Aono's Quill Pen

青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』41話~直虎の進化、井伊と小野~

直虎 vs. 虎松、第二ラウンド

 41話は脚本の巧さに改めて驚かされた回でした。話の規模としては小さいかもしれませんが、多くの登場人物のそれぞれのスレッドを巧みに操り、核となる登場人物毎に少アーチを描きながら全体をまとめ、しかも一つの回としてのメッセージも打ち出していました。一番の核となるのは直虎と万千代の対立のスレッドでしょう。出世それに六左とノブという二人の妙齢の男性の対照的なセカンド・チャンスの物語が効果的に挟み込まれていました。

 まずメインのスレッドである万千代と直虎の対立について見ていきましょう。第一ラウンドでは浜松に乗り込んで直接対決した直虎ですが、第二ラウンドでは前回できた家康とのコネクションを生かし、家康を通じて万千代の処遇を遠隔操作しようと試みます。地理的に離れた二人を対立させる方法として、これはなかなかにうまい仕掛けだと思います。

 40話で対面した際に、家康は直虎に万千代の処遇に関して大切な視点を示しました。それは万千代を効果的に「育てる」という視点です。家康は万千代を厳しい環境にあえて置くことで、彼の奮起や創意工夫を引き出そうとします。家康は段々に大きくなる徳川の家に人を育てるという文化を作り、才覚次第で出世できる体制を作ろうとしているのです。

 家康の話を聞く以前の直虎は、筋の通し方を知らない万千代をたしなめることに専心していました。しかし話を聞いてからは、彼女自身も万千代にとって何が一番良いことかを考えて行動し始めます。直虎がはからずも虎松のメンターとなった瞬間でした。その第一歩が草履箱に名札を貼り付ければよいという助言です。

 ところで万千代が勤務を命じられた玄関とはどのような場所でしょうか。そこは登城する全ての人が通る交通の要所であり、人を覚えたり観察したりするには絶好の場所です。小姓となれば殿のそばに控え、家臣の本音などを聞く機会はそうそうありません。しかし草履番ならば上級家臣は歯牙にもかけていませんから、表情を観察したり本音を漏れ聞くこともあるでしょう。お家の情勢が何となく分かる、人と情報のハブのような場所なのです。ハブでの情報収集と言えば、16話で直虎が方久の茶屋で人買い情報を得ようとしたことが思い出されます。家康が目をかけている万千代やノブを玄関に配置したのにはそれなりの理由があるのです。

 しかし同時に、玄関は一段低い場ですから、身分の低いものの働きの場所であることは否定のしようがありません。後ろ盾となる家がない万千代や一度失敗したノブが、出世のための出発点として臥薪嘗胆する試練の場なのです。しかし逆に言えば、ここから出発して這い上がれば、周囲のものもその才覚を認めざるをえないでしょう。家康は、通常ならば登用しにくい万千代やノブを、ここから始めさせることで最終的に自分のもとに置くことを他の家臣に認めさせようとしたのではないでしょうか。

 出世を焦る万千代は、ノブの情報収集術によって得られた情報をもとに、さっそく家康に「材木を調達する代わりに初陣を飾らせて欲しい」と交渉を持ちかけます。万千代は井伊谷を自分の土地のように思っていますから、南渓に頼めば何とか都合をつけてもらえるという甘い見通しを持っていました。しかしそれを聞いた直虎は万千代の甘い考えを一蹴しつつも、しかし最終的には万千代の出世を助ける方向で、近藤に対して角が立たないように事を進める算段を始めます。

 その算段とは、家康から近藤に材木調達を命令してもらい、井伊はあくまで近藤の依頼を受けて木を切り出すということでした。そのことで、近藤の顔を立てつつ実質的に井伊が家康を助け、万千代の出世の一助としようとしたのです。直虎がこの策を一人で考え出し、実行したことには直虎の大きな成長が伺えます。城主時代の直虎は、材木に関して配慮に欠いた行動に走り、それが後に大きな禍根を残しました。直虎にもう材木の件で失敗することは許されません。様々な経験を経て視野を広げた彼女は、まず近藤の懐柔をはかり、家康とも連絡をとりながら、慎重に事を進めます。

