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青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』32話 ③駿河・遠州侵攻を描く省略とディテールの美学

『直虎』のテーマと、直虎が描く未来

  「政虎なつ」の衝撃が大きすぎて、その他のことがすべてふっとんでしまった感のある32話でしたが、実は大河ドラマらしく大文字の歴史がようやく動き出した回でもありました。いや、その書き方には語弊があります。これまでも「歴史的事件」(戦国時代であれば例えば合戦)は起こり続けていたのですが、それが本作のテーマ(と私が考える)「リーダーとして生きた中世日本の一女性の人格的成長」と直接関わる事象ではなかったので、前景化されてこなかっただけです。

 前回合戦が描かれたのは桶狭間の戦いの際でした。あのときも「桶狭間が開始数分で終わってしまった」と話題になりましたが、それは直虎の成長物語に関わる事件は直盛と家臣団の死であり、義元がどのように死んだかは重要なことではなかったからです。このドラマのこうした思い切った焦点の合わせ方は、もう少し評価されてもよい点だと思います。個人の視点から出発し、人々の営みがより合わさった糸で編むタペストリーのように丁寧に歴史像を作り上げていく、そのディテールへのこだわりこそが、このドラマの面白さの一つです。

 しかし『直虎』は民衆史ではありません。小規模ではあっても為政者の立場にある人物が、自分の理想とする社会をどう作り上げようと奮闘するか、その過程を楽しむドラマです。これまでも為政者のドラマは数多くありました。その中で『直虎』のユニークさとはどのようなものでしょうか。これについて脚本家は「トップに立つ人はピュアなところがないといけない」と語っています。直虎は女性で禅僧です。政治や戦争を行うことを期待もされなければ、訓練も受けていません。性格は猪突猛進で直情径行、心には竜宮小僧が住んでいます。すなわち脚本家が想定するユニークな為政者像とは「戦国時代の主流の政治に対する先入観がなく、純粋な心で、人々が殺し合わない、奪い合わない世を作ろうと猪突猛進するリーダー」なのです。

 思えば龍雲丸と直虎の会話には、そのような脚本家の自問自答が多く反映されています。例えば21話の「追い詰められれば人は奪う」「奪い合わない世の中を作る」という寺の庭での会話です。最初に聞いた時は、文脈に似合わないほど観念的で大きな話をするな、と思ったのですが、これは直虎の、というより脚本家が直虎を通じて発したい、最大のメッセージなのだと思います。龍との会話は未来を向いています。直虎は龍に触発されてそのような未来を具体的にイメージすることができました。

 それでは政次はどうでしょうか。政次は「戦国の流儀」に通じた人物です。直虎は政次からトップに立つものの責任や策の立て方を学びます。しかし彼には直虎にはない「政治や戦の教養や訓練」がありますから、逆に直虎のように先入観なしに未来像を組み立てることはできません。したがって、前述のような「あるべき未来」について政次と語り合うことはできないのです。そこに龍のオリジナル・キャラクターとしての役割の独自性があります。やはり龍は政次のあとにくるべき役割を背負わされた人なのでしょう。

 

32話の歴史的背景とストーリーテリングのうまさ ~省略とディテール~

  前置きが長くなりましたが、ようやく32話についてです。「政虎なつ」については散々語ったので、ここではもう語りません。彼ら三人のパートは数分の出来事で、それ以外にも様々な動きがありました。そしてそれらは、直虎のリーダーとしての成長物語に直接関わるエピソードだと制作者が考えたため、時間を割いて描かれたものなのです。その展開についてはきちんと理解しておく必要があるでしょう。

 今回の主たる歴史的事件は、武田による駿河侵攻と、それに呼応した徳川の遠州侵攻です。この部分について考えるには、私は時系列を整理しておく必要があると感じました。これまでの展開はこうです。

 

1560年 桶狭間の戦いで直盛、今川義元死す(9話)

1562年 直親死す(11話)

1565年 直虎城主となる(12話)

1566年 徳政令をはねつける(15話)

1568年11月19日 徳政令を受け入れる(31話)

     12月12日 家康が井伊谷三人衆に領土の安堵状を渡す(32話)

     12月13日 徳川の遠州侵攻開始、武田軍今川館を焼く(32話)

            井伊谷三人衆来訪、近藤が政次を罠にかける(32話)

 

 31話で描かれた「虎松の首」事件は1568年の11月下旬頃のことだと想定されます。そして32話では1568年の11月下旬から12月初旬の20日間前後の事柄が描かれます。そしてハイライトは12月13日におかれています。この日は、武田軍が今川館を焼くという井伊家の悲願が成就した日でありながら、政次が近藤に罠にはめられ、悲劇が始まる運命の日となりました。この12月13日に照準を合わせて、希望の光が見えてきた時にさらに深い谷に突き落とされるという展開を「直虎と政次の個人的関係」と「井伊家をめぐる政治的状況」のパラレルで見せる構成は見事なものです。

