Aono's Quill Pen

青野の鑑賞記録 ~溢れる思いを、心ゆくまま~

『おんな城主直虎』総括②~『直虎』と過ごした私の365 days

はじめに

 私が『直虎』を総括するなら書いてみたいと思っていたことの一つは、『直虎』を1年間見てきた自分の「心の旅路」です。『直虎』は視聴者の数だけ感動や萌えのポイントがあり、多彩な解釈を許す懐の大きな作品でした。Twitterやブログを読んで面白かったのは、感想を通じてそれを書いた人の人柄や考え方が伝わってくる点でした。私にとって『直虎』最大のドラマは、それを見た人のそれぞれの「心の旅路」の軌跡でした。そこでこのエントリでは、私がこの1年、『直虎』を見ながら何を考え、どんなことを思ったかを書いてみたいと思います。

 ちなみに私が考えていたことの90%は「政次」でした。ですからこのエントリの本当のサブタイトルは「政次と過ごした私の365 days」です。時は2017年1月に遡ります…。

 

(一部の登場人物や展開について否定的な感想を述べている箇所がありますが、個人のブログの感想ということでご容赦ください。)

 

 

2007年1月

 前年の真田丸は、豊臣秀吉が死ぬあたりまでは割と熱心に見ていましたが、関ヶ原で親子兄弟の運命が分かれるあたりから源次郎の最後の予感がして少し辛くなり、時々視聴する程度になっていました。大河ドラマはだいたい前半は熱心に視聴するのですが、後半脱落することが多かったと思います。

 『直虎』も、「また今年も大河が始まった…」程度の軽い気持ちで見始めました。番宣は「女子会編」を見ていただけでした。その番宣で初めての直親と政次を見たときも、(罰当たりです…許してください)二人とも正直あまり印象に残りませんでした。

 当時は三浦春馬さんと高橋一生さんでは、まだ三浦さんのほうが多く過去作を見たことがあり、高橋一生という役者さんのことはあまりよく知りませんでした。三浦春馬さんについては、現代劇でのシュッとした感じと比して、総髪姿が格別に彼の美しさを引きたてているとは思えませんでした。高橋一生さんについては、「大河のイケメン枠によくある感じとは違うタイプだな」と思った程度でした。

 その程度の認識ですから、『直虎』を見始めた頃の意識は相当低かったと思います。1月8日の初回放送の日、仕事を片付けながらの「ながら視聴」で何となく見始めました。

 見始めてすぐに、亀の子役の俳優さんの可愛らしさと、鶴丸の切ない片思いに釘付けになりました。そしてドラマが始まってわりとすぐに起こった亀の父の非業の死に仰天し、さらに亀の命までが狙われる塩展開、そしてそれが幼馴染の鶴の父によって仕組まれたものであるという関係性の業の深さに背筋が寒くなりました。このドラマには「何かがある」と確信した瞬間でした。

 しかし、その後何かの記事で「子役で一ヶ月」という情報を知り、少し敬遠する気持ちが芽生えました。子役の三人はがんばってはいたけれど、これで本当に一ヶ月間持たせるのかな、早く大人になった三人の展開が見たいと思いました。ですから2,3,4話は見てはいたけれど、それほど熱心には見ていませんでした。子役時代の物語を改めてじっくりと見直したのはそれよりずっとあとのことです。

 

2月

 いよいよ成長した直虎が登場した5話、私は「仕切り直しをするなら今話からだ」と思い、少しきちんと視聴しました。直親の帰還、政次の片思いとなかなか興味深い回でした。そして6話「初恋の別れ道」、直親と直虎の恋物語が盛り上がる間もなく、直親はしのと結婚してしまいまいます。前触れでは直親は直虎の運命の人ということでしたから、これほど早く運命の人が他の人と結婚してしまうことに驚いたことを覚えています。「カビたまんじゅう」の喩え話からも、『直虎』は典型的な”Boy meets girl”の話ではないのだと悟りました。

 信じられないことに、当時私はどちらかと言えば<直親-次郎>のカップリングの方を推していました。政次については、最初は高橋さんの演技というより、鶴時代からの不憫な片思い設定の方に萌えていました。私は典型的な「第2のリード症候群」ですので、ドラマではたいてい主人公に片思いする男性に感情移入するのですが、当時は直虎が可哀想過ぎて、<直親-次郎>カップルとの間でまだ迷いがあったように思います。