 今話の直虎は南渓さえも自分の駒として使う徹底的なマスターマインドぶりを発揮します。南渓を頼る段階を脱し、ついに本当の指揮官として独り立ちしたのです。皮肉にも城と家がなくなった今になって、直虎はようやく本当の城主として完成の域に近づきました。

 材木の切り出しは、龍雲党から技を学んだ六佐と井伊谷の民によって行われ、そこで六佐は気さくに龍雲党に親しんで得た技を披露し、本領を発揮することができました。この「技を盗む」というアイデアは、もともと政次が提案したものでした。政次の植えた種が実を結び、それが井伊の利益となって花開く様を見て、たとえそこにいなくても、政次の考え方がしっかりと直虎と井伊谷に受け継がれているように思えました。

 今回の直虎の裏方としての働きは、かつて政次が直虎に対して行っていた役割によく似ています。直虎の策は回り回って万千代のメリットとなるものでしたが、出世を焦り視野が狭くなっている万千代にはそのことが分かりません。ですから自分の思い通りにさせてくれない直虎を敵だと思い込み、反発します。

 かつて直虎も、政次を敵だと思い込み、本当は彼女のためにやっている政次の働きを恨んで反発していました。政次の方も、直虎の才能を認めつつも、彼女が筋が通らないことをしようとしたときは決然として妨害しました。たとえば材木泥棒事件の際、政次は、仕置ができない直虎を飛び越えて龍雲丸の処遇に手を回したり、直虎に「殿がいま守らねばならないものは何だ」と詰め寄ったりしました。

 それが今では、直虎が万千代に対して敢えて適役を演じ、政次の思いをトレースしながら万千代を教え導いているのです。彼女が策を考える時、おそらくは「政次ならどうするか」と自然に考え、頭のなかでエア碁をしているはずです。

 そして一番面白いと思うのは、万千代が直虎に反発するのは、かつて彼女を信じ、信頼し、尊敬していたからであるということです。ですから万千代の反発には、心の奥に一種の「甘え」のようなものが見え隠れします。これは政次と直虎に関しても同じだったと私は思います。直虎は政次を信頼し、尊敬していました。だから一層彼に反発したのですが、やはり彼女の心の奥には「甘え」のようなものがあったのだろうと思います。

 今話は材木が大きなテーマになっていたため、自然と過去の政次の影の働きのあれこれを思い出すことが多い回でした。今話でメンターとしての直虎のポジションが明確になったことで、今後の直虎と万千代の関係がある程度政次と直虎の過去の関係をトレースしていくという方向性が見えてきたように思えます。

 城がなくとも城主として大きく成長した直虎と、かつての直虎を凌駕する猪突猛進ぶりを見せる万千代の次の対決はどのようなものになるのでしょうか。どうやら直虎は次回は長篠へ出かけていくようです。第三ラウンドを楽しみに待ちたいと思います。

 

二人のセカンドチャンス

 今回の印象深いサブ・スレッドは六左とノブのセカンド・チャンスの物語でした。

 中でも六佐の物語はビギニング、ミドル、エンドが明快で、しかもエンドがきちんとメインのスレッドに有機的に絡んでいる点が大変に見事でした。松下でも近藤でもお荷物のように扱われる六佐、しかしそんな彼にも「武功」を立てたいという密かな夢があります。そして彼は最初は一般的な意味での武功を立てようと苦労するのですが、うまくいきません。しかしそれでも腐らずに諦めないでトライし続け、ついに別の意味での「武功」、すなわち彼の長所を生かした木の切り出しという場面で成果を上げることができました。木は戦の備えです。それを調達することは立派な武功なのです。そのことはかつて中野直由も直親にきちんと伝えています。

 

戦の支度で勝敗の八割が決まります。

 

