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青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』34話 二つの悲劇の交差点~直虎はなぜ<政次の死>を悼まないのか~

二つの悲劇

    34話では、政次を失った後の直虎の悲しみと、気賀における民の殺戮という、静と動、個人と集団の二つの悲劇が同時並行に語られました。二つの悲劇は最後の直虎の幻想で交差し、来週の動きへとつながる予兆で話は終わります。

    この二つの筋には、相互に関連性がないわけではありませんが、それぞれ独自の意味や役割があります。そのためそれぞれを別々の観点から論じる必要があると思います。本エントリでは、まず気賀に何が起こったか、次に直虎の心に何が起こったかについて考察します。最後にこの二つが出会う地点についても少し触れておきたいと思います。

 

1.  気賀で何が起こったか

 今回、主人公である直虎は気賀で起こる歴史上の事件に直接的には関わりません。政次の死の衝撃で心身が正常に機能しておらず、気賀の動きに目を配ることができなかったからです。通常の直虎ならば、縁のある気賀の危機を黙って見過ごすようなことはしなかったでしょう。身の危険も顧みず、とりあえず気賀に飛んで行っていたに違いありません。しかし今回の直虎には、あえてそれができないような設定上の足かせがはめられています。この脚本が、直虎が気賀に直接関わることができないような客観的な状況(心神喪失で機能停止)をあえて作り出したのだと考えるのが自然ではないでしょうか。

    なぜそのようにしたのかというと、第一に、直虎を気賀に関わらせないことを通じて、井伊と気賀の状況を対比させるため、第二に、政次の死と気賀の悲劇の時系列をあえて逆にすることで、直虎がまず政次の死を経験し、その後に気賀の悲劇に対応するという順序にしたかったためではないかと思います。

 まず井伊と気賀の対比について考えてみます。私はこのドラマが、小野但馬による井伊谷城乗っ取り、徳川の侵攻、堀川城の虐殺、小野但馬の処刑をどのように関連させて描くのか、以前から興味を持っていました。史実では、小野但馬は井伊谷三人衆に井伊城を追われた後、しばらく近くに隠れていましたが、おりから堀川攻めにやってきた徳川勢に見つかり、捉えられ、堀川城虐殺の後に処刑されます。小野但馬の井伊谷城を乗っ取りが1568年11月、井伊谷三人衆の襲撃が同年12月13日、堀川城の悲劇が翌1569年3月27日、小野但馬処刑が同年4月7日ですから、実際の小野但馬は井伊谷城を追われたあと、堀川の虐殺を横目で見つつ、5ヶ月近くも生き延びたことになります。城を追われてコソコソ隠れた挙句、捕まって処刑。これでは単なる逃亡犯ですから、これをそのままドラマに描いては、政次の死にヒロイズムや正当性を見出すことは難しかったでしょう。

 この難題を解決するために、ドラマは大胆に政次の処刑を12月13日の井伊谷三人衆の襲撃のすぐ後に設定しました。そうすることで、徳川の遠州侵攻の流れを、前期(12月の井伊谷編)と後期(3月の気賀編)分け、それを対比させて描くことができたのです。すなわち①「政次の死で救われる井伊谷」と「方久の遁走で滅ぼされる気賀」の対比、②「名前の残る一人の死」と「名前の残らない多数の死」の対比です。

    ①の対比とはどのようなものだったのでしょうか。33話で政次は、牢から逃亡する意志がないことを龍雲丸に告げた際、次のように述べました。

「殿や俺は逃げればよいかもしれぬ。しかし恨みが晴れなければ、隠し里や寺、虎松様、民百姓、何をどうされるか分からぬ。そして、井伊にはそれを守りきれるだけの兵はおらぬ。俺一人の首で済ますのが最も血が流れぬ。」

政次は「恨みが晴れなければ」という一点にこだわり、禍根の根本を正確に見定めて、それを断ったのです。

  今回の徳川勢による気賀攻めは、前回の井伊谷襲撃と構造的に非常に似通っていました。どちらもリーダーは直接決断せず、実働部隊が独断で鉄の制裁を加えるのです。徳川家康は気賀の民を救うという温情策を示しましたが、実行部隊である酒井忠次は大沢が容易い相手ではないと見定め、「見せしめ」が必要だと考えました。井伊での見せしめは城主たる「政次の首」でしたが、城主が逃げてしまった気賀での見せしめは無実の「民の命」です。

 あえて似たような構造のエピソードを続けて見せることで、この二つの事件が似たような経緯からスタートしたにも関わらず、結果は大きく異なってしまったことを対比的に示します。その違いとは、その地を命に代えても守ろうとするリーダーの働きがあったかなかったかでした。

