待ちましょう。実はさらにトンデモな妄想解釈を33話についてもう一つ書きたいのですが、なかなか筆が進まず…。がんばります。