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青野の鑑賞記録 ~溢れる思いを、心ゆくまま~

『おんな城主直虎』38回~武田襲来の顛末と龍雲丸の存在意義を中心に~

はじめに

 38話ではとうとう武田が襲来し井伊谷を占拠しますが、あっという間に信玄が死亡し、隠し里の民は時を置かずして井伊谷に戻ることになりました。その間に高瀬の正体が明かされ、直虎の堺行きが中止になり、最後には虎松の帰還が描かれます。今話で「三幕構成」の第二幕(ミドル・葛藤)が終わり、いよいよ第三幕(エンド・解決)がスタートしたのです。第二幕で展開した様々なスレッドを収束させるため、多くのことが慌ただしく起こったように感じられました。

 その中でも重要なものは、①武田襲来の顛末を描くこと、②龍雲丸のストーリーラインに区切りをつけることの二つでした。というのも、これらは第二幕における直虎の城主としての成長のアーチに深く関わるものだったからです。

    思えば第二幕は見えない武田の脅威を常に感じながら進行してきました。第一幕の終わりで今川の世が終わり、次の勢力として徳川、織田、武田らがクローズアップされましたが、中でも井伊にとっての最大の恐怖の対象となったのは甲斐の武田です。姿は見えなくとも、強大な武力で全てを壊滅する破壊神のような武田の存在は、やがて来る不可避の厄災のように井伊谷に影を落としてきました。

 大名の圧倒的「武力」に対して、井伊谷の直虎・政次チームがとった策は「不戦」でした。また戦で領地を拡大することができない直虎は「経済と教育」によって領民を潤す方法を考え出します。「不戦」は政次から得たアイデア、「経済と教育」は方久や村人との交流から得られた方向性でした。龍雲丸は直虎の武家的な価値観に対して外側から揺さぶりかける存在として登場し、直虎の視野を広げ、発想をランクアップさせる役割を果たし(たと制作者は考え)ました。第二幕は、ある意味龍雲丸の登場とともに始まり、その退場とともに終わったともいえます。

 このエントリでは、武田の襲来の終焉が意味するものについて、そして龍雲丸とはどのような存在だったのかということについて、それぞれ論じていきたいと思います。

 

1.武田襲来の終焉が意味するもの

 今回のエントリの主たる資料は『TVガイド特別編集 おんな城主直虎完全ガイドブックPart 2』の岡本幸江プロデューサーのインタビューです。

 その中で彼女は大河ドラマのメッセージについて次のように語っています。

 

大河ドラマはエンターテイメントでありながら、その底流には50年以上にわたり、「国家とは何か」「よりよき暮らしとは何か」という大きなテーマが流れていたと思うんです。

 

 確かに歴代の大河ドラマは、それぞれの放映時期の世相も反映させつつ「あるべき社会像」を描き出してきました。ここではPDはネタバレを避けてそうと明言はしせんが、私は『直虎』において示される「あるべき社会像」とは、「不戦」を貫き、「経済と教育」を重視する社会だと思います。

 言うまでもなくこれは大国に挟まれた小国井伊を日本になぞらえた世界観です。日本を囲む大国にはアメリカ合衆国、ロシア、中国があり、日本はまさに政次が言うように「難しい舵取り」を迫られています。そこで日本がとるべき(だとこのドラマが主張する)道は、「回りの動きにいやらしく目を配り、卑怯者、臆病者とのそしりを受けようとも決して戦」わないことです。

 これは武田のあり方とは対照的です。彼らは他国へ侵略し、そしてヒト、モノ、カネの全てを奪い尽くすことでその勢力を拡大してきました。

 井伊谷占領後の武田に交渉に来た南渓は、信玄と酒を酌み交わしながら、信玄に「戦に飽きたり疲れたりしたことはなかったのか」と問います。それに対して信玄は次のように答えます。

 

甲斐というのはな、山に囲まれた厳しい土地でな、切り開かねば道とてなく、川はすぐに溢れ出す。他国を襲い、切り取らねば生きていけなかった。戦に強くなることこそが、何よりの生業、疲れているいとますらなかったわ

 

 ここで信玄は、甲斐は海を持たず、天然の地形に恵まれた土地ではなかったと説明しています。三方を山で囲まれていたとはいえ、海に近く温暖な井伊谷と比べると、甲斐は地政学的に遥かに厳しい状況におかれていたのでしょう。ただし甲斐も、借金まみれの井伊も、もともと「持たざるもの」であったという点では共通点があります。

