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青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』43話~報奨分配の技術、森林の再生、『ほぼ日』対談について

2つの戦後処理

 43話では万千代の小姓としての活躍と、井伊谷での森林伐採の後日譚が並行して描かれました。どちらも切り口が興味深く、さすがの脚本と思わされる展開でした。私たち熱心な視聴者はこのクオリティに慣れて当たり前のように考えがちですが、他のドラマと比較すると脚本の練られ方の差は一目瞭然。ここまで細かく言えば疑問符のつく回があったかもしれませんが、ほぼずべての回でメッセージ性の明らかな密度の濃い作話がなされていることは驚きに値します。特に万千代編になってからは、浜松と井伊谷の両方で一話ごとに一つずつ小アーチが描かれており、脚本の密度はさらに上がっているように感じます。そのどちらも、片方だけでも一話できそうな歯ごたえのあるテーマです。それが2つ並行して語られて、しかもなぜか齟齬を起こさない。一つのドラマで二倍美味しいような充実感があります。

 それはおそらく、2つのプロットが一つの大きなアンブレラ・テーマのもとに収まっているからでしょう。例えば今話では、万千代の浜松における活躍は長篠の戦いの論功行賞をめぐって行われ、直虎の井伊谷での課題は森林の乱伐のあとの土砂崩れや水害でした。ある意味どちらも「戦の後始末」、さらにいえば戦争という経済活動の利益と損害をどのように処理するかということにテーマがおかれました。戦記物の大河多しとはいえ、ここまで戦後処理にフォーカスして描いた大河が過去にあったでしょうか。歴史を通して現代社会にコメントするという意識の特に高い『直虎』ならではのエピソードでしょう。

 

「空白」の存在感

 万千代が「色小姓」を自称するきっかけにもなった長篠の戦いの論功行賞は、利害の異なる雑多な新旧家臣団に戦争の功績をどのように分配するかがその焦点になりました。家康は論功行賞をうまく行うことが自分の最も重要な役目だと語ります。「働きに応じて報いなければ人は動かない」という家康、論功行賞は、「人を使うことが最もうまい」という現代の多国籍企業のCEOのような性格付けをされた家康が、その真価を発揮すべき重要なタスクです。

 その難題について、家康は万千代にアイデアを求めます。それに対して万千代は、「まずは情報を整理してからインプットしてはどうか」と進言し、各武将を出身地と首の数でソートした一覧表を作成します。そのうえで表を分析し、首の数に表れない貢献をした岡崎にさりげなく報いることを進言します。ここで万千代が行った作業を「現代で言えばExcel」と評したTweetを読んで、世の中には優れた表現を思いつく人がいるものだなあと感心しました。それにあえて付け加えるとすれば、ここで万千代はExcelシートをもとに量的に分析したうえで、その社会的背景についてさらに質的分析を行い、最終的には数値だけにとらわれない量と質のバランスの取れた結論を出しています。

 この過程を見て、私は何故か学校教育の現場と全国学力調査の関係を想像しました。学力調査のようなもので出てきた数値は重要なのでしょうが、それで高得点をとった学校だけに機械的に予算を重篤にするというような措置は政治的に見てもおかしなものです。それぞれのその学校が置かれた地区の状況も関係してくるでしょうし、学校の性質の違いもあります。学力調査で測る数値が全ての教育活動の唯一の尺度ではありません。別の尺度で成果を上げている学校にも相応の評価を与えなければ、行政府に対する不満は募るでしょう。

 万千代の作成した表をきちんと画面に見せたことはとても面白かったと思います。表を見て、私たちにも岡崎の周辺の空白が視覚的に理解できました。「表の分析においては、空白は埋まっている箇所と同じくらい意味がある」といいます。この不自然なほどの空白が、家康と万千代にかえって岡崎の功績を印象づけたのではないでしょうか。万千代の進言は家康が功績を認めるということであり、家康の結論はそれを行ったうえで城を一つ今川勢に任せるというものでした。今川を厚遇することは、岡崎を贔屓するようには見せずに瀬名と信康の立場を良くすることにつながります。しかし最大のポイントは、トップである家康が目立たない働きでもきちんと認めているというジェスチャーをすることでしょう。量的分析を踏まえた質的分析によって空白のメッセージを読み解いた二人の、血の通った戦後処理の方策がここにありました。

 ただし、忘れてはいけないことは、これは戦の勝者の収益の分配であるということです。これは私たち『直虎』視聴者には慣れない場面です。これまでの井伊谷は負け戦に次ぐ負け戦で、敗戦処理は常に負債の整理でもありました。そのツケが徳政令騒動を引き起こし、井伊谷滅亡=井伊谷破産という結果を招いたのです。戦争は博打のようなもので、当たれば大きいのかもしれませんが、はずれは文字通り死を意味します。戦争は究極的には経済的利益のために行うものです。今回の徳川の仕置は、あくまで戦争という血とカネと命の博打のゲームのルール内で行われていることです。戦争を回避し、生産活動によって経済的利益を生み出そうとした直虎の姿勢とは根本的に異なる政治的調整がここでは行われていることには注意を払っておくべきでしょう。ですから表面的には収まったように見えて、いつ禍根や陰謀に足を救われるかわからない束の間の小康状態なのです。

