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青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』33話~直虎と政次、非言語コミュニケーションの果て~

 衝撃のラストを向かえた33話、しかし二人の物語はまだ終わりではありません。政治以外の話の9割を本音と裏腹の言葉でしかコミュニケーションしかしてこなかった二人、あの「ハートに一突き」というアクションですべての言語を超えて一気に魂が結ばれてしまいましたが、その瞬間に比翼の翼の片方は折れてしまったのです。

 ここから、直虎はどこへ向かうのでしょう。私には、直虎が自分の気持ちを言語化してこなかったツケをこれから払うのではないかと思えてなりません。二人のコミュニケーションの歴史を紐解きつつ、残された直虎の状況を整理してみたいと思います。

 政次と直虎は、立場の上からも、また個人的な関係性においても、それがもう習い性になっているように、自分の気持ちを相手に素直に伝えることをしません。しかしそうなってしまった理由は大きく異なっています。

 

政次の場合

 政次から見ていきましょう。1話の鶴、子どもらしく元気はつらつとした聡い少年です。おとわと同じくらい表情豊かで、すべての感情が顔に出ます。竜宮小僧探しに嫌気がさしたときのムスッとしたふてくされた態度、亀のぽやっとした無邪気な表情と対照的でした。鶴は本来、こういう素直で活発で短気で物怖じしない、おとわと似たはっきりとした性格の少年でした。似ているからぶつかりあいます。おとわの欠点を遠慮なく指摘する鶴、何でも受け入れてくれるやさしい亀とはここでも対照的です。

 しかし家臣という立場と小野という家の性質が、だんだん鶴の行動や考えに影響を及ぼしていきます。自分はとわや亀とは違う身分だから一歩引かねば、小野の家のものだから疑われて当然。そのような考えや周囲の扱いが、鶴の中にとわや亀と同列でありたいと願う本来の自分と、家臣として小野として感情を殺して役割を演じる自分という二つの人格を作り上げていきました。

 政次が直虎に自分の気持ちを素直に言えない理由は、一つには直虎が自分に男として関心を持っていないということを幼いころから肌で感じているからです。自分の感情を相手に知ってほしくはないし、ダメだと分かっていてぶつける勇気もありません。何より家臣としてとわと亀の夫婦約束に納得し、トライする前からすでに諦めているのです。

 もう一つは直虎が選ぶ道が、自分との恋愛とは両立しないものばかりだったからです。次郎時代は亀のために出家しており、直虎になってからは敵、そして家臣として政治的な関係性になりました。そしておとわはいつでも自分が選んだ道で輝いていた。その輝きを奪うことは政次にはできなかったのです。

 しかし同時に政次は自分の思いを消し去ることもできませんでした。思いは形を変えつつどんどん膨らみ、とうとう生きる目的にまでなっていきました。

 ここで興味深いのは、政次の直虎に対する思いは、彼は何も語らないのに周囲には盛大にバレていたということです。おそらく最初に南渓和尚が気づき、次になつ、龍雲丸、もしかしたら寿桂尼や六左衛門にまで分かっていたかもしれません。なぜでしょうか。それは政次の直虎に対する気持ちは、本人の中でかなりはっきりと意識化されていたため、彼の行動に一貫性があったからです。もちろんその気持が恋なのかどうかはっきりしない部分もあったでしょう。しかし彼が直虎を大切に思い、彼女を守りたいと思っているということ、すなわち現代的な言葉で言えば「愛している」ということは、彼自身が完全に自覚しており、それは周囲にも透けて見えたのです。

 ですから32話でなつに問い詰められた時、立て板に水のようにそれが語られました。

うまく伝わらぬかもしれぬが…私は幼きときより、伸び伸びとふるまうおとわ様に憧れておったのだと思う。それは今も変わらぬ。殿をやっておられる殿が好きだ。身を挺してお助けしたいと思う。その気持を何かと比べることはできぬ。捨て去ることもできぬ。生涯消えることもあるまい。

 自分の思いを完全に自覚している政次はある意味では幸せでした。直虎からの覚悟と気持ちの返戻を一心にあびて、積年の願いが成就した最も幸せな瞬間に旅立ったのです。

 直虎の場合

 しかし直虎はどうでしょうか。思えばおとわは鶴に無関心な子どもでした。亀にだけ挨拶したり、鶴の気持ちに気づかず何度も残酷な言葉を浴びせたり…。鶴のことをよく知っているはずなのに、皆の竜宮小僧のはずなのに、「鶴の立場に立ってものを考えること」が確かに少なかったと思います。

 この直虎の政次に対する一貫した無関心さには、常々疑問を感じていました。なぜ他の人にはあんなに興味津々な直虎が親しいはずの政次にこれほど無頓着なのか。もしかすると意識的にそのように描いているのか、だとしたらその意図は何なのか。

 33話で政次が牢から出ないと龍雲丸に聞かされて、直虎は次のように述べます。

 忌み嫌われるために生まれてくるなど、そんなふざげた話があるか。お前に何が分かる。政次は幼い頃から、家に振り回され、踏み潰され、それの、それの何が本懐じゃ。

  ここに至って、まだ直虎は政次の意図が分かりません。他の人には透明なヴェールのように透けて見える政次の気持ちが、「比翼の翼」の片方たる当の直虎には全く分かっていないのです。

