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青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』49話~「呼び出し」の終焉、虎と龍、脚本家インタビュー

 今話では①家康の上洛、②直虎の画策、③光秀の動向、④信長の思惑という4つの筋が並行して語られました。中心となるのは①と②です。描写が極限まで省かれている③と④をめぐるミステリに翻弄される人々の行動が時にユーモアを交えて語られました。

 そしてこの表の筋の裏には、これまのテーマの踏襲と伏線の回収、さらには大団円を迎えるシリーズの総括やファンサービスもふんだんに散りばめられていました。

 

「呼び出し」の連鎖の終焉と人材育成政策の勝利

 まず①家康の上洛の顛末について述べます。この筋は、表面上は④信長の思惑(家康を呼び出して暗殺する)と、③光秀の動向(その策を逆手に用いて信長を殺す)に対するリアクションとして家康と家臣団がとった様々な行動の物語として語られました。しかしこの筋の裏の主題は「主家から呼び出された臣下の身の処し方」という『直虎』が繰り返し語ってきたテーマに対するファイナル・アンサーでしょう。

 井伊家はこれまで何度も駿府への呼び出しに応答し、その度に犠牲を出したり奇策を弄したりして切り抜けたりしてきました。最初の呼び出しは第一話の直満の謀殺でした。あの時彼は何の策もなく、疑うことすらせず、のこのこと出かけていって殺されました。次は直親の番でした。この時直親は何が起こるか予想し、それに対する覚悟もできていました。直虎も政次もそれが分かっていながら何の手を施すこともできませんでした。直親は一人で責任を背負い、僅かな供と共に誅殺されました。三度目以降は直虎でした。彼女は何度か駿府に呼び出され、その度に命の綱渡りをしました。一度目は一人で考えた奇策(男装)で乗り切り、二度目は方久の機転で面会を回避、政次と言葉を交わすこともままならなかった氏真との対決もありました。そうして死を回避してきたに見えた直虎ですが、実は「死の帳面」の面会の際に、井伊家の滅亡を密かに宣告されてしまっていました。

 このように井伊家にとっては主家への訪問はつねに死と隣り合わせ、特に直虎にとってはほぼ一人で知力の限りを尽くして対処してきたにも関わらず、最終的には井伊家の滅亡を招いた呪いの儀式でした。

 しかしその負のサイクルを集団の力で断ち切ったのが徳川家の伊賀越えでした。主としての信長の恐ろしさや得体の知れなさは井伊にとっての今川のようでした。敵とも見方ともつかない信長は、直虎にとっての寿桂尼を思わせます。寿桂尼も直虎を個人的には気に入っていましたが、個人の感情と政治を分けて考える冷徹さも持っていました。そして彼女の真意は常に分かりにくいものでした。

 信長も寿桂尼のような冷徹な策士です。その真意は意図的に隠されてきました。実際48話の時点では視聴者の多くも光秀の話を信じ、信長はきっと家康を殺そうとしているに違いないと思っていたはずです。今話でも事の真相ははっきりとは明かされませんでしたが、おそらく茶器の描写などから、今回の信長に家康誅殺の意図はないことが暗示されました。

 しかし『直虎』において、主家に意図のない呼び出しなどありえません。「死の帳面」の寿桂尼が表向きは別れのために臣下を呼び出したように、信長も、今回家康を呼び出したのは殺すためではなかったにせよ、接待以外の意図があったのではないでしょうか。

 呼び出しを受けた徳川家も、直虎と同じように戸惑い、悩みました。しかし直虎と徳川家では対処方法やその体制に大きな違いがありました。まず井伊家と徳川家では家臣団の充実ぶりが違います。徳川家には色々な角度から知恵を出せる人間が集まり、結束力もあり、機動力もあります。万千代や常慶が事前準備や情報収集を行い、それに直虎も一枚かんで、様々な事態を想定して準備が進められました。

 そして徳川家臣団には直虎が経験したような家内の内部対立がありませんでした。一枚岩の結束力で、時にユーモアを交えながら不測の事態に対応していきました。

 万千代と万福は、数々の苦難を乗り越え、ようやく再会して無事を喜びあいます。この二人の万感の思いがこもった視線ややり取りが、これが『直虎』における数々の「呼び出し」にケリをつける大団円のエピソードであることを雄弁に物語っていました。かつて政次は、直虎が服毒してまで面会の期日を遅らせようとしたとき、そっと頬に手を当てることしかできませんでした。しかし今は小野家の万福は皆の前で誰にはばかることなく万千代の無事を喜べます。これこそが政次が直虎にしてやりたかったことだったに違いありません。

