Aono's Quill Pen

青野の鑑賞記録 ~溢れる思いを、心ゆくまま~

『おんな城主直虎』32話「復活の火」①愛することは赦すこと、政次となつ

 さて、そもそもこのテーマについて書くために始めたブログ、自分の中ではやや苦手分野ではありますが、登場人物の関係や心理を中心に思うことを書いてみたいと思います。

  32話、初見では鋭い衝撃、再見ではボディーブローのような鈍い痛み、しばらく言葉を失い、そして鶴丸少年の顔が脳裏に浮かんで胸が焼けたように熱くなり、涙がこみ上げました。あのかわいい鶴丸少年、おとわの背中をひたすら追いかけ、井戸では枝をシャンシャンしながら慰め、時に叱咤し、見つめ続けてきた、賢く、まっすぐで、優しく、強い、私の愛しい愛しい鶴丸が、少年時代の思いにけじめをつけ、たとえ不完全で、弱く、愚かに見えても、自分の立ち位置を自分で決めてすっくと立ちあがったように思えたからです。

 政次となつのシーン、私の印象はこうです。なつに「徳川が攻めてくればすべてが終わり」と別れを示唆されたとき、政次は純粋に虚をつかれて、反射的に「それはいやだ」と思った。それがはっきりと表情に出ていたと思います。政次はもうずっと、ぼんやりとながらもなつの処遇を考えていたのだと思います。外面的には、世間から後ろ指をさされてでも自分に寄り添ってくれた人を、役目が終わったからといって放り出すわけにはいかない。父も兄も姉も甥も去ったなつを心細い境遇にはしておけない、と。

 内面的にはどうでしょうか。政次がなつに感じる感情の第一は安心です。政次はなつのまえでよく酒を飲んでいます。家での晩酌はプライベートな空間でリラックスしていることの象徴、それを共有しているということは、なつの前では仮面を脱いで素の自分を出してきたということです。最初からそうだったとは思いませんが、年月を重ねるうちに、だんだんそのようなうちとけた関係になってきたのでしょう。

 第二は信頼です。なつは政次のために何度も助け舟を出してきました。父の敵であり、獅子身中の虫である小野に自ら飛び込んできてもくれました。その信頼があるから、政次はなつに盗賊の逃走支援などの危険なミッションも託したのです。

 第三は暖かい家庭生活に感じる心地よさです。家に帰っても一人ではなく、元気な子どもの声が響き、心を込めて衣食の心配をしてくれる優しい女性がいる。それは家族の愛情に乏しかったと推測される政次にとって、手放すのが惜しいものだったに違いありません。

 さて、では信頼と安心と心地よさは、誰かと結婚するに十分な条件でしょうか。現在の感覚から言えばおそらく違うのでしょう。視聴者の違和感の根本もここにあると思います。古臭いクリシェで恐縮ですが、ロマンチック・ラブにおいては、性的欲求を通底として一対一の男女の間で結ばれる恋愛感情が結婚の前提になるべきだとされています。政次のなつへの気持ちには、この恋愛感情の温度は低いと思います。しかし私は高橋一生さんの演技から、それぞれの温度は低めでも、性的欲求、独占欲、美しい女性に惹かれる気持ちなど、現代の恋愛結婚の基準のしきい値をぎりぎり超えてくるものを感じることができました。それらは自覚的にセカンド・ベストを選ぶ諦めの気持ちではなく、なつへの積極的な気持ちだったと思います。これが第四の感情です。

 ではその第四の感情はその場で別れを切り出されたリアクションとして突然湧いてきたものなのでしょうか。私は違うと思います。その気持も、徐々に彼の中に育っていったものです。18話で駿府から肉球落雁のみやげを買ってきた時、政次はなつの喜ぶ顔を想像し、相手を思いやりながら選んだのだと思います。

 また25話でなつが抱きついたとき、私は政次がなつの手をきちんと触って、決して振りほどこうとしなかったことに驚きました。あれを「拒絶」だとは思えませんでした。それくらい優しい空気を少なくとも政次はまとっていたと思います。なつを傷つけたのは、政次と直虎との見えない絆を察知するなつ自身の感受性の強い心でした。

 では結婚を切り出すタイミングがなぜ今なのか、もっと早ければ、というのは本当にその通りです。それが男のエゴに見える一つの理由でしょう。しかしこれは純粋にドラマの構成上の都合だと思います。

 このように外面的だけではなく内面的な動機も持っている政次が、なぜ婚姻を「形だけのもの」と言ったのか、そしてその後の二人の抱擁はいかなる意味を持つのでしょうか。

 まず「形だけ」と提案したのは、なつが自分と実質的な夫婦になる、すなわち性的関係を結ぶことを望んでいるかどうか、政次には分からなかったからだと思います。ただでさえ人の気持ちには臆病な政次、まして相手は弟玄蕃の妻です。その遠慮を察したなつは、すぐさま行動に出ました。「義兄上をお慕いする」とはっきりと言葉で伝え、そして自分から政次に体を預けて、実質的な夫婦になりたいと意思表示をしたのです。政次が少し戸惑ったのは、「自分と実質的な夫婦になりたいと思ってくれているのか」と驚いたから、ぎこちなく手を添えるのは、おそるおそるもその気持に応えようという意思の表れだと思います。私は政次は、初めて自分の意思で、自分から、自分の好きな人に、自分だけのものになってほしいと告げることができたのだと思います。

 もちろん完璧な関係ではありません。自分の直虎に対する愛情が消えたわけではなく、直虎にぶつかって玉砕したわけでもない。そのことをなつに告げることで、なつを傷つけ、一生心理的な負担を背負わすことを強いたわけです。政次を責めることができるでしょうか。私にはできません。直虎を愛したことも、それが叶わなかったことも、それでも思いを消しされないことも、彼が計画したことではなかった。そしてなつに感じる信頼や低温の恋愛感情も事実で、さらに外面的にも何らかのけじめが必要とされている。政次は全てのカードをテーブルに置いて、フェアに勝負したと思います。

 そしてなつには選ぶ余地はありません。愛した人が、別の人を愛していて、でもその愛は事情があって成就しない。選択肢は2つ、その人を諦めるか、それとも別の人を愛する人をより大きな愛で包み込むか。後者は自分が彼と同じ次元に立ってはうまくいきません。同じ次元に立てば、しのと同じ苦しみが待っています。高次の愛を貫ける覚悟があればこそ、後者を選ぶことができる。究極の愛は、愛する対象が自分を愛するかどうかすら問わないもの。相手の欠点や罪をもなかったものとすること。愛は赦しです。私はなつはそれができる可能性のあった人だと思います。だから政次が選んだのです。

  そのような愛のリファレンスとして思いつくのは、河惣益巳『サラディナーサ』(白泉社)で主人公サーラがリカルドに言うプロポーズ「今でもレオンが一番好きで、ドン・ファンも好き。でも生きている人間ではお前が一番よ、それじゃダメなの?」(記憶をもとに書いているので逐語ではありません)。サーラの男たちに対する愛情をずっと見てきて、それでもサーラから離れることができないリカルドには、もちろん選ぶ余地などない。

  ちなみに『サラディナーサ』は16世紀のスペインとイギリスを舞台にフェリペ2世治世下の海戦を描いた歴史ドラマ。大河な上に歴史上の人物がたくさん出てきて、とっても勉強になるおすすめのマンガです。ぜひ!そして私に感想を語ってください。

  長くなりました。政次と直虎は別エントリーに分けます。