Aono's Quill Pen

青野の鑑賞記録 ~溢れる思いを、心ゆくまま~

『おんな城主直虎』50話~意思を継ぎ、それを広める井伊の使徒たちの行伝録

はじめに

   最終回は第一部「自然の首」、第二部「おとわの死」、第三部「潰れた家の子の働き」の三部構成とも言えるような作りなっていました。直虎が井伊の「負債」に落とし前をつけ、死してなおその魂が働き続ける様が希望溢れるトーンで描き出されました。『真田丸』のような究極の二者選択の突きつけのような緊迫感はありませんでしたが、小さな井伊谷の里から広がる明るい未来のような暖かさが感じられ、この「小さくて大きな物語」の総括にふさわしい希望が感じられる最終回でした。それもギチギチに計算して伏線を回収したような不自然さは感じられず、むしろ物語が命を吹き込まれて独自の成長を遂げた結果、そこから自然にある地点に到達したような違和感のない着地点が示されたように思いました。

 

第一部「自然の首」~助けられたから、助け返す

 第一部で語られたのは、自然の首をめぐる問題の顛末でした。私はこの自然のスレッドをどのようにまとめるのかにとても興味を持っていました。井戸に捨て置かれた拾い子というのは井伊家初代当主の逸話を彷彿とさせます。どこかで「井伊のあり方」に関連させた展開を用意しているのだろうと思っていました。

 実際に示されたのは、大芝居を打ってあの手この手で自然の首を守りきるという、寓話のような不思議な味わいのあるエピソードでした。正直に言うと初見ではよく理解できない点も多くあり、今でもきちんと理解できているのかどうか不安な面もありますが、私なりに整理してみたいと思います。

 井伊家は1話から子どもの命を所望され、それをどうにか守って命脈を繋いできました。直親と虎松のエピソードは完全にパラレルになっています。直親も虎松も命を追われた結果、寺に匿われ、その後は見知らぬ人々の哀れみや善意にすがって生き延びました。自然も人質として差し出され、見知らぬ井伊の子捨ての井戸に残されました。いわば、直親や虎松のような立場の子どもが、今度は逆に井伊にやってきたのです。

 万千代は、お役目とはいえ、かつては自分が同じ立場に立ったその子どもを殺めるために引き渡すように直虎に伝えます。それに対する傑山の怒りは、これら全てのプロセスに関わった彼ならではの実感のこもった言葉です。

 

「若はどうやって生き延びてこられた。」

 

ふだん負の感情を発露することがない彼から発せられた言葉だからこそ、万千代の胸にもずしりと響いたのでしょう。

 このエピソードから、それまでの万千代は父と自分が他人の善意によって生き延びたということの重みや、相手に与えたかもしれない苦痛やリスクを本当には実感していなかったということが分かります。逆の立場に立って初めて相手に強いる犠牲の大きさに気づくのです。

 私は自然のエピソードは、もちろん於大の方の我が子への愛と直虎の全ての子への愛を対比するものでもあったとは思いますが、それと同時に、子どもの首を守ってもらった井伊が、今度は子どもの首を守る役割を果たすことで恩返しや贖罪をすること(虎松のために犠牲になった子どもの首の弔いを含めて)、そして万千代に「一人の子どもの命を守る」ことの重要さを当事者として実感させるという目的があったのではないかと思います。

 子どもを守ってもらうことでようやく生き延びた井伊が、最後には徳川や織田を相手にいわくつきの子どもを堂々と守ってみせた(あまつさえ信長まで利用して)というのは、井伊の成長を示す胸のすくエピソードです。自然が信長の子であるという伝説や、信長から送られた茶碗などからここまで想像力を膨らませて話を組み立てる作者の力量に瞠目します。

 

第二部「おとわの死」~脱性化のユートピア

 大河ドラマの最終回はたいてい主人公の死が描かれ、しかもそれは回の最後の方に起こります。しかし『直虎』ではそれが中盤に描かれたため、私は当初とても驚きました。そして残りの時間に何が起こるのか、少し不安になりもしました(全くの杞憂でしたが)。