 井伊の場合は、南渓和尚が近藤に「これ以上のお咎めなし」という言質を取ったことで、近藤の恨みが晴れ、城をとった近藤は目的が達せられたことがはっきりしました。それは政次の死が「一つの命で多数の命を救い、将来の禍根の根をも断つ」ものであったことの証左でした。

 しかし気賀の場合、商人である方九も中村屋も気賀の地に代々の封建領主ほどの思い入れはありません。自分の命が危うければ逃げますし、何よりも実利が優先です。逃げられる手段をもった人はよいでしょう。しかしそれを持たない民はなぶり殺しにあうしかないのです。政次が「俺や殿は逃げればよいかもしれぬ」と言ったことの重みが改めて思い起こされます。

 しかしこのドラマは決して武士の論理を称賛しているわけではありません。むしろ②の対比において描かれる「名前の残らない多数の死」こそが、このドラマが描きたい「戦」の姿なのです。大多数の無名の民にとっては、戦とは、大義名分などとは無関係で、厄災のように巻き込まれ、意味なく死んでいくようなものなのです。

 気賀(堀川城)の戦いは、「士郷や農民が今川方について徳川方に抵抗した一揆」であるとする解釈が一般的ですが、このドラマでは農民は今川方に無理やり駆り出され、閉じ込められたという解釈をとりました。たしかに武士とは本来利害が一致しない末端の農民までが、支配されていた今川方に自発的につき従って武装・徹底抗戦するとは考えにくいと思います。ここでは龍雲党を含めた民は今川にも徳川にも利用され、裏切られ、見殺しにされた存在として描かれます。

    中世までの武士同士の戦は、名乗りをあげ、対戦する相手が誰かが分かったうえで、お互いの名誉をかけて争います。しかし近代の戦争は殺傷の力の高い武器による大量虐殺が主流です。そこでは名乗りもなければ名誉もない、死に意味など見出しようもありません。

 気賀の民は、まるでこうした近代戦に駆り出された無名戦士のようでした。徳川勢は大量破壊兵器こそ持っていませんが、農民は非武装、戦力の差は圧倒的です。

    無名戦士(市民)の死に私たちが感情移入するためには、私たちがその市民のストーリーを個人的に知っていなければなりません。「よく知っている市民」の役割を果たしたのがここでは龍雲党のメンバーでした。私たちが彼らの死を酷いと感じるのは、私たちが彼らの性格、歴史、願いなどを多少なりともこれまで見てきたからでしょう。統計が物語になるのはこのような瞬間です。

    気賀城の悲劇は、こうした理由から井伊谷と対比され、<リーダーの欠如>と<大国に踏みにじられる民の悲劇性>が強調して描かれました。直虎はその大半に関わることができませんでしたが、もはや裾を踏んで止めてくれる政次もいないなか、虐殺に加担も巻き込まれもしなかったことは彼女にとっては幸いでした。しかし主人公はいつまでも歴史の流れに無関係に立ち止まっているわけにはいきません。直虎と気賀が筋がクロスする地点が、あの劇的な夢の中の龍雲丸の刺殺のシーンなのです。

 

2.直虎に何が起こったか

 直虎は政次を「槍」で「突き殺し」たあと、一時的で選択的な記憶喪失になります。その後「政次の辞世」をきっかけに「正気に戻り」、直後に龍雲丸を「槍で突き殺す」という夢を見ます。

 この一連の出来事には「槍(武器)」「殺し」「否認」「夢」などといった精神分析学的なキーワードがちりばめられています。私は最初それらをなるべく見ないようにして、できれば「実際に起こったこと」のレベルだけで考察したいと思っていました。しかしその試みはあまりうまくいきませんでした。なぜならそのアプローチでは「なぜ夢の中で龍雲丸を突き殺したか」が理解できなかったからです。今話は本来ならきちんと精神分析学的に批評することが適切なのだろうと思います。できればジジェクにでも語ってもらい、私もぜひそれを聞いてみたいところです。しかしそうもいきませんので、及ばずながら見よう見まねでそれに近いことに終盤で少しだけトライしてみたいと思います。

    まず34話の直虎パートにおける、私にとっての最大の疑問を最初に述べておきます。前述した「なぜ夢の中で龍雲丸を突き殺したか」はもちろん大きな疑問なのですが、それに端を発して考えたあげく、最終的に最も疑問に思ったのは「なぜ直虎は<政次の死>を悼まないのか」ということでした。

