Aono's Quill Pen

青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』48話~日本のフィクサーになった女、『あさイチ』についても

相見~直虎と家康

 前回、直虎は万千代と直之に「家康を使った戦のない世実現の方向性」を示しました。その時点で私は、「直虎が家康に直接説得をするような展開は非現実的なので、間接的にすることを選んだのだな」と思っていました。しかし今話ではなんと直虎が家康と直接対決、自らの口で家康に戦のない世を実現してほしいと語ります。直虎のモットーは「相見」、直接会って話をするからこそ気持ちが伝わるというものです。ずっと以前の回にきちんと前振りがあって、しかも二人は知り合いの間柄でしたから、このような一見荒唐無稽と思えるようなシーンもそれほどの不自然さは感じられませんでした。

 この作品において直虎と家康は相似的です。どちらも戦を好まず、性格的にも戦国の領主に向いているとは言えません。しかし両者とも家臣に恵まれ、周囲とよい人間関係を築きながら、気がつくと頭角を現しているのです。

 しかしこの二人には決定的な違いがありました。直虎はやむを得ない外的な要因もあり、自覚的に「戦を避ける」という戦法をとり、限られた領土で経済政策などで内政の充実を行ってきました。しかし家康は、人質という境遇からスタートしたものの、戦上手であったことから戦国武将として出世してしまいます。戦に明け暮れる家康は、少なくともドラマにおいては戦のない世について積極的に思考したり行動を起こしたりする存在としては描かれてきませんでした。

 現時点で直虎に多少はあり、家康にないものは、戦わない社会をいかに動かすかという試行錯誤の経験と、その世がどのようなものかについての実感や手応えです。直虎は井伊家を失うことで、戦いに参加する資格を失いました。その後は近藤のもとで村の再建と綿産業の充実、林業の発展に努めてきました。しかし家康は、家が潰れていないがゆえに、殺し合いのゲームから降りることができません。今の家康は、政次を失ったショックを龍雲丸を救うことで乗り越えたばかりの、35話くらいの直虎と同じような心境にあるといえるのかもしれません。

 私たちは家康が天下人であることを知っていますから、家康には天下統一の野望が最初からあったように思いがちです。しかしこの時点では数いる大名の一人にすぎません。その彼が「天下統一」という野望を抱くには、なにか触媒となる作用や、動機づけとなる出来事が必要でした。直虎は、その触媒の役割を果たしたのです。

 今話で家康に対峙する直虎は、半分カウンセラー、半分モチベーショナル・コーチのようでした。あえて家康から極端な反応を引き出すような話をして彼を自分のペースに引き込みます。そしてうまく誘導し、家康から「自分は戦が嫌いである、戦が起こらないような仕組み作りを考えたこともある」という言葉を引き出します。そのうえで、「戦のない世を作って欲しい、やってみなければわからない」とけしかけるのです。この権力者を誘導して自分の望む方向に持っていく話術は、もしかしたら直虎が近藤を相手に磨いたスキルだったのかもしれません。

 家康に「戦が起こらない仕組みづくり」という言葉を言わせたことで、直虎は井伊谷フィクサーから日本の(という概念がなかったとしても、かなりの広域における)フィクサーに昇格しました。このドラマでの直虎は過去の女性大河と違い、不自然に歴史的事象に関わったり権力者に一目置かれたりする存在ではありませんでした。しかしここに至って、江戸幕府創始者を自分の望む方向にもっていくという、どの女性大河よりも野心的な役割を果たすことになったのです。それも私利私欲のためではなく、相手に自分の考えを押し付けるわけでもなく、ただ適切に相手を選び、その相手がすでにやりたいと思っていたことをうまく引き出す、という方法でその目的を達成したのです。

 この達成は、彼女が遠江の潰れた家の領主だったからこそ可能でだったのではないでしょうか。もしかしたらこれこそが、ノブが万千代に言った「潰れた家の子だからこそできる働き」だったのかもしれません。

 家康は信長の誘いに乗って安土に向かうことを決意します。しかしミステリ仕立ての今話のポイントは、光秀の話がどこまで本当か、氏真の話がどこまで本当か、さらには信長が本当に家康を陥れようとしているのかどうか、私たちには全く分からないということです。信長の本意をできるだけ見せないようにしてきた本作の作りが、ここにきてうまく機能しています。私たちは本能寺の変が起こることも、家康が伊賀越をすることも知ってはいますが、それがどう描かれるのか今の時点では全く分かりません。終盤にミステリの要素を入れて登場人物を「信頼できない証言者」に仕立てあげ、最後まで興味を引くというという思いもよらないアプローチで突入した最終章、おそらく昨年とは全く違った本能寺の変と伊賀越が見られることでしょう。

 

氏真と直虎

 万千代が最終シーンで直虎を「殿」と呼んで跪いた場面も地味ながら名シーンでした。直虎の悲劇を追体験して成長した万千代が、直虎の実力の前に素直に敬意を払うシーンは、18話での直虎と政次の和解のシーンや、政次が直虎の殿としての実力を認めた32話を彷彿とさせ、じんわりとした感動を呼び起こしました。

    48話では氏真と直虎の対決も見どころでした。25話の時点では、まさかこんな二人の相見の場が最終回近くであろうとはとても予想できませんでした。柴咲さんが「後に直虎が氏真を憐れむような場面もある」と言っていたのはこのシーンのことだったのかもしれません。氏真が瀬名の仇を取るというのは若干唐突に感じましたが、おそらくは今川滅亡のきっかけを作った信長に対する直近の恨みとしての瀬名の復讐なのだろうと思います。元大名のプライドを捨てて時代の流れに乗ったかに見えた表面上の顔の裏に、矜持と誇りが見え隠れする尾上松也さんの演技は見ごたえがありました。また同じように家を滅ぼされた同世代の二人が、全く違ったやり方でそれぞれの「戦後」を生き延びているという対比も興味深いと思いました。特に戦を嫌っていたように見え、家康よりも早く「蹴鞠で勝ち負けを決めれば良い」とすら言っていた氏真が、敵討ちの戦に一番に誰よりも熱心に名乗りを上げた点が面白いと思います。考えてみれば、かつて今川家で寿桂尼の影響を受けた氏真、家康、直虎は、みななぜか戦嫌いに成長したということになります。寿桂尼による「今川仮名目録」の考え方が、彼らの治世の基本に関する姿勢を方向づけたと考えるのは、穿った見方でしょうか。

 

 

あさイチ柴咲コウさん発言から推測する、柴咲直虎から見た政次

 

 『あさイチ』を見ての感想を、ノーカット、ポエム混じりの長文でつらつらと書いてみたいと思います。読んでいて恥ずかしい気持ちにさせてしまったらすみません(^^;。

 

柴咲:やっぱり政次を見送らなければいけなかった直虎さんの感覚というか感情というか、あのさっき槍で突いたときにはとうてい出せなかった秘めた思いみたいなものが含まれていますね。

 

井ノ原:本当のところはどうだったんだろう、というのはこの曲を聞きながら想像したりするね。

  

 『あさイチ』の柴咲コウさんの「いざよい」についての解説は、ここまで踏み込んで言ってくれた、という点に本当に驚きました。ふつうアーティストというのは曲や歌詞の解釈を限定するような発言は避けようとすると思います。しかしあえてこのように発言したのは、やはり柴咲さんご自身が「視聴者に自分の言葉で思いを伝えるのはこの機会しかない」と思われていたからではないでしょうか。雑誌の記事には編集者の手が入ります。しかし生放送の番組ならば、カットもされず、第三者による編集や解釈の余地もありません。

 その思いとはどのようなものでしょうか。ここから先は私の想像です。柴咲さんが、役になりきって直虎として生きてきた過程で、政次に伝えたい思いがあったとします。しかし脚本の中にはその思いを伝える機会は政次の生前も死後もありませんでした。柴咲さんはドラマを第三者として見る視聴者とは違い、直虎の人生を間接的に生きる存在であり、ある意味直虎自身でもあります。その柴咲さんの中には、もしかしたら脚本の方向性とは少し違った柴咲直虎がきちんと生きていて、その柴咲直虎の感情ベクトルは、私たち視聴者の解釈のベクトルと同じ方向を向いていた、すなわち柴咲さんの中の直虎は政次に「いざよい」の歌詞に示されていたような思いを感じていて、その思いを伝えられないことに忸怩たる思いがあったのではないでしょうか。

 思えば彼女のブログにも、政次の死をめぐっては「伝えたいけれど、伝えきれない溢れる思い」が感じられるような記述があったように思います。彼女は芸能事務所に所属するプロの女優であり、しかもドラマの主役という座長のような役割を担っています。全体のことを考えなければならない立場上、個人的な解釈を直接公言するようなことは憚られたでしょう。まして同じ事務所の所属男優が公式の相手役である状況で、それ以外の役に対するドラマの表現以上の思い入れを語ることは難しかったはずです。

 しかしそれでも、なんとかして思いを表現したかったのではないでしょうか。彼女には歌という表現手段があります。シンガーとして歌詞に思いを込めるのは彼女の自由です。女優として言えない思いを歌手として表す。多面的なアーティストである柴咲さんならではの方法だと思います。

 柴咲さんの解釈では、直虎には政次に対して口には出して言えない「秘めた思い」がありました。そして「いざよい」の語り手(直虎)は相手(政次)に対して「恋しい、愛しいきみ」と呼びかけています。さらに「あさイチ」では、「そんな風に(隠す方向に)行かなくてもいいのに」という政次に対するもどかしい思いも語られました。

 そこから感じられる私なりの柴咲直虎の気持ちは、次のようなものではないかと思います。

 

すべてをオープンにして正面から向き合ってくれたらよかったのに、気持ちもすべて話してくれたらよかったのに、あなたはそれをしてくれなかった。だから私はあなたの周波をキャッチしようと必死で感受性を研ぎ澄ますしかなかった。あなたに素直に気持ちを伝えてほしかったのに、あなたはそれをしてくれなかった。だから私は自分の気持ちを伝えることができなかった。

 

そこから連想される、18話の「女子だから守ってやらねば、はお門違い」というセリフの意図は、「あなたは男性としては対象外だから、私を女性扱いしないで」という意味ではなく、「勝手に私のことを想像してあれこれ配慮しないで、何でも率直に話してほしい。私の気持ちに耳を傾けてほしい」ということだったのではないでしょうか。