 32話、まるで普通の戦記物の大河を見ているような既視感もありましたが、よく見れば単なる戦の説明に陥らず、要領よく史実を説明しつつも、本筋を「政次の業」が跳ね返る過程と、直虎が密約で命脈を保とうと奮闘する過程に保つように様々な工夫がこらされています。それらの工夫は、まさにこのドラマの白眉の一つである「省略の美学」「ディテールへのこだわり」によって表現されています。私が気がついたシーンをいくつかをあげてみます。

 第一に、武田軍による<薩埵峠の戦い~今川館襲撃>のプランを、信玄が地図に朱筆を入れることだけでその残酷さまで含めて表現しきったシーンです。今川氏真は当初薩埵峠で武田を迎え撃つ予定でしたが、相次ぐ離反によりそれが実現せず、とうとう館を襲撃されて駿府を追われます。この一シーンによって信玄の意図が明らか示されたお陰で、今川家臣の離反、関口の描写、氏真の絶望、逃走場面などもっと重要なシーンに尺をとることができました。

 第二に、冒頭で家康が遠州侵攻のプランを練る際に、地図に碁石を並べて説明するシーンです。井伊などすでに味方である勢力は黒い碁石を、堀江や浜名など沿岸の今川勢力には白い碁石を配置し、これから調略しようとする気賀は井伊方であるため黒い碁石を配置しています。<今川=白>、<徳川=黒>なのですね。政次の羽織からこぼれ落ちた白い碁石、ここにも何か関係があるのでしょうか。

 第三に、前述のシーンで徳川方が気賀について言及していることです。気賀の調略がうまくいかないため、陸ルートである井伊谷を通じて気賀方面に南下するというプランが家康の口から語られます。気賀とは堀川城のこと、堀川城ではこのあと政次も関わるであろうある事件がおきますが、まず井伊谷制圧があって、次に気賀(堀川)が来るのだ、という順番がさり気なく示され、それに向けての布石がここで打たれています。

 第四に、細かいことですが個人的にツボだったのは、この徳川の地図には引間が大きく書かれて、そこにのみ朱囲みがしてあることです。セリフでは何も語られませんが、引間城は浜松城のこと、新野左馬之助や中野直由が氏真に命じられて戦をしかけて戦死した因縁の相手であると同時に、家康の次の本拠地ともなる重要な城です。通常のドラマならばここで何か一言言わせたいところでしょう。そこをあえて何もいわない姿勢、潔いです。

 最後に、信玄が家康の書状で鼻をかむシーンです。「調略に手間取る輩など…」というセリフのインパクトが強すぎましたが、その前段で「望みの日までに掛川に入るのは難しいと書いてよこしおった」と、家康がなかなか掛川に入れない様子もさらりと入れています。掛川の攻防は今川氏真も関わる今後の重要事項のはずですが、これもくどくど説明せず、でも言及はしておく。制作者からの「抜かりはないですぞ」というメッセージのようです。

 このようなディテールの差し込みによる省略法の多用で、本話は駿河侵攻と遠州侵攻のエッセンスを示しながら、井伊谷が置かれた政治的状況を説明し、直虎と政次がその流れにどのように飲み込まれているのかを示しました。そして重要なことは、ここでも本筋と関係ない合戦シーンは一切描かれないのです。矢が飛んだのは、政次が罠にはめられたシーンのみでした。

 

政次、「必要悪」の正負の遺産

  このような歴史のうねりを背景に、政次が必要悪として演じてきた二面性の正負の遺産がブーメランのように跳ね返る過程が描かれました。それについてはすでにtweetしたので全ては繰り返しませんが、正の遺産はもちろん二面性を演じることで保たれてきた井伊家の命脈そのものでしょう。ようやく今川の支配から抜けるという希望の光が見えるところまでどうにか持ちこたえてきたのです。さらに政次がそれを宣言することで、小野家家臣団も自らの存在意義を正当化することができました。政次が一段高いプラットフォームに立って語る様はまさに演説風景、あのシーンはどこか演劇的な香りのする構成美に溢れた見どころでした。

 負の遺産は疑念と禍根の蓄積。政次自身がかつて「味方から裏切られるのは恐ろしい」と語った、そのままのことが彼自身に降りかかります。彼を疑うのは直之、近藤、瀬名、そして家康です。瀬名と家康の冒頭のシーン、「政次が誤解される」とハラハラした視聴者は多かったのではないでしょうか。そのあと直虎から書状が届き、誤解がとけて一安心したものの、最後の最後で近藤がさしはさんだ疑念に家康の心が揺れます。そこに瀬名の「小野は奸臣」という言葉がインクの染みのように広がり、視聴者の心も恐怖で震え上がります。小野が演じた悪役は必要悪ではあったが、決して代償なくやれるものではなかった。意図がどうであれ、「信用ならない人物」を演じたことのつけは払わなければならないのです。それは因果応報という砂に足を絡め取られてずるずると渦に引きずり降ろされるような恐ろしい感覚です。鶴はどのようにそのつけを払わされるのか、それを見ろというのなら仕方ない、見るしかないではありませんか。