 第6話で好きだったのはこの会話です。

 

直親「いくら待ってもおとわはそなたのものにはならんぞ」 

政次「考えたこともございませぬが」 

直親「そうか、俺にはそうは思えぬがな」

  

直親が表面には見せなかった「おとわとずっと一緒にいられて、これからも婚姻の可能性がある政次への羨望とコンプレックス、そしてライバル意識」がキラリをと見えて、ドキッとしました。それと同時に、他の誰も認めてくず、本人さえも諦めている<政次-次郎>の可能性を直親だけが認めてくれたという嬉しさを感じました。

 私の政次に対する思いが固まったのは7話、いわゆる「検地回」です。この回で直親は一気に「真意の読めない油断ならない男」になり、政次は「直親に翻弄され、次郎に疑われる可哀想な男」になりました。『ほぼ日』ウェブサイトでも話題になった「直親と政次の演技者の解釈の違いから生まれたケミストリー」のマジックに魅惑されました。特に隠し里で政次が直親から無茶振りをされたときの表情の七変化に驚き、一気に高橋一生さんのファンになりました。

 今から考えると、おそらく直親には二心はなく(そもそも政次を最初に疑って直親の心に疑念を産み付けたのは次郎でした)、政次は政次で実際には直親を裏切ろうとしていた可能性もあったのではないかと思います。政次の真意は誰にもわかりません。紙面では直親は「真っ直ぐな男」であり政次は「何を考えているか分からない信用ならない男」だというのは、そのとおりなのでしょう。しかし実際のドラマでは二人はそれとは逆の印象を与えました。この回以降、私ははっきりと高橋政次のファンになり、<政次―次郎>を推すようになりました。

 

3月

 桶狭間、瀬名幽閉、政次の奥山刺殺、直親の死と様々なことが起こった激動の月でした。この頃には私は完全に高橋政次の虜になり、アカウントもないのにブラウザでTwitter#おんな城主直虎のタグ追いを始めていたように思います。特に#虎絵には大いに楽しませていただきました。

 この月は、第一の「ノベライズの壁」にもぶちあたりました。確か3月下旬にノベライズ2巻が発売されたと思いますが、その頃から私の中には二つの懸念が生まれました。

 

 1.政次退場はいつか

 2.政次と直虎はいつどこでどのように結ばれるのか(爆)

 

 2つめの懸念など、当時の自分の頬をひっぱたいて「目を覚ませ」とぶんぶんやりたいところですが、その頃の私はなぜか純粋に信じていたのです。直虎と政次は政次が死ぬ前夜くらいに結ばれると。

 その確信の根拠は、もちろん「この大河は『ベルばら』、フェルゼンもアンドレもいる」という脚本家さんの発言と、「政敵が最良の伴侶に」という公式HPの文言でした。このような前フリをされて、その可能性を考えない人がどこにいるでしょうか。今から考えても、あれは仕方なかったと思います。

 こうした懸念は人一倍強くあるのに、絶対にネタバレを読みたくなかったので、公式ガイドブックなども買いはしましたが、ストーリーは読みませんでした。ノベライズ2巻発売後はしばらく薄目を明けてTwitterを眺め、「ノベライズ」という文言を人力スキャン検索で飛ばし読んでいました。

 3月で一番萌えたのは10話「走れ竜宮小僧」の奥山刺殺事件です。あの回は<政次-次郎>サービスシーン満載のエピソードでした。まず斬られて子犬のように次郎のもとに避難する政次の怯えた様子に、そして至近距離で片肌脱いで治療をされる政次の様子に、そして次郎に匿われて彼女の部屋で一晩一緒に過ごした様子を想像してドキドキしっぱなしでした。あまり注目されていませんが、あの夜二人は一つ部屋の中で一夜を過ごしたんですよ。おそらく最初で最後、政次にワンチャンあったとしたらあの時だったのではないでしょうか。弱っている姿で同情をひくとか、事件解決の翌朝ホッとして気が緩んだところでニコッと笑い合い、目が合い、ふと真顔に戻って…とか、何かもっていきようがあっただろうと今でも悔しく思います。しかし鈍感猪姫の次郎にはそんな隙はなく、政次も重症を負い返り討ちに合うや合わないやの極限状況でしたから、そんな余裕はなかったのかもしれません。しかも事件解決のあとは余韻もなくすぐに瀬名事件に移ってしまったのも残念でした。

