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青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』46話~悲劇再来の先にあるビジョン

 46話はこれまでの物語の全ての因縁を集約させ、過去の悲劇のパターンをより大きなスケールで繰り返させることにより、逆に因縁解消の突破口となるエネルギーを生み出し、最後にはどこか再生の希望さえ感じさせるような不思議な感興のある回でした。

    45~46話は31話、33話とよく似た構造を持っています。特に33話では家康が今の信長に近い立場でした。「武家のルール」に従って井伊家と政次を見殺しにした家康は、今度は子どもと図らずも妻を殺される立場に立たされます。過去回との相関関係を簡単に図に表すと次のようになります。

 

     『直虎』における「武家のルール」適用の内訳

 

31話

33話

45~46話

殺害命令

氏真

近藤 (家康)

信長

殺害対象

虎松○

直虎○

信康✕

救出作戦

政次

政次

家康、瀬名

身代わり

村人の子✕

政次✕

瀬名✕

 

 このように見ると、46話の構造は31話とよく似ていることが分かります。しかし違いは、31話では政次の作戦は成功し、虎松の命は助かったのに対し、46話では家康と瀬名の作戦はそれぞれが失敗に終わったということです。さらにそればかりでなく、46話では33話と同様に救出作戦を行った一方の側である瀬名が、33話の政次と同様に自らの命を差し出しました。すなわち「築山・信康事件」は、井伊で言うなら政次を失ったあげく虎松まで死んでしまったということになります。潰れかけの小さな国衆である井伊家ですらこれは大きな痛手なのですから、大名である徳川にとっては名分的にも実質的にも計り知れない損害であったことでしょう。

 「大文字の歴史」を極力排してきた『直虎』が徳川家だけは最初から丁寧に追ってきた理由は、実はこの悲劇を描くためだったのではないでしょうか。もう少し詳しく言えば、幼少期から「非凡な凡であるよき人」として視聴者に感情移入をさせた家康に、33話では「加害者」の立場に立たせ、46話では「被害者=直虎」の立場に立たせることで、直虎の「戦のない世」というビジョンを流し込む器へと無理なく成長させるという意図があったのではないかということです。

 

瀬名~もう一人の政次

 家康が直虎なら、瀬名は政次でしょう。瀬名のことを私たちは幼少期から知っています。私たちは、彼女が純粋な心を持ちながらも時に誤解され、友だちは少なく、徳川では旧敵である今川の出として肩身の狭い思いをしながらも、家康を愛して家を守ろうとした存在であることを見てきました。そして彼女は直虎の唯一の女友だちです。

 46話を再視聴しながら、私は瀬名は想像以上にもう一人の政次であるということを改めて実感しました。今川憎しの井伊家家中にあって政次が今川派と目され孤立していたように、瀬名も今川出身者として孤立しています。家康とは信頼関係で結ばれながらも、家康は瀬名をそばにおいて寵愛することはありません。瀬名が一人暗い部屋で嫉妬するシーンもありました。政次が直虎と井伊家を守ることに専心したように、瀬名も家康と信康を守ることに全てを賭けています。そして二人とも直虎の幼馴染であり、友なのです。

 ですから直虎にとって、瀬名を見送ることは、政次を見送ることの追体験でもありました。今話で直虎は「去っていくやつはみな同じように言う」といって直親や他の井伊家の人々についても言及していましたが、再視聴すると、明言せずとも政次のことを考えていると思われる場面が多いことに驚かされました。

 直虎は、暇乞いをする瀬名に「残された者の無念を考えたことがあるか、家康殿を大切に思うなら、そんな思いをさせるな」と語ります。これは裏を返せば直虎が政次に「私のことを大切に思っているなら、私にそんな辛い思いをさせないでくれ」と言っているということになります。普段政次のことをほとんど口にしない直虎にしては、直接的で大胆な発言です。この切羽詰まった状況で、しかも大切な瀬名に対してであればこそ出てきた言葉でしょう。

 しかし瀬名はその直虎の言葉にも動かされません。政次と同じような微笑を浮かべて、愛する人が生き残る確率をわずかでも上げるために命を差し出す覚悟を変えないのです。情に訴えても、「武家のルール」がある以上、それに抗って誰かの命を救おうとすれば、命で交換するしか方法はないのです。

 直虎は瀬名を救うことはできませんでした。しかしあの悲劇をもう一度味わい、それについての長年封印してきた思いを吐露することによって、ある種の因縁の解消のカタルシスを味わい、その先に一つのビジョンを得ることができました。それは「虎松を使い、家康に戦のない世を作らせる」というものです。

 このビジョンを聞いて、私は作者がなぜ直虎を井伊谷の影のフィクサーにしたのかがようやく分かったような気がしました。すなわち直虎は、これまで近藤を使って井伊谷で行ってきた「ミニ・ユートピア」構想を、家康を使って全国へ広げようとしているのです。この考えは、直虎が井伊谷で近藤を使って実証済みであるから出てきたものなのでしょう。何でも試してみてから考える直虎らしい、プラグマティックな思考の発展です。こういうところにも、直虎の人格完成に関わる作者の綿密な構想力が生きていると思います。

 

政次の志を受け継ぐ瞬間

 直虎は虎松に「そなたの父を失ったあとに私にできたのは、変わり身として志を継ぐことだった」と述べました。その時私は、「では政次が死んだ時、彼女は何をしたのか」ということをずっと考えていました。なぜなら、政次の志とは井伊家の存続でしたが、彼女はそれを途中で放棄したかのように思えたからです。政次の意志は確かに虎松には受け継がれているように見えましたが、直虎は何を受け継いだのでしょうか。