 最後に「今川館が焼け落ちる」という表現の回収について述べます。駿府の館を攻め落としたのは馬場信春という人物のようですが、武田信玄は今川の館を焼けとまでは命令しなかったようです。城は資産ですから、よほどの理由がない限り焼き尽くすというのは理にかないません。しかしこの馬場という人はあえて今川館と駿府の町を焼き払ったとされています。今考えると、この史実から遡って「今川館が焼け落ちる」という表現を最初から何度も入れてきたのかな、と思えます。実際に「焼け落ちる」という異常事態がありえてしまったこと、でもそれは思い描いたような理想の展開ではなかった。なかなかに苦い伏線回収でした。

 

 まとめます。『直虎』に描かれる「歴史的事件」は、主人公の成長という本筋に密接に絡むもののみ、というのが私の仮説です。それに沿って、制作者が示してくれた「描かれたこと」と「描かれなかったこと」を読み取ることで、できればメッセージを正しく受け取りたい、そして33話に向けて心を整えていきたいと思います。

『直虎』の成立過程から<なつ事件>の真相に迫る

 前回までのエントリでは<なつ事件>について、ドラマの筋に沿って人物の心情の変化の読み解こうとしました。

 今回は脚本や製作の過程が伺える幾つかの資料をもとに、なぜこのようなことが起こったかを推理してみたいと思います。

 私はノベは2巻まで、公式ガイドブックは前後編とも持っていますが、読んだのは前編だけです。資料は主として公式ガイドブック前編の脚本家とプロデューサーのインタビュー、ほぼ日ウェブサイトの情報など、公開されているものです。ガイド後編やノベ3巻は読んでいないという限界があることを最初にお断りしておきます。

 一般にテレビドラマは、脚本家とプロデューサーで話し合いながら大まかな筋を決めていくとされています。題材や企画意図はプロデューサーが提示し、それを受けた脚本家がまずプロットを考え、その後セリフやト書きとして具体化していきます。

 『おんな城主直虎』の製作過程について岡本Pは、「森下さんはまず一気に50本分のプロットを書き終えた」と語っています。すなわち非常に早い段階でおおまかな展開は決まっていたのです。このことから脚本家は大河という一つの長い物語に明確な構造をもたせることを意識していたことが分かります。早い段階での全体の見通しがあるから、セリフやト書き執筆の段階で伏線の超ロングパスなどを入れ込むことができるのですね。

 この物語の主題は、城主直虎という人間の成長。すなわち中世日本でリーダーとして生きた一人の女性のビルドゥングスロマンです。そしてクライマックスは4つ設定されました。直虎が城主になる時(12話)、城主としてある業績を達成する時(今から考えると気賀城築城、すなわち27話)、武田に焼き払われる時(おそらく35~37話あたり)、そして伊賀越えであるとされています。

 それと同じくらい早く決まったのが、直虎をめぐる4人の男だったと思われます。初恋の人直親、幼馴染で、敵で、後に同志となる政次、直虎に違う世界を見せる男龍雲丸、そして直政。各人が4つのそれぞれの時期を直虎と密に関わる展開が企画されたことでしょう。

 この4人について、私は以前のtweetで「煎じ詰めれば主人公の成長過程に異なった影響を与えるために構造的に配置された、記号的な存在」であると書きました。決してこの4人に血が通っていないということではなく、先述したような物語の構成からみて、彼らは直虎という主人公の成長過程のそれぞれの段階に必要な栄養分を与えるような存在であり、その配置は自ら戦略的なものであらざるをえないという意味です。

 その中で政次の役割は、敵として、同志として、直虎の城主としての成長を刺激し促すことです。恋愛の筋は直親と龍に振られていて、政次にも少しはありますが、それが彼のメイン・ファンクションではありません。

 さて、本題のなつについて考えます。なつという登場人物は、この構造的に組み上げられたドラマにおいて、本来補助的役割をもつ人物です。少なくとも50本のプロットが構想された段階では、政次となつが夫婦約束をするということまでは決められていなかったのではないかと推測します。

 森下さんはインタビューで「脚本を書いているうちに、この人がこの人を好きにならなかったらおかしいよね、という気づきがあるので、それは書いている過程でどんどん反映させていきたい」という趣旨の発言をしています(出先で、手元に資料がないので逐語ではありません)。私はずっとこの「気づき」はなつのことを指していると思っていました。だからなつが政次を熱く見つめるシーンがあったり、25話で抱きついたりしたとき、「このへんに入れてきたのね」と思っていました。

 しかしそのときは、まさか政次がなつにプロポーズするとまでは予測していませんでした。それで改めて考えてみて、「この人がこの人を好きにならなければおかしい」というのは、もしかすると政次がなつを、ということだったのかもしれないと思い当たりました。あるいは全く他の人のことを指していたのかもしれません。

 ここではひとまず、「なつが政次を」という仮定で話を進めます。先述したようになつは物語中で補助的な機能をもった人物です。その機能とは11話までは玄蕃の名代として井伊家と小野家の架け橋になることです。そして15話以降は、なつ自身としては政次を支えることがでしたが、それと同時に物語の構成上は亥之助を小野家に戻すということが重要だったと思います。亥之助は小野の男子として育たなければなりません。政次の薫陶をうけ、その意思を引き継いで直政の家臣として表舞台を歩く。そのためには亥之助が新野の館で育つわけにはいきません。