 その次の注目すべき<政次-次郎>イベントは、11話の井戸端の幼馴染の集会でした。ここでも直親は他には誰も口にもしない<政次-次郎>の可能性を再び話題に出し、あまつさえそれを応援するような発言をしてくれました。

 

直親 「今川から抜ければ、次郎様もすぐに還俗できる。 そうなれば、俺はお前と一緒になるのが良いのではないかと思っておる」

政次 「次郎様がお望みにならぬでしょう。」

 

やはり直親は政次のライバルでありながらも、<政次-次郎>の最大の応援者でした。しかも私は愚かにも次のように考えてしまったのです。「今は誰も問題にもしない<政次―次郎>だが、直親がこれほど分かりやすい前フリをしてくれたということは、鬼の伏線回収で知られる森下脚本のことだから、後に直虎が『お望みになる』驚きの展開が待ちうけているのではないか」。このような誤った期待が、その年の初夏の私のメンタルをギリギリと痛めつけてくるとも知らず…。

 直親の最後は前半最大の悲劇でした。私も彼の最後に涙を流し、後に読んだノベライズで切られ方の悲惨さを知って、死体を見た直虎のショックはいかばかりかと思いを馳せました。

 12話は、次郎の人物造形に対する疑念を確信した回でもありました。1話からおとわは鶴の気持ちには鈍感でしたが、直親には「どんなことをしても戻ってこい」と言ったのに、数年ぶりに再会した政次には「生きておったのか」と一言、そして事情も聞かずに「裏切るつもりで裏切ったのか」とはあんまりじゃありませんか。せめて生きて帰ったことを喜び、事情を聞いてほしかったと思います。

 

4月

 政次と直虎の「対立」が段々と激化する一方で、政次の秘めた思いが一層色濃く画面に出て、見ているのが辛くなるような切ないシーンが目白押しでした。特に私にとっての神回である15話「おんな城主対おんな大名」16話「綿毛の案」が次々に放映され、毎週の視聴タイムは高揚感に溢れたものでした。

 ただしこの頃、私の胸に暗雲も立ち込め始めました。先の2つに加えて、第3の懸念が生まれたのです。

 

 3.新キャラの龍雲丸は直虎とどのような関係になるのか

 

龍雲丸については、当時出ていた柳楽さんのインタビュー記事に「直虎との胸キュンシーン」という文言があったため、当初から警戒心をもっていました。「直虎を巡る四人の男」の一人ですから、当然ある程度直虎と個人的に関わる人物なのでしょうし、いつかの時点では恋愛めいた関係になるだろとは思っていました。しかしこの時点では結果的にあそこまで直虎に深く関わる人物になるとは想像できませんでした。それというのも、彼の記事の中にこんな発言があったからです。

 

「直虎が人生を振り返った時に『あんな男、いたな』と思い出してもらえるような存在でありたいですね。」

 

これを読んで、私は勝手に「一時期は関わるけれど、あとで寅さんのように立ち去るんだろう」と解釈してしまいました。ご本人も「寅さんをモデルに」と語っておられましたし…。

 そんなある日、よせばいいのに某サイトを眺めていて、ノベライズ2巻を読んだという人が書いたと思われるこんな一行を目にしてしまいました。

 

「直虎は龍雲丸に惚れるよ、政次は不憫なまま。」

 

これを見たのは時間にしてほんの0.5秒ほどのことだったと思います。見た瞬間に目を閉じたのですが、それは緋文字のように私の眼球の裏に鮮明に焼き付き、決して消えることはありませんでした。私は気分が悪くなってしまい、しばらく精神的に立ち直ることができませんでした。

 しかしそれでも私は自分に言い聞かせたのです。「この情報が正しいという確証はどこにもない。もしかしたら煽って楽しむ愉快犯の犯行かもしれない。あれは見なかったことにして、とにかく目の前の一話一話を自分の目と心で見ていこう。仮に一時期龍雲丸に惚れたとしても、彼が去ったあとで改めて政次と恋仲になればいいではないか」と。その時の私にはもはや『ベルばら』「伴侶」「直親様のお言葉」しかすがるものはありませんでした。目の前の事実から目をそらし、自分の都合のいい情報しか信じない、そんなネット時代のダメ人間のお手本のような内向きの姿勢でした。