 しかしそれを打開するための方策は大きく異なっていました。信玄は「他国を襲い、切り取る」ことで力を得ます。そんな彼の生業は「戦に強くなること」です。国の根幹を軍事力に置き、そこにすべての資源をつぎ込んだのです。そして武力にモノをいせて領土拡大と収奪を行い、それを元手としたさらなる兵力の増強を行いました。これを現代風に言い換えると、他国の領土と資源を得るために侵略して植民地化する19世紀的な覇権主義帝国主義です。

 それに対して小国の井伊は「不戦」の道を選んで軍事力強化を放棄します。男子が途絶え、今川からの軍役の重さで兵力が削がれた井伊にはそれしか道がありませんでした。武家でありながら彼らの「生業」は生産活動、すなわち綿と綿布の生産でした。政治的には井伊と小野の対立を装った二枚舌外交で何とか命脈を保ちます。

 しかし歴史の大きな流れには抗えず、とうとう武田襲来の日はやってきてしまいました。私の含めた多くの人が、今まで見たこともないような地獄絵が井伊谷で繰り広げられ、民は皆殺しにあって、直虎は打ちのめされるのだろうと予想していたのではないでしょうか。

 しかし今話で描かれたのは圧倒的な武田の武力ではなく、「武力」に対して「不戦」で抗するという直虎の戦略でした。武田軍の襲来を知った直虎らは民と近藤の家臣団を隠し里に逃し、井伊谷を空にします。焼かれたのは空き家と田畑のみ、しかもその直後に信玄は謎の死をとげ、川名に避難した面々は早々に井伊谷に帰れることになります。

 ここで制作者が描きたかったことは、武田襲来という史実上の井伊谷最大の敗北が、実は井伊の実質的な勝利であり、「不戦」というアプローチの成功の証左であったということでしょう。これは小野が実は裏切り者ではなく協力者だったという作りと同様の、逆転の発想です。

 以前のエントリにも書きましたが、脚本家は4つの出来事をハイライトとして『直虎』を構成したと語っています。1つは直親の死と城主誕生、2つめは直虎が「ある業績」を達成した時、3つめが武田襲来、4つめが伊賀越えです。この武田襲来は、2つめのハイライト、すなわち気賀城築城と同じように、直虎がこれまで積み上げてきた業績の成果としてポジティブに描かれる出来事だったのです。そして本当の悲劇はその前段、すなわち政次の死と気賀の虐殺の方でした。

 武田の襲来の終焉を通じてドラマが投げかけるメッセージは、孫子の 

 

百戦百勝は善(ぜん)の善なるものに非(あら)ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり

 

 です。そしておそらくこの場面で直虎が参考にしたと思われるのは 

 

上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。城を攻むるの法は已むを得ざるが為なり。

(最も良い戦い方は敵の策を読んでその策を潰したり無力化することであり、次が敵を孤立させること、その次が武力衝突であり、最も下手なやり方は城攻めである)

  や 

若かざれば則ち能く之を避く。故に、小敵の堅なるは大敵の擒なり。

(兵力が敵より大きく劣る場合は武力衝突を避けねばならない。小さな兵力しかないのに大きな兵力と戦うのは、敵の餌食となるだけである)

 

でしょう。すなわち、敵が圧倒的な武力で襲ってきても、敵が本当に欲しいもの(ヒト・モノ・カネ)を与えなければ敵は目的を達したことにならない。敵は下の策で攻めており、たとえ一時勝ったとしても大きな恨みを残すため、次によい展開は期待できない。しかし自軍が策をもって制すれば自分と相手の兵力を削がず、恨みも買わずに勝利を手にすることができるということです。

 このように後から冷静に振り返ってみると、武田襲来の顛末は、直虎の施政方針のエッセンスが込められ、感動的なクライマックスとなりうる要素がつまった面白い構成になっていたと分かります。

 しかし、リアルタイムでオンエアを見ていた時、私はこの展開に胸を熱くし、直虎の成長に感激したでしょうか。残念ながら答えは「否」です。

 私は個人的には脚本家やPDから感じる歴史解釈における攻めの姿勢が好きです。例として、小野を裏切り者にしない代わりに近藤を裏切り者にし、その近藤とも秘密裏に結託して共に大国から身を守ったという設定があげられます。近藤家は史実上も井伊谷城を占領しますので、本来なら井伊家と確執があったとしてもおかしくはありません。しかし近藤は後に直政の家臣ともなります。本当に禍根があれば、臣従はありえなかったでしょう。秘密結託関係はこの矛盾を解消する面白い解釈です。しかも背後には「敵である近藤を赦し、隣人として愛す」という直虎のピースメーカーとしての働きが組み込まれており、さらに孫子による「恨みによる禍根を残さない」という教えも踏襲しているのです。