 この設定が決まった時点で、作者はなつの最終的な処遇に困ったはずです。11話までは単に実家に戻らずにいたというだけでしたが、15話では外面的にはさしたる必要性もないのに小野家にわざわざ転居したのです。当時の感覚でも好奇の目にさらされたことでしょう。そして小野家が敵ではなくなった瞬間になつ自身の役割は終わります。

 その時点で政次になつを追い出させることはできたでしょうか。選択肢は2つありました。一つは政次がその時点でもまだ身も心も直虎に囚われていたことにして、なつの思いを拒絶させ、何とか世間体を損ねない処遇を考えさせる、そしてもう一つはなつと結婚させることです。

 残念ながら制作陣は後者を選びました。もともと政次には一般的な意味での恋愛の筋は振られてないはずでした。しかし鶴の片思い設定をずっと引っ張り、直親や龍と三角関係的な緊張感を出すことで、このドラマの恋愛面での見どころを作りました。その結果、鶴は少年期の初恋をずっと引きずっていい大人になり、ついに死に際まで来てしまいました。そこで制作陣はもしかしたら渡りに船と、なつを利用して鶴をおとわから半分だけでも卒業させようとしたのかもしれません。半分とは、恋愛的な意味で両思いになることを永遠に放棄することです。そのゴールはなつと結婚までしなくても、他の手段である程度は達成できたかもしれません。直虎に拒否されるという展開でもよかったでしょう。しかしあえてそのルート選んだのです。

 それはもしかしたら「下手」ではなかったかと現時点では思います。多くの視聴者がネガティブな反応を示しました。この反応は放映直前にはある程度は予測されていたと思いますが、かなり前倒しで進められていたという製作過程では予想できなかった要素もあったのではないでしょうか。

 その一つは政次を演じる高橋一生さんの人気とその演技です。高橋さんのキャスティングは早い段階で決まっていて、当然『カルテット』のはるか以前でした。森下さんはインタビューで、『民王』が好きで、中でも高橋さん演じる貝原のキャラクターを気に入っていると述べています。森下さんがイメージした政次は、貝原のような無表情で感情の起伏に乏しい人物だったのではないでしょうか。

 しかし予想に反して、高橋さんは政次を情感たっぷりに演じました。11話までは直親よりも共感を呼び、12話以降もおとわへの愛が全身から漏れ出すような演技で、ドラマの視聴者のコア層の気持ちを掴みました。その結果多くの視聴者が政次と直虎の関係に胸をときめかせ、何かが起こることを期待しました。

 もう一つの誤算は、龍雲丸との恋愛話に思ったほどの関心が集まらなかったことです。インタビューを読んでいると、プロデューサーと脚本家が龍雲丸に大きな期待をかけていたことが分かります。岡本Pは政次のことは「切っても切れない因縁の相手」とさらりと表現しているのに、森下さんは「龍雲丸とは感情的にごちゃごちゃしてほしい」と述べています。おそらくプレ・プロダクションの段階では柳楽さんにもっと女性の関心が集まり、龍と虎の恋の行方を気にする人が増えると予測していたのではないでしょうか。しかし現実的には龍メインの回は視聴率が低迷を続け、批評も芳しいものではありませんでした。そして視聴者は相変わらず政次と直虎の恋愛を期待し続けたのです。

 ここで制作陣の考えについて2つの疑問が浮かびます。一つは本当に龍と虎の恋愛に関心が集中し、政次と直虎に対する期待が薄れると思っていたのか、もう一つは、仮に龍と虎に恋愛の焦点が移っていたとしても、政次となつの唐突な結婚話に視聴者が納得すると思っていたか、ということです。

 もし2つについて「そうだ」と考えていたとすると、かなり甘い展望だったと言わざるをえません。今回の政次となつの婚約は、1話から鶴と鶴の思いに感情移入し、32話までずっと鶴とわを応援してきた多くの視聴者にとっては、容易に受け入れられるものではありませんでした。「それを狙った」と言われても、仮に色々な理屈をつけて頭では理解したとしても、気持ちの面で納得できるものではありません。そして本来感動を生むべく編み出される「物語」において、感情的なリアクションはとても大切なものです。そして制作者は、主たるターゲットとなる視聴者の知性を信頼しなければなりません。どんなに鬼畜な展開でもそこにきちんとした筋が通っていれば視聴者は受け入れるでしょう。しかし1話から丁寧に描いてきた優しく賢い鶴に「好きな人はいるけど、お前も離したくない」というようなプロポーズをさせてはいけません。それは「人生思い通りにいかないもの」という一般論とはまた別の話です。

 そろそろまとめに入ります。政次がなつにプロポーズする設定は、脚本家が50本のプロットを書き終えたはるか後、15話以降のセリフやト書きを書く中で徐々に生まれていったものではないかと思います。なつはサブキャラながら多くの役割が盛られた設定で、役割を演じるうちにその存在の重要性がどんどん大きくなっていき、とうとうその処遇に困った、そして制作者が選んだ結論があの展開なのではないか、ということです。