 

5月

 この頃になると、私は来るべき政次の死について真剣に考えるようになりました。ノベライズもガイドも読んでいなかったので、彼がいつ死ぬか全く見当がつきませんでした。ネット界隈でも、全体の配分から考えて「政次は5月で死ぬはず」まことしやかに囁く人もいました。実際にはノベライズ2巻はもう出ていたので、政次が5月に死ぬかどうかは知ろうと思えば知ることができたのです。結果が分かっていることにあれこれ悩むのはいかにもバカらしい。でもノベライズを読むという選択肢は私の中にはありませんでした。

 そして運命の18話の足音がひたひたと近づいてきました。当時、柴咲コウさんが5月8日放映の18話について期待を高めるような発言を各所でされていました。政次が5月で死ぬかもしれないと思っていた私は、18話の展開について妄想しすぎて情緒不安定になるほどでした。仮に政次が5月で死ぬとすれば、それまでに徳川が井伊谷に攻めてきて、政次が井伊谷城を占拠して、井伊谷三人衆の働きがあるはずだけれど、今からそれが5月中に全部起こるのだろうか。だいいち今のところ政次に対して誤解と憎しみしかない直虎が、どうやって5月中に政次と結ばれるまでに接近するのだろうか。一体18話には、何が起こるのだろうか。こんなことを考えて、期待と不安で胸が押しつぶされそうでした。

 そして迎えた5月8日。私は最悪この回に政次が死ぬという可能性も視野に入れて、決死の覚悟で視聴に望みました。その日のことは忘れられません。連休最終日でしたが、ある事情でやむなく山登りをすることになったのです。かなり本格的な登山でしたが、初夏の新緑の美しさも、鳥のさえずりも、なにも頭に入ってきませんでした。

 そして光の速さで帰宅して手に汗握って見た18話。結果的に政次は死なず、政虎は結ばれることもありませんでした。それどころか、一見すると直虎に「恋愛はありえない」と宣言されたような展開に、若干拍子抜けした思いでした。もちろん勝手な思い込みや期待なしに見れば、見ごたえ十分のエピソードだったのでしょう。しかしその日の私は、を誤った先入観で見てしまったために提供されたものを正しく鑑賞することができませんでした。

 その後、よせばいいのにまたしても某サイトの情報を見てしまい、18話以降政虎の進展はしばらく期待できないこと、そしてノベライズ2巻終了時点では政次はまだ生きているという情報を何となくキャッチしました。

 19話「罪と罰で龍雲丸が本格登場してからは、私にとって精神的に辛い日々が続きました。政次とは全く進展しないのに、龍雲丸は登場したときから殿の待遇が破格でした。この違いは何なのか、なぜ殿は政次に目を向けないのか、と悶々と悩みました。

 私にとっての唯一の救いは、龍雲丸がそのうち寅さんのように去ってくれるであろうという淡い期待でした(すみません)。龍雲丸は政次が死んだ後に本格活躍する人かと思っていたら意外と早く登場したので、もしかしたら一旦退場して忘れた頃に再登場するのかと思いました。そして龍雲丸が一時退場している間に、やっと待ちに待った政次と直虎の愛の物語が始まるのだと期待しました。

 

6月

 6月は私にとって試練の月でした。5月後半から龍雲丸パートが来ると分かっていたので、覚悟してそれを見続けました。いわゆる「材木パート」の直虎は公私混同甚だしく、龍雲丸に対しては原理原則を曲げた行動が多く見られました。材木の窃盗は大罪なのに、なぜ彼女がここまで盗賊をかばい、罪を不問にしたうえに雇おうとまでするのかがよく理解できませんでした。直虎の人物造形に対する疑念が更に深まった時期でもありました。

 さらに、6月には私にとって頭の痛い第4の懸念が持ち上がりました。

 

 4.ノベライズ3巻のネタバレをどうやってかわすか

 