 

未来への投資

 直虎が井伊谷で直面したのは、家康や万千代が扱った問題とは性格を大きく異にするものでした。それは戦争によって乱伐された森林のあとの「禿山」をどう処理するかということでした。再植林というのが最も理にかなった答えでしたが、それにはヒト・モノ・カネ・時間の初期投資が必要です。しかも今回問題だったのは、植林の作業を直接の受益者ではない井伊谷の農民が請け負ったということです。そこには甚兵平の絶妙な仲裁がありました。彼の主張は「山は人を区別しない、平等に襲ってくる」というものでした。

 今回の森林伐採問題は、明らかに現代社会における自然環境破壊問題のアナロジーでしょう。誰か遠くの人の利益のために破壊された自然環境に、地元の人がどう向かい合っていくか。破壊したのは彼らだから自分らには関係ない、そう言って捨て置ければよいでしょう。しかし一度天災が起こった時、被害にあうのは地元の住民なのです。この不条理な状況に対して、甚兵衛と直虎は「長期的な投資」が地元の利益につながるという考え方で立ち向かいます。それは直虎が第一次徳政令騒動の時に農民に伝えていた考え(「目先のことばかり考えるな」)と同じでした。

 「清風明月を払い、明月清風を払う」この言葉がどのように回収されるか楽しみにしていました。ものすごいロングパスでここで回収されたのですね。個人的にはこの言葉は政次との関係で回収されてほしいと願っていたのですが(月だけに…)、これはこれでとても素敵な回収のされ方でした。

 森林についてはロケも見事でした。脚本が早いという森下さん、早く上げることで計画的に森林の場面を撮りだめておくことができたのでしょう。よく見ると、破壊された森林の場所と、植林の場面、木がある程度育った場面は別の場所のようです。しかし森林の生まれ変わりの過程を、破壊、植林、再生の3つの場面に分けて見せてもらえて、とても見ごたえがありました。単に「破壊された森に再び木を植えて、それが育った」とセリフで言うのと、実際にその過程を見せられるのでは感動の深さが違います。最後におとわが甚兵衛に語りかけるシーンは、無理なく年月の流れを描写して未来への展望を感じさせるものでした。

  今話の『直虎』は奪った側の利益の分配(浜松)と、奪われた側の負債の整理(井伊谷)の話でしたが、むしろ奪われた側の方に希望が感じられました。なぜならそこには血とカネと命の禍根がなく、奪われた側自身があえて自分から与えるという正の循環が生まれているからです。『直虎』の大きなアーチの一つである「戦わないこと」「奪わないこと」という姿勢の勝利が静かに歌われているような清々しさが感じられました。

 しかし直虎と万千代、仲直りをしないままに三年の時が過ぎてしまいましたね。薬の件に関しては、直虎は万千代のもとに渡ると知っていて黙認しつつ協力したような形になり、万千代もそれを薄々感じていたとは思います。しかし表立った感謝の言葉もなく、さらには万千代の方に家康の信頼厚い直虎に対する嫉妬や反発も感じられるありさまで、なんだか思ったよりも直接的な交流がないまま多くの時が経ったように感じます。これで直虎は万千代の有効なメンターたりえているのでしょうか。少し不安でもありますが、次回の展開を見守りたいと思います。

 

おまけ:『ほぼ日』インタビュー雑感

 『ほぼ日』の「連ドラチェック」、思わぬ舞台裏の話が聞けたりしていつも楽しく読んでいます。前回も直親と政次の真相が聞けたりして面白かったのですが、今回は政次と龍雲丸の話という核心に触れる内容で、手に汗握って読みました。

 政次の死については、最初は直虎は読経をするという構想だったのですね。そこから「直虎は何か行動するのでは」と思い立ち、ただひとつできる行動である「槍ドン」をさせることにしたのだそうです。読経に比べて「槍ドン」は、その行為だけ見れば直虎の性格にも合っていますし、インタビューでも書かれていたように高橋さんにとってはやりがいのあるシーンだったと思います。このインタビューでは名前のないインタビュアーさんが結構よい発言をされていると思うのですが、これもその方の発言です。

 ──

    だって、いままさに死ぬという間際に、

    井伊家に反する立場を「演じる」わけだからね。

    それを役者として「演じ」て、

    二重に「演じながら」死ぬわけだから。

 

