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青野の鑑賞記録 ~溢れる思いを、心ゆくまま~

『おんな城主直虎』42話~万千代と家康に見る理想の上司・部下関係、おまけで高橋一生さんにやってほしい役など~

一人じゃないのよ

 直虎対万千代の第三ラウンドを期待した今話、残念ながら本格的な対決はありませんでした。今話では万千代と家康の関係に焦点が置かれ、人が見ていないとこでする努力と、それを見定める上司の力量をテーマに話が進行しました。

 万千代は留守居を命じられた上に、酒井の一門の小姓から武具の手入れを押しつけられます。そこで腐らずに、丹精込めて手入れをする万千代と万福。出世に目がくらんでいるとは言え、人が見ていないところで手抜きをせずに全力を尽くして努力する万千代の姿には、かつて下伊那に落ち延びて努力の末に武芸を磨いた父、直親の姿が重なります。二人とも、何の後ろ盾もない他人のフィールドで、いつか認められる日が来ることを信じて努力を重ねたのです。

 思えば直親と万千代はその育ちに共通性があります。二人とも幼いころに家を終われ、命を狙われて、流浪の地で他人に認められることを唯一の頼みとして身を処していかねばなりませんでした。しかし万千代が親世代と違うところは、彼は一人ではないということです。

 最近『直虎』の最終シーズンのポスターを見ていて改めて感じたことがあります。万千代のポーズは、城主編のポスターで直虎がとっていたポーズ(あぐらをかいて座っている)と同じです。しかし直虎が一人で広間に座っていたのとは対照的に、万千代は井伊家の先祖を表す井戸端に、井伊の象徴である橘の木をバックとして座っています。そして向かって左手の背後には直虎が守護天使のように立ち、右手で直親の太刀を守り神のように立てています。これが象徴するのは、万千代は「一人ではない」ということです。井伊家のすべての人々の奮闘と命のリレーが万千代の背後にあり、そしてその左右は直虎と直親がしっかりと固めているのです。

 一人で奮闘した直虎、直親、政次と違って、万千代には腹心の部下である万福がいます。そして万福とは別の意味で政次を思わせるブレーンのようなノブもいます。故郷にはメンターである守護者の直虎もおり、上司には人を使う才能に溢れた家康がいる。「直政編」が井伊家滅亡の後日譚でありながらどこか希望に溢れているのは、むろん私たちがこの後の井伊家の繁栄を知っているからでもありますが、万千代が周囲の人に支えられ、守られているということも大きいと思います。ほぼ十ヶ月間、命の削り合いのような「直虎編」を見続けてきた視聴者が、ようやく少し安心して万千代の出世物語を楽しめるのは、これまで物語が蓄積してきた井伊家の苦しみ、恨み、悲しみといった負の感情のエネルギーが、ようやく万千代という集積ポイントかつ発射口を得て、正の方向へはけ口を見出したからなのでしょう。

 

さすがは裏切り者

 万千代の影の働きは、一度は酒井の小姓の小狡い手柄の横取りによって日の目を見ずに終わるかに見えました。しかしここで万千代はノブと重要な会話を交わします。ノブは万千代に「さすがは潰れた家の子と言われるような働きをすればよい」とアドバイスします。しかし万千代は最初はその意図が分からず、苛立って「ではノブはさすがは裏切り者と呼ばれるような働きをするということか」と返します。ノブは一瞬怯みますが、すぐに「もちろんそのつもりだ」と自信満々に宣言します。

 「さすがは裏切り者と呼ばれるような働き」とは何なのか、現時点では我々には分かりません。しかし一つだけ連想されるのは、かつて裏切り者と呼ばれた政次の働きです。政次は、小野が犬となって井伊と対立することで井伊の命脈を守ろうとしました。ノブが考える「裏切り者としての働き」も、もしかしたら人々の「あいつはどうせ裏切り者」というレッテルや先入観を逆手に取った策略になるのかもしれません。

 同様に万千代にとっての「さすがは潰れた家の子と呼ばれるような働き」が何なのか、こちらも今の私たちには分かりません。しかし万福が言った「井伊の殿が今、井伊で行っていること」が参考になるのかもしれません。直虎は潰れた家の主であることを生かして、近藤に警戒心を与えずに井伊谷の民にとって役立つ政策を提言し、必要ならば調整役も買って出て井伊谷をよりよい方向に向かわせようとしています。万千代もおそらく近い将来、直虎の方針に学ぶような働きを徳川でする機会があるのではないでしょうか。

 

究極の上司とは

 闇に葬られそうになった万千代の働きですが、人を見る目のある家康は酒井の小姓の嘘を見抜いて万千代の働きに気づきます。そして誰の顔を潰すこともなく、密かに万千代を寝所に呼んで労をねぎらおうとします。

 『直虎』は徳川家康を一貫してやや臆病なところのある普通の人に描いてきました。しかし一つだけ人より優れたところがあるとすれば、それは忍耐強く周囲とよい人間関係を築いていくということでしょう。その最初の兆候は、今川館で雀を手なづけたところに描かれました。その後も直虎に興味を持ったり、近藤の二心を見抜いたり、今川氏真を救ったり、堀川城を救おうとしたりと、その人柄の良さと人を見る目の確かさを示すエピソードは何度か挿入されてきました。

 家康と信康との会話はそれを象徴しています。信康は自分は「人の子」だから、常人ではない信長と親しくなることはできないと言います。疎遠に思われている家康と信康が実は親子の情を結び、仲良く囲碁を打つ姿に、家康の信康へのこれまでの接し方や彼の人柄が垣間見られます。だからこそ、ここまで良い関係を築いている瀬名と信康をどのような経緯で切り捨てることになるのか、ますます謎が深まります。

