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青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』35話「蘇りし者たち」~医療と宗教、そして聖霊の働きについて~

    35話では様々な復活譚が語られました。龍雲丸、近藤、方久、政次、氏真、直虎。そのどれもが考察に値しますが、このエントリでは特に近藤と方久、そして政次の復活について考察したいと思います。前者は医療と宗教の関わり、後者は「政次とイエス」というモチーフの進展という意味で、私にとって興味深かったからです。

 

 近藤と方久の復活と医療~罪の許し、セカンドチャンス~

 近藤は徳川方について参戦し、足を負傷して瀕死の重傷を負います。そしてやむにやまれず龍潭寺の僧に医療的ケアを求めます。このドラマにおいて龍潭寺昊天は早くから薬の知識に明るいことが言及されてきましたし、桶狭間の時も龍潭寺の僧が治療に参加している様子が描かれました。しかし今話ではそれを一歩進めて、昊天が西国で医療を体系的に学んできた人間であり、龍潭寺の医療技術の水準が近藤の軍のそれを上回る高いものであることが初めて明らかにされました。

 中世までの日本において医療を支えてきたのは僧侶であったと言われています。医学を学ぶには基礎学力が必要ですが、それを備えていたのは僧侶だったからです。南渓が昊天に医学を学ばせたというのは興味深い事実です。それは龍潭寺が井伊の菩提寺であったことと関係しているに違いありません。

 井伊は国衆として多くの戦を戦ってきました。戦争に必要なのは医療です。戦時において井伊を医療的に守るという意味で、医学の心得のある昊天の存在の意義は大きかったことでしょう。医療的バックアップがある軍は戦士の士気も高いですし、回復が早ければ軍事力も増大し、一緒に参戦すれば従軍医師の役割も果たしてもらえます。

    今話では戦争と医療が大きなテーマとしてクローズアップされました。それを具体的に示したのが龍雲丸、近藤、方久のエピソードでした。

 このうち私は特に近藤のエピソードが面白いと思いました。近藤は足に重傷を負っています。そこへ直虎がやってきて、その足の治療をします。史実によると近藤は負傷のため歩行困難だったということですが、その事実をここで生かして、直虎に足の治療をさせる場面を入れた展開は興味深いと思います。治療をするためには、まず傷を洗わなければなりません。龍雲丸の治療のシーンでもまず傷を洗うプロセスが最初に描かれました。ノベライズでも直虎は湯と布を持ってくるように指示しています。

 直虎が近藤の足を洗う。これは何を意味するのでしょうか。

 近藤の家臣に協力を要請されて、直虎は当初それを拒みました。しかし龍雲丸に「より大きな恩を売れる」と言われ、しぶしぶ井伊谷城にやってきます。政次を磔にした人物が重傷を負っている光景を前に恨みと同時に憐憫を感じ、この男も戦の犠牲者であることに思いを至らせます。

 敵に医術を施すというのは、敵を赦すという行為です。『聖書』の有名な「山上の垂訓」を引き合いに出すまでもないでしょう。

 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。(『ルカによる福音書』6章)

 特に足を洗うという行為からは、イエスが最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗ったことが連想されます。

それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。(中略)イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。(『ヨハネによる福音書』13章)

足を洗うということは罪よって汚れた人間の心を清めることの象徴です。すなわち罪を犯した人間を咎めるのではなく、赦すということです。裏切り者とはイスカリオテのユダのことですが、ここでイエスは裏切りを行おうとしていた罪人ユダの罪すらも彼の足を洗うことによって清めようとしているのです。

 このブログでは近藤がイスカリオテのユダの役割を担った人物であると仮定しています。近藤とその家臣は直虎が自分に恨みを持っていることを自覚しています。近藤の家臣が助け求めて来た際のこわばった表情からも、近藤自身が直虎が刃を持っているのを見て恐怖していることからもそれが分かります。政次を殺したことによって近藤は罪のない人を貶しいれるという罪を犯してしまい、それを彼自身が自覚しているのです。

    直虎が近藤の足を洗ったということは、すなわち直虎が近藤の罪を許し、その汚れを取り除いたということです。罪を許された人は、罪を犯さなかった人以上に与えられた愛の重みを感じます。