 直虎が政次を男性としてきちんと意識していたことは、彼女の仕草からも見て取れます。例えば、彼女は井戸で政次を引き止めるとき、袖を引いてもじもじとしていた様子を見せました。直虎は井戸で何人かの親しい人を引き止めましたが、万千代や直之は落ち着いて声だけで引き止め、瀬名は同性同士の気安さからもっと直接的に腕をがっしりとつかんで引き止めました。こんなに逡巡して、必死に引き止めたのは政次一人なのです。

    龍が現れて、直虎は本能的に龍に惹かれます。龍と直虎はお互いへの気持ちを少しずつ育てていくことができました。その理由の一つとして大きかったのは、龍が自分の気持ちに素直なオープンな性格だったということだと思います。直虎と龍は自分の気持ちについて相手に率直に語りかけることができました。

 政次は直虎に対してそうすることができません。自分の感情を押し殺し、相手を欺くことが習い性になっていますから、今更突然自分の気持ちを素直に語ることなどできません。そのことが時に直虎を苛立たせ、「本音で話せ」という言葉を言わせることになりました。

    思えば、12話以降の政虎の敵対関係も、元はといえば政次が井伊家を欺く計画を一人で勝手に立てたところに端を発します。あの時点で政次が直虎を信頼して何もかも打ち明けていれば、敵対は避けられたはずです。もちろんそれではドラマになりませんので、ありえなかった展開ではありますが、要するに政次の側からのコミュニケーション不足が政虎関係の発展の障害の一因になっていたことは確かでしょう。

 私も含めて、視聴者の中には「直虎から政次への思いの表現の欠如」を指摘する声がありました。確かにそうした表現が脚本に少なかったことは事実でしょう。しかし政次の方にも、直虎に限らず全ての事柄において自分の気持ちや考えを相手にわかり易く伝える、現在の言葉でいえばコミュニケーション能力が不足していたこともまた事実なのではないでしょうか。

 それでも24話時点で直虎は一旦龍に対する気持ちに区切りをつけ、城主の仕事に集中し始めます。直虎は21~23話の混乱期を除いては、政次が生きている間、龍を政次より優先することはありませんでした。政次にも、「政次の考えを一番尊重する」とはっきり伝えています。

 ここからはまた私の想像です。城主をしているときの直虎は、出家の身でもありましたので、意識的に恋愛や結婚を追い求めるような行動は取りませんでした。龍に対してさえも、ある時期からは一定の距離を置きます。基本的に城主時代の直虎にとって恋愛の優先度は低いものだったと言ってよいでしょう。

 しかしだからといって他人に対する恋情や愛情が完全にシャットダウンされていたということにはなりません。その証左に、龍への思いは彼女の心の奥底にずっとくすぶっていました。政次への思いはどうでしょうか。直虎は政次に焦がれるような強い恋愛感情を感じたことはなかったかもしれません。特に龍に感じるような強い性愛の情を意識化することはなかったでしょう。しかしだからといって何も感じていなかったということにはらないと思います。脚本の基本姿勢はおそらく「秘めた思い」のレベルでさえ何もなかった、というものでしょう。しかしドラマで表現されたものは、「語られない思いがあった」という解釈の余地を残すものでした。

 政次と直虎の間にあったかもしれない秘めた思いについて、高橋政次は、わりあい分かりやすく、自由に解釈して表現していました。聖典たる脚本にも政次から直虎への思いについては暗示されていました。

 それに対して、直虎の演技はより難しいものだったのではないでしょうか。脚本には直虎から政次への思いを示す手がかりはほとんどありません。さらに高橋さんと違って柴咲さんは座長の立場です。原典であうる脚本に忠実に演じるという責任感も感じていたことでしょう。さらに事務所の同僚に対する配慮もあったでしょう。ですから政次の生前や死後の展開に仮に疑問があっとしてもそれを抑えて、脚本の方向性に忠実に演じようとしたのではないでしょうか。

 視聴者の立場から見れば、高橋政次の解釈が視聴者の波長と合っていればいるほど(というより、我々が高橋さんの演技のベクトルに引き寄せられているので)、柴咲直虎の脚本に忠実な方向性の方が不可解に思えたのだと思います。そしてそのことに柴咲さんはある程度気づいていたのではないでしょうか。自分の中に表現したい思いはたまっていくのに、それを吐き出す場がない、さらにドラマの反響も耳に入ったでしょうから、視聴者の思いに応えたいという気持ちにもなったのではないでしょうか。

 政次と直虎の物語は公式には終わってしまいました。私の中でも、いつしか「政次と直虎にはワンチャンスさえもなかった」という諦めのような考えが生まれていました。しかし昨日の『あさイチ』を見て、必ずしもそうではなかったのかもしれない、と思うようになりました。実は政次には、いついかなる時でもチャンスがあったのではないでしょうか。言う前から諦めてしまい、気持ちを伝えないという決断をしたのは政次の方です。直虎のモットーは「やってみなければ分からぬではないか」です。もしかしたら直虎にはいつでも、政次の気持ちを受け止め、考える用意はできていたのではないでしょうか。

 特に18話以降、直虎は政次を頼りきっていましたから、チャンスの確率はどんどん上がっていったと言ってもよいのではないかと思います。四六時中その人がどう考えるかを考え、離れていても考えが分かるようになるなど、嫌いな人に対してできることではありません。22話で政次が龍雲党を訪ねたときも、直虎は政次の一挙手一投足を終始気にしていました。このようなディテールににじみ出る思いに気づくのは、本人ではなく龍の方です。政次が死ぬ直前などは、龍には「頭に何が分かる」と言って龍の方をシャットアウトしていたほどです。

 直虎と龍は、政次が死んだからこそ結びつくことができました。その意味では、まさに「お前しか残らなかったから」ということになります。だから頭は、政次の死後も直虎以上に政次の存在を意識していたのでしょう。

 『あさイチ』の柴咲発言から見えてきた、私にとっての直虎の政次観を整理します。

 直虎にとって政次は、一目惚れのような強い自発的な恋愛や性愛の感情を換気するような存在ではなかったのかもしれません。脚本でも政次に友情以上の強い感情を抱くような描写はありませんでした。しかし友として家老として彼を頼り、彼の行動を慮り、彼の思考に波長を合わせようとするなかで、ある意味誰よりも深く彼のことを思うようになっていったのではないでしょうか。直虎の政次に対する感情の根本には「信頼」があったと思います。そして信頼する異性を心の何処かで密かに愛するようになったとしても、その心の動きには、不可解な点や非論理的な点は一つもないのです。

 柴咲さんも視聴者も、基本的にはこの方向性で物事が進むことを予測していたのではないでしょうか。しかし脚本の方向性は不自然なまでに政次と直虎の共闘以外の感情の発展を否定するものでした。

 33話の別れは直虎にとって自己の存続の危機をもたらすようなトラウマティックな経験でした。しかし3話後には直虎は別の男性と結婚してしまいます。その展開が多くの人にとって受け入れがたいものでした。そのことは『あさイチ』で龍が全く登場しなかったことにもある程度反映しているのではないでしょうか。直截に言って、政次を立てれば、龍は成り立たないのです。これは龍を否定しているのではなく、主人公の心は二人同時には捧げることはできないということなのです。

 柴咲さんの思いを知ったことで、私たち視聴者は苦しかった気持ちに「名付け」をもらったのではないでしょうか。それは一つの症状にやっと病名がついたような、苦しい中にも前に進める足がかりとなるような、そんな救いをもたらす「名付け」でした。そしてそれはおそらく、柴咲さんからの私たちに与えることができうる最高のプレゼントだったのではないかと思います。

『おんな城主直虎』47話~直虎、弔い合戦に向けての2つの「手」

ビジョン実現のための2つの「手」

 46話で瀬名と信康を失った家康にとって、47話は「弔い合戦」の回となりました。この物語において家康と直虎は相似的な存在ですから、徳川の弔い合戦は直虎の弔い合戦に対置されます。46話で「万千代を使い、徳川が戦のない世を作るようにもっていく」という新たな野望を得た直虎、何から着手しようかと思案していたところ、徳川が武田攻めを継続すること、それに直之と六左が駆り出されるという知らせを受けます。

 徳川にとっての弔い合戦とは、瀬名の悲願であった駿河征服でした。直虎は徳川の高天神城攻略のアプローチのなかに、徳川が目指す「戦のない世」への方向性を見出します。そしてそれに向けて2つの「手」を打つことに決めました。一つは文字通り万千代自身を家康にとって、かつての自分にとっての政次のような存在に仕向けていくこと、もう一つは直之を遣わして万千代の実質的を支えとすることでした。

 引退した直虎にとって、ビジョンを実現させる手段は限られています。そこをどのように説得的に描くかが、作品の出来を左右する鍵となります。直虎が家康に直接説教するような展開は現実的とはいえません。そこで直虎は、自分の「子ども」と腹心の家臣を、いわば自分の身代わりとして役立てようとするのです。しかし「手先」となる子どもや家臣が直虎の意のままに操られる人形のようではこれもまた説得力がありません。そこで本作は、これまで積み重ねてきた「同じ主題の変奏」という手法を使い、「手先」が無理なく主人公のビジョンを達成する内在的動機を備えるような描写を積み重ねてきました。その鍵となるのが小野但馬守政次の存在です。

 最近『直虎』では政次の有形無形の回想シーンが多くなりました。これまではずっと言葉で暗喩されるにとどまっていましたが、今話では満を持して政次のシーンが回想に使われました。これは、そうされる必然性があったからだと私は思います。このエントリでは、直虎のビジョン実現のための二つの手段において、政次がどのような役割を果たしているかを論じてみたいと思います。

 

第一の手~家康を支える万千代

 この作品において、「直虎と政次が殿と家老として、友人として、タッグを組みながら小さな井伊谷を非戦という手段で守り抜こうとした」というのは作品を貫く最重要の構造の一つです。39話以降の万千代編は、基本的にはこの構造の変奏曲として展開していきます。

 もちろん政次の非戦は当時の井伊谷の現状分析を踏まえた現実的な戦略でした。武田侵攻と井伊家断絶を経験した直虎は、当時の考えから脱却し、より大きな世界観から非戦のビジョンを構想していきます。しかし「非力な家が知恵を絞って戦わない方法を探り生き延びる」という構造は、この作品の社会的メッセージでもある「非力な日本が戦わず生き延びる」ということにつながる基本構造が一番鮮明に打ち出されたいわば曲のオリジナルバージョンのようなものです。

 万千代編では舞台は井伊家から徳川家に移されました。井伊家や近藤家から比べれば大身の徳川家も、織田家に比べればまだまだ弱い存在です。ここでの徳川家は、「城主編」における井伊家に対置される存在です。

 

(表1)城主編と万千代編の対比

 