 もちろんこの考えは全て間違っているかもしれません。単なる一つの仮説、しかも32話時点での途中経過ということでご笑覧ください。

『おんな城主直虎』32話「復活の火」②風穴を塞ぎにいく男、政次と直虎

 政次となつのシーンに先立つ直虎との邂逅。これはもう色々な解釈が成り立つ味わいの深いものでした。以下はその一つに過ぎません。

 直虎が政次に城主の座を譲ると言ったとき、政次はとても素直に、直虎の方にトップとしての資質があると返しました。政次にコンプレックスを持ってきた直虎にとって、師であり敵であり同志でもあった彼からの初めての認証と賞賛の言葉は、本当に嬉しいものだったでしょう。これまで政次が直虎に向けてきた表情は殆どの場合堅くて怖く、直虎はいつもその表情を恐る恐る伺ってきました。まるで厳しい恩師にお墨付きをもらったような喜びだったはずです。

 同時に聡い政次は城主を降りて一人の女性になったおとわについても一瞬思いをめぐらしたはずです。自由に、安全に生きてほしいと願った愛しい女性。自分が城主になればそれが叶うかもしれない。しかし政次も直虎も、井伊谷にその身を捧げて生きる人たちです。自分のことよりも公共の利益を考えます。公人としての政次が曇りのない目で見たとき、客観的に直虎の方にトップの資質があると認めるのは当然の成り行きでした。そして幼少時から自分が領主になりたいと密かに願ってきた直虎、「男子でもなく、子もなさず、無用の長物」と絶望してきた直虎にとって、その存在意義を具体的な賛辞とともに肯定することは政次にしか贈れない最良のギフトだったと思います。

 政次は自分の愛情とはどのように折り合いをつけたのでしょうか。私は以前に行った考察で、政虎の関係性について、「直虎の城主としての成長過程に必要な葛藤や相克、対立の相手として設定された政次と恋愛関係になることはできない」という趣旨の考えを述べました(https://twitter.com/i/moments/896247161112870912)。しかしこの考えが当てはまるのは、直虎が成長過程にあって、対立軸が必要な時だけでした。今川館が焼け、徳川の国衆として生きる展望が開けたいま、このすべての縛りがとけて、やっと二人がロマンティック・ラブも含めた唯一の相手になる可能性が見えたのです。未来がないとメタ的に分かっているという絶望的な条件のもとで、あえてすべての選択肢がありうるように思える一瞬の風穴を作者が意図的に開けたとも言えます。

 しかしその風穴は、閉じられることが前提の束の間の夢でした。脚本は残酷にも、そして若干の希望を交えて、政次によって閉じさせるように仕組むのです。

  脚本が巧みなのは、まず殿と家臣の仮想入れ替えのシーンで、この状況のぎこちなさや違和感が表現されたことです。主従の関係が自然になりすぎてしまい、それ以外の関係はもはやこの二人にはフィットしない。そういう客観的、外面的状況が示されました。

 内面的にはどうでしょうか。城主であれ、なかれ、今川の支配を抜ければ還俗はできます。結婚や恋愛の可能性は開かれ、しかも城主でなければその自由度は格段に高まるのです。しかし政次はその一瞬、玉砕覚悟でその万が一つの可能性にすべてを賭けようとはしませんでした。なぜでしょうか。

 一つは、ロマンティック・ラブのパートナーとして直虎が自分を選ぶことを想像することができなかったからだと思います。幼い頃からの自分を振り返らなかったおとわ、常に他人のために尽くし、亀との結婚すらあきらめたおとわ。11話で直親におとわとの婚姻を勧められ断った政次は「次郎様は望まれぬでしょう」と言いました。そしておそらくその時点でその観察は正しかったのだと思います。誰よりもよくおとわを見てきた政次には、おとわの望むもの、望まないものが本能的に察知できたのです。

 しかしおとわのモットーは「やってみなければ、分からぬではないか」です。人の気持ちは永遠ではありません。直親もあの時「分からぬぞ」と言いました。政次はあの一瞬、なつに言った言葉をおとわに言うべきでした。何も望まず、見返りを求めないとしても、心からの気持ちが人を動かすことはあります。おとわの心は石ではありません。鶴の心からの愛の告白に、心が動いた可能性はあったのではないかと思います。仮にその時に返戻がなかったとしても、言うこと自体に価値がある。好意の返戻作用は時間をおいて起こることもあります。もっというと、城主として認めることと、好意を伝えることは二者択一じゃない。両方言えばよかった。

 しかしあの時点では政次も直虎も、どちらかがすぐに死ぬということをリアルに想定してはいませんでした。二人は戦後の井伊谷での暮らしを想像し、楽しみにしていたのです。失敗した時の気まずさを考えると玉砕覚悟までして突撃をする動機が、政次にはなかった。