    このように書くと「何を言っているのか、直虎は34話でずっと政次の死を悼んでいたではないか」と反論されるかもしれません。しかし本当にそうでしょうか。注意深く見てみると、直虎は前半では政次の死を「忘れて」います。そしてそれを思い出した後は、主として<人を殺した自分>に恐怖しているのです。政次の追悼はまだ本格的に始まってすらいません。

    これについての私の暫定的な結論も最初に書いておきます。脚本家は、当初の予定では直虎が<政次の死>に向き合う様子を34話で部分的にでも書こうとしたのだと思います。しかし33話のラストを変更したため、ドラマ内の直虎の心はより複雑で引き裂かれた、整合性を欠いたものになってしまいました。そしてその矛盾をそのままにしたままで、変更前の設定を引き継いで34話を描きました。その結果、直虎はまず悼むべき<政次の死>を悼んでいないような印象を与えてしまったのではないかと思います。

    こうしたことについて詳しく説明するため、この項では、直虎について①実際に何が起こったのか(ドラマ、ノベライズ)、②直虎の精神世界という二つのレベルで整理してみたいと思います。そのために今回はノベライズ3巻の32~34話を参考にします(私はノベライズ未読派ですが、これを書くために諦めて最近32~34話を読みました。35話は未読です)。なぜなら、ノベライズには脚本家が当初考えていた展開が描かれていると推測されるので、それとドラマの違いを分析することで、「あるべきだった展開」と「実際の展開」の齟齬が明確になるからです。

①-1 ドラマでは実際に何が起きたか

 直虎は政次を槍で突き殺したあと龍潭寺に戻り、その後ひたすら一人で碁をうちます。あまりにも辛い記憶から自分を守るために解離性の健忘になっているようです。やがて時がたち、直虎の白い頭巾の血のシミも消えた頃に、政次の辞世をきっかけに政次の死を理解します。その後、寝付けずに、震えながら自分の手を見つめて恐怖するシーンが描かれます。そして最後に龍雲丸を槍で突く夢を見るのです。

 直虎は政次殺害後に錯乱状態に陥りますが、ドラマでは彼女をそこへ追いやった原因は二つ考えられます。一つは<政次の死>の衝撃、もう一つは<人を殺した自分>への衝撃です。錯乱の世界の迷い込んでしまった直虎は、実はそのどちらについてもきちんと受け入れて向き合うことができませんでした。そして長い間、すなわち政次死亡の直後(12月半ば)から気賀の悲劇の直前(3月中旬)くらいまでその錯乱状態は続きました。ようやく錯乱から覚めた瞬間、彼女は二つの重たすぎる現実に直面します。二つを同時に処理できない直虎の意識は、ます<人を殺した自分>への恐怖や嫌悪感の方に集中したように見えました。ここで直虎が考えているのは主として<自分>のことです。

    ここで鍵となるセリフは

「ああ、もう但馬はおらぬのですね。私が…。」

 この「私が…」は当然ながらノベライズにはないセリフです。そしてドラマの直虎は明らかに恐怖に震えています。この短いセリフが、その後の直虎の意識の優先順位が何なのかをはっきり示しています。

 もちろん<人を殺した自分>と和解するのは困難なことです。34話の冒頭は処刑シーンから始まりますが、短縮された編集の効果によって場面がより直虎視点で再現され、ぐさりと人体を刺す手ごたえや、目の前で殺めた人が死んでいくという恐怖が生々しく伝わってきました。私も思わず直虎視点で見てしまい、あたかも自分が政次を殺しているような感覚を追体験してショックを受けました。やりたくない殺人を犯してしまった事実に夜も眠れないほどの衝撃を受け、自分を責めてしまうのは無理からぬことです。

 しかしこの<人を殺した>ことへの罪悪感や恐怖が、直虎の<政次の死>への反応を覆い隠してしまっていることもまた事実です。なぜこのようなことが起こってしまったのでしょうか。それは前述したように、ノベライズから処刑シーンを変更したからです。ドラマでは直虎の錯乱の原因が<政次の死>と<人を殺した自分>に分散し、そのため一つ一つの要素の質量が半減してしまいました。加えて錯乱から覚めた後の感情が<人を殺した自分>への恐怖に見えるような演出だったため、その後の龍の描写とあいまって、<政次の死>への対処を後回しにしているような印象を与えたのです。

 私を含めたある程度の数の視聴者はおそらく、政次の死を悼む直虎を見たかったのだと思います。最初は否認したとしても、次には政次のことを考えると期待していました。しかし期待を裏切って直虎は龍雲丸の夢を見たので、政次よりも龍を優先しているような違和感を覚えたのです。