城主編

万千代編

強大な大名

今川

織田

弱小な家

井伊

徳川

犠牲者

直親等

瀬名、信康

リーダー

直虎

家康

サポーター

政次

万千代(信康)

 

 徳川は織田の要求に屈して瀬名と信康の首を差し出しました。それは井伊が今川の圧力に屈して直親の首を差し出したのと同様の構造です。直親という犠牲を経て直虎は立ち上がり、政次とともに非戦を掲げた戦いを始めます。徳川ではかつて家康は信康と碁をうち、手を携えて家の命運を保ってきました。井伊谷で直虎が政次と碁をうちながら策を練ってきたように。しかし信康を失ったいま、家康には頼れるパートナーがいません。政次を失った直虎は、翼が折れてしまい、井伊家の存続を諦めてしまいました。しかし家康にはここでパートナーのロスにより自暴自棄になったり暴君化して家を潰すという道は許されません。家康には信康に代わる碁のパートナー、すなわち頼れる腹心が必要なのです。

 直虎は万千代に、暗に政次のポジションにつくように勧めているのです。万千代が但馬の言動を常に振り返り、家康に但馬の言葉を伝えるのは、万千代自身が政次になるという宣言のように私には思えます。

 私は「万千代編」では万千代は「城主編」の直虎になるのだと思っていました。そしてそれはある程度はその通りだったのだと思います。対直虎ということでは、「城主編」前半で直虎と政次が対立したように、「万千代編」前半では万千代と直虎が対立しました。

 しかし「城主編」18話、すなわち前半のミッドポイントで直虎と政次が和解してその後は「非戦タッグ」を組んだように、「万千代編」のミッドポイントである瀬名・信康事件後は、今度は家康と万千代が徳川家の「非戦タッグ」を組むことになるのです。直虎はこちらのタッグに直接関わることはできませんから、今度は万千代を政次のポジションにあてて、新世代の直虎・政次タッグとしての<家康・万千代>タッグを誕生させたのです。これが「万千代編」における徳川を舞台とした直虎と政次の主題曲の変奏曲です。すなわち万千代は政次になったのです。これは予想していなかった展開なので、とても驚き、クレバーな構成だなと改めて感心しました。

 

 

第二の手~万千代を支える直之

 それでは直之はどのようにこの構造に関わっていくのでしょうか。政次は孤独な戦いをしていましたが、決して一人ではありませんでした。32話で描かれたように、小野家臣団の理解と支えで安定して仕事に邁進できていたのです。家康に仕える万千代は、しかし自分自身も今や二万石の小大名です。万福がそばにいるとはいえ、かつて直虎が武芸の中野を必要としたように、万千代の家中にもこれからは多様な人材が必要とされます。直虎は直之に、自分の非戦のビジョンの実現のために万千代に力を貸して欲しいと訴えます。

 直虎が直之を説得しようと井戸を訪れた時、直之は但馬に話しかけていました。かつて18話で政次が直親に話しかけていたように。18話の井戸端での直虎と政次の対決が、今話では直虎と直之の対峙という形で再現されました。直虎は直之に言います。「万千代を通して徳川に戦のない世を作ってもらうという戦いに力を貸してくれないか、これは自分にとっての弔い合戦だ」と。

 直之は「自分も殿や但馬が戦を避けようとし、できなかった様を見てきた」とし、「断ることなどできるわけがございますまい」とその願いを聞き入れます。

 この展開のポイントは、直之が単に直虎の意見を受け入れて従うのではなく、直之自身にこのビジョンに共感するという内発的な動機がある点です。直之はかつては政次の最大の反対勢力でした。しかしその彼も、一連の悲劇を経て、今では記憶を再構成して解釈し、直虎と政次が協力して非戦のビジョンを実現させようとしたことを理解しています。そして政次の生前は言うことができなかった言葉を、彼に向かって素直に言うことができます。直之は政次の生前は彼と共闘することはできませんでしたが、直虎の言葉によって政次との共闘の機会と、直虎と政次のビジョンの実現の機会を手に入れます。そして「おなごに仕える」ことに折り合いをつけてきた自分の生き方を肯定することができたのです。

    直之にとって最初は女性に仕えることは恥辱でしたが、後には「おなごだから守ってやらなければならない」と考え直すことで役目に正当性を見出します。しかし直虎のモットーは「おなごだから守ってやらねば、はお門違い」です。直虎は政次と違って直之にそのように言うことはありませんでしたが、やはり最終的には直之も男女の違いというよりも、直虎のビジョンや働きそのものに共感し、おなごではなく直虎を支えるということに意義を見出してきました。そのビジョンの実現に直接関われる機会が訪れたのですから、それは彼にとっては有意義なチャレンジでしょう。直之は徳川仕官を決して請われたから従ったのではなく、「自分の意思で選んだ」のだと思います。

    そして非戦のビジョンを共有する家臣という意味では、直之は万千代にとって、井伊家にとっての中野の役割だけではなく、政次の役割をも果たしていくのではないでしょうか。

 

 

井伊家

徳川家中井伊家

リーダー

直虎

万千代

サポーター

政次

直之

 

 ここでも政次の存在は、直之の決意を引き出す導火線になっているばかりか、万千代の家中における直之の必然性を与えています。直虎の家中では、六左衛門と直之は直虎に実質的なサポートを与えていましたが、彼らは直虎の非戦のビジョンを共有していたわけではありませんでした。万千代の家中では、今や知能派の役割もできるようになった直之が、ビジョンを共有しつつ戦略的なサポートもできる政次のポジションで活躍していくのでしょう。また直虎と政次の共闘を見てきた直之は、万福にはできない経験的なアドバイスを与えることもできます。直虎の非戦ビジョン実現に向けて、直之の派遣は直虎にとって「弔い合戦」のための最も実践的で有効な「一手」だったのです。

 

おわりに

 このエントリでは、直虎にとっての弔い合戦とは「徳川が戦のない世を作るために協力する」ということであり、そのための手段として①万千代に家康にとっての「政次ポジション」につかせる、②直之に万千代にとっての「政次ポジション」につかせる、ということでした。この構造から見えるのは、この物語にとっての政次の位置づけの重要性です。終盤に行くに連れてどんどん濃くなる政次の影、48話ではどのような展開になるのでしょうか。

 またこうした公人としての政次の重要性とは別に、私人としての直虎にとっての政次の存在についても相変わらず気になるところです。今週はtwitterに部分的にそれについてつぶやき、実はさらに書こうと思っていたこともあるのですが、48話直前になってしまい、時間切れになってしまいました。それについてはまた別に書けたらなあ、と思っています。ただし最近はいつにもまして超多忙ですので、できるかどうか…。ちなみに来週もずっと多忙で土曜も日曜も仕事ですので、更新できるかどうか分かりませんが(更新したとしても直前になると思います)、できるだけがんばります。

『おんな城主直虎』46話~悲劇再来の先にあるビジョン

 46話はこれまでの物語の全ての因縁を集約させ、過去の悲劇のパターンをより大きなスケールで繰り返させることにより、逆に因縁解消の突破口となるエネルギーを生み出し、最後にはどこか再生の希望さえ感じさせるような不思議な感興のある回でした。

    45~46話は31話、33話とよく似た構造を持っています。特に33話では家康が今の信長に近い立場でした。「武家のルール」に従って井伊家と政次を見殺しにした家康は、今度は子どもと図らずも妻を殺される立場に立たされます。過去回との相関関係を簡単に図に表すと次のようになります。

 

     『直虎』における「武家のルール」適用の内訳

 

31話

33話

45~46話

殺害命令

氏真

近藤 (家康)

信長

殺害対象

虎松○

直虎○

信康✕

救出作戦

政次

政次

家康、瀬名

身代わり

村人の子✕

政次✕

瀬名✕

 

 このように見ると、46話の構造は31話とよく似ていることが分かります。しかし違いは、31話では政次の作戦は成功し、虎松の命は助かったのに対し、46話では家康と瀬名の作戦はそれぞれが失敗に終わったということです。さらにそればかりでなく、46話では33話と同様に救出作戦を行った一方の側である瀬名が、33話の政次と同様に自らの命を差し出しました。すなわち「築山・信康事件」は、井伊で言うなら政次を失ったあげく虎松まで死んでしまったということになります。潰れかけの小さな国衆である井伊家ですらこれは大きな痛手なのですから、大名である徳川にとっては名分的にも実質的にも計り知れない損害であったことでしょう。

 「大文字の歴史」を極力排してきた『直虎』が徳川家だけは最初から丁寧に追ってきた理由は、実はこの悲劇を描くためだったのではないでしょうか。もう少し詳しく言えば、幼少期から「非凡な凡であるよき人」として視聴者に感情移入をさせた家康に、33話では「加害者」の立場に立たせ、46話では「被害者=直虎」の立場に立たせることで、直虎の「戦のない世」というビジョンを流し込む器へと無理なく成長させるという意図があったのではないかということです。

 

瀬名~もう一人の政次

 家康が直虎なら、瀬名は政次でしょう。瀬名のことを私たちは幼少期から知っています。私たちは、彼女が純粋な心を持ちながらも時に誤解され、友だちは少なく、徳川では旧敵である今川の出として肩身の狭い思いをしながらも、家康を愛して家を守ろうとした存在であることを見てきました。そして彼女は直虎の唯一の女友だちです。

 46話を再視聴しながら、私は瀬名は想像以上にもう一人の政次であるということを改めて実感しました。今川憎しの井伊家家中にあって政次が今川派と目され孤立していたように、瀬名も今川出身者として孤立しています。家康とは信頼関係で結ばれながらも、家康は瀬名をそばにおいて寵愛することはありません。瀬名が一人暗い部屋で嫉妬するシーンもありました。政次が直虎と井伊家を守ることに専心したように、瀬名も家康と信康を守ることに全てを賭けています。そして二人とも直虎の幼馴染であり、友なのです。

 ですから直虎にとって、瀬名を見送ることは、政次を見送ることの追体験でもありました。今話で直虎は「去っていくやつはみな同じように言う」といって直親や他の井伊家の人々についても言及していましたが、再視聴すると、明言せずとも政次のことを考えていると思われる場面が多いことに驚かされました。

 直虎は、暇乞いをする瀬名に「残された者の無念を考えたことがあるか、家康殿を大切に思うなら、そんな思いをさせるな」と語ります。これは裏を返せば直虎が政次に「私のことを大切に思っているなら、私にそんな辛い思いをさせないでくれ」と言っているということになります。普段政次のことをほとんど口にしない直虎にしては、直接的で大胆な発言です。この切羽詰まった状況で、しかも大切な瀬名に対してであればこそ出てきた言葉でしょう。