 そして公人としての但馬の判断により、後先考えず情に流された私人としての感情よりも、井伊谷全体を考えた発言が優先されました。あの「風穴」はドラマ上は不意に訪れた一瞬として劇的に描かれましたが、政次の頭のなかには戦後の直虎の還俗は想定済みのシナリオだったと思います。そして当然のように直虎を城主に据え直し、自分はそれを支えると考えていた。もしかしたら直虎と他家の婚姻も調略の一環として考えていたかもしれません。だから一瞬の誘惑に打ち勝って、正しいと思える返答をしたのです。

 私はノベライズは2巻までしか読んでいませんが、政次の直虎に対する感情の温度はドラマよりは低めに描かれています。ノベライズの政次はあらゆる感情表現が抑制された、もっと冷たい感じのする人物で、突然後先考えずに行動するような人物ではありません。しかしドラマの政次はずっと表情豊かです。高橋一生さんがあさイチで言っていた「突然感情が爆発する沸点のようなもの」が、ノベライズより強調して描かれます。あの不思議な空間、雰囲気のなかで、ドラマ政次ならば、言えたような気もします。

 なつのことが頭にあったから言わなかったのかどうかはよくわかりません。私に分かったのは「政次は素直に城主として直虎の方がふさわしいという客観的判断を伝え、それが直虎には何よりのプレゼントだった」ということと「愛情の返戻が当然ないものと思い込み、すでにそれを期待もしていなかったので、言ってもせんないこととして言わなかった」という二点だけです。

 ただし、基本的には、この邂逅に至るまでの長い年月をかけて、政次の直虎に対する気持ちのうちの恋愛の割合は緩やかに下がっていき、それと反比例してなつに対する思いは緩やかに上がってきていたのだと思います。

 前エントリの冒頭に胸熱だと書いたのは、たとえおとわの前では遠慮がちで、自分の気持ちを全部はさらけ出せない鶴のままだったとしても、おとわとの関わり方を自分で決め、おとわ以外の女性との未来を思い描くところまで鶴がたどり着いたからです。それは、悲しく、痛い成長だったけれど、おとわを守らなければならないという使命感や、求めても得られないものを求め続けるという呪縛から鶴丸が自由になった瞬間でもありました。今後彼は何らかの形で井伊谷かおとわのために命を捨てるのだろうけれど、この時点でなつを選ぶことを見せることで、彼は囚われていたのではなく、自由だった、守りたいから、選びたいから、そうしたのだ、ということを描く布石になるのかな、と漠然と感じています。またなつや家臣や不自然なほど雄弁だった政次が、直虎には全てのことは言えなかったということは、それは後から伝えられて、おそらく直虎を苦しめる要素となるのではないかと思います。

  さて、最後に視聴者の視点です。私はノベライズ未読だったので、なつへのプロポーズには心底驚きました。まさかそこまでするとは。政次と直虎がありえないと気がついた日から、それでも何とか最後だけでも、と期待してきました。しかしそのルートが32話時点では塞がれたように思われるうえに、傷口に塩を塗るように、なつさんというストッパーが現れました。

 正直に言うと、政次には恋愛や性愛を含めた直虎へのはちきれんばかりの愛をハイテンションで最後まで維持してもらいたかった。そして直虎には男として政次を受け入れる度量を示してもらいたかったです。

 だから、あの奇跡のような一瞬の風穴を開けてもらったのに、それを自ら塞ぎに行く政次が歯がゆく、もどかしい思いがしました。しかしその穴は神の視点で見る我々には二度と来ない機会だった分かっているのに、自分で折り合いをつけた未来のルートが見えている政次にはそれが分かりません。作者は「もしも」の可能性を我々にだけ見せて、それを政次自身に塞がせざるをえないような状況をも同時に示しました。少なくとも可能性は見せてくれたことに感謝しつつも、政次自身が塞ぐことを選んだという状況を我々につきつけ、それを飲むように迫ってきているように思えます。

 これについて、現時点での考えを述べておきます。

 第一に、亀と鶴に現世での別の配偶者を与えることで、三人の結びつきは井伊谷を介した精神的なものであると印象づけるというものです。私は亀が帰参したとたんに別の人と結婚した展開に唖然とし、「ヒーロー役とのロマンティック・ラブを禁じ手としたところから始まるこのドラマ、面白い」とtweetしました。しかもその禁じ手を機に「止まっていた運命が動き出した」というナレーションが入るのです。これはこのドラマにおいて結婚や婚約はゴールではなく、ましては幸福を保証するものでもないことを示しています。実際、直親としのの結婚は幸せなものとは言えず、直親と直虎との夫婦約束も二度に渡って破れ、政次となつの結婚も結局は実現はしません。このドラマで重視されているのは、結婚していない直虎と直親、直虎と政次の関係です。

 第二に、不憫とされていた政次に現世の相手をあてがうことで、政次の不遇感を軽減し、この先直虎が龍を含めた別の男に向かうことに対する視聴者の嫌悪感を減らそうとしたのかな、と思います。