 主人公の死は大抵は悲しくて目を覆いたくなるようなものが多いのですが(昨年のように)、今年の死はおとぎ話のようなふんわりとしたユーモラスでさえある描き方でした。まず井戸に子どもを配するというアイデアが素晴らしいと思います。あれが大人であって、直親、政次がいるところに龍雲丸が現れては、見ているこちらが手に汗握る展開になってしまっていたことでしょう。しかし子どもですから、全てがファンタジーのように可愛らしい展開でも不自然さはありませんでした。

 あれはおとわの心象風景です。ですから幼馴染の三人のなかに、彼女にとって重要な人だった龍雲丸が混じっていても、彼女的には違和感がなかったはずです。自分が好きだった人たちを属性無視して全員集合させ、みな引き連れて旅立ったというのは、いかにも天然なお姫様育ちの彼女らしい最後でした。

 子ども姿にしたことの効果の一つは、性のにおいを取り去ることだと思います。人は年を取ると子どもに戻るといいますが、老人になると性にまつわる人間関係の煩わしさから解放されて、逆に子ども時代のように男女分け隔てなく友人として接することができるという面があるのではないでしょうか。色々なことを経て、おとわの心は子どもに戻り、性的な緊張感なく三人と接する心境になったのでしょう。大人であれば、直親と龍雲丸は他人同士ですし、龍雲丸と政次にも何らかの緊張感は漂っていたしょう。そのような描写を一切省くのは不自然です。それらの厄介な問題を解決する方法として子ども時代に戻してしまうというのは、なかなかよいアイデアだったのではないでしょうか

 ただし、おっとりした亀、せっかちな鶴、天然なおとわという三人のコンビネーションは最高で、この三人の絆やケミストリーには他の人たちは容易には入っていけないものがあったと思います。個人的には井戸の集まりは三人のあいだに止めておき、龍雲丸には南蛮で活躍してもらいたかったと思います。

 

第三部「潰れた家の子の働き」~日本の使徒行伝録

 おとわの死は、それ自体が重要だったのではなく、むしろ彼女が万千代に何を残せたのかという方が重要なことでした。ですから彼女のフィジカルな死自体はあっさりと描かれ、最終回の本当のクライマックスは彼女の”Life after death”、すなわち万千代の中に生きる直虎、あるいは永遠の命をもった直虎におかれました。その意味では直虎の死後も、この物語の主人公は直虎であったと言えます。

 万千代は直虎の死に目には会えませんでした。南渓和尚から白い碁石を託された万千代、「これは井伊の魂」だと聞かされます。井伊の魂とは何でしょうか。

 

「井伊は、井戸端の拾い子がつくった国で……故にか、殿はよそ者に温かかったです。民に対しては、竜宮小僧のようにあれかしと……泥にまみれることを厭わず、恐れず……戦わずとも、生きていける道を探る」

 

これを聞いて、私はこれは井伊の魂というより、直虎の生き方ではないかと思いました。最初の井伊は「拾い子が作った国」というのはその通りなのでしょうが、「よそ者に温かい」というのは直虎ならではの態度でしょう。直盛の代までの井伊は、小野を目の敵にし、同族結婚を繰り返す典型的な血族国衆でした。竜宮小僧も直虎のモットーですし、泥にまみれたのは直虎が僧だったから、そして「戦わず生きる」のは政次と直虎の代以降の新機軸であり、それ以前の井伊は脳筋が支配する好戦的な一族でした。

 直虎の影響があまりに大きかったので、彼女の思想や生き方が「井伊の魂」になったのかもしれませんが、もともと碁石も政次の遺品ですから、直虎=政次時代の「NEW井伊」の方向性、あるいは直虎の魂でもよかったのではないかと思います。さらにこの「魂」の説明は少し長い。もう少し短い言葉でまとめてほしかった。例えば「奪わずに生きる」など。

