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青野の鑑賞記録 ~溢れる思いを、心ゆくまま~

『おんな城主直虎』44話~3つの親子関係

    今話では万千代の手柄と出世のストーリーラインを軸にしながら3つの親子関係が描かれました。一つは直虎と祐椿尼、もう一つは直虎と万千代、そして最後は家康と信康です。

 

和解する親子:祐椿尼と直虎

 祐椿尼と直虎の会話は、今話の副題「井伊谷のばら」の元ネタ『ベルサイユのばら』におけるオスカルと父親のジャルジェ将軍の会話を下敷きに展開しました。直虎が生涯結婚せずに男の役割を担い、武家支配を疑問視して他の階級の人々と親しく交わるというキャラクター設定にしたときに、作者の中には『ベルばら』のオスカルのイメージがあったのではないでしょうか。このネタを終盤で入れることによって、ずっと悩み抜いてきた直虎が最終的には自己肯定する様子を描きたかったのではないかと思います。

 思えば直虎は自分の「役立たずさ」をずっと呪ってきました。その最たるシーンは12話の井戸端で酔いつぶれるシーン、36話で井伊谷をたたむと決めた時に井戸端で号泣するシーンです。彼女は12話では女であることを、36話では知恵や力が欠けていることを嘆きます。特に「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」という嘆きは自分の実存に関わる本質的な自己否定感だったことでしょう。

 直虎と比較すると、『ベルばら』のオスカルの悩みは今から見れば多少可愛くさえ思えます。オスカルは普段は自分が女であるということをほとんど気に留めていません。ジャルジェ将軍も自分をごまかしてオスカルを男として育て、男としての彼女に家督を譲ろうとします。オスカルは女でありながら当然のように男性の職につき、(部下の不信感や揶揄はあるとしても)そのことを制度の面から疑う人はいません。彼女の悩みは「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」ということではなく、「男性を愛した時に、男装している自分が女として見てもらえなかった」というものでした。しかもオスカルの恋が実らなかったのは彼女が男装していたせいではなく、男性に別に好きな人がいたからでした。

 それに対して直虎の悩みはより深刻です。彼女は自分が唯一の嫡出子でありながら女であるがゆえに家督を継げず、直親を死なせてしまいました。さらに直虎には「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」ということの他に、「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」という別の悩みもあります。これは祐椿尼に対して、そして自分の中の女性性に対しての申し訳の無さのような気持ちです。こうした思いは彼女がよく口にする「子もなさず」「孫を抱かせてやれず」という台詞に表れています。

 祐椿尼と直虎の親子はお互いに対して負い目を感じています。祐椿尼は直虎に対して「出家をさせ、後見につかせ、苦しい思いをさせ、女としての幸せを経験させてやれなかった」と思っています。その背後には正室でありながら男子をあげることができなかった自分を責める気持ちがあります。

 直虎は祐椿尼に前述のように「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」という二つの負い目を感じています。本来この二つは併存するものではないはずなのに、ダブルバインドのように直虎を呪っているのです。

 すなわちこの親子は二人とも「女と生まれたからには、<女の幸せ>(=結婚し、子をなす)を経験すべきである」という自分の考えを相手に投影し、母は娘を「かわいそう」だと考え、娘は母に「申し訳ない」と思っているのです。

 この状況に対して直虎は、「自分は不幸ではない」と母に伝えて安心させ、広い世界を経験できたことのメリットを強調します。さらに「嫌なことを強制されたことはない」と伝え、現状が母のせいではないと伝えて母の罪悪感を取り除こうとするのです。

 このやりとりは、直虎の自己肯定の宣言であると同時に、死に際の母の重荷を下ろすための最後の親孝行でもあったのでしょう。

 しかし私はやはり若干の疑問を感じざるをえませんでした。直虎が「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」という悩みを持つことは理解できます。そのために実際に直親に家督を譲るしかなかったのですし、それゆえに直親は殺されたのです。しかし「嫌なことを強制されたことはない」と言いながら、しかも何十年も出家していた身でありながら、なぜ彼女はいつまでも「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」、すなわち「子を持つ」ことがなかったことを自嘲気味に語り続け、自分を責め続けているのでしょうか。

 以前のエントリにも書きましたが、このドラマに時折感じられる「女の幸せ=結婚して子をなすこと」という通俗性がここにも感じられます。私は直虎の悩みはオスカルのようにもっとシンプルでもよかったのではないかと思います。すなわち「男に生まれるべきだったのに女に生まれてしまった」というもの一つで十分ではなかったでしょうか。その彼女にさらに「女であるべきだったのに男のように生きてしまった」という悩みまで載せるのは少し酷なような気がします。それを載せてしまったら、彼女はまずどちらかの悩みが解消されてももう一つの悩みが必ず残るためそれに縛られ続けます。さらに「広い世界を知ること」というメリットは「子を持つこと」というデメリットのトレードオフとして位置づけられるため、広い世界を知って幸せだったとしても、それは「子を持たなかったこと」というデメリットを少しばかり上回るメリットにすぎないことになってしまうからです。

 とても感動的なシーンではあったのですが、そもそも「女の幸せ」を「(母が)与えられなかった」、「(娘が)受け取れなかったこと」の代償としての「広い世界」の称揚に思えてしまったという点において、100%感情移入することをそがれてしまいました。