ノベライズ2巻は生き延びた政次ですが、3巻となるとだいぶ怪しくなってきます。普通に考えれば、ほぼ確実に死ぬことになるのでしょう。私は前回の失敗に学び、もう某サイトは決して見ない、そしてTwitterのタグ追いも控えようと決意しました。

 しかしその時までにはタグ追いは完全に私の生活の一部でした。ドラマを見て、その後にTwitterを読むというこの至福のルーティーンがもうできないなんて、考えられませんでした。

 そして一大決心をします。自分でアカウントを開設し、ネタバレをしないと思われる方のみを選んでフォローすれば問題ないのではないか。そしてアカウントを立ち上げました。

 さて、次はフォローです。どなたをフォローしよう…。しかしそこでは私の手は止まりました。私がこれからフォローするかもしれない方々がネタバレに言及されるかどうかを確かめるには、まずタグ追いをしなければならない。タグ追いをしているうちに被弾したらどうしよう。

 そして最終的に選んだ道は、なぜか「しばらく自家発電をする」ということでした。「読みたいものは、自分で書く」ではないですが、しばらく自分で考えてきたことを書いて、このモヤモヤを発散させようと考えたのです。

 そしてしばらく壁打ちのようにツイをしまくりました。最初はタグもつけませんでした。それなのに私を見つけてフォローしてくださる方が出てきました(ありがとうございます)。その方たちは私の「ネタバレしたくない」というプロフの願いを尊重してくださって、配慮してくださいました。

 そのうち、かなり多くの方がネタバレを避けておられる様子が分かってきました。Twitterタグの大海にも少しずつ漕ぎ出すことができました。そしてネタバレしたくないものに対する配慮も行き届いている界隈だということが分かってきました。

 そして迎えたノベライズ3巻発売日。私はよせばいいのに被弾しないように気をつけながらもタグ追いをしてしまいました。そして薄目で見てしまったのです。33話のサブタイを書いたツイを。

 

33話 嫌われ政次の一生

 

目に入ってきた瞬間、鈍器で殴られたような痛みを感じました。とうとう、来るべき時が来てしまった。政次は死ぬんだ…

 「いやまて」。ここでも自分にだけ都合の良い心の声が聞こえます。「このサブタイトルが政次が死ぬ回のものだと決まったわけではない。私が見たのはサブタイトルであって、回のあらすじではない。もしかしたら、政次が周りの人の誤解を解いてやっと皆に好かれることになる、心温まる回かもしれない」。

 心のどこかでは「自分を騙している」という自覚はあったのですが、当時の私は半分は本当にそう思ったのです。というのも、また別の某所で「政次は9月まで登場するらしい」という情報も読んでいたからです。33話といえば8月、9月に死ぬのなら、やっぱり33話は政次死去の回ではないのではないか。

 ちなみに私のこの幸せな妄想は、7月の終わりくらいまで崩れることはありませんでした。柴咲コウさんが「30~33話はぜったい見て」とインタビューで発言されているのを聞いて、やはり33話があの回なのかとようやく諦めの境地に達することができました。

 

7月

 龍雲丸は一旦は去ったものの、わりとすぐに復帰しました。期待した政虎の展開は思ったように進まず、さすがに私の少女漫画脳にも疑念が芽生えてきました。当初からの懸念であった

 

2.政次と直虎はいつどこでどのように結ばれるのか

  

について、それまでの私の懸念は、「<いつwhen、どこでwhere>起こるのか」というものでした。しかしそれはいつのまにか、「起こる<whether ~かどうか>」に変わっていきました。

 本当に政次と直虎は結ばれるのか、もしも仮に結ばれないとしたら、私の過去数カ月の煩悶は一体何だったのか。

    もどかしかったのは、その答えはクリック一つで分かるところにすでにあったということです。ノベライズ3巻はすでに発売されて、ファンの多くは詳しい展開をすでに知っている状況でした。自分だけがストイックに悶々とするのは本当にバカらしい。でもノベライズは読みたくない。

    そこで私は、柴咲コウさんが宣伝する「注目の30~33話」最後の望みを賭けることにしました。直虎の展開のペースから言えば、4話分もあれば政次と恋に落ちて成就するには十分、他の歴史エピも入れられる。そうやって私は最後まで希望を捨てない決心をしました。