 しかし瀬名はその直虎の言葉にも動かされません。政次と同じような微笑を浮かべて、愛する人が生き残る確率をわずかでも上げるために命を差し出す覚悟を変えないのです。情に訴えても、「武家のルール」がある以上、それに抗って誰かの命を救おうとすれば、命で交換するしか方法はないのです。

 直虎は瀬名を救うことはできませんでした。しかしあの悲劇をもう一度味わい、それについての長年封印してきた思いを吐露することによって、ある種の因縁の解消のカタルシスを味わい、その先に一つのビジョンを得ることができました。それは「虎松を使い、家康に戦のない世を作らせる」というものです。

 このビジョンを聞いて、私は作者がなぜ直虎を井伊谷の影のフィクサーにしたのかがようやく分かったような気がしました。すなわち直虎は、これまで近藤を使って井伊谷で行ってきた「ミニ・ユートピア」構想を、家康を使って全国へ広げようとしているのです。この考えは、直虎が井伊谷で近藤を使って実証済みであるから出てきたものなのでしょう。何でも試してみてから考える直虎らしい、プラグマティックな思考の発展です。こういうところにも、直虎の人格完成に関わる作者の綿密な構想力が生きていると思います。

 

政次の志を受け継ぐ瞬間

 直虎は虎松に「そなたの父を失ったあとに私にできたのは、変わり身として志を継ぐことだった」と述べました。その時私は、「では政次が死んだ時、彼女は何をしたのか」ということをずっと考えていました。なぜなら、政次の志とは井伊家の存続でしたが、彼女はそれを途中で放棄したかのように思えたからです。政次の意志は確かに虎松には受け継がれているように見えましたが、直虎は何を受け継いだのでしょうか。

 今話で直虎が瀬名に「救えなかったものがどんなに悔しいか考えたことがあるか」といった時、35話で直虎が龍雲丸に対して「戻ってきてくれてよかった」と言ったことを思い出しました。直虎の中では、政次は救えなかったが、龍雲丸は救うことができた、ということがとても大きな救いだったのでしょう。

 私たち視聴者から見れば、政次は政次、龍雲丸は龍雲丸ですから、政次が救えなかったことと龍雲丸が救えたことは別の事柄のように思えます。しかし確かに当事者である直虎にとっては、身近な人を二人とも失うよりも、一人でも助けたほうがよい、助けられてよかったと考えるのは不思議ではありません。

 直虎は政次や多くの気賀の人々を失いましたが、龍雲丸を助けられたことで自分も救われました。その後の彼女は井伊家の存続という名分よりも、一人ひとりの家臣や民衆の生活の安定を優先させて、政治の一線から退きます。その時の彼女の気持ちが「武家のルール」から降りたいという概念的で自覚的なものだったのか、それとも「重圧から逃れたい」「自分には続ける自信がない」「とにかく殺し合いはこりごり」というようなやや消極的なものだったのか、よくは分かりません。おそらくそれらがすべて混濁したものだったのではないでしょうか。しかし私はその時点では、直虎が明確に政次の意思を引き継いだという手応えは感じませんでした。

 しかし今話、井戸端での南渓との会話で私はその「引き継ぎ」のシーンを見たような気がします。南渓は直虎に白い碁石を渡します。そして直虎は空をあおいで、「虎松を使って日本のフィクサーになるという」意思を固めます。これこそが直虎が再び自覚的に政治に関わろうと決意した瞬間ではなかったでしょうか。空を見るというシーンは象徴的です。その時の直虎の表情は、どこか、かつて政次の顔色を伺ったような、ちょっと躊躇したようなものでした。政次の辞世が思い出されます。

 

 白黒を つけむと君を ひとり待つ 天(あま)伝う日ぞ 楽しからずや

 

空を伝っていけば、政次がそこにいて、待っている。ですから、直虎は空に向かってこういったのではないでしょうか。

 

「何一つ使いどころのない命、ならば、とほうもない夢にかけてみたとて、誰も何も言いますまい」

 

少し上方を見てこうつぶやく直虎、まるで十字架の上の政次にお伺いを立てているようです。「今後はこうしていきたいのだが、家老はどう思う」と。

 しかしあくまで政次の名は出さない直虎、その役割は万千代が引き受けます。家康の碁のパートナーとして万千代が政次の志をこれからは家康に注ぎ込んでいくのです。そしてそれを影で操るのは直虎です。

  これがこの物語が直虎の物語であり続けるためのプロット・デバイスなのかと感心しました。『江』や『花燃ゆ』の二の舞いにならないためによく考えられた展開だと思います。

物言わぬ遺品

 直虎と政次(そして龍雲丸)に関しては、まだまだ分からないこともありますが、私の中では一つの結論が形成されつつあります。それは、やはり直虎は政次のことに関しては消化不良で整理することができないのだということです。今話で直虎は、政次の公人としての志をゆるやかな形で引き継ぐことはできました。しかしおそらくは龍雲丸はある程度客観視できていたであろう直虎と政次の人間同士の関係性や、直虎の政次に対する思いについては、直虎は永遠に分析の機会や動機を失ってしまったのではないかと思います。直截に言えば、直虎は幼馴染の同僚から、彼が死ぬ直前に人から間接的に好意を聞かされ、死後には告白めいた遺書をもらいました。しかしその後は別の恋人と暮らしていたため、それについて話したり考えたりすることははばかられました。今は恋人とも別れましたが、今さらその人が死んで何年も経ち、もうどうすることもできません、というような状況なのだと思います。

 今話では数正が瀬名の死の間際に「お方様は美しい」と伝えました。しかし数正は32話で言うところのなつのような存在です。瀬名は死の間際でも、家康に会うどころか気持ちを伝えることすらできませんでした。瀬名は、あくまで政次のような存在です。そして瀬名の唯一の形見である紅は、直虎を伝って家康に戻ってきました。政次の白い碁石が龍雲丸経由で直虎に戻ってきたように。紅も碁石もものは言いませんが、どちらも二人が過ごした時間を象徴するものです。言葉がなかいからといって、瀬名と家康の信頼関係が薄れるわけではありません。

 しかしこうも考えられます。紅を見た家康は、生前瀬名にかけてやりたかった優しい言葉や愛の言葉を思い浮かべ、それらをもう二度と言えないことを後悔するでしょう。碁石も、直虎にとってもう二度と政次に話せない色々な事柄を呼び起こす象徴なのではないでしょうか。そしてそれが心に刺さった棘であり続けるからこそ、人と人の関係は複雑で、簡単に説明できるものではないということを逆によく示しているのではないでしょうか。

 家康に直虎の経験を重ね、瀬名=政次として見せることで、私たちは33話をもう一度、しかし別の角度から追体験しました。それは視聴者にとっても33話の悲劇を乗り越える不思議な活力を与えてくれる経験でした。これで33話の課題は半分以上は解消されたということになるのではないでしょうか。そしてそれを乗り越えた最終コーナーの展開がより楽しみになってきました。

『おんな城主直虎』45話~直虎、家康、「武家のルール」からの脱却~

因果は巡る

 45話ではついに信康・瀬名殺害事件の序章が切って落とされました。この事件は『直虎』において最も有名な(しかし真相はよく分からない)史実の一つであり、おそらくは物語の終盤に一つの要として配置することが最初から想定されていたであろうエピソードです。『直虎』では変奏曲のように一つのテーマが何度か形を変えて繰り返し提示されます。そしてその繰り返しに関連性を持たせるため、大小の様々な伏線が張り巡らされています。

 「信康・瀬名事件」は遠くは11話の直親謀殺、近く31話「虎松の首」、そして33話の政次処刑と関連しています。さらにいえば、11話の前段ともいえる1話の直満謀殺、さらに遡って佐名人質差し出しの件も関わっているといえるでしょう。いずれも戦国の世において「主家や力の強い武将に難題を振りかけられた武家は、家の存続のために身内から犠牲を出さなければならない」というルールに従って生きるしかないということ、そしてそのルールに従う限り、状況によって犠牲を出させる側、出す側のどちらにも追い込まれうるということです。

 家康はかつて家の都合で再興を約束した井伊家を見捨て、そのことが政次の処刑につながりました。ドラマでは描かれませんが、家康が一介の人質から今の地位に上り詰める過程では、さらに大きな犠牲を出させる立場に置かれてきたことでしょう。だからこそ、於大の方がいみじくも諭したように、「そうやって生き延びてきたのだから、自分だけがそこから逃れることはできない」のです。

 その過程を間近で目撃する万千代は、かつての井伊家の苦悩を追体験します。井伊は今川に臣従する過程で何度も謀反の疑いをかけられ、そのたびに人質や首を差し出すことで生き延びてきました。そして井伊家の意図に逆らって独自の動きを示すように見える小野が「獅子身中の虫」として行動することで、今川の疑いをそらし、井伊家取り潰しという最悪の事態を避けようとしてきました。

 

井伊家のサバイバルと小野

 私は今話を見て、32話での政次の演説を思い出しました。政次は「井伊と小野は二つで一つであった。井伊を抑えるために小野があり、小野を犬とするために井伊がなくてはならなかった。そして生き延びる他なかった」と言いました。私は当時、その言葉の意味が半分は分かっていたかもしれませんが、もう半分は分かっていなかったのではないかと思います。

 今でも正直「小野を犬とするために井伊がなくてはならなかった」の部分には少し分からない点もあります(なぜ「なくてはならなかった」のか)。しかし、井伊が今川という主家に所領を安堵されて生きる敗戦の国衆であれば、今川の意向にはどうしても従わなければならなかったということは分かります。もしも今川がこれ以上土地の争奪がない安定国家における絶対的君主であれば、今川は井伊の謀反をむやみに疑うこともなかったかもしれませんし、井伊に無理難題を押し付けることもなかったのかもしれません。しかし戦国の世では今川自体が生き馬の目を抜く競争にさらされているのです。そして今川と国衆は忠義で結ばれている関係ではありませんから、今川は時には本気で国衆の謀反を疑ったり、自家の戦略上の都合で国衆の首をすげ替えたりしなければなりません。

 すなわち当時の井伊は、①今川に謀反の疑いをかけられないように注意深く行動し、②今川が自家の戦略上の都合で振りかける無理難題に対処し、③今川の弱体化の際には離反も視野に入れて身を処す、という3つの事柄を同時にこなさなければならなかったのです。その井伊が具体的に採った策が、小野という隠れ蓑を使うということでした。すなわち小野を今川の懐に飛び込ませ、今川に小野と井伊は敵対していると思わせて油断させ、今川からの攻撃を直接攻撃ではなく小野経由の間接的なものにすることでその破壊力を鈍らせてきたのです。そうした意味で、小野は井伊の盾だったのです。