 第三に、政次も生身の男だと意識させることで最後の悲劇感を煽る作りなのかもしれないと思います。だったら直虎との夫婦約束でもよかったような気がしますが、直親のときと違い、今生の別れとは思っていない状況で、突然夫婦約束まで話を持っていくのは強引です。それに私の考えでは物語の構成上恋愛の筋は龍に振ってあるので、それとも矛盾します。

  徐々に明らかになりつつある、政次にとっての直虎、井伊、井伊谷。33話予告で龍が「あの人にとって井伊なあんたのこと」と言っていた、あれが解答の一端かと思います。しかしこんなに自由を費やしても、まだ書き足らない、書いていないことが多いドラマ、視聴者の人生も狂わせていますね。

『おんな城主直虎』32話「復活の火」①愛することは赦すこと、政次となつ

 さて、そもそもこのテーマについて書くために始めたブログ、自分の中ではやや苦手分野ではありますが、登場人物の関係や心理を中心に思うことを書いてみたいと思います。

  32話、初見では鋭い衝撃、再見ではボディーブローのような鈍い痛み、しばらく言葉を失い、そして鶴丸少年の顔が脳裏に浮かんで胸が焼けたように熱くなり、涙がこみ上げました。あのかわいい鶴丸少年、おとわの背中をひたすら追いかけ、井戸では枝をシャンシャンしながら慰め、時に叱咤し、見つめ続けてきた、賢く、まっすぐで、優しく、強い、私の愛しい愛しい鶴丸が、少年時代の思いにけじめをつけ、たとえ不完全で、弱く、愚かに見えても、自分の立ち位置を自分で決めてすっくと立ちあがったように思えたからです。

 政次となつのシーン、私の印象はこうです。なつに「徳川が攻めてくればすべてが終わり」と別れを示唆されたとき、政次は純粋に虚をつかれて、反射的に「それはいやだ」と思った。それがはっきりと表情に出ていたと思います。政次はもうずっと、ぼんやりとながらもなつの処遇を考えていたのだと思います。外面的には、世間から後ろ指をさされてでも自分に寄り添ってくれた人を、役目が終わったからといって放り出すわけにはいかない。父も兄も姉も甥も去ったなつを心細い境遇にはしておけない、と。

 内面的にはどうでしょうか。政次がなつに感じる感情の第一は安心です。政次はなつのまえでよく酒を飲んでいます。家での晩酌はプライベートな空間でリラックスしていることの象徴、それを共有しているということは、なつの前では仮面を脱いで素の自分を出してきたということです。最初からそうだったとは思いませんが、年月を重ねるうちに、だんだんそのようなうちとけた関係になってきたのでしょう。

 第二は信頼です。なつは政次のために何度も助け舟を出してきました。父の敵であり、獅子身中の虫である小野に自ら飛び込んできてもくれました。その信頼があるから、政次はなつに盗賊の逃走支援などの危険なミッションも託したのです。

 第三は暖かい家庭生活に感じる心地よさです。家に帰っても一人ではなく、元気な子どもの声が響き、心を込めて衣食の心配をしてくれる優しい女性がいる。それは家族の愛情に乏しかったと推測される政次にとって、手放すのが惜しいものだったに違いありません。

 さて、では信頼と安心と心地よさは、誰かと結婚するに十分な条件でしょうか。現在の感覚から言えばおそらく違うのでしょう。視聴者の違和感の根本もここにあると思います。古臭いクリシェで恐縮ですが、ロマンチック・ラブにおいては、性的欲求を通底として一対一の男女の間で結ばれる恋愛感情が結婚の前提になるべきだとされています。政次のなつへの気持ちには、この恋愛感情の温度は低いと思います。しかし私は高橋一生さんの演技から、それぞれの温度は低めでも、性的欲求、独占欲、美しい女性に惹かれる気持ちなど、現代の恋愛結婚の基準のしきい値をぎりぎり超えてくるものを感じることができました。それらは自覚的にセカンド・ベストを選ぶ諦めの気持ちではなく、なつへの積極的な気持ちだったと思います。これが第四の感情です。

 ではその第四の感情はその場で別れを切り出されたリアクションとして突然湧いてきたものなのでしょうか。私は違うと思います。その気持も、徐々に彼の中に育っていったものです。18話で駿府から肉球落雁のみやげを買ってきた時、政次はなつの喜ぶ顔を想像し、相手を思いやりながら選んだのだと思います。

 また25話でなつが抱きついたとき、私は政次がなつの手をきちんと触って、決して振りほどこうとしなかったことに驚きました。あれを「拒絶」だとは思えませんでした。それくらい優しい空気を少なくとも政次はまとっていたと思います。なつを傷つけたのは、政次と直虎との見えない絆を察知するなつ自身の感受性の強い心でした。

 では結婚を切り出すタイミングがなぜ今なのか、もっと早ければ、というのは本当にその通りです。それが男のエゴに見える一つの理由でしょう。しかしこれは純粋にドラマの構成上の都合だと思います。