 しかし、『ベルばら』ファンとしてはこのような引用は刺激的であり、考える素材を提供してもらった点には感謝したいと思います。とてもクレバーなシーンであり、非常に楽しんで視聴しました。

 

対立する親子:直虎と万千代

 祐椿尼と直虎が「和解する親子」であったとすると、直虎と万千代は「対立する親子」でした。「話をしよう」で始まる井戸端のシーンといえば18話を思い出さずにはいられません。今回はあの時に迫るテンションで直虎と万千代はお互いの本音をぶつけ合います。万千代は「井伊の領地に手出しはしない」と言っているのに、直虎はなおも粘って「徳川に井伊谷を与えられたらどうするか」とまで聞いてきます。

 万千代の論理は若く、武家のセオリーに従った真っ直ぐな正論です。万千代は他の考え方を知りませんから、「不当に奪われた(ように見える)先祖代々の土地は力で奪い返して当然だ」と主張します。それに対して直虎は「武力で奪った土地をまた武力で奪い返されるなど不毛、見栄の張り合いなどくだらない」と切り捨てます。

 万千代の論理が青い正論であることは、次回あたりに岡崎の悲劇が起こった時に「力による奪い合い」の不毛さが万千代に示されることであぶり出されるのではないでしょうか。むしろ私は直虎の論理の極端さに注目したいと思います。

 直虎は「井伊谷は近藤と自分でうまく回しているのだから、引っ掻き回さないで欲しい」という理屈で万千代による井伊谷奪還を牽制します。しかしこの理屈はかつて井伊谷を追われ、近藤のせいで家を取り潰された18歳の万千代の目にはどのように映るでしょうか。ものにはいいようがあります。直虎がもう少し友好的な態度で万千代に一から噛んで含めるように話してやってはどうかと思うのです。前提を共有しない相手に対して、まず相手を否定の言葉から入るのは、相手の警戒心と反発を強めることしかしません。直虎は経験豊富な親代わりなのですから、事情を知らない万千代に彼の不在の井伊谷の様子を話して聞かせ、彼の気持ちを受け止めた上で、なぜ近藤と組むことが得策かを論理的に説明すればよいのではないでしょうか。

 それらの作業をすべてすっとばして、いきなり万千代に「近藤とうまくやっているからお前は手を引け、勝手にやれ」と言い放つのはあまりに分かりにくく、しかも親族の情に欠けるのではないかと思います。最近の直虎には政次みが増しているという指摘もありますが、私は直虎がここで政次を演じる必然性は必ずしもないのではないかと思います。なぜなら直虎と万千代は本来的には対立する関係性ではないからです。考え方が違うとはいえ、万千代は直虎の後継者、しかも親族です。もっと素直に心配してやったり愛情をかけてやってもよいはずですが、直虎はなぜか万千代にことさら冷たくあたります。

 おそらく万千代パートでかつての政次と直虎の対立を再現し、直虎がいまや政次となって万千代を導く立場にあることを強調するための演出なのでしょう。しかしその形にはめるために直虎に必要以上に万千代に厳しくさせている気がして若干違和感があります。つまり対立を作らなければならないという形式上の要請のために必然性のない対立が人工的に作られているように思えてならないのです。

 その矛盾は直虎の政策の不思議さに表れます。直虎はなぜそこまで近藤を信頼するのでしょうか。近藤は悪い人物ではありませんが、武家の論理に従って生きる典型的な武士です。近藤は直虎が自発的にファシリテーターとして仕えてくれる都合の良い人物なので重用していますが、一度事が起これば近藤家の利益のために民衆を犠牲にする用意のある人物であることにかわりはありません。すなわち直虎自身は戦のない繁栄した社会を作るという理想のもとに奮闘しているのでしょうが、その彼女が仕えるトップは戦を生業とする普通の武士なのです。

 「今の立場の方がやりやすい」と言っていますが、やはり自分がトップとして直接政策を行うほうが話が早く、しかもやりやすいことも多いのではないかと思います。ですから直虎がこれほどまでに近藤の顔色を伺い、万千代の行動を敵対視する必要があるのかどうか、疑問に思います。

 しかし前述したように、これは政次と直虎になぞらえて親子の対立を頂点まで描くためのプロット上の工夫なのでしょう。そしておそらくは万千代の方が直虎の正しさを知るという展開が早晩起こるのでしょう。

 ただし私はこの対立が早めに解消し、万千代が直虎が学んだこと学び、井伊谷の歴史や政次の深い思いを踏まえて更に一歩踏み出すような展開が早く来ることを望みます。

 

理解から誤解へ:家康と信康

 最後の親子関係は家康と信康、今週は「理解から誤解へ」と坂を下るように関係が暗転するさまを見せられました。二人の直接のからみはなかったものの、おそらくは武田が放った間者は家康暗殺というベストシナリオは逃したものの、浜松と岡崎の間に不信感を生むというプランBは達成しました。来週はあの幸せそうだった親子がどうなって悲劇へとつながっていくのか、その過程を手に汗握って見たいと思います。シェイクスピア悲劇のような、あるいは(そして)黒澤明監督の『乱』のような華麗な悲劇が見たいですね。

 「和解する親子」「対立する親子」「関係が悪化していく親子」という三種の<親子関係>のバリエーションで楽しませてくれた今話。次回は夫婦、親子という家族の問題が焦点になりそうな気がします。それが直虎と万千代の間柄にどのように影響していくのかも注視して鑑賞したいと思います。