Aono's Quill Pen

青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』37話~主人公の設定に関する制作者の思いと視聴者の期待のズレについて~

「空白の時空」を埋める通俗性

  37話は井伊直虎の生涯の中で最も史料の少ない時期です。そこをこのドラマがどのように描くのか、以前から興味を持っていました。史実の制約の中でオリジナリティを出していくのは大きなチャレンジですが、史実の合間の「空白の時空」をどう料理するかということは、もしかしたらさらに難しい課題かもしれません。そしてそのような時にその作家が本来持っている展開のパターンが顕在化することがしばしばあります。

 37話を視聴して感じたのは、この「空白の時空」が、作者のサービス精神の表れともとれる通俗性で埋められてしまったかな、ということです。

 「サービス精神ともとれる通俗性」というのは、「空白の時空」を利用して直虎に「普通の女性」としての生き方を試させ、結婚、出産、親の期待、彼氏の転勤についていくかといったような「普通の女性」が悩むであろう問題に直面させておこうとする配慮のことです。

 しかし私は不思議に思うのです。それは一体誰に対する配慮なのか。そもそも「普通の女性」とは誰なのか。この日本に住む女性に分類される人々の最大公約数的な平均値のことなのか。数奇な運命を生きた歴史上の人物である直虎は、そうした「普通の女性」が経験すべき事柄をチェックリストのようにすべてクリアしなければならないのか。そのようなものを、視聴者は見たいと思っているのだろうか、と。

 このブログで、私は直虎の人物造形について一つの疑問を呈してきました。それは直虎には物語のエンジンとなるような明確な「欲求」がなく、全ての行動を何かのハプニングのリアクションとして行っている、というものです。

 37話を見て、私はなぜそうなっているのかが何となく分かったような気がしました。おそらく制作者は、直虎を視聴者が瞠目するような超人的な主人公としてではなく、むしろ視聴者が感情移入しやすいような「等身大」の人物として描こうとしたのだと思います。しかし「感情移入しやすいだろう」と制作側が考えて想定した主人公の能力や成長の度合いが、実際の視聴者の理解力や期待値に対して低すぎたのです。

 もう少し詳しく説明します。エンターテイメント作品においてヒーローを描く際には、大きく分けて二つのアプローチがあります。一つは非凡なヒーローを非凡に描くというもの、もう一つは平凡なヒーローが失敗しながら観客と一緒に成長するというものです。一般に非凡な人に感情移入するのは難しいので、多くの作品は後者のパターンを採用します。

 しかしこのアプローチはさじ加減が非常に難しいのです。ヒーローはあくまでヒーローですから、視聴者と終始同じレベルではまずい。最終的には視聴者を感嘆させる成長や業績を示さなければなりません。主人公はある段階までは試行錯誤を繰り返しながら、視聴者と足並みを揃えて成長します。しかしその段階を超えると、視聴者を追い越して高みに昇っていかなければなりません。なぜなら私たちが彼らに究極的に求めているのは、彼らの非日常的な「胸のすく活躍」だからです。

 そのためには想定する視聴者の目線を高く見積もりすぎても、低く見積もりすぎてもいけません。ちょうど同じ目線の高さで成長を追体験してもらうことで、初めて共感が生まれるからです。そして大河ドラマのような幅広い視聴者層を想定するドラマでは、その目線をやや低めに設定しておくのは、理解できる配慮なのかもしれません。

 しかし、そうだとすれば『直虎』は非常にバランスが悪い作品ということになってしまいます。というのも、主人公の能力や思考パターン(、加えて男の趣味)の凡庸さを除けば、それ以外のストーリー展開は凡庸とは似ても似つかない、よく言えば万人に媚びない、悪く言えばあまり大河らしくないものであるからです。

    よく引き合いに出される『平清盛』では、清盛は最初から非凡な人物として描かれています。視聴者は彼と完全に共感することはできませんし、そのように想定されてもいません。最初から最後まで「分かるやつだけ分かればいい」という頑固一徹な制作姿勢で、多くの視聴者を虎の穴に突き落とすような展開でした。しかしだからこそ、今のカルト・クラシックとしての地位を獲得できたのです。

    それと比較すると、『直虎』は想定する主たる視聴者層が分かりにくい作品です。勝手に予測すると、プロデューサーの当初の意図としては、『直虎』は多くの「現代女性」に最大公約数的に共感してもらえることを狙って作られたのでしょう。その考えの痕跡が直虎の人物造形から感じられます。しかし脚本家は脚本家で描きたい世界観があり、その世界観はおそらく「現代女性が共感する」はずの「等身大」のヒロインとはある意味相容れないものだったのではないでしょうか。