 このように外面的だけではなく内面的な動機も持っている政次が、なぜ婚姻を「形だけのもの」と言ったのか、そしてその後の二人の抱擁はいかなる意味を持つのでしょうか。

 まず「形だけ」と提案したのは、なつが自分と実質的な夫婦になる、すなわち性的関係を結ぶことを望んでいるかどうか、政次には分からなかったからだと思います。ただでさえ人の気持ちには臆病な政次、まして相手は弟玄蕃の妻です。その遠慮を察したなつは、すぐさま行動に出ました。「義兄上をお慕いする」とはっきりと言葉で伝え、そして自分から政次に体を預けて、実質的な夫婦になりたいと意思表示をしたのです。政次が少し戸惑ったのは、「自分と実質的な夫婦になりたいと思ってくれているのか」と驚いたから、ぎこちなく手を添えるのは、おそるおそるもその気持に応えようという意思の表れだと思います。私は政次は、初めて自分の意思で、自分から、自分の好きな人に、自分だけのものになってほしいと告げることができたのだと思います。

 もちろん完璧な関係ではありません。自分の直虎に対する愛情が消えたわけではなく、直虎にぶつかって玉砕したわけでもない。そのことをなつに告げることで、なつを傷つけ、一生心理的な負担を背負わすことを強いたわけです。政次を責めることができるでしょうか。私にはできません。直虎を愛したことも、それが叶わなかったことも、それでも思いを消しされないことも、彼が計画したことではなかった。そしてなつに感じる信頼や低温の恋愛感情も事実で、さらに外面的にも何らかのけじめが必要とされている。政次は全てのカードをテーブルに置いて、フェアに勝負したと思います。

 そしてなつには選ぶ余地はありません。愛した人が、別の人を愛していて、でもその愛は事情があって成就しない。選択肢は2つ、その人を諦めるか、それとも別の人を愛する人をより大きな愛で包み込むか。後者は自分が彼と同じ次元に立ってはうまくいきません。同じ次元に立てば、しのと同じ苦しみが待っています。高次の愛を貫ける覚悟があればこそ、後者を選ぶことができる。究極の愛は、愛する対象が自分を愛するかどうかすら問わないもの。相手の欠点や罪をもなかったものとすること。愛は赦しです。私はなつはそれができる可能性のあった人だと思います。だから政次が選んだのです。

  そのような愛のリファレンスとして思いつくのは、河惣益巳『サラディナーサ』(白泉社)で主人公サーラがリカルドに言うプロポーズ「今でもレオンが一番好きで、ドン・ファンも好き。でも生きている人間ではお前が一番よ、それじゃダメなの?」(記憶をもとに書いているので逐語ではありません)。サーラの男たちに対する愛情をずっと見てきて、それでもサーラから離れることができないリカルドには、もちろん選ぶ余地などない。

  ちなみに『サラディナーサ』は16世紀のスペインとイギリスを舞台にフェリペ2世治世下の海戦を描いた歴史ドラマ。大河な上に歴史上の人物がたくさん出てきて、とっても勉強になるおすすめのマンガです。ぜひ!そして私に感想を語ってください。

  長くなりました。政次と直虎は別エントリーに分けます。

私の考察の基本姿勢

    まず私が物語(ドラマもあえて物語とします)を考察するときの基本的な視点を書きます。登場人物の物語内での関係性や行動の意図にはもちろん関心があります。そこに感動があってこそ、はじめて感想を書きたいという意欲が湧いてくるからです。しかしそれと同時に物語の構成や歴史・社会的背景、時には作者の意図など、いわゆるメタ的な視点にも興味があります。よって時にtwitter以上に堅く読みにくい文章になることがあるかもしれません。

 さらに私はパロディとかアナロジーにも興味があります。アナロジーとして参照するのは主に少女漫画、映画、英語圏のドラマ、18,9世紀あたりのイギリス小説になろうかと思います。イギリスにはわりと長く住んでいたので、第二の故郷のように親しみをもっています。

 

ブログ開設の経緯

   『おんな城主直虎』の感想をtwitterでつぶやいていて、その手軽さを気に入ってはいたのですが、分割ツイが増えてしまったこと、一つのパラグラフを140字以内に収める作業が時に苦痛だったこと、なにより自分の思考が140字で途切れることに忸怩たる思いを持っていました。

    当初は感想を眺めるためにtwitterを始めたに過ぎませんでしたが、気がつくと書くことがメインになっていました。ブログ開設、という考えは頭をかすめましたが、ブログにコミットするには私の日常は忙しすぎる気もして、二の足を踏んでいました。

 それでも31話までは何とか自分の考えを形にすることができていたように思いましたが、32話では失語症のようになってしまって、140字の分割の枠の中に考えを落とし込むことができませんでした。

   そこで、見切り発車でとりあえずブログをやってみることにしました。このブログのサブタイトルは「溢れる思いを、心ゆくまで」です。思いが溢れて長文でなければ表現できないと思った時に、制約なしで書きつくす、そのための場です。ですから一つのエントリーはとても長くなることが予想されます。

 さしあたり通常のつぶやきは今までどおりtwitterで、どうにも分割が難しいエントリーはブログに、としてみたいと思います。続ける自信はまったくありませんが、不定期に、自分にプレッシャーをかけずに試してみたいと思います。