 しかしこうした解釈の斬新さや鮮やかさは、しばしば細部のご都合展開とセットになっています。今話であれば「隠し里は少し便利に使われ過ぎではないか」「武田軍が攻めてきたのに一人も死ななかったとはいくらなんでも都合が良すぎるのではないのか」というような疑問はしごくまっとうなものです。

 私自身はそうした都合の良さは、それがストーリーの面白さに資することであればそれほど気になりません。例えば隠し里については、そもそも隠し里自体がファンタジーの世界の産物だとも考えられます。隠し里は柳田国男的な民俗学における「隠れ里」とも通じる、庶民が求める理想郷のような場所であり、さらに現代的な視点から見ると災害時の「避難所」「仮設住宅」のような場所です。隠し里を避難所のメタファーのように捉えれば、里の実際的なキャパシティはそれほど気にする必要はないでしょう。

 しかしどこまでが許される範囲なのか、そしてそれによって感動が生まれたかどうかはまた別の問題です。ご都合主義的展開が度をすぎれば、いくら見事な構成でもリアリティが感じられないでしょうし、歴史ドラマにリアリティもなければ感動は生まれにくいでしょう。

 私は『直虎』の過去のご都合展開、例えばおとわが蹴鞠で放免を勝ち取ったり、農民の嘆願書が窮地を救ったり、駿府に海路で材木が届いたりというような展開には、ちらりと「都合がよすぎる」という考えが頭をかすめたものの、素直にカタルシスを感じることができました。主人公の熱意に説得力があり、展開もギリギリ無理すぎないもので、なおかつドラマそのものにエネルギーや疾走感があったからです。

 しかし今回の武田襲来の顛末については、そうした理屈抜きの感動は残念ながらありませんでした。第二幕の最後のエピソードであり、直虎的な平和主義が武田の覇権主義に「勝利」した瞬間であるはずなのに、何ともあっけないアンチ・クライマックスでした。

 その理由な何でしょうか。おそらく、直虎の心が井伊谷の民へ100%向けられておらず、武田襲来への回避の策が、引退した歌手が一夜だけ復帰するようにその場限りのもののように扱われたからでしょう。

 そしてそのようになってしまった大きな原因は、武田来襲の前に、直虎に井伊の再興を諦めただけでなく、「ただの女性」として井伊谷を去り、龍雲丸について堺へ行くという決断をさせてしまっていたことです。

 36話以降、『直虎』は明らかに失速しています。お家再興を諦めた直虎の指揮のもと井伊家は解散となり、戦後処理と「城主をやめた直虎」という動きのない展開にほぼ三話も費やしているからです。

 武田襲来は、本来ならば直虎の「不戦」という業績の集大成であり、なおかつ彼女の城主としての情熱にもう一度火をつける感動の山場になるはずでした。しかし「堺へ行く」という決断をしていたばかりにそのカタルシスは大きく損なわれました。主人公の熱意に疑問符がつき、ドラマに説得力や疾走感が失われた状態で感動を生むのは難しいでしょう。しかも今話の真のクライマックスは龍雲丸との別れに設定されていたため、武田襲来への備えの成功のインパクトはさらに後景に退いてしまいました。

 制作者が第二幕のクライマックスを犠牲にし、「あるべき社会像」に対するメッセージ性を薄めてまで描きたかった直虎と龍雲丸との結びつきとは一体何だったのでしょうか。それについて次項で考察します。

 

2.龍雲丸について

「竜宮小僧」カードの切り方

 龍雲丸について言及する前に、直虎の「竜宮小僧」性について触れておきたいと思います。前掲のインタビューでPDは次のように語っています。

 

 本作では竜宮小僧というテーマをずっと出していますが、直虎のベースにはいつもその意識があって彼女が何か行動を起こすときは、もちろん自分の喜びもあるけれど、自分のためだけでなく誰かの役に立っている。それは「共に生きる」ということであり、その志を持って諦めずに突き進んでいくのが直虎だと思うんです。国を治める方法論に「こうすれば成功」という正解があるわけではなく、取り組む姿勢にしか答えはない。だから「挑み続ける姿が美しい」と感じてもらえるといいなと思います。