    ちなみに25話あたりに何かがあるという情報は、さすがの私もうっすらと知ってはいました。しかし当時の状況はまだ龍雲丸にお目々キラキラでしたし、本当の進展は30~33話に待っていると思い込んでいたので、それほど大きな期待はしていませんでした。

    またしても誤った心構えで見ていたため、有名な「冷た家老」にもそれほど心動かされることはありませんでした。どちらかというと親が子どもを心配しているようだな、と思いました。ただし直虎が政次のことをちゃんと「昔から誰よりも冷たい(温かい)」と認めてくれたことはとてもうれしい驚きでした。

 

8月

 普段から出張が多いのですが、7月下旬から8月の中盤あたりはほとんど家にいないくらいの出張続きでした。しかし奇跡的に日曜日のたびに帰宅でき、天王山である「30~33話」はじっくりと視聴することができました。

 政虎の進展に注目して見ていたのですが、なかなかそのような雰囲気になりません。それどころか30話の終わりには政次は直虎に刀を向け31話では満足に話すこともできずにまさか再度の忠誠心の疑われ案件32話ではなつの突然の攻撃にトドメを刺され、最終的には33話でも二人が言葉を交わしたのは死ぬ間際の一瞬、という残念な結果に終わりました。

 最後の砦だった「30~33話」にも裏切られ、私の心は真っ白な灰になりました。私は自分の心を供養するように、ブログを書き始めました。

 ブログ開設について少し書いてみます。Twitterをはじめてすぐに、私は限界にぶち当たりました。自分で言うのも何ですが、私は長文体質です。よくTwitter140文字でおしゃれにパンチの効いたキャッチコピーのような短文を書く方がおられますが、私にその才能はありません。

 最初は自分にリプライしたり、番号をふった分割ツイをしたりして工夫しました。Twitterの「モーメント」という機能を使ったりもしました。しかしそれらの機能を使ったとしても、文章が140字毎に分けられるというのは私にとっては頭の痛いことでした。

 しかしブログにコミットするだけの時間が捻出できるだろうかと考えると、おいそれと始めることはできませんでした。2ヶ月くらい、迷い続けました。

 その私の背中を押したのは、二つの出来事です。一つは31話「虎松の首」を見ているときに、これは『聖書』のエピソードが部分的に用いられているのではないかと思ったことです。政次=贖いの死という展開が予想され、一気にそれについて書いてみたいという意欲が湧いてきました。色々な説明をしなければならないので、Twitterでは難しいでしょう。

 もう一つは、32話の衝撃があまりにも大きすぎたことです。私は32話の<政なつ>展開を事前に知りませんでしたので、あれを見た時は言葉を失いました。いつもなら番組が終わったら感想をつぶやくのですが、あの日はショックすぎてしばらく何も書けませんでした。書いたとしても、140字で分割して書けるとは思えませんでした。

 この二つの要因に押されて、私は32話放映の数日後にブログを始めました。毎週更新できる自信はまったくありませんでしたが、見切り発車せざるをえないような切羽詰まった気持ちでした。

 ブログ開設にあたって、私は一つだけ方針を決めました。私にとっては、文章は長くするよりも短くするほうが難しいのです。仕事で書くような字数の決まった文章ではないので、短く編集する時間を省いての時間の短縮を図ろうとしたのです。

 そして32話、33話について思いのたけを書きまくりました。書きたかった「聖書と政次」についてもある程度は形にすることができました。

 ブログを更新し続けることは大変ですが、あの時はそれしか気持ちの持っていきようがありませんでした。2月くらいから期待に胸を膨らませ、待ち焦がれた展開がついに起こらなかった失望を、どうにか昇華させたかったのでした。

 

9月

 政次の死後は、『聖書』リファレンスに興味もあったので、彼の「復活」がどのように行われるかに注目して見ていました。結果的にいえば、それはあるはあったと思いますが、私が期待したスケールでではありませんでした。

 しかも政次の死の直後に直虎と龍雲丸との関係が深まるという、傷口に塩を塗られるような展開が待っていました。

 この時期、直虎の人物造形に対する疑念は私の中でさらに大きくなっていきました。政次を槍で刺殺したあとは、しばらく殺したことを忘れ、正気に戻ったあとは「政次を失った」ことよりも「人を殺めた自分」に恐怖しているように思われました。そして龍雲丸を一人助けたことで、多くを見殺しにした自分に救いを見出し、立ち直っていきました。そこでは私が期待したような「政次の不在をじっくり考え、政次という存在の自分にとっての意味を言語化する」という過程は描写されませんでした。