 このような個人的な思いはありましたが、ともあれ、この碁石の伝達式を経て、また自然の首事件も経て、さらには築山事件も経験し、万千代は正式に「井伊の魂」を継ぐものとなりました。碁石を受け取った瞬間に、万千代は直親の血はもとより直虎や政次の思想の息吹が吹き込んだハイブリッドな井伊の新当主になったのです(キリスト教風に例えて言えば、万千代は水のバプテスマを経て、聖霊バプテスマを受けたのだと言えます)。

 彼の新当主としての最初の働きは、旧北条勢の懐柔でした。彼は家康に「潰れた家の前髪」ならではの和睦を結んでみせると豪語します。そして一人ではなく、万福、六佐、直之とともに国衆を訪ね歩き、自分たちがいかに惨めな境遇にあったか、そして徳川にどのように救われたかを伝えて回ります。

 私はこの展開を、いま一度『聖書』のアナロジーとして読みたいと思います。あくまでも個人的な考えですが、私は脚本の森下さんが、北条への使者を万千代だけではなく万福や六佐などを加えたチームにしたのには意図があると思います。すなわち、彼らの働きをイエス・キリストの死後の使徒たちの働きになぞらえたのではないでしょうか。

 

そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。(『マルコによる福音書』16:15)

 

 『聖書』において、イエスは死後復活して弟子たちの前に現れます。そして弟子たちに、世界中に良い知らせ(good news)を伝えるように指示します。古代キリスト教がヨーロッパ世界に広まったのはこの使徒の働きがあったからです。それは罪深い弟子たちがいかに罪を許され、イエスの教えのもとに新たな命、永遠の命を得たのかを伝え、彼に付き従うように勧めることでした。使徒たちがペンテコステを経て世界中で布教活動を行う様子を描いたのが『使徒行伝』です。

 『直虎』の最終回を見ながら、私はこれはまるで『使徒行伝』ではないかと思っていました。これまでも『聖書』のモチーフを使ってきた森下さんですから、最終話にそれを使ってもおかしくはありません。インタビューで最終話は「筆が滑った」と述べておられましたが、私はおそらくはそれはこの第三部を指して言ったのではないかと思います。

 もちろんこれまでの『聖書』の引用と同じように、この部分の引用も形式を借りる程度のものなのでしょう。しかし勝手に妄想させていただくと、おそらく作者は執筆の過程で最終回に『使徒行伝』が使えると気がつき、興奮したのではないでしょうか。サブタイトルが「石を継ぐもの」、というのも頷けます。万千代とその一団は、ペテロとその一団がそうだったのと同じように、バプテスマを受け(石をもらい)、取るに足らない存在であった自分が救われた福音を異教徒に触れ回り、改心して徳川に臣従する(バプテスマを受ける)ように勧めるのです。そうして従った者たちは、暴力で押さえつけられたのではありませんから、徳川への臣従を新しい人生への希望を持って受け入れます。そしてこれらはすべて、万千代とその一団がやっているように見えて、実はおとわのスピリット(聖霊)が行っていることなのです。

 これは『直虎』のモチーフにふさわしい展開です。特に万千代編は直虎の活用方法に苦慮したと思われるパートでしたが、その弱点を逆に活用して、『聖書』で福音が広がるように、直虎の思想が万千代を通じて普及していくさまを描くというのは、『直虎』のような空白の大きな物語ならではの創意工夫ではないでしょうか。これまで直虎の思想は万千代や家康に深く、しかし狭く伝わっていましたが、最終回でその地平線がぐんと広がり、水平に普及するさまを描くことができました。直虎の息吹が吹き込んだ万千代が、直政となって徳川の世で「奪い合わない世」を実現していく。まさに『使徒行伝』において福音が浸透していくのと同じパターンです。最後まで作者の構成力の高さが光る展開でした。

 

 最終回にまさかの『聖書』モチーフの活用(だと私が考えるもの)を持ってきた『直虎』、ファンには嬉しい驚きでした。辞世の回収もあり、最後は明るいトーンで終わってくれ、爽やかな視聴後感が残りました。総集編もありましたので、今後はまた全体の総括もしていきたいと思います。