  

    確かに直虎はピュアな人物で、その時々に自分より他人を優先し、誰かのために役立つことに喜びを見出すタイプです。しかし私は大河ドラマが打ち出す「国を治める方法論」が、「挑み続ける姿が美しい」だけでは少し足りないと感じます。「正解がない」というのはその通りでしょう。しかし「挑戦し続ける姿」はそれだけで肯定されるべきものではなく、その方向性が問題なのです。すなわち「少しでもよい回答を求めて、知恵を働かせ、視野を広げ、学び、分析し、よりよい選択をする」というプロセスがセットでなければ、共感を生むことはできないでしょう。

 我々は視聴者として、確かに直虎の挑む姿を見続けてきました。しかし明らかに疑問符がつくような選択も中にはあり、それらのうちには未だにそのおとしまえがつけられていないようなものもあります。その最たるものが材木事件の時に龍雲丸を罰しなかったことでしょう。

 材木事件では直虎は私情から武家の理を曲げて龍雲丸を助けます。この時の彼女の行動は確かに「人のため」だったのかもしれませんが、それは彼女がその時にたまたま感情移入していた人のためであったに過ぎません。私たちは19回「罪と罰」で政次に突きつけられた「殿が今守らなければならないものは何だ」という問に、直虎はいつか、おそらくは政次の死の際に、答えを出さねばならないだろうと予想しました。しかし実際は政次の死は選択の余地もなく降り掛かってきました。そして直虎は政次の死の遠因が材木事件の際の自分の判断に端を発していることに思いを至らせていません。

 龍雲丸と堺へ行くという選択も、確かに龍雲丸や母のため、という面はあるかもしれません。しかしそれは他の多くの人々、すなわち井伊谷の民、旧家臣、虎松などに対する責任の放棄と、本当は彼らともまだ共に生きていきたいという自分の思いを裏切るということの選択でもあるのです。

 後ろ髪を引かれる直虎に、龍雲丸はついに別れを切り出します。龍雲丸の優しさが描かれたよいシーンでしたが、私には同時に直虎の主体性のなさ残念に思えました。確かに直虎が一人で考え、一人で結論を出してはドラマ的には盛り上がりに欠けるでしょう。しかし直虎が「竜宮小僧」の名のもとに、あそこまで自分の運命を他人任せにしようとし、なおかつ男に肯定してもらわなければ自分の生き方を決められなかったというところに歯がゆさを感じます。

 「人のため」というのは主人公の行動の動機としては玉虫色の危険なカードです。主人公が与えられた状況で精一杯によい選択をしようと努力し、失敗から学んで成長する姿が描かれれば感動を生みますが、主人公が視野が狭く間違った選択をすることの免罪符になれば、主体性の欠如として映るでしょう。私は「竜宮小僧」のカードは、城主や僧として「民の利益を考え、民に尽くす」ときにこそその効力を発すると思います。「民のため」という軸がブレたり、私的な選択をする際にこのカードが使われると、色々なことが混ざったおかしな状況になります。そしてここ数話はまさにその軸がブレて、混乱が起きている状況にあるのです。すなわち「龍雲丸について堺へ行く」という選択にまで「竜宮小僧」的な要素を入れようとすると、材木のときのように私情と公の論理が混ざり、主人公の主体性や判断力に疑問符がつくことになってしまうのです。

 

①直虎との公的な関係

 長い前置きを終えて、いよいよ龍雲丸について論じていきましょう。ここでは龍雲丸について、①直虎との公的な関係、②直虎との私的な関係、③龍雲丸の存在意義という3つの事柄について考察します。

 まず龍雲丸と直虎の公的な関係について見ていきましょう。『TVガイド後編』のインタビューで、PDは紙面の約三分の一の分量を龍雲丸関連の事柄を語るのに費やしています(政次については十分の一程度です)。今回改めてその分量の多さに驚き、龍雲丸こそが直虎の成長のキーパーソンかつパートナーとして制作陣の大きな期待を担っていたことが分かります。一部を引用します。

 

あえて武家社会からも秩序からも自由な流浪の民であり、武家に支配されることをよしとしない龍雲丸をアウトローとして登場させました。もちろん直虎自身が掟破りの存在ではあるのですが、龍雲丸はそれをも凌駕する。根底の部分でとてつもなく大きな問をつきつけられることで直虎自身が城主としてよりスケールアップするために、非常に必要な人物です。武家社会の中では、国のため、お家のために自分の感情を押し殺し、いろんなものを犠牲にする「ガマンする男たち」が多い中、あけっぴろげで何ものにもとらわれない男性像として龍雲丸が魅力的に映ればいいなと思います。