 今話で直虎が瀬名に「救えなかったものがどんなに悔しいか考えたことがあるか」といった時、35話で直虎が龍雲丸に対して「戻ってきてくれてよかった」と言ったことを思い出しました。直虎の中では、政次は救えなかったが、龍雲丸は救うことができた、ということがとても大きな救いだったのでしょう。

 私たち視聴者から見れば、政次は政次、龍雲丸は龍雲丸ですから、政次が救えなかったことと龍雲丸が救えたことは別の事柄のように思えます。しかし確かに当事者である直虎にとっては、身近な人を二人とも失うよりも、一人でも助けたほうがよい、助けられてよかったと考えるのは不思議ではありません。

 直虎は政次や多くの気賀の人々を失いましたが、龍雲丸を助けられたことで自分も救われました。その後の彼女は井伊家の存続という名分よりも、一人ひとりの家臣や民衆の生活の安定を優先させて、政治の一線から退きます。その時の彼女の気持ちが「武家のルール」から降りたいという概念的で自覚的なものだったのか、それとも「重圧から逃れたい」「自分には続ける自信がない」「とにかく殺し合いはこりごり」というようなやや消極的なものだったのか、よくは分かりません。おそらくそれらがすべて混濁したものだったのではないでしょうか。しかし私はその時点では、直虎が明確に政次の意思を引き継いだという手応えは感じませんでした。

 しかし今話、井戸端での南渓との会話で私はその「引き継ぎ」のシーンを見たような気がします。南渓は直虎に白い碁石を渡します。そして直虎は空をあおいで、「虎松を使って日本のフィクサーになるという」意思を固めます。これこそが直虎が再び自覚的に政治に関わろうと決意した瞬間ではなかったでしょうか。空を見るというシーンは象徴的です。その時の直虎の表情は、どこか、かつて政次の顔色を伺ったような、ちょっと躊躇したようなものでした。政次の辞世が思い出されます。

 

 白黒を つけむと君を ひとり待つ 天(あま)伝う日ぞ 楽しからずや

 

空を伝っていけば、政次がそこにいて、待っている。ですから、直虎は空に向かってこういったのではないでしょうか。

 

「何一つ使いどころのない命、ならば、とほうもない夢にかけてみたとて、誰も何も言いますまい」

 

少し上方を見てこうつぶやく直虎、まるで十字架の上の政次にお伺いを立てているようです。「今後はこうしていきたいのだが、家老はどう思う」と。

 しかしあくまで政次の名は出さない直虎、その役割は万千代が引き受けます。家康の碁のパートナーとして万千代が政次の志をこれからは家康に注ぎ込んでいくのです。そしてそれを影で操るのは直虎です。

  これがこの物語が直虎の物語であり続けるためのプロット・デバイスなのかと感心しました。『江』や『花燃ゆ』の二の舞いにならないためによく考えられた展開だと思います。

物言わぬ遺品

 直虎と政次(そして龍雲丸)に関しては、まだまだ分からないこともありますが、私の中では一つの結論が形成されつつあります。それは、やはり直虎は政次のことに関しては消化不良で整理することができないのだということです。今話で直虎は、政次の公人としての志をゆるやかな形で引き継ぐことはできました。しかしおそらくは龍雲丸はある程度客観視できていたであろう直虎と政次の人間同士の関係性や、直虎の政次に対する思いについては、直虎は永遠に分析の機会や動機を失ってしまったのではないかと思います。直截に言えば、直虎は幼馴染の同僚から、彼が死ぬ直前に人から間接的に好意を聞かされ、死後には告白めいた遺書をもらいました。しかしその後は別の恋人と暮らしていたため、それについて話したり考えたりすることははばかられました。今は恋人とも別れましたが、今さらその人が死んで何年も経ち、もうどうすることもできません、というような状況なのだと思います。

 今話では数正が瀬名の死の間際に「お方様は美しい」と伝えました。しかし数正は32話で言うところのなつのような存在です。瀬名は死の間際でも、家康に会うどころか気持ちを伝えることすらできませんでした。瀬名は、あくまで政次のような存在です。そして瀬名の唯一の形見である紅は、直虎を伝って家康に戻ってきました。政次の白い碁石が龍雲丸経由で直虎に戻ってきたように。紅も碁石もものは言いませんが、どちらも二人が過ごした時間を象徴するものです。言葉がなかいからといって、瀬名と家康の信頼関係が薄れるわけではありません。

 しかしこうも考えられます。紅を見た家康は、生前瀬名にかけてやりたかった優しい言葉や愛の言葉を思い浮かべ、それらをもう二度と言えないことを後悔するでしょう。碁石も、直虎にとってもう二度と政次に話せない色々な事柄を呼び起こす象徴なのではないでしょうか。そしてそれが心に刺さった棘であり続けるからこそ、人と人の関係は複雑で、簡単に説明できるものではないということを逆によく示しているのではないでしょうか。

 家康に直虎の経験を重ね、瀬名=政次として見せることで、私たちは33話をもう一度、しかし別の角度から追体験しました。それは視聴者にとっても33話の悲劇を乗り越える不思議な活力を与えてくれる経験でした。これで33話の課題は半分以上は解消されたということになるのではないでしょうか。そしてそれを乗り越えた最終コーナーの展開がより楽しみになってきました。