 この「呼び出し」文化からの脱却は、家康一人、ましては万千代一人の力では達成できませんでした。家の政治力や財力といった基盤の問題もさることながら、結束力のある家臣団の働き、すなわち集団の力がものを言ったのです。それは徳川家が人を育てる家であったことと深く関連しています。直虎も力を入れていた人材の育成という政策が、ここで実を結んだのです。

 実際この後の徳川家は豊臣に肩を並べ、もはや誰かに呼び出されて命を狙われるような弱小な存在ではなくなり、天下をも狙える大大名となりました。コミカルな伊賀越えではありましたが、このエピソードの裏の意味を考えると、ここに直虎→家康の人材育成という取組の成果の到達点を見る思いでした。

 

ファンサービスと龍雲丸の処遇

 ①の家康の動きに②直虎の画策を絡めた今回の展開、主人公を歴史に関わらせる方法としては面白いと思います。ただし、直虎は今回は伊賀越に対してそれほど直接的な貢献はしませんでした。このエピソードは次回に続いているため、この時点で色々と断定することはできません。しかし現時点では、少なくとも直虎や龍雲丸の働きがなくても、家康一行は茶屋の導きで家康は脱出することができていたはずです。ですから、この表層レベルでのこのエピソードの必然性については若干の疑問が残りました。

 むしろ、このエピソードの真の意義と見どころは、城主時代を彷彿とさせる直虎の生き生きとした活躍と、龍雲丸との再会の顛末でしょう。

 前者については、これまで『直虎』を見てきた視聴者へのファンサービスではないかと思います。最近の直虎はすっかり達観し、隠者のような風格で万千代を圧倒していました。しかし今話の直虎は、直之、六左衛門、方久を引き連れ、気賀のパワーアップバージョンである堺で物珍しいものを見てはしゃぎ、中村屋を相手に喜々として策を練ります。まるで城主時代の彼女に戻ったように、喜々として仕事をするその姿は、城主編を愛した視聴者への最後の挨拶ではないでしょうか。

 そして龍雲丸との再会です。堺での龍雲丸は、気賀や井伊谷時代以上に派手な着物に身を包み、やりがいに溢れ、輝いていました。心なしか余裕もあるようで、色気も増し、なかなかに堂々とした男ぶりです。

 しかし彼に再開した直虎は、もはやかつてのようにキラキラとしたBGMつきで目がハート型にはなりませんでした。それどころか、かつて事がうまくいったときに政次を見せたようなてらいのない満面の笑顔で龍雲丸を見て、再会の挨拶もそこそこに協力を請います。今の直虎にとって龍雲丸は仕事のパートナーなのです。

 この展開を見て、いつかどなたかが「脚本家さんは男性登場人物に厳しい、必ずどこかで落としてくる」と書かれていたのを思い出しました。

    私は常々、直親、政次の扱いに比べて龍雲丸の扱いは格別だなあと思ってきました。彼は最初から直虎に特別に好かれ、材木の件で井伊家を窮地に陥れ、政次処刑の遠因を作ったにも関わらず、最終的には直虎と結ばれます。しかも死ぬこともなく最終回近くまで出番がありました。しかし今話で龍雲丸に対する直虎のキラキラな思いに終止符が打たれた(ように見える)ことで、彼にも(軽微ではありますが)それなりの処遇や厳しい現実の洗礼が巡ってきたように思います。何となく収まるところに収まって、バランスが少しとれたような気持ちになりました。

 とはいえ、改めて見返すと、今話で直虎は龍雲丸による「仕事が終わったら堺に来るんだろう」という約束のリマインドに可否は明言していませんでした。もしかしたら次回で再び「頭の待つ堺に行く」と言う展開があるのかもしれません。このエピソードも続きがあるようなので、まずは展開を見届けたいと思います。

 

 今話で直虎は、裏のストーリーではファンサービスや龍との決着(の途中経過)などの活躍を見せましたが、表においてはさしたる成果を上げませんでした。これは筋が作り込まれた『直虎』の展開としては意外なものです。これはもしかしたら、今後の自然の扱いと何か関係があるのかもしれません。