 

 「根底の部分での大きな問い」というのは、21話で龍雲丸に言われた「武家は泥棒ではないか」で、それに対する直虎の答えは「奪われない世を作る」というものでした。「なぜ自分たちを雇うのか」という龍雲丸の問いには「武家が泥棒だと認めるのが嫌、つまりは自分のためだ」と答えています。

 ここでは龍雲丸が直虎の価値観を根底から覆し、彼女大きくスケールアップさせる人物として構想されています。

 しかし実際の龍雲丸は、本当に直虎の発想にコペルニクス的転回を与え、彼女の視野を広げて次のステージに押し上げるような働きをしたのでしょうか。

 確かに直虎は龍雲丸によって初めて武家が搾取する特権階級であるという知識を得たのかもしれません。しかしその後も武家であることをやめようとはしませんでしたし、むしろより井伊を守るためによりよい武家になろうと精進を重ねます。貧しい農民の実情は次郎時代から間近で見てきましたし、武士が搾取階級だと知ったところで、領主として構造的な搾取をやめることはないのです。

 そして「奪わず、与える」ための方策についてですが、こちらの方は16話時点で方久に綿の栽培を持ちかけられ、すでに殖産興業を始めていました。さらに教育については14話時点でその必要性を感じ、15話では一定の成果をあげています。「経済、教育」という「不戦」の具体策をすでに実行していた直虎にとって、「武家が奪う存在である」という知識を得る事自体にどのような重要性があったのか、今となっては疑問に思います。直虎は社会構造的には搾取する側、すなわち現在の表現で言えば99%を支配する1%の側の人間です。そのこと自体を彼女が否定することはありません。彼女は領民を戦争に駆り出す代わりに生産の手段を与え、人の流れを流動的にして生産性を上げ、その上前をはねることで利益を得る新自由主義的な経済領主です。

 むしろ龍雲丸が本当にドラマに持ち込んだ課題は材木問題でした。彼はまずそれを盗む悪党として登場します。井伊や近藤の領地から盗みを働いて捕まるも、直虎に気に入られたために罪は全く問われず、逆に木こりの仕事をオファーされます。材木は井伊を繁栄させ、気賀城建築の礎にもなりますが、その気賀城では虐殺が起こり、恨みの結果政次を失います。材木は第二幕中盤の展開の鍵となり、物語を先に進ませる要素となったと同時に中盤の停滞の原因ともなりました。井伊が取り潰しになった後では材木のスレッドは忘れられています。38話の時点で井伊の民を潤しているのは元々行っていた綿業の方です。

 龍雲丸は直虎に刺激を与える存在であったのかもしれませんが、彼が直虎の城主としての方向性が決定づけたかというと、そうではないと思います。

    むしろ公私混同によって話が色々とややこしくなった面が多かったのではないでしょうか。21~23話や36~38話など龍雲丸がメインの小アーチがいずれも停滞したのは直虎の「竜宮小僧」設定の軸がブレて判断の基準が怪しくなり、それに視聴者がヤキモキしたためだと思います。

    与えられた立場や役割を全く考慮に入れずに見れば、龍雲丸は頭がよく、さっぱりとして思いやりに溢れた男です。しかしそのスケール感は、制作者の期待と比べるとずいぶん小じんまりしたものに思われました。彼と直虎の公的なやりとりに私が今一つ興奮しなかったのは、彼の言い分が「世界を見てきた男が視野の狭い武家に光を見せる」というようなスケールの大きなものではなく、むしろ武家社会に幻滅した男の武家に対する反抗のように思えてしまったからです。

 公的な存在としての龍雲丸は、直虎の世界を変える人物として構想されながらも、実際には城主としての方向性にそれほど決定的な影響を与えず、むしろ公私混同による政策の混乱を招いた存在であったと思います。

 

②直虎との私的な関係

 直虎と龍雲丸は19話の再会からお互いを意識し、徐々に惹かれ合っていきました。しかし身分や立場の差から、直虎が城主である間は結ばれることはありませんでした。

 特に23話で龍雲党が井伊谷を去ってからは、直虎は意識的に龍雲丸とは精神的な距離をおき、自分からその距離をつめることはありませんでした。23話で仕官のオファーを断られたときに拒絶されたと思ったのかもしれません。あるいは自分の公私混同が招いたかもしれない致命的な失敗に対してさすがに慎重になったのかもしれません。