 物理的に傷を治したということにも大きな意味があります。原始キリスト教において、生前はイエス、イエスの復活後は弟子が行った病気の治療は布教の大きな鍵でした。イエスはラザロを始めとした幾人かの人々を死から蘇らせ、また多くの不治の病を治しました。この世に病気を治療してもらうこと以上の分かりやすい奇跡はそうありません。

    おそらく近藤と近藤の家臣にとって「罪を許された」という意識と「ケガを治してもらった」という事実は今後大きな意味を持ってくるのではないでしょうか。

 方久にとっても医療との出会いは彼の人生の再スタートのきっかけになりました。昊天の仕事ぶりを注意深く観察していた方久は、戦争と医療の関係を鋭く見抜きます。そして戦には武器や兵士だけではなく、それを治す医療や薬の存在が大きいことに気が付きます。戦で武器が売れるということは、同時に薬も売れるということなのです。そこに気がついた彼は、なんと出家して医療を学ぶことを決意します。

 戦争で儲かるという意味では武器も薬も変わりないのかもしれませんが、薬や医療は平時にも需要があります。そして誰もがいつ何時でも必要とするものなのです。戦で無一文になり、関わった多くの人を亡くした方久にとって、「殺すのではなく、生かす」医療にビジネスチャンスを見出せたことは幸いでした。

 私は個人的にはこの方久の観察眼には学ぶことが多いと思いました。昊天はずっと医療を行っていて、方久もそれをずっと眺めていたはずですが、今までそれにビジネスチャンスを見出すことはできませんでした。そのつもりで見ていなかったからです。きちんと見て観察すること、見ている対象についてよく考えること、タイミングが合って、その対象に興味が向いていること、これらが新たな人生の展開を切り開くアイデアを得るための必要条件なのですね。

 

 政次の復活と聖霊の働き

 今話では政次の復活も始まりました。政次の復活とは、もちろん彼の魂の復活のことです。キリスト教の世界では、「復活」において重要な役割を果たすのは聖霊の働きです。この項では政次の復活について、聖霊の働きのアナロジーという視点から整理してみたいと思います。

 聖霊とは、三位一体(父・子・聖霊)の第三位格であり、信徒に働きかけ力を与えて支え導き、神の業を遂行するものです。少し分かりにくいかもしれませんし、聖霊の人格性に異議を唱える宗派もありますが、ここでは大まかに人の間を漂うパワーという程度に捉えておきたいと思います。そして聖霊はよく活力、息、指、手の動きとして表現されます。

 ドラマでは龍雲丸が直虎に髪を拭いてもらいながら(!)、政次の働きの結果について「井伊は大して負けていない」という言葉で表そうとしました。しかしそれについて深める前に之の字が川名からの書状を携えてやってきました。

 そこには二つの重要なことが書かれていました。一つは亥之助と直久の囲碁の勝負について、もう一つは川名の人々が農業や家事を手がけて共同生活を始め、但馬の話題も出るようになったということについてです。

 

囲碁による継承と政次スピリット

 まず亥之助と直久の囲碁の話について見ていきます。手紙には亥之助と直久が石ころを集めて囲碁をするようになり、彼らの手筋が二人とも但馬そのものである、すなわち但馬の考え方が若い世代に引き継がれているということが書かれてありました。

 囲碁はもともと直虎が、人が奪わず、奪われずに生きていけるために井伊谷に教育を普及させる必要を感じた時に、「考える力がつくから」と政次に依頼して子どもたちに教えさせたものでした。彼らが囲碁を通じてつけた力には、「どこで間違ったのか」を辿る力、すなわち現代風に言えば「論理的に考える」力、物事を大局的に見る力、集中力、相手の意図を読む力などがあります。政次は自分の持てるこうした力を、まるで息吹を吹き込むように若い彼らの中に注ぎ込んでいったのです。

 亥之助と直久は誰にいわれるでもなく、自ら創意工夫し、手作り囲碁セットを作ってまで碁を再開しようとしました。そうした彼らの意思や活力の中に、そしてもちろん彼らの手筋そのものの中に、政次の魂が息づいています。