 あの人の言う井伊ってのは、あんたのことなんだよ。…あんたを守ることを選んだんだ。だから本懐だって言うんでさ。

そこまではっきり言ってもらって、ようやく何かを理解する直虎。それでも

頼んだ覚えなどない。守ってくれなどと頼んだ覚えは一度もない

と反発して混乱する。しかしその後南渓に

誰よりもあやつのことがわかるのは、そなたじゃろ、答えはそなたにしかわからぬのではないか。

と言われ、熟慮、そして一挙に二人の真骨頂、最後のエア碁シーンに突入します。離れているのにお互いに思い出すシーンは「我をうまく使え、我もそなたをうまく使う」。そしてもはや盤面すらもなく、一つの白い石のみで決する最後の手が描かれます。

 この二人の非言語のシンクロ感と、言語コミュニケーションのレベルの徹底した齟齬、ここまでくると、意図的でないと考えるほうが逆に違和感があるように思えます。

 

直虎の愛情が言語化されないことで何が起こるのか

  そこでこれが意図的であると仮定して、どのようしてにそうなっていったか、そしてこれからどうなるのかを考えてみたいと思います。

 直虎は政次への思いを言語化してこなかったし、それ故に意識化もしてきませんでした。そもそも12話までは、幼馴染として親しみは感じていたでしょうが、興味が引かれる対象ではなかったのでしょう。亀という太陽のような分かりやすい輝きにかき消されて、月のささやかな光は直虎の目に入ることはありませんでした。

 それが12話で、嫌でも視界に入れざるをえない存在になります。敵であるとはいえ、直親なきいま、政次が政次としてピンで直虎の前に立ったのです。直虎の最初の感情は強い憎しみと反発でした。当時私は直虎がよく知っているはずの鶴の本当の心を探ろうともしなかったことに少し落胆し、鶴は本当に不憫だと思ったものです。

 18話以降は理解と共闘でした。誤解はとけましたが、18話の井戸での会話もお互いの気持ちに関する内容はなく、表面的には非常にミニマルでビジネスライクなものでした。しかし言語化されない部分で二人の絆は水面下で確実に強まっていったのです。

 18話以降、二人は碁を通じてテレパシーのような特殊な通信方法を確立させていきます。そもそも碁で分かり合う、という行為が言語的理解を避ける装置のようにも思えます。物言わず互いの次の一手を探り合う、そうした行為を続けるうちに、二人はあるレベルでは完全に分かり合っているのに、別のレベルでは全く分かりあっていないといういびつな関係性を作り上げました。ですから囲碁の次の一手は完全にシンクロするのに、政次は頼んでもいないのに直虎を守ろうとするし、直虎は政次の自分に対する愛情に全く気づかないのです。(補足すると、言語レベルで分かり合えていないから、31話で他人の疑いの言葉に心が揺れたのですね。でもそれはまた別の話)。

 そして刑場という切羽詰まった究極の場面において、言葉の相互理解ができないまま、二人は史上最高の一手で通じ合ってしまいました。

 

<悲哀>と<メランコリー>

 直虎は、政次の生前、彼に対する思いを分節化して言語化してきませんでした。ですから政次が死んだ時、本当に何を亡くしたのかが分かっていなかったのではないかと思います。

 これは直親を亡くした時とは対照的です。直虎は直親への自分の思いを完全に理解していましたから、衝撃は大きくとも、少なくとも何を亡くしたかは分かっていました。

 少し堅い話で恐縮ですが、フロイトは『悲哀とメランコリー』において、(簡単に言うと)<悲哀>とは亡くした対象が明確で、それを亡くした時に示す正常な反応であり、悲哀の作業が終われば再び自由になるもの、<メランコリー>とは誰を失ったかは分かっていても、その人の何を失ったかは分かっていない状態で、すなわち意識されない対象喪失であり、しばしば自我意識の低下や自己非難を招くとしています。

 

すなわち

 

  • 直親の死に対する反応 = 悲哀(grief)→ 自由になって城主に 

 

  • 政次の死に対する反応 = メランコリー →❓(今後の展開)

 

  おそらくは今後は直親の死よりも深く苦しい時期が待っているのではないでしょうか。直虎にとって今後必要なのは、政次とは自分にとっていったい何だったか、政次の何を失ったのかを意識化することです。そのためには言語化しなければなりません。政次が自分にとってどういう存在だったかを語るという生前してこなかった作業を、誰かの力を借りてでも、やらなければならないのです。それしか彼女が立ち直る道はありません。

 幸いにも政次の思いについてはなつや龍雲丸といった証人もいます。どのような言葉が語られるのか私は全く知りませんが、いち視聴者として、直虎にはぜひ政次について考え、自分の思いを明確にしてほしいと思います。

 

さらなる妄想

 さて、ここまでが「直虎に意識的に政次について語らせてこなかったのでは」という仮説に基づいた私なりの推測です。いつものように単なる妄想かもしれませんので、当てはまっていなくても笑って許してください。

 ついでに一つ、さらなる妄言を吐きます。<メランコリー>は、エディプス的な関係に当てはまらない関係に起こるという説があります。エディプス・コンプレックスというのは息子が父を殺して母を得たいという欲望のことです。これが満たされないと<悲哀(grief)>が起こります。しかしそうではない関係、例えば娘が父を殺して母を得たいというような同性愛的な関係において、この欲望は正当化されないので言語化できない、すなわち語ることができず沈黙しなければならない。これが満たされないと<メランコリー>が起きるとされます。ですから政次と直虎の関係は、実は母と娘の関係に近いのかもしれないと密かに思ったりもしています。

 それでは34話、楽しみに待ちましょう。実はさらにトンデモな妄想解釈を33話についてもう一つ書きたいのですが、なかなか筆が進まず…。がんばります。