 <政次の死>を悼む場面は今後きっといつか描かれることでしょう。しかしそれはおそらく龍雲丸を助けた後のことで、大切な人を亡くした者同士で支え合いながら喪の苦しみを乗り越えていくというような展開のなかで行われるのでしょう。

 しかしそれは私たちが見たかったシーンではないのではないでしょうか。私たちは直虎が政次との純粋な二者関係の中で、ようやく直接に向き合って本音をさらけ出すようなシーンを期待していたはずです。34話のように直虎が歴史の動きに関わらない内省的な回はそう多くありません。このような絶好の機会に、直虎はその半分以上を政次の死を忘れて過ごし、終盤は自分と龍雲丸のことを考えて過ごしました。できれば34話のなかで、悲しみの深さを純粋に政次との内的な二者関係で表す場面がほしかったところです。

 

①-2 ノベライズでは何が起きたか

    直虎の意識が<政次の死>から離れたように見える原因は、人を殺すというあまりに重たい業を直虎が負ってしまったからです。ノベライズでは直虎は政次の死を納得も受け入れもしませんでした。ですから刑場にも行かず、処刑の場面も見ていません。死んだのだろうと心のどこかで気づいてはいましたが、それを意識的に認めようとはしませんでした。

    ノベライズの34話は、直虎の否認の描写から始まります。殺人をしていませんので、直虎が錯乱する原因は純粋に<政次の死>だけです。もしかしたら自分が原因となって政次が死んでしまった、すなわち「政次を見殺しにした」という罪悪感はあったかもしれませんが、いずれにせよ人を直接的に殺めるという行為に対する恐怖とは向き合う必要はありません。したがってノベライズの直虎はドラマの直虎よりも純粋に<政次の死>そのものに対峙している印象があります。龍雲丸をして「直虎の中で、政次はそれほど大きな存在だったのだ」と思わしめているほどです。ノベライズでも直虎の政次への気持ちの内容は語られませんが、その質量はドラマよりもずっと重く感じられ、得も言われぬ静かな悲劇性を醸し出しています。

    この展開であれば、少なくとも直虎の錯乱の原因は<政次の死>に確定されるため、錯乱という事実それ自体が直虎にとっての政次の重要性の何よりの証左になっています。ですからたとえ今話で政次に直虎が直接語りかけなくても、直虎と政次の二者関係の深さはより際立って感じることができます。

② それでもなお分からない「龍を殺す夢」~直虎の精神世界~

    さて、それではノベライズの展開であればすべてはすっきりと片付くのでしょうか。答えは否です。なぜならノベライズでもドラマでも夢の中の龍の刺殺は描かれるからです。この夢はどのように解釈すればよいのでしょうか。

    一つの明白に思える説明は、気賀のシーンに直虎を絡めるために、ここで直虎に予知夢を見させておくとうまく話がつながるからというものです。

    しかしそれはあまりにご都合主義というものです。実際にドラマを見た視聴者の中にも、この突然の龍雲丸の挿入に違和感を持たれた方も多かったはずです。政次のことをまだきちんと考えていないのに、なぜ龍雲丸にいってしまうのかと。

    もう一つの可能性は、大切な人を殺してしまった恐怖心から、自分がまた別の大切な人を殺してしまうのではないかと恐れた、というものです。

    それはあり得る話かもしれません。しかしこの設定では、政次の存在感はより薄くなってしまいます。直虎は<自分>にフォーカスするあまり、政次の死を飛ばして、すでに次の自分にとって意味ある人の死に意識が移っています。

    このように、二つの仮説はどちらも、これまでの緻密な物語構成や、この物語における政次の重要性を考えた時に、違和感が残ります。

    これについては、前述したように「実際に起こった出来事」のレベルでは理解できないので、「直虎の精神世界」に着目して、もう一度ストーリーを再構成してみたいと思います。

    直虎が、政次の辞世を読んで「正気に返る」シーンを見て、私は映画『マトリックス』(1999年)を思い出しました。主人公のネオは虚構の世界に生きていることに気づかずに生活していますが、ある日「現実世界」からやってきたモーフィアスからもらった「赤いピル」を飲むことで、自分が今まで虚構の世界に住んでいたこと、そして「現実世界」が別に存在することを知るのです。

    このマトリックスの二つの界について、ラカン派の考え方ではマトリックスは「想像界」、現実世界は「現実界」であるという解釈があります。ちなみに覚醒したネオが行き着く世界は「象徴界」、ここでは想像界がコードに見えたり、ピストルの玉が遅く感じたりするのです。