 盾として、小野はよく戦いました。政直時代から通算すれば、まず佐名を差し出して義元の怒りを沈め、直満を密告して井伊本家に害が及ぶことを避けました。政次時代には徳川接近という③の任務を直親と極秘裏に進めながらも、それが失敗したために直親を犠牲にすることで井伊家取り潰しを逃れました。徳政令後に今川から虎松の首を要求された際にも再び盾となって悪役を演じ、偽装工作を行って井伊家断絶を避けました。その間直虎とともに③の徳川接近工作を再開させていましたが、家康の裏切りによって井伊家再興は実現せず、最終的には積もり積もった恨みの責任をとって処刑されました。小野は戦い抜きましたが、それでも井伊家を守り抜くことはできず、力尽きてついに倒れたのです。

 政次を刺したのは直虎でした。政次の政策の失敗は、直虎の失敗でもあります。今川のデスノートに書かれていた名前は直虎です。徳政令の結果、死んだのは「直虎」としてのおとわでした。おとわは物理的な命は永らえたのかもしれませんが、戦国の世の武家の当主としての「直虎」は、政次が死んだ瞬間に一緒に死んでしまったのではないかと私は思います。私は以前の感想で「ドラマの直虎は政次を槍で衝くことで彼(のファルス)を完全に所有してしまったのではないか」という趣旨のことを書きました。政次を殺すことで手に入れたものは、しかしながら彼女が欲しいものではありませんでした。彼を槍で突き殺した瞬間に、彼女はこれまでの彼と彼女を縛ってきた、そして井伊から多数の悲劇を産んできた「武家のルール」に心底失望したのではないでしょうか。

 

武家のルール」のオルタナティブ

人柱の連鎖

 堀川城の悲劇を経て、さらに近藤を癒やすという赦しの経験をした彼女は、「武家のルール」から降りることを決意します。その後の彼女は井伊谷を力の論理ではなく、教育と経済で繁栄させる小ユートピアとして再生させていきます。

 私は今後の家康は、おとわが絶望の淵で掴んだ再生のきっかけと世界観の転換を、信康と瀬名の死を契機に追体験するのではないかと思います。ノベライズ等を読んでいないので全くの勝手な予想になってしまいますが、おとわと同様に絶望を味わった家康は、おとわが井伊谷という小宇宙で行った改革を、今度は日本全土というスケールで行っていこうとするのではないでしょうか。そして家康にとっての「信康・瀬名事件」は、おとわにとっての政次処刑と同じような意味を持ってくるのではないかと思います。

 その手がかりになるのはやはり前述の於大の方のセリフでしょう。

 

武家とはそういうもの。家を守るためには親兄弟も、我が子の命すらも人柱として立てなければならない。その中で生かされてきたのだと。そなただけ逃れたいと言うのは、それは通りませぬ。」

 

なぜ「武家は我が子の命すら人柱として立てなければならない」のでしょうか。それは当時の「日本」が戦争や殺人行為という力と血の論理で世の中を治める覇権主義の小国が群雄割拠する時代だったからでしょう。かつて武田信玄が語ったように、山間の厳しい土地である武田は戦に勝つことで敵国の領土を奪い、その奪った領土を分け与えることで国力を伸ばしてきました。覇権主義の群雄割拠が続く限り、武家は常に他家の領土を奪うことで自分の力を伸ばし、家臣には土地を安堵し、農民には耕作地を与えなければなりません。限られたパイの奪い合いをするために、武家は調略と戦争を繰り返します。調略はしばしば戦争を避けるために行うものですが、そこで戦争の代償として等価交換されるものは一族の首なのです。

 ですからこの群雄が土地の争奪をめぐって戦争を繰り返すというサイクルを止めない限り、「人柱」の因縁は続いていくのです。

 

「戦国という病」の処方箋

 土地とそこに住む人にとっても戦争は歓迎されるものではありません。人は減り、土地は荒れ、森林は切り出され、それが次世代に引き継がれて悪循環が繰り返されます。また『直虎』の世界観のベースになっているとも言われる<戦国=プチ氷河期>という考え方にも注意を払うべきでしょう。それはすなわち、戦争するから貧しいのではなく、貧しいから戦争が起こるという、原因と結果を逆転させる視点です。この視点から見れば、平和主義を理念的に唱えたり非戦を実行することだけが大切なのではなく、むしろ戦争の原因である貧困の解消こそが最重要の課題なのです。

 政次の死を経て武家のルールに嫌気が差した直虎は、領主時代の経験を生かして、この根源的な問題に取り組みます。「万千代編」で直虎が手がける綿産業や森林の再生は、このドラマの「戦国という病」に対する処方箋で、これこそが<城主直虎>が試行錯誤の末に行き着いた究極の政策なのです。

 さて、45話の展開を見て、私は今話が想像以上に11話、31~33話の展開に寄せてきていること驚きました。私は以前のエントリで、『直虎』の全体構造を予測し、3期に分けて考えるということについて書きました。その中で、城主編たる第2期(12~38話)は前半と後半に分かれており、それぞれのミッドポイントに政次関連のエピソードが置かれているのではないかという考えを示しました。

 第3期万千代編は、全体が第2期の城主編のダイジェスト版のリフレインのように構成されています。まず直虎と万千代の対立が描かれ、そして政次の悲劇と重なるように「信康・瀬名事件」が語られます。この事件は万千代が直虎にとっての「政次事件」を追体験するのと同様に、家康に「武家のルール」に従って生きることの本当の意味をつきつけ、むしろ彼に生き方の根本的な変革を迫るものになるのではないかと思います。

 家康が行った政策には色々ありますが、武家支配を肯定しつつも大名の軍事力を削ぎ覇権主義を廃したことは江戸時代の安定的継続に大きく寄与しました。また開墾、森林政策、治水事業など直虎が行ったのと同様の政策を全土に広げ、制度化したことも功績の一つです。野心的なことに、このドラマは家康を幼少期から登場させ、直虎の経験を家康に追体験させ、直虎が井伊の小宇宙で実現させた政策を家康が列島全土に実現させるという作りにすることで、直虎の功績を印象付けようとしているのではないでしょうか。

 次回気になるのは、この事件が直虎と万千代にとって持つ意味です。もしかしたら直虎は政次事件を思い起こしてしまうのかもしれませんし、万千代はそんな直虎と家康から何かを学んでいくのかもしれません。明日はこの点にも注目して見ていきたいと思います。

『おんな城主直虎』44話~3つの親子関係

    今話では万千代の手柄と出世のストーリーラインを軸にしながら3つの親子関係が描かれました。一つは直虎と祐椿尼、もう一つは直虎と万千代、そして最後は家康と信康です。

 

和解する親子:祐椿尼と直虎

 祐椿尼と直虎の会話は、今話の副題「井伊谷のばら」の元ネタ『ベルサイユのばら』におけるオスカルと父親のジャルジェ将軍の会話を下敷きに展開しました。直虎が生涯結婚せずに男の役割を担い、武家支配を疑問視して他の階級の人々と親しく交わるというキャラクター設定にしたときに、作者の中には『ベルばら』のオスカルのイメージがあったのではないでしょうか。このネタを終盤で入れることによって、ずっと悩み抜いてきた直虎が最終的には自己肯定する様子を描きたかったのではないかと思います。

 思えば直虎は自分の「役立たずさ」をずっと呪ってきました。その最たるシーンは12話の井戸端で酔いつぶれるシーン、36話で井伊谷をたたむと決めた時に井戸端で号泣するシーンです。彼女は12話では女であることを、36話では知恵や力が欠けていることを嘆きます。特に「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」という嘆きは自分の実存に関わる本質的な自己否定感だったことでしょう。

 直虎と比較すると、『ベルばら』のオスカルの悩みは今から見れば多少可愛くさえ思えます。オスカルは普段は自分が女であるということをほとんど気に留めていません。ジャルジェ将軍も自分をごまかしてオスカルを男として育て、男としての彼女に家督を譲ろうとします。オスカルは女でありながら当然のように男性の職につき、(部下の不信感や揶揄はあるとしても)そのことを制度の面から疑う人はいません。彼女の悩みは「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」ということではなく、「男性を愛した時に、男装している自分が女として見てもらえなかった」というものでした。しかもオスカルの恋が実らなかったのは彼女が男装していたせいではなく、男性に別に好きな人がいたからでした。

 それに対して直虎の悩みはより深刻です。彼女は自分が唯一の嫡出子でありながら女であるがゆえに家督を継げず、直親を死なせてしまいました。さらに直虎には「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」ということの他に、「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」という別の悩みもあります。これは祐椿尼に対して、そして自分の中の女性性に対しての申し訳の無さのような気持ちです。こうした思いは彼女がよく口にする「子もなさず」「孫を抱かせてやれず」という台詞に表れています。

 祐椿尼と直虎の親子はお互いに対して負い目を感じています。祐椿尼は直虎に対して「出家をさせ、後見につかせ、苦しい思いをさせ、女としての幸せを経験させてやれなかった」と思っています。その背後には正室でありながら男子をあげることができなかった自分を責める気持ちがあります。

 直虎は祐椿尼に前述のように「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」という二つの負い目を感じています。本来この二つは併存するものではないはずなのに、ダブルバインドのように直虎を呪っているのです。

 すなわちこの親子は二人とも「女と生まれたからには、<女の幸せ>(=結婚し、子をなす)を経験すべきである」という自分の考えを相手に投影し、母は娘を「かわいそう」だと考え、娘は母に「申し訳ない」と思っているのです。

 この状況に対して直虎は、「自分は不幸ではない」と母に伝えて安心させ、広い世界を経験できたことのメリットを強調します。さらに「嫌なことを強制されたことはない」と伝え、現状が母のせいではないと伝えて母の罪悪感を取り除こうとするのです。

 このやりとりは、直虎の自己肯定の宣言であると同時に、死に際の母の重荷を下ろすための最後の親孝行でもあったのでしょう。

 しかし私はやはり若干の疑問を感じざるをえませんでした。直虎が「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」という悩みを持つことは理解できます。そのために実際に直親に家督を譲るしかなかったのですし、それゆえに直親は殺されたのです。しかし「嫌なことを強制されたことはない」と言いながら、しかも何十年も出家していた身でありながら、なぜ彼女はいつまでも「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」、すなわち「子を持つ」ことがなかったことを自嘲気味に語り続け、自分を責め続けているのでしょうか。