 龍雲丸も同様でした。気賀に根を張ると決意することで静かに直虎の近くにいると宣言はしましたが、あくまで一歩引いた立場で見守る道を選んだように見えます。それには、賢い龍雲丸が、直虎と政次の間にある強い結びつきを当の直虎よりも敏感に感じ取り、それに敬意を払って遠慮したという理由もがあるのではないかと思います。

    龍雲丸は政次の直虎に対する秘めた思いにも気づいていたでしょう。それと同時に政次はその思いをどうにかしようとしていたわけではなく、あくまで家老として井伊のため直虎のために心を尽くして働こうとしていたことも分かっていたと思います。その真摯な思いに打たれたからこそ、彼らは密かに共闘関係を結ぶことができたのです。

    そして龍雲丸は、直虎の中にある政次への全幅の信頼もよく分かっていたと思います。同時に二人の中へは入っていけないようにも感じていたはずです。直虎の政次に対する思いは、彼女自身名前をつけられないものではあったけれど、強く、まっすぐで、全面的なものであったことは確かでしょう。それは当人には「愛」だとは分からないものでも、その人に関心を持って見つめる他人からは「愛」以外のなにものでもないように映ったのではないでしょうか。

    ここで先のインタビューにおけるPDの政次に関する発言を引用します。

 

少し長い目で追っていただくと、やはり二人はベストパートナーになっていくんです。それが秘められたラブ・ストーリーに見えなくもないけれど、本人たちにはそのつもりもなく、井伊家を維持し、国を守るために尽力している。そこには単純な男女関係になるわけにいかないもどかしくも切ない事情もあるのですが…。最終的には恋愛を超えた強い結びつきになり、政次は直虎の半身のような存在になっていく…

 

直虎と政次の間には信頼と同時に一種の緊張関係もあります。井伊を守るための綱渡りをする二人にとって、毎日が必死のサバイバルなのです。そこで二人は真面目に力を合わせて戦っている。直虎にとっても政次にとっても、お互いは同志だったのです。しかし二人の間の信頼関係は、愛と呼んでもよいものでした。

 個人的な話をすると、私にとって愛というのは究極的には神の愛です。それに最も近いのは、人間が他の人間を無条件で受け入れ、赦し、その人の幸福を願う気持ちです。その他にも愛には色々な形があり、政次のそれは恋情に振れていたのでしょうし、直虎も政次を認め、頼り、信頼するなかで政次に好意をいだいていたのでしょう。

 直虎の愛が男女間の恋愛と全く同義だったとは思いませんが、政次と直虎はそれでも(異性愛の)男女です。人間は性を含めた総合的な存在であり、直虎や政次から性の部分だけを切り離して考えることはできませんから、この二人には男性同士の結びつき、女性同士の結びつきとは違う独特のケミストリーがあったはずです。それを一番敏感に感じ取ることができたのは、目の前のことに必死の当人同士ではなく、むしろ一歩引いたところから観察し、なおかつ政次と同じ女を愛していた龍雲丸だったのではないでしょうか。

 実際に龍雲丸は、政次と直虎の間には入っていけないということを当の直虎から二回も突きつけられています。一度目は虎松の代わりに死んだ子を弔った時、二度目は政次の死の覚悟を告げたときです。どちらもセリフは「頭に何が分かる」でした。

    愛する人から、このように告げられた男の心境はいかほどのものでしょう。直虎は龍雲丸に「政次と自分のことは、政次と自分にしか分からないのだから、外部の者はつべこべ言うな」と言っているも同じなのです。このように言われれば、二人の中にはとても入っていけないと感じるのも無理はないでしょう。

    龍雲丸と直虎は本来ならば結ばれるはずのない二人でした。しかし直虎が井伊家再興を諦めたことで急にその可能性が開け、互いに寄り添う決意を固めます。しかしこれは手負いの鳥が翼を寄せ合って羽を休める一時的な避難のようなものでした。通常の結婚と違い、二人には将来のビジョンも、共に見つめる方向性もありませんでした。ただお互いに見つめ合い、傷を直し合うだけです。

    果たして年月が過ぎるにつれて二人の自己実現欲求が首をもたげ、その方向性に齟齬がみえるようになります。龍雲丸は再び商人として飛び立ちたい、直虎は井伊谷の役に立ちたいのです。直虎は「龍雲丸のため」「母のため」と自分を騙して堺へ行こうとしますが、すんでのところで龍雲丸に止められます。