自分が思ったタイミングで、思った方法で事が成就しなくても、諦めなければ違った方法で、しかもしばしばよりよい方法で報われることがある。セカンド・チャンスを信じる人には励ましになるような心温まるエピソードでした。

 ノブのスレッドは六佐とは対照的なものでした。彼も一度失敗して再気を図る人ではありましたが、彼の場合はその圧倒的な才覚で格の違いを見せつけ「この人ならいつどこでも頭角を表すだろう」と思わせました。

 まずノブは醸し出す雰囲気から違っています。自然体、不敵な態度で、「手柄を立てたい」などという欲は微塵も感じさせません。そもそも草履版にさせられたことにそれほどストレスも感じていないようですし、若い万千代に指図されてもどこ吹く風、飄々と自分のやり方で仕事を覚えていきます。おそらくは家康が万千代を探るためにつけたか、あるいは自分から志願してこの役目についたのでしょう。

 彼の草履番としての仕事のやり方は、万千代のシステムはあるが大部分体力勝負な方法とは異なっていました。家臣の退城のケースをひたすら観察し、まずビッグ・データを蓄えた上で、それを分析して個々の家臣の退城パターンを割り出し、予め草履を置いておきます。そして変則的な事態が起きた場合は理由を探り出し、そこから家内の情勢に深く切り込んでいきます。すなわち前者はコンピューター的な計算、後者はソフトパワーを用いた戦略立案をしているのです。

 このような描写から、ノブが周囲とは比較にならないの知恵者であり、万千代とは別の意味で才気溢れる徳川を支える人材であることが分かります。彼もまた、家康の人材育成プログラムの重要な素材です。玄関の片隅は「はきだめ」どころか、人材の「宝庫」、すなわち出世のファースト・トラックの通過地点なのです。

 六佐と違い、ノブにとってセカンド・チャンスはあくまでクールにしたたかに戦略的に狙う達成可能な課題です。しかしそんなノブにも、上司である家康に、彼の才を認める目と、育てるという意思がなければチャンスは回ってこなかったでしょう。本多忠勝の反発を見れば、ノブの登用がいかに世間の常識からはずれたことだったかが分かります。ダイヤモンドが転がっていても、その価値が分かる人でなければそれを使うことはできません。ノブの活躍は、上司である家康の器の大きさを映す鏡でもあるのです。

 

井伊と小野

 今週も万千代と万福のコンビの活躍は私たちを楽しませ、なごませてくれました。前項で私は直虎と万千代の関係は政次と直虎の関係を思い起こさせると書きました。しかし万千代と万福の関係もまた、直虎と政次の関係を彷彿とさせるものです。

 しかし二人が旧世代と大きく違う点は、彼らは陽の光のもとで堂々と主従でいられるという点です。井伊はすでに潰された家ではありますが、それゆえに失うものがない強みがあります。しかも今は松下家の庇護も受けていて、主家の徳川家には今川のように戦に負けて臣従したわけではなく、罠にかけられたり、脅されたりする心配もありません。新世代の奮闘は、彼らにとっては死活問題なのかもしれませんが、旧世代の逼迫感とは根本的に違う、どこか牧歌的で、最終的には守られているような安心感が漂っています。これは直虎と政次が必死に努力して作り上げた状況でもあります。

 ところで、万千代と万福は主従である自分たちの関係を自明のものとして疑いません。しかし井伊家と小野家のこれまでの関係を考えると、二人の主従関係は必ずしも当然のものではなかったのではないでしょうか。

 私は先日BS-TBSで放映された『にっぽん!歴史鑑定 #131 井伊直虎小野政次の関係』という番組を仕事の傍ら流し見していました。その番組は、小野の家格は井伊とさほど変わらず、小野は今川の命で井伊の家臣団に加わったため、井伊に対する忠誠心は薄かったと言っていました。さらにドラマの時代考証を担当した小和田哲男さんも出演し「この時代の主君とナンバー2というのは同格に近いような立場。しかも、井伊家側は小野家が今川とつながっていることは承知しているため粛清できなかった」と述べていました。