    はたして実際の『直虎』は万人に愛される娯楽大作ではなく、どちらかというと一部の熱狂的なフォロワーに支持されるカルト・クラシック的な地位を獲得しつつあります。フォロワーが最も惹きつけられているのは、『直虎』の甘えを許さないストーリー展開や練りに練った構造の美しさだと思います。もちろん特定の俳優の人気という要素もあるのかもしれませんが、そのキャラクターが人気になったのも、この話の世界観や話の筋そのものに魅力があったからです。

    しかし37話を見て、私は果たして『直虎』が真のカルト・クラシックになれるのかどうか、少し不安になってきました。私の当初の予想では、第二幕の終わり、すなわち武田が攻めてくる頃には、直虎も真の成長をとげ、武田襲来という最大の危機を乗り越えて城主として独り立ちするのだろうと思っていました。しかし武田襲来は今週の段階では何となくアンチ・クライマックスに終わりそうですし、予告では武田が来た後、直虎はそれでも堺へ龍と一緒に旅立とうとしています。そして37話の直虎の私生活は、成長どころか後退ともとれるような迷走ぶりですなのです。

    これまでも薄々感じてきたことですが、政次がいたころはそれほど目立たなかった直虎の凡庸性が、彼がいなくなったとたんに大きくクローズアップされ、それがストーリー展開の面白さや切れ味にも影響を与えるようになってきているようです。改めて考えると、政次は予測不能な変化や動きを与えてくれる非凡なサブヒーローであり、甘えのないシャープな展開の象徴のような存在でした。

    37話は前半は還俗した直虎の日常生活が描かれました。そこで直虎は、今までの激動の展開がまるで嘘だったかのように「普通の女性」の生活を営み、「普通の女性」が直面する悩みに煩悶します。後半は一転し、直虎が突如としてスーパーヒーローのような活躍をみせます。これは15話で見たのと同じような展開です。

    この前半の「普通の女性」展開と、後半の「スーパーヒーロー」展開について、次項でそれぞれ詳しく見ていきましょう。

 

直虎と「普通の女性」の生き方

    37話では帰農したおとわが綿の摘み取りや綿糸作りに精を出す様が描かれました。共に暮す龍雲丸は炭を焼いて生計を立てています。

    外の世界へ出ていきたい龍と、井伊谷という小世界の内側で生きる直虎。直虎は農業を営みますが、龍は農業に手を染めません。もともと農業は「定住」を意味する生産活動ですので、龍がそれを行うはずがありません。代わり龍が行うのは「炭焼」。職能集団だった龍雲党時代に座を組んで行っていたかもしれない工業活動です。龍の体は井伊谷にあっても、心は龍雲党の世界、すなわち座や市、商業や工業の世界にあるのです。

    二人の住まいには墓石があり、そこには花が備えられています。その花の新鮮さから、二人の暮らしは常に死者とともにあることが分かります。平凡で幸せそうに見える暮らしですが、最初から生き方の違う二人、共に死に損なった二人が、彼岸へ行ってしまった人の魂と共に、この世に留まっています。生きている二人に対して不適切かもしれませんが、彼らがいるところは、どこにも属さない中途半端な中間地点、すなわち煉獄のような場所です。煉獄とは、天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところです。

    この設定自体は悪くないと思います。はからずも生き残ってしまった二人が寄り添って暮らしていこうとするのを、生き方の本質的違いや、死者との因縁といった阻害要因が真綿で首を閉めるように邪魔をする。非常に現実的で、面白いセットアップです。

    しかしこのせっかくのセットアップを、続く直虎のセリフや行動が台無しにしているように思えます。

    堺から誘いの手紙が来た時、龍はおとわも堺へ誘います。これに対する直虎の最初の反応はこうです。

 

「家を潰し、皆の菩提を弔うべきところを還俗し、このうえ井伊を出て行くなど罰当たりにも程があろう」。

   

    これは敗戦の将としてはまっとうな感覚です。直虎は井伊を潰した究極の責任者です。トップというのは失敗の責任を追うのが仕事なのです。

    しかしこの彼女のまっとうな感覚は、母親の説得の前にあっさりと覆されてしまいます。祐椿尼はおとわに「そなたの孫が抱きたいのです」と言います。そして、よい年なのだから頭を逃せばもう相手はいない、とたたみかけます。娘に「普通の女性」としての幸せを掴んでもらいたいという母の願いにほだされて、おとわは龍に告げます。