 

前の男に未練たらたらなくせに、ついて来るんじゃねえわ

 

    これは龍雲丸の率直な気持ちだったと思います。なぜなら龍雲丸と直虎は、政次が生きていれば決して一緒になることはなかっただろうからです。少なことも龍はそう思っていたと思います。なぜなら龍は、政次と直虎には名前のつけようのない強い結びつきがあり、直虎にとっていちばん大切な男は政次だったということが分かっていたからです。直虎にとっては城主であることは彼女のアイデンティティの中核であり、それを支える政次は彼女にとって最も必要な人です。それだけでなく、友人で、幼馴染で、一番近しい男性である政次を人間として最も信頼し、尊敬し、大切に思っていたのです。そのような拗らせた関係の男がいる女に手を出すような野暮な男では龍雲丸はないでしょう。

    龍は出発のあとに、直虎に井伊に戻るように説得します。「家はなくとも、城はなくとも、あんたは城主だ、もうそういうふうになっちまっているんだ」、龍に言われて、初めて直虎は自分の願いを再確認します。他人に、しかも男に言われないと自己肯定できないヒロイン像に私が不満を持っているのは以前のエントリにも書いたとおりです。しかしここではそれを繰り返すことはしません。

    それよりも、前項に書いた「なぜ「あるべき社会像」描写におけるクライマックスを犠牲にしてまでも、龍雲丸と直虎のストーリーに重点をおいたかということを考えてみましょう。

    そもそも龍雲丸は直虎にとって私的な面ではどのような存在として構想されていたのでしょうか。再びPDのインタビューからです。

 

直虎が方久や気賀の商人たち、そして龍雲丸と築いたものが壊れ、戦国の非情な波が気賀にも井伊家にも押し寄せてきます。けれどそのなかからでも直虎と龍雲丸はもう一度立ち上がります。辛いことも起こりますが、その経験が彼らの本当の強さになっていくはずですし、そこは丁寧に描きたいと思っています。

 

    ここでは「二人」が色々な悲劇を経験し、その「二人」がもう一度立ち上がる、と書かれています。すなわち直虎と龍雲丸は手を携えて運命を共にするパートナーとして想定されているのです。

    しかし龍雲丸は直虎のパートナーたるに十分な説得力を持っていたでしょうか。あくまでも個人的な見方ですが、まず龍雲丸と直虎には運命のパートナーであると視聴者を説得するに足るケミストリーがなかったと思います。外面的には二人ともくっきり二重の濃い顔立ちで、画面にコントラストがありません。身長差もそれほどなく、年も男性の方が相当に若いため、異性愛の男女というより、仲のよい似た者同士の姉弟のようです。内面的には、そもそもカップルは対極的な方が引き合うはずなのに、この二人の性格は酷似しています。二人ともある事柄に似たようなリアクションをとるので、二人の掛け合いには意外性がなく、テンポに変化がありません。

    そして政次と登場の時期をかぶたことも助けにはなりませんでした。政次をメインの相手役としたいのか、それとも龍雲丸なのか、視聴者は混乱しました。出場の回数や尺、ストーリーの基軸に関わる重要性からいえば政次の方がメインの相手役のように思えるのに、直虎は政次の気持ちには鈍感で、忘れた頃に時々登場する龍雲丸にはいつも格別の関心を払います。

    二人の活躍の時期を重ねて恋愛のラインを混乱させたうえに、政次の死の直後に龍雲丸の悲劇を配置し、直虎の目を政次の死からそらします。物事は後に起こった方にインパクトがあります。直虎が井伊再興を諦めるきっかけになるのも、政次の死ではなく気賀の悲劇でした。政次の死は直虎も井伊谷の面々も(なつでさえも)わりあいにあっさりと乗り越え、すぐに直虎が龍雲丸と「手を取り合って再び立ち上がる」様子が描かれます。これでは、政次は本当に何のために死んだのかよく分からなくなってしまいます。もちろん井伊谷と直虎を護って死んだのですが、その死を受け止めて遺志を継いでいるのは、皮肉にも一番対立していた直之ぐらいのものです。

    このような状況で、視聴者に龍雲丸とのラブ・ストーリーに感情移入し、直虎が「人のために」行う選択や、彼女の迷い、そして龍に背中を押されてやっと行う決断に共感しろというのは無理な話ではないでしょうか。なぜ制作者はこのように混乱した事件の配置を行ったのでしょうか。