 以前のエントリにも書きましたが、このドラマに時折感じられる「女の幸せ=結婚して子をなすこと」という通俗性がここにも感じられます。私は直虎の悩みはオスカルのようにもっとシンプルでもよかったのではないかと思います。すなわち「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」というもの一つで十分ではなかったでしょうか。その彼女にさらに「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」という悩みまで載せるのは少し酷なような気がします。それを載せてしまったら、彼女はまずどちらかの悩みが解消されてももう一つの悩みが必ず残るためそれに縛られ続けます。さらに「広い世界を知ること」というメリットは「子を持つこと」というデメリットのトレードオフとして位置づけられるため、広い世界を知って幸せだったとしても、それは「子を持たなかったこと」というデメリットを少しばかり上回るメリットにすぎないことになってしまうからです。

 とても感動的なシーンではあったのですが、そもそも「女の幸せ」を「(母が)与えられなかった」、「(娘が)受け取れなかったこと」の代償としての「広い世界」の称揚に思えてしまったという点において、100%感情移入することをそがれてしまいました。

 しかし、『ベルばら』ファンとしてはこのような引用は刺激的であり、考える素材を提供してもらった点には感謝したいと思います。とてもクレバーなシーンであり、非常に楽しんで視聴しました。

 

対立する親子:直虎と万千代

 祐椿尼と直虎が「和解する親子」であったとすると、直虎と万千代は「対立する親子」でした。「話をしよう」で始まる井戸端のシーンといえば18話を思い出さずにはいられません。今回はあの時に迫るテンションで直虎と万千代はお互いの本音をぶつけ合います。万千代は「井伊の領地に手出しはしない」と言っているのに、直虎はなおも粘って「徳川に井伊谷を与えられたらどうするか」とまで聞いてきます。

 万千代の論理は若く、武家のセオリーに従った真っ直ぐな正論です。万千代は他の考え方を知りませんから、「不当に奪われた(ように見える)先祖代々の土地は力で奪い返して当然だ」と主張します。それに対して直虎は「武力で奪った土地をまた武力で奪い返されるなど不毛、見栄の張り合いなどくだらない」と切り捨てます。

 万千代の論理が青い正論であることは、次回あたりに岡崎の悲劇が起こった時に「力による奪い合い」の不毛さが万千代に示されることであぶり出されるのではないでしょうか。むしろ私は直虎の論理の極端さに注目したいと思います。

 直虎は「井伊谷は近藤と自分でうまく回しているのだから、引っ掻き回さないで欲しい」という理屈で万千代による井伊谷奪還を牽制します。しかしこの理屈はかつて井伊谷を追われ、近藤のせいで家を取り潰された18歳の万千代の目にはどのように映るでしょうか。ものにはいいようがあります。直虎がもう少し友好的な態度で万千代に一から噛んで含めるように話してやってはどうかと思うのです。前提を共有しない相手に対して、まず相手を否定の言葉から入るのは、相手の警戒心と反発を強めることしかしません。直虎は経験豊富な親代わりなのですから、事情を知らない万千代に彼の不在の井伊谷の様子を話して聞かせ、彼の気持ちを受け止めた上で、なぜ近藤と組むことが得策かを論理的に説明すればよいのではないでしょうか。

 それらの作業をすべてすっとばして、いきなり万千代に「近藤とうまくやっているからお前は手を引け、勝手にやれ」と言い放つのはあまりに分かりにくく、しかも親族の情に欠けるのではないかと思います。最近の直虎には政次みが増しているという指摘もありますが、私は直虎がここで政次を演じる必然性は必ずしもないのではないかと思います。なぜなら直虎と万千代は本来的には対立する関係性ではないからです。考え方が違うとはいえ、万千代は直虎の後継者、しかも親族です。もっと素直に心配してやったり愛情をかけてやってもよいはずですが、直虎はなぜか万千代にことさら冷たくあたります。

 おそらく万千代パートでかつての政次と直虎の対立を再現し、直虎がいまや政次となって万千代を導く立場にあることを強調するための演出なのでしょう。しかしその形にはめるために直虎に必要以上に万千代に厳しくさせている気がして若干違和感があります。つまり対立を作らなければならないという形式上の要請のために必然性のない対立が人工的に作られているように思えてならないのです。

 その矛盾は直虎の政策の不思議さに表れます。直虎はなぜそこまで近藤を信頼するのでしょうか。近藤は悪い人物ではありませんが、武家の論理に従って生きる典型的な武士です。近藤は直虎が自発的にファシリテーターとして仕えてくれる都合の良い人物なので重用していますが、一度事が起これば近藤家の利益のために民衆を犠牲にする用意のある人物であることにかわりはありません。すなわち直虎自身は戦のない繁栄した社会を作るという理想のもとに奮闘しているのでしょうが、その彼女が仕えるトップは戦を生業とする普通の武士なのです。

 「今の立場の方がやりやすい」と言っていますが、やはり自分がトップとして直接政策を行うほうが話が早く、しかもやりやすいことも多いのではないかと思います。ですから直虎がこれほどまでに近藤の顔色を伺い、万千代の行動を敵対視する必要があるのかどうか、疑問に思います。

 しかし前述したように、これは政次と直虎になぞらえて親子の対立を頂点まで描くためのプロット上の工夫なのでしょう。そしておそらくは万千代の方が直虎の正しさを知るという展開が早晩起こるのでしょう。

 ただし私はこの対立が早めに解消し、万千代が直虎が学んだこと学び、井伊谷の歴史や政次の深い思いを踏まえて更に一歩踏み出すような展開が早く来ることを望みます。

 

理解から誤解へ:家康と信康

 最後の親子関係は家康と信康、今週は「理解から誤解へ」と坂を下るように関係が暗転するさまを見せられました。二人の直接のからみはなかったものの、おそらくは武田が放った間者は家康暗殺というベストシナリオは逃したものの、浜松と岡崎の間に不信感を生むというプランBは達成しました。来週はあの幸せそうだった親子がどうなって悲劇へとつながっていくのか、その過程を手に汗握って見たいと思います。シェイクスピア悲劇のような、あるいは(そして)黒澤明監督の『乱』のような華麗な悲劇が見たいですね。

 「和解する親子」「対立する親子」「関係が悪化していく親子」という三種の<親子関係>のバリエーションで楽しませてくれた今話。次回は夫婦、親子という家族の問題が焦点になりそうな気がします。それが直虎と万千代の間柄にどのように影響していくのかも注視して鑑賞したいと思います。

『おんな城主直虎』43話~報奨分配の技術、森林の再生、『ほぼ日』対談について

2つの戦後処理

 43話では万千代の小姓としての活躍と、井伊谷での森林伐採の後日譚が並行して描かれました。どちらも切り口が興味深く、さすがの脚本と思わされる展開でした。私たち熱心な視聴者はこのクオリティに慣れて当たり前のように考えがちですが、他のドラマと比較すると脚本の練られ方の差は一目瞭然。ここまで細かく言えば疑問符のつく回があったかもしれませんが、ほぼずべての回でメッセージ性の明らかな密度の濃い作話がなされていることは驚きに値します。特に万千代編になってからは、浜松と井伊谷の両方で一話ごとに一つずつ小アーチが描かれており、脚本の密度はさらに上がっているように感じます。そのどちらも、片方だけでも一話できそうな歯ごたえのあるテーマです。それが2つ並行して語られて、しかもなぜか齟齬を起こさない。一つのドラマで二倍美味しいような充実感があります。

 それはおそらく、2つのプロットが一つの大きなアンブレラ・テーマのもとに収まっているからでしょう。例えば今話では、万千代の浜松における活躍は長篠の戦いの論功行賞をめぐって行われ、直虎の井伊谷での課題は森林の乱伐のあとの土砂崩れや水害でした。ある意味どちらも「戦の後始末」、さらにいえば戦争という経済活動の利益と損害をどのように処理するかということにテーマがおかれました。戦記物の大河多しとはいえ、ここまで戦後処理にフォーカスして描いた大河が過去にあったでしょうか。歴史を通して現代社会にコメントするという意識の特に高い『直虎』ならではのエピソードでしょう。

 

「空白」の存在感

 万千代が「色小姓」を自称するきっかけにもなった長篠の戦いの論功行賞は、利害の異なる雑多な新旧家臣団に戦争の功績をどのように分配するかがその焦点になりました。家康は論功行賞をうまく行うことが自分の最も重要な役目だと語ります。「働きに応じて報いなければ人は動かない」という家康、論功行賞は、「人を使うことが最もうまい」という現代の多国籍企業のCEOのような性格付けをされた家康が、その真価を発揮すべき重要なタスクです。

 その難題について、家康は万千代にアイデアを求めます。それに対して万千代は、「まずは情報を整理してからインプットしてはどうか」と進言し、各武将を出身地と首の数でソートした一覧表を作成します。そのうえで表を分析し、首の数に表れない貢献をした岡崎にさりげなく報いることを進言します。ここで万千代が行った作業を「現代で言えばExcel」と評したTweetを読んで、世の中には優れた表現を思いつく人がいるものだなあと感心しました。それにあえて付け加えるとすれば、ここで万千代はExcelシートをもとに量的に分析したうえで、その社会的背景についてさらに質的分析を行い、最終的には数値だけにとらわれない量と質のバランスの取れた結論を出しています。

 この過程を見て、私は何故か学校教育の現場と全国学力調査の関係を想像しました。学力調査のようなもので出てきた数値は重要なのでしょうが、それで高得点をとった学校だけに機械的に予算を重篤にするというような措置は政治的に見てもおかしなものです。それぞれのその学校が置かれた地区の状況も関係してくるでしょうし、学校の性質の違いもあります。学力調査で測る数値が全ての教育活動の唯一の尺度ではありません。別の尺度で成果を上げている学校にも相応の評価を与えなければ、行政府に対する不満は募るでしょう。

 万千代の作成した表をきちんと画面に見せたことはとても面白かったと思います。表を見て、私たちにも岡崎の周辺の空白が視覚的に理解できました。「表の分析においては、空白は埋まっている箇所と同じくらい意味がある」といいます。この不自然なほどの空白が、家康と万千代にかえって岡崎の功績を印象づけたのではないでしょうか。万千代の進言は家康が功績を認めるということであり、家康の結論はそれを行ったうえで城を一つ今川勢に任せるというものでした。今川を厚遇することは、岡崎を贔屓するようには見せずに瀬名と信康の立場を良くすることにつながります。しかし最大のポイントは、トップである家康が目立たない働きでもきちんと認めているというジェスチャーをすることでしょう。量的分析を踏まえた質的分析によって空白のメッセージを読み解いた二人の、血の通った戦後処理の方策がここにありました。