 

直虎「頭、共に行く」

龍雲丸「よいのか」

直虎「母上が孫の顔が見たいと。故に行けと言うてくださった」

   

    このセリフを聞いて、私は耳を疑ってしまいました。井伊家は断絶したとは言え、まだ虎松は生きており、直之は近藤のもとで井伊の残党を食わせるために奮闘し、龍潭寺も通常営業しており、六左衛門は虎松のもとで苦労し、しのは直虎の命令でお家のために松下に嫁ぎました。すべての失敗の責任者である敗戦の将、そして政次がその命を繋いだ井伊の象徴である直虎が、井伊を捨て、全ての責任から逃れて、「普通の女性」としての幸せを掴むために、「彼氏の転勤についていく」という選択をたとえ一時でも大真面目に行う。そして私たち視聴者は「その気持ち分かる」「私でもそうするかも」と感情移入したり共感したりするように期待されているのです。私はこれには何とも言えない居心地の悪さを感じました。「普通の女性」の幸せとは、社会的責任の放棄を正当化するほどの強い切り札なのでしょうか。

    37話には直虎と龍の二人暮らしの住まいに同居する政次の亡霊について、龍が語ったシーンもありました。

 

 「あんたがここで百姓をやってたって但馬様が生き返るわけじゃねえし」

 

 直虎はこの数年間の間に、政次のことをどう整理をつけたのでしょうか。直虎の政次に対する思いは37話でも結局語られずじまいでした。私は以前はそのうち直虎の口から語られる日が来るのではないかと希望的観測を持っていました。しかし最近は、そんな日が本当に来るのかどうか、少し不安になってきています。

 というのも、ここまで何も言わない、向き合うことすらしないということは、もしかしたら直虎はおろか作者自身も、政次が直虎にとってどういう存在であるかがきちんと整理できていないのではないかと思うようになってきたからです。政次は複雑な人物です。直虎にとっては、彼がどのような存在かを一言で説明することは難しいのでしょう。おそらく説明した途端に、その言葉が全てを内包することができなくて、色々なものがこぼれ落ちてしまう、そのような存在だったのでしょう。

 今思えば示唆的だったと思えるのは、政次の死後、直虎はその死を受け入れず長い間「忘れて」いたということです。これは彼の死の打撃の大きさを表すのに便利な方法でしたが、同時にずるいやり方でもありました。忘れていれば向き合わずにすむからです。そして直虎が思い出した瞬間に堀川城の悲劇が起きます。直虎は政次の死を悼む暇もなく、龍の悲劇に心を奪われます。そして龍の命を救うことが、政次の死を悼むことにとって替わります。本来なら独自の悲劇として対処すべき政次の死が、代替の命としての龍を救うという使命にすり替わったのです。

 私は、このことによって直虎は政次の死をじっくり考える機会を逃してしまったと思っています。政次の死を思い出して以降、直虎が発した政次関連の言葉は、私の記憶では「私が、政次を…(殺した)」、「なんじゃ、政次は生きておったのじゃな」の二つだけです。特に二番目のセリフは、何とも客観的な、他人事のセリフのように聞こえてしまいます。

 多くの政次のファンが残念に思うのは、こうした直虎の無責任・無自覚な態度でしょう。こうした政次への態度は、彼の生前の彼女の態度と全く変わっていません。政次以外のすべての人の気持ちにあんなに過剰に反応する直虎が、政次のことについては本当に淡白です。

 そもそも、直虎は自分が龍の罪を見逃したことが政次の死の遠因になっているということに気がついているのでしょうか。私は気がついていないと思います。分かっていれば、いくら直虎でも、還俗して龍と一緒になるという選択をあれほど気軽にしたか疑問です。だから、傍から見たら因縁に絡め取られたように見える暮らしにさして疑問も持たず、二人して「全て捨てて、一からやり直そう」というお気楽な結論に達するのだと思います。

 おそらく来週、直虎は堺へは行かず、龍とも最終的には別れるのでしょう。しかし私には、直虎が自分の置かれた立場の複雑さをきちんと理解せず、龍との因縁についても深くは考えず、「普通の女性」の幸せを簡単につかみとろうと一瞬でも考えた事自体が残念でなりません。そしてこうした通俗的な展開をお約束のように持ってきて、「ほら、<普通の女性>ならこういうことに悩むものでしょう」と示してくる制作側にも正直失望します。