 

③龍雲丸の存在意義

 混乱した私にヒントを与えてくれたのは、先日公式HPにアップされた脚本家のインタビューでした。

 

龍雲丸は、直虎にとってはもう一人の自分みたいなものですかね。ふたりの持っている核のようなものはとても似ている。生きてきた世界や立場が全く違うからいちいちぶつかるけれど、その奥底にあるものは同じだから、お互いの気持ちは分かる、分かってしまう。同じ波長を持つ、出会うべくして出会った相手として存在しているのが龍雲丸、ということです。

 

 「龍雲丸はもう一人の直虎」だと考えると、なんとなく疑問の答えが見えてくるような気がしました。

 二人は立場は違えど似た者同士です。制作者はこの二人に合わせ鏡のように同じことを体験させ、それを協力して解決させたかったのではないでしょうか。

 まず二人はともに組織のリーダーです。組織の運営とメンバーの福祉がリーダーとしての最大の関心事です。まずこの二人に、大切な人の死を経験させます。直虎にとっては政次であり、龍雲丸にとっては龍雲党のメンバーです。そして次に自分が世話をするべき組織を失わせます。直虎にとってはそれは井伊家や井伊谷であり、龍雲丸にとっては龍雲党です。ここではリーダーとして二人が抱える課題や挫折、ジレンマは共通しています。ともに支えてくれた仲間を失って意気消沈し、自分のせいで組織がダメになってしまったと自分を責め、組織を率いていくことに対しての意欲を失います。その結果が結婚して農民として井伊谷に住むという選択でした。

 そして再生の過程も二人は共に経験していくのです。直虎は徐々に眠っていた城主への情熱を思い出し、龍雲丸は商売への意欲を取り戻します。お互いがお互いの気持ちが分かるからこそ、最初こそ遠慮しあったり自分を抑えようしたりとしますが、それに無理があることに二人とも気づき、相手の背中を押して行くべき方向に行かせようとするのです。

 制作者は二人が共通の経験を経て、共通の課題に悩みながら対話し、そして一緒に立ち上がりながらも別々の方向へ進んでいくという過程を「丁寧に」描きたかったのでしょう。だから武田襲来は後景に追いやられ、二人の対話と逡巡に長い尺を割いたのです。それはなぜでしょうか。原点に戻りますが、『おんな城主直虎』が、なによりも城主としての直虎の成長物語であるからなのでしょう。ですから長いアーチで武田襲来までの伏線を張り、「不戦」の勝利を迎えることができたにもかかわらず、「龍雲丸と別れる直虎」の方に重点が置かれてしまったのです。

 だとすれば、龍雲丸の本当の存在意義とは、もう一人の直虎としての彼に直虎と同じような経験をさせ、二人が対話しながら一緒に困難を乗り越えていく過程を描くことにあったのでしょう。もしかしたら恋愛は副次的な設定だったのかもしれません。

 そのように考えると、政次の死と気賀の悲劇が立て続けに起こった理由も分かるような気がします。そうと認めたくはないけれど、究極的には直虎と龍雲丸に同時期に似たような経験をさせるためだったのです。

 しかし実際の視聴者には制作者のこうした意図は(仮に私の解釈が合っていたとして)ほとんど伝わらず、政次の死の消化不良と、不自然な龍推しの違和感のみが残ったのではないかと思います。

 私は以前から、龍と直虎はよく会話をするな、と思っていました。直虎が何か着想を得る時は決まって龍と長い会話をします。直虎は龍と会話することによって成長したり、次のステップに行けたりするというパターンが何度も出てきます。その流れからすると、最後もやはり龍との会話で、龍に後を押されて復帰という決断をするのは当然の展開だったのかもしれません。

 しかしこれまで見てきたように、公的には龍のビジョンはそれほど革新的なものではなく、私的にも直虎とのケミストリーも今一歩でした。それなのに、制作者が、直虎は龍と手を携えて成長するという作りにこだわったため、何とも説得力に欠けた、感情移入しにくい展開になってしまったのではないでしょうか。

 龍雲丸や話の展開の方向性に対して少し辛口の感想になってしまったかもしれません。龍雲丸が好きで、話の展開も楽しんだという方々には申し訳なく思います。個人の感想としてご容赦ください。

 虎松の帰還について語る時間がなくなってしまいました。来週以降の活躍を楽しみにしたいと思います。ただし来週はずっと出張なので、感想が書けないかもしれません。その際は再来週にまたお会いしましょう。