 戦国の世の武家であれば自らの家の繁栄は何よりも大切な優先事項、しかも家格も変わらず血縁もない小野であれば井伊の領地を狙うのは当然のことです。したがってドラマにおける政直の行動や態度の方が、小野家の当主としては自然な振る舞いだといえます(政直でさえも井伊家の利益を少しは考えていた風もありましたから、ドラマではこの時点ですでに小野家は心情的にも少しは井伊家に臣従していたと言えるかもしれません)。

 しかし小野家は政次の代になると、直虎や直親との絆を重んじ、自らの家を家臣として格下に見て、井伊家を乗っ取るなどとは露ほども思わないようになります。私たちの多くは『直虎』の政次が政次のスタンダードだと思っていますので、ドラマの中の政次の行動のエキセントリックさが今一つ実感できません。しかし独身設定とも合わせて、政次の考えや行動は当時としてはかなり風変わりで私欲に欠ける不思議なものだったといえます。

 このような突飛な行動に出るには、背後にそれなりの強い動機があったと考えるのが普通です。ドラマにおいてそれは、今川の犬としての役割に対する嫌悪感や友人に対する優しい心、そして直虎に対する愛などだったと考えられます。

 なかでも愛というのは何よりも強い動機ではないでしょうか。人が金銭欲や権力欲といった根源的な欲を放棄するとき、その裏にはしばしば理屈では説明の付かない「愛」のような強い感情があります。

 その「愛」は時に恋愛であったり、親子の愛であったり、もう少し大きな無償の愛であったりします。なかでもドラマや小説などでは強い衝動性がある「恋愛」が動機としてしばしば使われます。政次が独身を通し、家の繁栄を諦め、臣従する必要もない衰えた主家に自ら臣従するという不可解な行動を取る原因は、直虎を「愛していたから」だと説明するしかないのではないでしょうか。

 このように『直虎』におけるプロット・ツイストの要ともいえるこの政次の愛ですが、それがドラマではきちんと定義され、描写され、掘り下げられていたでしょうか。もちろん高橋一生さんの演技には非の打ち所がなく、脚本の行間を読んで出来得る限りの表現をしてくれたと思います。しかし脚本や演出のレベルではきちんと一貫性を持って分かりやすく描かれていたでしょうか。政次がなぜ自分を追い込んでまで悪役を演じ続け、恨みを買っても井伊家を支え続けたのか。観客も騙す必要があったとはいえ、動機の部分は観客の解釈に任されている面が大きかったのではないかと思います。説明のセリフがあったかなかったかということではなく、状況の描写としても証拠不十分のように感じました。ですから32話で種明かしのように語られる政次の「思い」は私たちには唐突に感じられ、理解が難しいものでした。

 高橋さんのインタビューを読んでも、彼自身が政次の思いの正体を把握するのにやや苦労している様子が見て取れました。それは彼のせいではなく、やはり明確な定義と過程の描写が省略されすぎていたためだと思います。

 同じことは直虎にも言えます。この二人の関係は、ドラマの中心の男女関係だったにも関わらず、お互いに相手に対する心情の描写があまりにもなさすぎたのではないでしょうか。行間を読む楽しみがあるといえばそれまでですが、ほかの登場人物の気持ちはこれほど丁寧に描いているのに、なぜここだけこのように分かりにくくしたのかと改めて不思議に思います。

 最近『わろてんか』を見ていても痛感するのですが、近年いわゆる王道の恋愛ドラマが低調ななか、ドラマにおいてその関係性に心を奪われるような特別なケミストリーのあるカップルは本当に稀です。『直虎』においてはそれが奇跡的に存在しました。しかし思ったように掘り下げられず、中途半端なままに終わってしまった感があることが残念です。

 最近どの回の感想を書いても、結局画面に一秒たりともでてこない政次の感想に収斂しているように思います。あと9話、政次の面影を感じることがあるのか、それも楽しみに見ていきたいと思います。