 ただし、忘れてはいけないことは、これは戦の勝者の収益の分配であるということです。これは私たち『直虎』視聴者には慣れない場面です。これまでの井伊谷は負け戦に次ぐ負け戦で、敗戦処理は常に負債の整理でもありました。そのツケが徳政令騒動を引き起こし、井伊谷滅亡=井伊谷破産という結果を招いたのです。戦争は博打のようなもので、当たれば大きいのかもしれませんが、はずれは文字通り死を意味します。戦争は究極的には経済的利益のために行うものです。今回の徳川の仕置は、あくまで戦争という血とカネと命の博打のゲームのルール内で行われていることです。戦争を回避し、生産活動によって経済的利益を生み出そうとした直虎の姿勢とは根本的に異なる政治的調整がここでは行われていることには注意を払っておくべきでしょう。ですから表面的には収まったように見えて、いつ禍根や陰謀に足を救われるかわからない束の間の小康状態なのです。

 

未来への投資

 直虎が井伊谷で直面したのは、家康や万千代が扱った問題とは性格を大きく異にするものでした。それは戦争によって乱伐された森林のあとの「禿山」をどう処理するかということでした。再植林というのが最も理にかなった答えでしたが、それにはヒト・モノ・カネ・時間の初期投資が必要です。しかも今回問題だったのは、植林の作業を直接の受益者ではない井伊谷の農民が請け負ったということです。そこには甚兵平の絶妙な仲裁がありました。彼の主張は「山は人を区別しない、平等に襲ってくる」というものでした。

 今回の森林伐採問題は、明らかに現代社会における自然環境破壊問題のアナロジーでしょう。誰か遠くの人の利益のために破壊された自然環境に、地元の人がどう向かい合っていくか。破壊したのは彼らだから自分らには関係ない、そう言って捨て置ければよいでしょう。しかし一度天災が起こった時、被害にあうのは地元の住民なのです。この不条理な状況に対して、甚兵衛と直虎は「長期的な投資」が地元の利益につながるという考え方で立ち向かいます。それは直虎が第一次徳政令騒動の時に農民に伝えていた考え(「目先のことばかり考えるな」)と同じでした。

 「清風明月を払い、明月清風を払う」この言葉がどのように回収されるか楽しみにしていました。ものすごいロングパスでここで回収されたのですね。個人的にはこの言葉は政次との関係で回収されてほしいと願っていたのですが(月だけに…)、これはこれでとても素敵な回収のされ方でした。

 森林についてはロケも見事でした。脚本が早いという森下さん、早く上げることで計画的に森林の場面を撮りだめておくことができたのでしょう。よく見ると、破壊された森林の場所と、植林の場面、木がある程度育った場面は別の場所のようです。しかし森林の生まれ変わりの過程を、破壊、植林、再生の3つの場面に分けて見せてもらえて、とても見ごたえがありました。単に「破壊された森に再び木を植えて、それが育った」とセリフで言うのと、実際にその過程を見せられるのでは感動の深さが違います。最後におとわが甚兵衛に語りかけるシーンは、無理なく年月の流れを描写して未来への展望を感じさせるものでした。

  今話の『直虎』は奪った側の利益の分配(浜松)と、奪われた側の負債の整理(井伊谷)の話でしたが、むしろ奪われた側の方に希望が感じられました。なぜならそこには血とカネと命の禍根がなく、奪われた側自身があえて自分から与えるという正の循環が生まれているからです。『直虎』の大きなアーチの一つである「戦わないこと」「奪わないこと」という姿勢の勝利が静かに歌われているような清々しさが感じられました。

 しかし直虎と万千代、仲直りをしないままに三年の時が過ぎてしまいましたね。薬の件に関しては、直虎は万千代のもとに渡ると知っていて黙認しつつ協力したような形になり、万千代もそれを薄々感じていたとは思います。しかし表立った感謝の言葉もなく、さらには万千代の方に家康の信頼厚い直虎に対する嫉妬や反発も感じられるありさまで、なんだか思ったよりも直接的な交流がないまま多くの時が経ったように感じます。これで直虎は万千代の有効なメンターたりえているのでしょうか。少し不安でもありますが、次回の展開を見守りたいと思います。

 

おまけ:『ほぼ日』インタビュー雑感

 『ほぼ日』の「連ドラチェック」、思わぬ舞台裏の話が聞けたりしていつも楽しく読んでいます。前回も直親と政次の真相が聞けたりして面白かったのですが、今回は政次と龍雲丸の話という核心に触れる内容で、手に汗握って読みました。

 政次の死については、最初は直虎は読経をするという構想だったのですね。そこから「直虎は何か行動するのでは」と思い立ち、ただひとつできる行動である「槍ドン」をさせることにしたのだそうです。読経に比べて「槍ドン」は、その行為だけ見れば直虎の性格にも合っていますし、インタビューでも書かれていたように高橋さんにとってはやりがいのあるシーンだったと思います。このインタビューでは名前のないインタビュアーさんが結構よい発言をされていると思うのですが、これもその方の発言です。

 ──

    だって、いままさに死ぬという間際に、

    井伊家に反する立場を「演じる」わけだからね。

    それを役者として「演じ」て、

    二重に「演じながら」死ぬわけだから。

 

 演劇や映画の世界ではこのような自己言及的(self-referential)な演技は高度な技術と言われており、それをやりこなせる役者は評価が高いとされています。しかしここで高橋さんが演じているのは単なる演じる人を演じるというだけの役ではありません。時代劇における武士の死という最大の見せ場で、演技する人を演じながら、愛する女と相対し、その女に刺されて死ぬのです。どれだけたくさんの要素を同時に操りながら演じなければならないのかと考えると気が遠くなりました。ここで政次は世にも恐ろしい処刑の恐怖と向き合いながら、突然現れた直虎に驚き、彼女に突然刺された痛みに耐えながら、彼女をかばいつつ、必死に悪役の演技をして、彼女に最後のメッセージを告げているのです。これを大河の枠で演じられるのは、高橋さんにとって役者冥利に尽きる経験だったことでしょう。

 しかしこのような壮絶な場面を見ているからこそ、私たち視聴者は2つの意味で後遺症が残りました。一つはこれほどの犠牲を払った政次の存在の「事後処理」について、もう一つはその後の高橋さん出演のテレビドラマに対するフラストレーションです。ただしこれらは進行中の課題ですし、私もこれまで部分的に言及してきているので、ここでは繰り返しません。

 このインタビューでは、直虎と政次の関係に関する森下さんの考えの一端のようなものも聞くことができました。

 

あやや

    そう。

    あれは、ほんとに‥‥愛ですよね!

森下

    まぁ、そうですねぇ。

    きっと、そうとしか言いようのないものですよね。

 

 なにか相手に促されて言わされている感は否めませんが、森下さんの中でも直虎と政次の間には「きっと、愛としか言いようのないものが、まあ、あった」という認識があることは分かりました。ただし「まあ」「きっと」など、何か歯切れが悪い感じがすることも確かです。

 それに対して龍雲丸に対する解答はとても明快でした。

 

森下

    龍雲丸に関しては、いろんな意見があって。

    オリジナルキャラクターと

    実在の人物を結びつけるなんて!

    という人もいれば、

    やっとしあわせにしてくれてありがとう、

    みたいに言ってくださる人もいて。

    でも、政次が浮かばれないじゃん! イヤ!

    とか、いろんなご意見があるんですけど、

    私がいま、一周回って思ってるのは、

    たったひとり結ばれた人がオリキャラなんて、

    なんか、それはそれでしみじみ悲しいなぁ、と。

  

 この発言から、視聴者の反応というのは結構正確に制作陣に届いているのだなということが分かりました。そして「一周回って」の作者の感想が「たった一人結ばれた人がオリキャラとは悲しい」というものだったのは興味深いと思います。やはり作者というのは、あくまで主人公の視点を中心に考えるのですね。本来ならば誰とも結ばれないはずの直虎だったが、龍雲丸がオリジナルキャラクターだったからこそ結ばせることができた、しかしオリジナルキャラクターだからこそ、本当な誰とも結ばれていないのであり、やはり主人公は「悲しい」存在なのだ、ということのようです。直虎が「悲しい」存在だとは思えなかった私にとっては、新鮮な驚きでした。

 

森下

    そうそうそう、

    だって、しあわせな恋愛、

    あんまり書く気ないもん(笑)。

  

 作者が「普通の」「幸せな」恋愛は書く気がない、というのは何となく分かる気はします。龍雲丸との恋愛も、口に出さずとも二人にとっては政次の屍の上に築かれた砂上の楼閣のようなもので、二人の社会的立場が消滅していた一定期間にのみ可能な不安定な関係でした。

 しかしそんな関係ですら、直虎にとってみれば唯一の「結ばれた相手」だったのが龍雲丸であり、それは作者の主人公に対する愛情から出た精一杯のご褒美のようなものだったのですね。

 私はやはりこのあたりの考え方が、作者とは根本的に違うのだろうと思います。収支決算をするように恋愛要素を入れなくてもよいのではないかと思いますし、また普通の恋愛を描く描かないは脇に置くとしても、何がロマンチックかということに対するポイントの置き方も違うのだろうと思います。

 ロマンスに関する作者のセンスと視聴者である自分の感性が合わないというのは、もう如何ともしがたいものです。それに対する対処方法は人によりけりなのでしょうが、私はこうやって時々振り返って考えながら、ドラマの方はその他のメリット(現代社会に対するコメンタリーとして、脚本の練られ方の巧みさを愛でる、菅田将暉さんの演技を楽しむ)を享受しながら最後まで見ていきたいと思います。

 冒頭でも述べたように、これまでの全体を通しての脚本、演技、演出、音楽、衣装の完成度は非常に高いものです。21~23話、34~38話には疑問の残る展開がありましたが、それでもここまでクオリティを維持してくれ、あまつさえ終盤に向けて巻き返している感があることには本当に感謝です。

 次回はなんと「井伊谷のばら」。ここにきてなぜ『ベルサイユのばら』を蒸し返すのか、何か挑発的な香りのするサブタイトルに、期待が高まります。

『おんな城主直虎』42話~万千代と家康に見る理想の上司・部下関係、おまけで高橋一生さんにやってほしい役など~

一人じゃないのよ

 直虎対万千代の第三ラウンドを期待した今話、残念ながら本格的な対決はありませんでした。今話では万千代と家康の関係に焦点が置かれ、人が見ていないとこでする努力と、それを見定める上司の力量をテーマに話が進行しました。