    思えば直虎も政次との数え切れない対戦を通じて、彼がどのような意思や意図を持っているかを考えに考え抜いて、ついに離れていても彼の意図が分かるようになりました。私は今話の囲碁シーンを見て、直虎と政次の「エア碁」に関する長らくの疑問が半分解けたような気がしました。あれはすなわち、(井伊谷的な世界観における)聖霊が二人の間を動き回り、パワーを送り合っていたのではないかと。聖霊がよく手の動きとして表現されることを考えれば、二人の囲碁シーンで政次の手があれほどクローズアップして描かれたのも、このためだったのかと今では思えます。

 井伊谷における囲碁を通じた継承が(井伊谷的な)聖霊の業だとすると(もちろん厳密な意味でのキリスト教的な聖霊とは違います)、囲碁によって政次の魂が若い二人にも引き継がれているという描写には納得がいきます。囲碁井伊谷スピリット継承の手段であり象徴なのですね。

 

川名の共同体のオプティミズム

 手紙で語られたもう一つの場面は川名での自給自足の共同生活についてでした。この光景を見て、私は『使徒行伝』の冒頭部分を思い出さずにはいられませんでした。

 イエスの復活と昇天後、エルサレムには各地から集まった信者が共同生活を送り、復活の興奮冷めやらぬまま、生き生きと共同生活を送っていました。人々はそれぞれ違った言葉を話していましたが、五旬祭の日に聖霊が降りてきて、皆が自分が知らない言語で神の証をし始めます。その様子を傍から見た人は「新しいぶどう酒に酔っているようだ」と評しました。

 新しい共同生活に活路を見出し、「但馬のモノマネ」に興じる人々の和やかな様子を見て、私はこの「昇天」後のキリスト教原始コミュニティのオプティミズムを連想しました。ここにも政次のスピリットが降りてきて、人々に活力と明るいムードをもたらしたのではないでしょうか。この共同体は、その後に来る様々な困難によっていずれは初期の楽観性を失い試練の時を迎えるのですが、それはまだ先の話になるのでしょう。

 最後に一つ、なつさんが魚を焼いていたシーンも印象的でした。当初、魚を焼くという行為には違和感がありました。川名は隠し「里」というくらいですから、山奥にあるのでしょう。川も近くにあるのかもしれませんが、水の恵みが豊富であるという印象はありませんでした。そこでなぜわざわざ焼き魚なのか。その違和感から始まって、考えているうちに『聖書』の次の一節を思い出しました。

彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(『ヨハネによる福音書』21章)

 復活したイエスは弟子たちの前に姿を現し、食べ物を所望します。それに応えて弟子が焼き魚を差し出し、イエスがそれを食べる、そんな様子が幾分ユーモラスに描かれています。少し前に十字架刑の処され、世にも悲惨な死を遂げたばかりのイエス。そんな彼が復活して、弟子の間をウロウロと動き回っている様子は場違いなほどに牧歌的で、なんだかほっとするような雰囲気すらあります。

 もしかしたらなつさんも同じように、政次が好きだったかもしれない焼き魚を焼き、皆にふるまうと同時に政次にも供えたのでは、と想像して、少し楽しい気持ちになりました。

 さて、今話についての私の感想は以上です。今話の復活の物語的な焦点は直虎と龍雲丸の関係にあてられているのだと思いますが、今のところtwitterに部分的につぶやいたこと以上の感想はありません(私があまり龍雲丸に関心がない、ということが原因かもしれませんが…)*1。もしも36話の放映までに何か気がついたら補足するかもしれませんが、そうでなければ政次の次の復活を楽しみに次回を待ちたいと思います*2。

 

*1 ”政次とは対照的に虎とのスキンシップが描かれてきた龍。政次とは魂は近くとも身体は共にいられない。龍とは思想も境遇も違うが身体は近くにある。サバイバーズ・ギルトを共有する二人、手を重ねて生きている互いの体温を確認し合う。残された者は体を寄せ合い立ち上がるしかないのか。” (2017/09/03 twitter投稿)

*2聖霊についてはtwitterでのお友だちであるkontaさんとの会話からヒントを得ました。Many thanks!