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青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』33話~政次の死にみる「イエス受難」のアナロジー~

はじめに~政次の死とイエスの死のパラレル構造~ 

 33話のラストで磔の刑に処される政次を見て、イエス・キリストの十字架の上での死に重ね合わせた方は多かったのではないでしょうか。私も政次の死には「イエスの受難」物語からの引用が多数散りばめられていると感じました。ただしそれは磔や槍といったビジュアル面での模倣だけではなく、もう少し深い意図があっての引用だったのではないかと思います。そしてその「意図」があったからこそ、諸説ある政次の処刑方法のうちで「磔」説が採用されたのではないか、さらに言えば、イエスの死がもつ意味に触発されて、『直虎』における政次の死の意味が形作られていったのではないか、と考えるようになりました。そこでこのエントリでは、どのような引用があったか、そしてなぜが行われたのかということについて考察してみたいと思います。

 よくご存知の方には蛇足かもしれませんが、最初にイエスとその受難(Passion of the Christ)について、概要を説明しておきます。イエスは約2050年前頃に現在のイスラエル北部に生まれたユダヤ人で、30歳頃から地方でユダヤ教に根ざしつつも、ユダヤ教形式主義権威主義に異を唱えて独自の宣教活動をはじめました。そしてついに南部の首都エルサレムに入城し、信奉者を増やして、ユダヤ教権威主義の指導者に妬みや脅威の対象として敵視されるようになります。当時エルサレムローマ帝国支配下にありました。ユダヤ教権威主義者は反逆罪でイエスを逮捕し、不当に裁判し、暴行し、ローマ帝国総督に引き渡しました。総督はイエスが無実であることを知りながらも死刑執行を黙認、イエスは十字架に架けられます。その後彼はキリストとして復活し、それを目撃した使徒たちによってキリスト教の世界的な布教が始まるのです。

 「受難」とはイエスエルサレム入城から処刑までの短期間の出来事を指します。この「受難」の過程が、31話に政次が井伊谷に城主として入城し、33話で処刑されるまでの出来事に非常によく対応しています。ですから私の説明は33話からではなく31話に遡って始まります。

 本題に入る前に3つのお断りをしておきます。第一に、このエントリは宗教・神学そのものについて論じる意図はありません。第二にイエスの位置づけは宗教によって異なりますが、ここでは広い意味でのキリスト教の世界観に従って論じます。第三にキリスト教世界ではイエス・キリストは三位一体の神と考えられていますが、政次は人間ですので、あくまで話の構造上の類似点を指摘するに留めます。

 今回のエントリは長くなりそうですので、最初に結論を述べておきます。私はこのドラマが「イエス受難」を引用した意図は、政次の死が「一つの命で多くの命を贖う」「一つの究極の犠牲で、すべての人の罪を予め償う」という意味をもつものであると強調するためだったと考えます。

    そのヒントは政次の「おそらく、私はこのために生まれてきたのだ」という台詞にあります。これは「忌み嫌われるために生まれてきた」という意味ではなく、「忌み嫌われて、恨みを一身に引受け、罪人として死ぬことで、愛する井伊谷のすべての人の命を救い、恨みの連鎖を断ち切り、さらには罪を犯すたびに犠牲を払い続ける(=井伊谷で失策があるたびに犠牲者を出す)という悪循環を終わりにする」という意味でした。

    キリスト教の世界では「(罪はないのに)罪人として裁かれることで犠牲の連鎖を断ち切り、すべての人の罪を許す」ことこそ、イエス・キリストがこの世に生を受けた理由であったと考えられています。そしてよく知られたこの『聖書』の描写を引用することで、政次の死の必然性や運命性がより浮き彫りになるのです。

 私の仮説では、『直虎』とイエス受難物語の登場人物は次のように対応します。

『直虎』

「イエス受難」

政次

エス

直虎

ペテロ(31話)、マリア、イエス(33話)

家康

ポンテオ・ピラト

近藤

イスカリオテのユダカヤパ

直之

トマス

  政次はイエス、直虎は使徒の一人ペテロ(31話)、マグダラのマリアかイエス(33話)、家康はローマ帝国総督ポンテオ・ピラト、近藤は一番分かりやすいのはイスカリオテのユダ、ただしユダヤ教の大祭司カヤパの要素もあり、脇役として直之は使徒の一人トマス、龍雲丸はメッセンジャー役ですからキリスト教世界で言うところの天使のような役どころです。