 理想の上司像には様々あることでしょう。明確なビジョンを描いて強いリーダーシップで皆を導くタイプもあれば、仕事が円滑に進むようにきちんと計画を立てて堅実に物事を進めていく事務処理能力の高いタイプの上司もいるでしょう。しかしどのようなタイプであっても上司に共通してもっていてほしいクオリティとしては、「人を見る目が確かである」ことと「適材を適所に活用することができる」ということがあげられると思います。人を生かすのも殺すのも、才能を見出し、使ってくれる人がいるかどうかにかかっているからです。

 最近『民衆の敵』を(1.5倍速ぐらいで流して)見ながらも、ふとそんなことを考えました。主人公は学歴や職歴のない女性で、市議会議員の立候補の動機も元はといえば「よりよい転職先」程度のものでしたが、彼女にはリーダーや代弁者としての資質や、人のために何かするという純粋な心がありました。それを見出し、彼女に実務的なサポートを与え、彼女をプラットフォームに載せたのは、石田ゆり子という実務能力のある女性でした。篠原涼子のキャラクターも逆に支持者である「ママ友」たちの中に様々な能力を見出し、それを引き出して活用します。

 世の中に才能や能力のある人は大勢いますが、皆がそれを認めてくれる人に出会えるわけでも、能力を活用する場が与えられるわけでもありません。私たちが『直虎』の今話の展開にカタルシスを感じたのは、人間なら誰でも多少は持っている「自分の能力や努力を正当に理解してほしい」という願望が、万千代を通じて擬似的に満たされたからではないでしょうか。

 他人の能力を正当に認めるということは、口でいうほど容易いことではありません。人は皆、どこか不安を抱えて生きています。上司と呼ばれる人も、やはり自分自身が一番可愛いのです。だからこそ自分の不安を脇におき、他人の優れた点を認めるということは、並大抵のことではないでしょう。そんな得難い存在であるから、家康は『直虎』において一番の大人物であり、究極のボスたりうるのだと思います。

 家康の衆道疑惑は非常に面白い展開であり、純粋にエンターテイメントとして楽しめました。しかし『直虎』のことですから、これを単なるサービスエピソードとして放置することはないでしょう。次回あたりで早速回収して、私たちが予想もつかない展開でさらに楽しませてくれるのではないかと期待しています。

 

おまけ:一生さんにやってもらいたい役

 今週Twitterで「一生さんにやってもらいたい役」で会話がはずみました(と言うわりには私自身はあまり参加できなくてすみません。今週は本当に忙しくて、Twitterは書くことはおろか読む暇さえもあまりないほどでした)。トニー・レオンからウォン・カーウァイ監督へと話が進み、その他にも中国語圏の映画を中心に高橋さんにやってもらいたい役について想像が膨らんで、楽しかったです。

 私自身が推したのはウォン・カーウァイ監督の『花様年華』のような映画です。他のウォン・カーウァイ監督作品を思い返してみて、それよりもっと似合う役があるか考えたのですが、やはり『花様年華』が一番だという結論に達しました。

 『欲望の翼』のレスリー・チャンの役も候補として考えてみました。高橋さんならチンピラな人でなしのプレーボーイもはまると思うので、この役もある程度はこなせるでしょう。しかしあの役はレスリーの自分勝手さ炸裂の強烈なスター性があってこそのものです。『ブエノスアイレス』を見ても、攻めのレスリー・チャンに対して受けのトニー・レオンという感じで、トニー・レオンには自分勝手な人に振り回される役がよく似合っています。また自分を前面に出すより、やや後方から抑えた存在感を放つ役もぴったりです。一生さんにトニーの役柄が合っているというのは、本当に言い得て妙だと思います。

 『花様年華』は『欲望の翼』の精神的続編とも言われていて、マギー・チャンの役などはほぼ『欲望の翼』を引き継いでいます。トニー・レオンは妻とうまくいかない寡黙な作家の役です。トニー夫婦はある日マギー・チャン家の隣に引っ越してきます。トニーとマギーはお互いの配偶者同士の不倫を疑い、それをきっかけに結びつきを強めていきます。しかし二人の関係は容易には発展しません。お互いを探りあいながら本当にゆっくりと少しずつ二人の関係性は変化していきます。夜の屋台帰りの階段での邂逅、そして作家の部屋でのひとときと、赤と黒を基調としたダークな色調に二人の抑圧した思いが静かに色濃く浮かび上がる、詩的で芸術的な映画です。

 即興性を愛するウォン・カーウァイ監督作品ですから、セリフは極力少なく、あったとしても本当に重要なことはほとんど語られません。感情を抑え、言葉を使わずに、究極の感情のほとばしりを描く、まさに政次みのある役柄です。こんな究極のラブ・ストーリーを高橋さんが演じてくれたならどんなに素敵だろう、と想像してとても楽しくなりました。

 言葉の壁があるかな、とも思いましたが、ウォン・カーウァイ監督の映画には過去に木村拓哉も出演しています。タランティーノの『キル・ビル』にも出演した高橋さんですから、不可能ではないでしょう。邦画も良いと思うのですが、海外の巨匠と組んでぜひ映画を撮ってもらいたいと思います。

 というのも、最近の高橋さんの出演作を見ていると、高橋さんの能力を最大限に活用しているものばかりだとは思えないからです。どれも佳作だとは思いますが、高橋さんのリミットに挑戦するのは、やはり『直虎』くらい歯ごたえのある脚本でなくてはならなりません。出てきただけでその場に変化を与えられる今の高橋さんであれば、ウォン・カーウァイ作品のようなものもいけるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。あるいは日本の才能ある映画監督が、よい脚本の映画で彼をぜひキャスティングしてほしいですね。