 万千代は留守居を命じられた上に、酒井の一門の小姓から武具の手入れを押しつけられます。そこで腐らずに、丹精込めて手入れをする万千代と万福。出世に目がくらんでいるとは言え、人が見ていないところで手抜きをせずに全力を尽くして努力する万千代の姿には、かつて下伊那に落ち延びて努力の末に武芸を磨いた父、直親の姿が重なります。二人とも、何の後ろ盾もない他人のフィールドで、いつか認められる日が来ることを信じて努力を重ねたのです。

 思えば直親と万千代はその育ちに共通性があります。二人とも幼いころに家を終われ、命を狙われて、流浪の地で他人に認められることを唯一の頼みとして身を処していかねばなりませんでした。しかし万千代が親世代と違うところは、彼は一人ではないということです。

 最近『直虎』の最終シーズンのポスターを見ていて改めて感じたことがあります。万千代のポーズは、城主編のポスターで直虎がとっていたポーズ(あぐらをかいて座っている)と同じです。しかし直虎が一人で広間に座っていたのとは対照的に、万千代は井伊家の先祖を表す井戸端に、井伊の象徴である橘の木をバックとして座っています。そして向かって左手の背後には直虎が守護天使のように立ち、右手で直親の太刀を守り神のように立てています。これが象徴するのは、万千代は「一人ではない」ということです。井伊家のすべての人々の奮闘と命のリレーが万千代の背後にあり、そしてその左右は直虎と直親がしっかりと固めているのです。

 一人で奮闘した直虎、直親、政次と違って、万千代には腹心の部下である万福がいます。そして万福とは別の意味で政次を思わせるブレーンのようなノブもいます。故郷にはメンターである守護者の直虎もおり、上司には人を使う才能に溢れた家康がいる。「直政編」が井伊家滅亡の後日譚でありながらどこか希望に溢れているのは、むろん私たちがこの後の井伊家の繁栄を知っているからでもありますが、万千代が周囲の人に支えられ、守られているということも大きいと思います。ほぼ十ヶ月間、命の削り合いのような「直虎編」を見続けてきた視聴者が、ようやく少し安心して万千代の出世物語を楽しめるのは、これまで物語が蓄積してきた井伊家の苦しみ、恨み、悲しみといった負の感情のエネルギーが、ようやく万千代という集積ポイントかつ発射口を得て、正の方向へはけ口を見出したからなのでしょう。

 

さすがは裏切り者

 万千代の影の働きは、一度は酒井の小姓の小狡い手柄の横取りによって日の目を見ずに終わるかに見えました。しかしここで万千代はノブと重要な会話を交わします。ノブは万千代に「さすがは潰れた家の子と言われるような働きをすればよい」とアドバイスします。しかし万千代は最初はその意図が分からず、苛立って「ではノブはさすがは裏切り者と呼ばれるような働きをするということか」と返します。ノブは一瞬怯みますが、すぐに「もちろんそのつもりだ」と自信満々に宣言します。

 「さすがは裏切り者と呼ばれるような働き」とは何なのか、現時点では我々には分かりません。しかし一つだけ連想されるのは、かつて裏切り者と呼ばれた政次の働きです。政次は、小野が犬となって井伊と対立することで井伊の命脈を守ろうとしました。ノブが考える「裏切り者としての働き」も、もしかしたら人々の「あいつはどうせ裏切り者」というレッテルや先入観を逆手に取った策略になるのかもしれません。

 同様に万千代にとっての「さすがは潰れた家の子と呼ばれるような働き」が何なのか、こちらも今の私たちには分かりません。しかし万福が言った「井伊の殿が今、井伊で行っていること」が参考になるのかもしれません。直虎は潰れた家の主であることを生かして、近藤に警戒心を与えずに井伊谷の民にとって役立つ政策を提言し、必要ならば調整役も買って出て井伊谷をよりよい方向に向かわせようとしています。万千代もおそらく近い将来、直虎の方針に学ぶような働きを徳川でする機会があるのではないでしょうか。

 

究極の上司とは

 闇に葬られそうになった万千代の働きですが、人を見る目のある家康は酒井の小姓の嘘を見抜いて万千代の働きに気づきます。そして誰の顔を潰すこともなく、密かに万千代を寝所に呼んで労をねぎらおうとします。

 『直虎』は徳川家康を一貫してやや臆病なところのある普通の人に描いてきました。しかし一つだけ人より優れたところがあるとすれば、それは忍耐強く周囲とよい人間関係を築いていくということでしょう。その最初の兆候は、今川館で雀を手なづけたところに描かれました。その後も直虎に興味を持ったり、近藤の二心を見抜いたり、今川氏真を救ったり、堀川城を救おうとしたりと、その人柄の良さと人を見る目の確かさを示すエピソードは何度か挿入されてきました。

 家康と信康との会話はそれを象徴しています。信康は自分は「人の子」だから、常人ではない信長と親しくなることはできないと言います。疎遠に思われている家康と信康が実は親子の情を結び、仲良く囲碁を打つ姿に、家康の信康へのこれまでの接し方や彼の人柄が垣間見られます。だからこそ、ここまで良い関係を築いている瀬名と信康をどのような経緯で切り捨てることになるのか、ますます謎が深まります。

 理想の上司像には様々あることでしょう。明確なビジョンを描いて強いリーダーシップで皆を導くタイプもあれば、仕事が円滑に進むようにきちんと計画を立てて堅実に物事を進めていく事務処理能力の高いタイプの上司もいるでしょう。しかしどのようなタイプであっても上司に共通してもっていてほしいクオリティとしては、「人を見る目が確かである」ことと「適材を適所に活用することができる」ということがあげられると思います。人を生かすのも殺すのも、才能を見出し、使ってくれる人がいるかどうかにかかっているからです。

 最近『民衆の敵』を(1.5倍速ぐらいで流して)見ながらも、ふとそんなことを考えました。主人公は学歴や職歴のない女性で、市議会議員の立候補の動機も元はといえば「よりよい転職先」程度のものでしたが、彼女にはリーダーや代弁者としての資質や、人のために何かするという純粋な心がありました。それを見出し、彼女に実務的なサポートを与え、彼女をプラットフォームに載せたのは、石田ゆり子という実務能力のある女性でした。篠原涼子のキャラクターも逆に支持者である「ママ友」たちの中に様々な能力を見出し、それを引き出して活用します。

 世の中に才能や能力のある人は大勢いますが、皆がそれを認めてくれる人に出会えるわけでも、能力を活用する場が与えられるわけでもありません。私たちが『直虎』の今話の展開にカタルシスを感じたのは、人間なら誰でも多少は持っている「自分の能力や努力を正当に理解してほしい」という願望が、万千代を通じて擬似的に満たされたからではないでしょうか。

 他人の能力を正当に認めるということは、口でいうほど容易いことではありません。人は皆、どこか不安を抱えて生きています。上司と呼ばれる人も、やはり自分自身が一番可愛いのです。だからこそ自分の不安を脇におき、他人の優れた点を認めるということは、並大抵のことではないでしょう。そんな得難い存在であるから、家康は『直虎』において一番の大人物であり、究極のボスたりうるのだと思います。

 家康の衆道疑惑は非常に面白い展開であり、純粋にエンターテイメントとして楽しめました。しかし『直虎』のことですから、これを単なるサービスエピソードとして放置することはないでしょう。次回あたりで早速回収して、私たちが予想もつかない展開でさらに楽しませてくれるのではないかと期待しています。

 

おまけ:一生さんにやってもらいたい役

 今週Twitterで「一生さんにやってもらいたい役」で会話がはずみました(と言うわりには私自身はあまり参加できなくてすみません。今週は本当に忙しくて、Twitterは書くことはおろか読む暇さえもあまりないほどでした)。トニー・レオンからウォン・カーウァイ監督へと話が進み、その他にも中国語圏の映画を中心に高橋さんにやってもらいたい役について想像が膨らんで、楽しかったです。

 私自身が推したのはウォン・カーウァイ監督の『花様年華』のような映画です。他のウォン・カーウァイ監督作品を思い返してみて、それよりもっと似合う役があるか考えたのですが、やはり『花様年華』が一番だという結論に達しました。

 『欲望の翼』のレスリー・チャンの役も候補として考えてみました。高橋さんならチンピラな人でなしのプレーボーイもはまると思うので、この役もある程度はこなせるでしょう。しかしあの役はレスリーの自分勝手さ炸裂の強烈なスター性があってこそのものです。『ブエノスアイレス』を見ても、攻めのレスリー・チャンに対して受けのトニー・レオンという感じで、トニー・レオンには自分勝手な人に振り回される役がよく似合っています。また自分を前面に出すより、やや後方から抑えた存在感を放つ役もぴったりです。一生さんにトニーの役柄が合っているというのは、本当に言い得て妙だと思います。

 『花様年華』は『欲望の翼』の精神的続編とも言われていて、マギー・チャンの役などはほぼ『欲望の翼』を引き継いでいます。トニー・レオンは妻とうまくいかない寡黙な作家の役です。トニー夫婦はある日マギー・チャン家の隣に引っ越してきます。トニーとマギーはお互いの配偶者同士の不倫を疑い、それをきっかけに結びつきを強めていきます。しかし二人の関係は容易には発展しません。お互いを探りあいながら本当にゆっくりと少しずつ二人の関係性は変化していきます。夜の屋台帰りの階段での邂逅、そして作家の部屋でのひとときと、赤と黒を基調としたダークな色調に二人の抑圧した思いが静かに色濃く浮かび上がる、詩的で芸術的な映画です。

 即興性を愛するウォン・カーウァイ監督作品ですから、セリフは極力少なく、あったとしても本当に重要なことはほとんど語られません。感情を抑え、言葉を使わずに、究極の感情のほとばしりを描く、まさに政次みのある役柄です。こんな究極のラブ・ストーリーを高橋さんが演じてくれたならどんなに素敵だろう、と想像してとても楽しくなりました。

 言葉の壁があるかな、とも思いましたが、ウォン・カーウァイ監督の映画には過去に木村拓哉も出演しています。タランティーノの『キル・ビル』にも出演した高橋さんですから、不可能ではないでしょう。邦画も良いと思うのですが、海外の巨匠と組んでぜひ映画を撮ってもらいたいと思います。

 というのも、最近の高橋さんの出演作を見ていると、高橋さんの能力を最大限に活用しているものばかりだとは思えないからです。どれも佳作だとは思いますが、高橋さんのリミットに挑戦するのは、やはり『直虎』くらい歯ごたえのある脚本でなくてはならなりません。出てきただけでその場に変化を与えられる今の高橋さんであれば、ウォン・カーウァイ作品のようなものもいけるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。あるいは日本の才能ある映画監督が、よい脚本の映画で彼をぜひキャスティングしてほしいですね。