    『直虎』ではモーフィアスの役割は鈴木殿が、「赤いピル」の役割は政次の「辞世の歌」が果たします。直虎は<政次の死>という衝撃を受けて、現実界から想像界へ逃げ込んでしまい、そこで偽の日常を生きていました。想像界は自分の都合の良いようにコントロールもできる世界です。そこから、コントロールが効かない泥沼のような現実界に引き戻されてしまうのです。

    直虎はとはどのような女性でしょうか。彼女は女性ですが、母でも妻でもありません。社会的には、男性が担っているリーダーという役割を、ある意味ではやむをえず、しかし別の意味では自ら進んで引き受けている女性です。大雑把に言って、ラカン的な考え方(だと浅学な私が理解しているもの)では男性とはファルス、すなわち象徴的なペニスを持つ存在ですから、直虎は自分にはないファルスを得て象徴界(言語を用いる場所、例えば政治など)に参加したい女だと考えることができます。ファルスは象徴的で実態を伴わないものですから、たとえば<ファルス=知的能力>と置き換えることもできます。

    政次との関係において、直虎は自分にはないファルスを彼に求めていたのです。この場合、まさに<ファルス=知的能力>であったと私は考えます。直虎はよい城主になるために、象徴界での成功を切望していました。そして目の前には自分よりも知的能力が高い男がライバルとして屹立していたのです。

    錯乱中の直虎が「策なしでは政次に笑われる」とつぶやいたことは示唆的です。私にはこのセリフに二人の関係のエッセンスが凝縮しているように思えてなりません。

    しかしノベライズの展開では、直虎は結局政次のファルスを完全には手に入れることはできませんでした。そうする前に政次が突然この世から退場することを勝手に決めてしまったからです。ファルスへの欲望が充足されないまま残された直虎は、当然納得がいきませんし、それを受け入れることもできません。残された欲望は行き場をなくします。

    それに対してドラマの直虎は、政次の死が逃れられないものと納得し、自ら政次を殺害することを決意します。ここでは直虎は政次のファルスをただ欲しがる受け身の女ではなく、自分自身が槍という武器を持ったファリック・ウーマンです。もちろんこの文脈では<槍=ファルス>です。直虎は槍というファルスで政次を突き殺しますが、そのことで自分が貫通する側の主体になり、政次を完全に所有してしまいます。直虎の欲望は形式的には一応は(一時的にでも)満たされたわけですから、ここには象徴的な意味での喪失はありません。ということは、前項でも述べたように、ドラマ版で直虎が本当に向き合っている課題はむしろ<人を殺した自分>の方であるということになります。

    次に「龍雲丸刺殺」について考えてみます。政次のファルスは直虎が直虎であるために彼女が最も必要とするものでした。ノベライズで直虎はファルス入手失敗に伴う焦燥感や喪失感、恨み、不安などを感じて心が消耗していました。直虎はもう二度と欲望の対象を失いたくありません。政次の死に関われなかった直虎は、政次のファルスの代替である龍雲丸のファルスこそはきちんと所有したいのです。その欲望の強さが、彼女をして夢の中で龍を殺すという完全なる所有のシミュレーションをさせてしまいました。なぜなら殺人とは完全な所有のメタファーだからです。

    一方、ドラマ版の直虎にはファルス入手の失敗という苦い経験はありません。ですからあの時点で唐突に龍のファルスを取りに行くという攻撃性を見せる理由が見当たりません。したがって、精神世界に着目したとしても、やはり直虎の夢は解釈が非常に困難です。したがって「ドラマ版の直虎なら、あの夢は見ないのではないか」というのが私のささやかなる結論です。

    さて、私の意見や願いがどうであろうと、実際のドラマでは「龍の刺殺」で二つの悲劇が交差し、ここから直虎は現実の世界での奮闘を再開します。そしておそらく前述したような龍との交流の中から、立ち直りのヒントを得ていくのでしょう。

    33話のラストは確かにドラマ史に残る名場面でした。そして私が今回不完全ながらも行った精神世界の考察においても、あれは直虎による政次の完全なる所有(という概念そのものが幻想だというのがオチではあるのですが)以外の何ものでもないと思います。

    ただし、その完璧さのおかげで、34話に直虎が<政次の死>そのもの感じるシーンが犠牲になってしまったように感じられたことは少し残念でした。

    今後、直虎が<政次の死>を、そして政次が自分にとってどういう存在であったかをきちんと言語化するエピソードが訪れることを切望しています。