 このドラマの一ファンとしては、まず直虎に政次の死にきちんと向き合ってもらいたかったと思います。そしてたとえ難しくても、「忘れてしまう」という都合の良い展開にはせずに、きちんと言語化してほしかったと思います。そして政次の死の贖いを龍の命を助けることにすり替えてほしくなかったと思います。それは政次の死の価値を貶めるだけでなく、直虎の誠意や思慮の深さに疑問を抱かせることです。

 繰り返しになりますが、直虎には着実に成長し、37話の時点ではそろそろ視聴者の目線を乗り越えてほしかったと思います。そういう観点から見ると、特に前半の展開はやや残念なものでした。

 

スーパーヒーロー展開への疑問

 次に後半の展開について述べます。後半はようやく武田が攻めてきて、それに伴って徳川、近藤、高瀬の動きがありました。その中でも、私は直虎の井伊谷城潜入大作戦について述べたいと思います。

 直虎が井伊谷武士のモブの中から突然甲をとって正体を明かした展開、既視感がありました。15回『おんな城主対おんな大名』、対寿桂尼のシーンです。あのシーンは意外性があって楽しく大好きな場面でした。

 しかし当時から一抹の違和感があったことも確かです。あのシーンの直前まで直虎は政次の制止を聞かずに無謀に駿府に出向こうとする自分に迷いがあるように見えました。実際に蛇にも怯え、本格的な攻撃の前には自分の身を守ることすらできず、部下の命を危険にさらしたのです。

 しかし蓋を開けてみれば、いつの間にか直之との服の取り替えという奇策を思いつき、「男になって」寿桂尼の前に現れます。その時も、その流れは唐突に感じられました(もちろん1話での亀との服の取り替えという伏線はありましたが)。

 今回も、最前まですべてを捨てて堺に転居するという算段をしていたのに、井伊谷の危機に突然スイッチが入ったかのように熱心に話し合いに参加し、突然奇策を思いついて「男に変身して」井伊谷城に潜入します。

 この男への突然のコスチュームチェンジは若干アニメ的演出に思えます。マーヴェル系のダークヒーローもののようでもあり、日本で言えば『リボンの騎士』のようでもあります。

 このアニメ的な過剰なドラマチックさは全体の流れから浮いていて、よく言えば盛り上がるポイントでもありますが、悪く言えば唐突な流れです。

 なぜこのようなことになるか考えてみると、やはりそこには直虎の人物造形の問題点が関係しているように思えます。

 直虎は「最大公約数的な視聴者」が感情移入しやすいように、知的レベルは平均的に設定されています。そして視聴者が直虎の経験を疑似体験できるように、何かハプニングがおこると、それに対して視聴者が抱くであろう疑問や感想を彼女に代弁させて、視聴者が直虎と共に成長できるように設計されています。したがって彼女の行動や思考は、基本的には視聴者の想定の範囲であることが必要です。

 しかし直虎は物語のヒーローでもありますので、時には視聴者をすっきりとさせるような爽快な活躍をしなければなりません。しかしその過程までもを視聴者に追体験させてはプライズは生まれません。そのプロセスは視聴者には伏せる必要があります。ですから普段の思考と、時々起こるヒーロー的な活躍のギャップが大きいのです。

 ただし、私見ではマンガ的ではないカタルシスが『直虎』シリーズでは一回ありました。それは25話『材木を抱いて飛べ』です。この回では、直虎は全ての思考プロセスを言葉で詳らかにしました。そして変装もせず、奇策もとらず、正攻法と練りに練った策の周到さによって堂々の勝利を収めたのです。そして仮にサプライズがなくとも、視聴者は重厚な満足感を得ることができました。

 おそらくこのような描き方が、視聴者が最も納得する主人公の成長のあり方なのではないでしょうか。そしてそれが25話ではきちんとできていたのです。

 最近の展開は、あの頃から比べるとややパターン化していて、良い意味での意外性や動きがありません。しかし、私は第三幕の『直虎』への期待を捨てたわけではありません。かなりその希望がついえてきたとは言え、直虎には正攻法で成長して欲しいですし、視野を広げ、もっと賢く、責任感溢れ、自信を持って再び城主に返り咲いて欲しいと思います。そして第三幕が、直政の物語ではなく、あくまで直虎の成長の物語であり続けて欲しいと思います。

 

ps. 私は無から価値を生み出す創作活動に敬意を持っていて、基本的には作品に対しては良い面の評価を優先させたい思っています。しかし今回はやはり言うべき点がたくさんあると感じて、このような内容になってしまいました。誠意を持って書いたつもりですが、気分を害された方がおられたらすみません。