 演劇や映画の世界ではこのような自己言及的(self-referential)な演技は高度な技術と言われており、それをやりこなせる役者は評価が高いとされています。しかしここで高橋さんが演じているのは単なる演じる人を演じるというだけの役ではありません。時代劇における武士の死という最大の見せ場で、演技する人を演じながら、愛する女と相対し、その女に刺されて死ぬのです。どれだけたくさんの要素を同時に操りながら演じなければならないのかと考えると気が遠くなりました。ここで政次は世にも恐ろしい処刑の恐怖と向き合いながら、突然現れた直虎に驚き、彼女に突然刺された痛みに耐えながら、彼女をかばいつつ、必死に悪役の演技をして、彼女に最後のメッセージを告げているのです。これを大河の枠で演じられるのは、高橋さんにとって役者冥利に尽きる経験だったことでしょう。

 しかしこのような壮絶な場面を見ているからこそ、私たち視聴者は2つの意味で後遺症が残りました。一つはこれほどの犠牲を払った政次の存在の「事後処理」について、もう一つはその後の高橋さん出演のテレビドラマに対するフラストレーションです。ただしこれらは進行中の課題ですし、私もこれまで部分的に言及してきているので、ここでは繰り返しません。

 このインタビューでは、直虎と政次の関係に関する森下さんの考えの一端のようなものも聞くことができました。

 

あやや

    そう。

    あれは、ほんとに‥‥愛ですよね!

森下

    まぁ、そうですねぇ。

    きっと、そうとしか言いようのないものですよね。

 

 なにか相手に促されて言わされている感は否めませんが、森下さんの中でも直虎と政次の間には「きっと、愛としか言いようのないものが、まあ、あった」という認識があることは分かりました。ただし「まあ」「きっと」など、何か歯切れが悪い感じがすることも確かです。

 それに対して龍雲丸に対する解答はとても明快でした。

 

森下

    龍雲丸に関しては、いろんな意見があって。

    オリジナルキャラクターと

    実在の人物を結びつけるなんて!

    という人もいれば、

    やっとしあわせにしてくれてありがとう、

    みたいに言ってくださる人もいて。

    でも、政次が浮かばれないじゃん! イヤ!

    とか、いろんなご意見があるんですけど、

    私がいま、一周回って思ってるのは、

    たったひとり結ばれた人がオリキャラなんて、

    なんか、それはそれでしみじみ悲しいなぁ、と。

  

 この発言から、視聴者の反応というのは結構正確に制作陣に届いているのだなということが分かりました。そして「一周回って」の作者の感想が「たった一人結ばれた人がオリキャラとは悲しい」というものだったのは興味深いと思います。やはり作者というのは、あくまで主人公の視点を中心に考えるのですね。本来ならば誰とも結ばれないはずの直虎だったが、龍雲丸がオリジナルキャラクターだったからこそ結ばせることができた、しかしオリジナルキャラクターだからこそ、本当な誰とも結ばれていないのであり、やはり主人公は「悲しい」存在なのだ、ということのようです。直虎が「悲しい」存在だとは思えなかった私にとっては、新鮮な驚きでした。

 

森下

    そうそうそう、

    だって、しあわせな恋愛、

    あんまり書く気ないもん(笑)。

  

 作者が「普通の」「幸せな」恋愛は書く気がない、というのは何となく分かる気はします。龍雲丸との恋愛も、口に出さずとも二人にとっては政次の屍の上に築かれた砂上の楼閣のようなもので、二人の社会的立場が消滅していた一定期間にのみ可能な不安定な関係でした。

 しかしそんな関係ですら、直虎にとってみれば唯一の「結ばれた相手」だったのが龍雲丸であり、それは作者の主人公に対する愛情から出た精一杯のご褒美のようなものだったのですね。

 私はやはりこのあたりの考え方が、作者とは根本的に違うのだろうと思います。収支決算をするように恋愛要素を入れなくてもよいのではないかと思いますし、また普通の恋愛を描く描かないは脇に置くとしても、何がロマンチックかということに対するポイントの置き方も違うのだろうと思います。

 ロマンスに関する作者のセンスと視聴者である自分の感性が合わないというのは、もう如何ともしがたいものです。それに対する対処方法は人によりけりなのでしょうが、私はこうやって時々振り返って考えながら、ドラマの方はその他のメリット(現代社会に対するコメンタリーとして、脚本の練られ方の巧みさを愛でる、菅田将暉さんの演技を楽しむ)を享受しながら最後まで見ていきたいと思います。

 冒頭でも述べたように、これまでの全体を通しての脚本、演技、演出、音楽、衣装の完成度は非常に高いものです。21~23話、34~38話には疑問の残る展開がありましたが、それでもここまでクオリティを維持してくれ、あまつさえ終盤に向けて巻き返している感があることには本当に感謝です。

 次回はなんと「井伊谷のばら」。ここにきてなぜ『ベルサイユのばら』を蒸し返すのか、何か挑発的な香りのするサブタイトルに、期待が高まります。