 自然は井戸端で見つかった子どもです。井伊の初代は井戸端に捨てられた子どもでした。この設定の重なりは偶然ではないでしょう。自然は井伊家の初代を彷彿とさせる存在である上に、「裏切り者の家の子ども」でもあります。次話では彼は井伊家の未来と何か関係のある存在として描かれるのではないでしょうか。

 

脚本家インタビューについて

 

 最終回を前にした脚本家さんのインタビューについても少し言及しておきたいと思います。

https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/interview/1134036

https://news.ponycanyon.co.jp/2017/12/22724

 

直親は、最初からそういうふうに定められていて、時が時なら結ばれたであろう自然発生的な相手です。政次の方は、女性として好きな部分と、主君として対していかなければならない部分の葛藤がありました。とはいえ、直虎にとって政次は恋愛の対象ではありません。それよりもっと深い、2人にしか分からない絆で結ばれた主従という文脈で書いていました。

 

 直虎、政次、龍雲丸。この三人の問題に対する私の考えは、インタビューを読んだあとも、以前からここに書いていることから変わっていません。直虎の恋愛の筋が龍に振ってあることは当初から分かっていました。しかし実際のドラマとして提示された作品においては、直虎と政次の関係の方が多くの視聴者のイマジネーションを掻き立てるものであったことは否定し難い事実でしょう。そのユニークな設定、演技、演者のケミストリーなど、全ての要素がクリックして、マジカルな関係性が出来上がりました。

 龍雲丸については、彼を単体として見れば、色々と面白く魅力的なキャラクターだと思います。しかし彼のスケール感は作者の当初の想定よりはだいぶ小さく感じられましたし、直虎との間にもマジカルと言えるほどのケミストリーは感じられませんでした。

 

恋愛の相手には、今まで彼女が生きてきた世界とは全く違うところから出てきた人であってほしかった。彼女が成長していく上で広い視野を持つためにも。弱いとはいえ当時、領主といえば支配階級です。それとは全く異なる生き方やバックボーンを持っているけれど、人としては共感できる尊敬できる相手のことを好きになってほしかったんです。

 

今思えば、龍雲丸のキャラクター造形はこの作品の鍵を握ると言ってもよいほど重要なものだったように思います。しかし政次と活躍の時期が完全にかぶってしまったことが、彼の立場をやや微妙なものにしました。その証左に、脚本家さんは次のような発言もしています。

 

──逆に、なかなか書き進まなかったお話は?
森下 龍雲丸と直虎の関係ですね。当初の予定では、もっと早くに男女感が漂うはずだったのですが、2人の間には、守らなければいけないものや生き方があって。それ故に、なかなか関係が進展するのに時間がかかりましたね。

 

直虎が「守らなければならないもの」は政次の存在と直結していましたから、直虎の生き方の根本に関わっているのは政次です。一方で彼女は「全く異なる生き方やバックボーン」を持つ龍雲丸と恋愛しなければなりません。しかし潰れかけた家の経営に奔走し死線を綱渡りしている直虎は、なかなか「異なった生き方」をする龍と過ごす時間をもてません。だから恋愛の進展は亀の歩みとならざるを得なかったのです。

 このすっきりとしない紆余曲折の展開の理由は、やはり直虎の人生に同時期に「2人にしか分からない絆で結ばれた主従」(政次)と「恋愛の対象」(龍)を併存させたことでしょう。

 しかし作者が上記のインタビューのように「筆が進まなかったエピソード」について客観的に述べているのはとても興味深いことです。それは作者が作り上げた世界のなかで登場人物が命を吹き込まれ、彼らがまるで本当の人間のように心を持って生きていたということを示しています。私たちがその話に引き込まれてしまうのも分かるような、そんなダイナミズムをもった発言だったと思います。

 

 Twitterでは色々な方が『直虎』の総括を行っておられて、それを興味深く読んでいます。私は、これまでの各話がそうだったように、50話も、話が思わぬ方向に進み、前話で考えていたのとは全く違う場所に連れて行ってもらえるような予感がして、とても楽しみにしています。PVの顛末も楽しみ。今年が、長い長い祭りが、本当に終わってしまうのですね。