 さらに家をたたんでからは市井の人間として普通に幸せに暮らし、たとえ一時期とは言え政次とともに必死で守ってきた井伊を捨てて堺に行くことまで決めてしまいます。これは初回からおとわを見てきた人には信じがたいことでした。色々な意味で、直虎の思考回路は理解はできても共感はできないと感じさせられる34話以降の展開でした。

 政次と直虎の関係は、本当に33話で終わってしまったのだな(というより脚本家が政次に区切りをつけて次=龍雲丸→万千代に進みたかったのだな)、ということを否が応でも受け入れざるを得ませんでした。

 

10、11月

 「万千代編」菅田将暉さんの演技のパワーで楽しく見ることができました。万千代編は、次郎編、城主編のテーマの変奏と継承が主題でしたから、脚本の構成力の技をじっくりと堪能しました。

 この頃からTwitterの感想には、少なくとも私の知る範囲では、「政次ロスを嘆くもの」と、「現在進行中の物語に言及するもの」という二つの大きな流れがあったように思います。私はブログの感想の中で政次に言及することはありましたが、Twitterではあまり政次についてつぶやくことはできませんでした。

 それは8月と9月に受けた傷が大きすぎて、なかなか立ち直ることができなかったからであり、またブログに思いを書きつくしたので、それ以上書きたいことが出てこなかったからでもあります。次第に私にとって政次は、語ると自分が辛くなるもの、もう永遠に戻ってこない青春の日々のような、痛みとともにしか思い出せない存在になっていきました。

 

12月

 「万千代編」は、それ自体として驚きの完成度だったと思います。捨て話が一話もなく、各回の構成は一話完結の物語としても、12話のシリーズとしてもまとまりがありました。明るいコメディタッチでありながら、瀬名・信康事件ではきっちりと悲劇を描きました。演技は個人としてもチームとしても秀逸で、特に徳川家中のドラマは単独で見応え十分でした。

 おそらく「万千代編」の徳川パートが、『直虎』全体から見ても総合的な完成度は一番高かったといえるのではないでしょうか。

 しかし、やはり何か違うドラマを見ている感があるのも確かでした。政次が背負った悲劇性や運命の重荷のような、光と影の「影」の部分を担う人がいないため、軽いトーンで話が進んでいくように感じられました。「城主編」が、色々と問題がありながらも、独特の重厚さを持って胸に迫るのは、この影の力が大きかったと思います。

 シリーズの終了が近づくに連れ、放送を見て、Twitterを読んで、感想を書くというルーティーンが終わるのだな、と思うと感慨深かったです。特に8月後半から9月は辛い気持ちで書いていましたし、10月から年末にかけては仕事が忙しすぎて物理的に感想を書く時間を捻出するのが正直大変でした。

 『直虎』は私にとって永遠に心に残るドラマになるでしょう。しかしそれは、「そうであれかしと思ったことが、ことごとくかなわなかったドラマ」として残ってしまうのではないかと思います。

 私が見たかったのは、直虎が「政次の気持ちを考え、その愛に気づき、できれば気持ちを受け入れ、無理ならば感謝くらいはする」、そして政次は「せめて一度くらいは告白する」、という展開でした。身勝手な要望かもしれませんが、私はこれらのことがすべて不可能だったとは思いません。逆にこれらのことが何一つ起きなかったことは不自然だったと思います。大河は恋愛が主眼のドラマではありませんが、人間ドラマにおいて恋愛は重要な一部です。こうした「起こらなかったこと」とが直虎を共感し難い人物にしている一因であると、私は個人的には考えます。

 私の『直虎』との2017年は少し悶々とする気持ちとともに終わりました。そして迎えた2018年、まだこうして総括を現在進行形で書いています。2017年は終わっても、私の『直虎』は完全には終わっていません。

 

 独りよがりな独白におつきあいいただいてありがとうございました。総括③を行うならば、「ここがヘンだよ『直虎』」的なものになるかもしれません。まだ考えている途中です。