 

31話「虎松の首」~試される信頼~

 33話がクライマックスとすれば、31話はそれに向けての序章でした。この回では直虎の政次に対する信頼が試され、直虎が疑いに苛まれる様子が描かれました。

    冒頭で農民たちの嘆願を見て一つの策を思いついた政次、直虎に刀を向け「俺を信じろ、おとわ」と語りかけます。

  「信じろ」とはどういう意味でしょうか。信じることは、目に見えないものを確信すること。それはイエスのメッセージでもあります。物質的な生贄や目に見える戒律で人間生活を縛る(とイエスが考えた)ユダヤ教に対するアンチテーゼです。しかしあまつさえ刀を向けられて、なお目に見えないものを信じるのは人間にとっては困難なことです。

 それでも直虎は一度は信じました。政次の策に乗って徳政令を受け入れます。しかし隠し里で直之に「それも含めて騙されているのでは」と揺さぶりをかけられます。直之は熱くまっすぐな人物ですが、目に見えることしか信じません。私は直之は十二使徒の一人トマスのようだと思いました。トマスはイエスが復活したことを他の弟子に聞きますが、実際にその目で見るまでそれを信じませんでした。そのことから「疑いトマス」と呼ばれています。

 直之に言われて、直虎の胸に疑念がわきます。あれほど信じあい、通じ合っていたのに、政次が表面的に演じる分かりやすい芝居に騙されてしまいます。それがよく表されているのが、龍潭寺で座禅しながら夜を明かす場面です。疑念で落ち着かず、思わず不信感を表す声をあげてしまいます。その時、鶏が鬨の声を告げるのです。

 この場面はイエスの弟子のペテロがイエスを否認した場面に重なります。イエスの一番弟子を自認していたペテロは「最後の晩餐」の際にイエスに「あなたは今日、鶏が鳴く前に三度私を否む」と予言されます。それを自信満々に否定したペテロですが、イエスが捕らえられた夜、ペテロは追い詰められて「イエスのことなど知らない」と否認してしまいます。そして予言どおり夜明けに鶏が鳴き、それを聞いたペテロは自分が犯した過ちの大きさに打ちのめされ、涙するのです。

 この場面は、『直虎』では直虎が名も知れぬ子の首をかき抱いて号泣するシーンで再現されます。あの涙はもちろん子どもを供養するための涙でしたが、同時に政次に負わせた業と、政次を疑ったことへの後悔に対する涙でもありました。

 ペテロはイエスの死後、信仰心を強めます。あの過ちがあったからこそ、後に岩のようだと言われた彼の固い信仰心が生まれたのです。そして最後には壮絶な殉教をとげます。

 私は31話を最初に見た時、この期に及んでまだ政次を疑う直虎の行動に疑問を感じました。しかし33話を見た後では、このエピソードが是非とも必要であったことが分かります。直虎が岩のように揺るがない信頼を基盤に「我はもう騙されぬぞ」と言うため、そしての政次の演技や悪態に惑わされることなく、目に見えないものを頼りにラストのあの行動に行き着くためには、最終テストのようなこのプロセスが必要だったのです。

 32話「復活の火」~政次とイエス、それぞれの入城~

 32話では主として武田・今川・徳川の歴史的事件の進行と、政虎なつの人間関係に焦点があてられました。イエスの物語からの引用はそれほど多いとは思いませんでしたが、それでも次の三点については指摘しておきたいと思います。

 一点目は、政次が井伊谷城に「主」として入城したことです。政次は井伊谷の王として、そしてイエスエルサレムに精神世界における王として入城します。どちらも華々しい入城ではありませんでした。政次は打ち捨てられ広間に一人孤独に、そしてイエスは貧相なロバに乗って、それぞれの人生の終局の舞台へと上がっていくのです。

 二点目は、政次が家臣に自分の意図を語り、小野家と自分が何者かを明かしたシーンです。一段高いプラットフォームから話す演説のような構図、関口の家臣に語りかけると見せかけて実は視聴者に「そなたらはどうする(俺についてくるか)」と語りかける劇的なアングル。それはまるで『マルコ書』9章に出てくる、イエスが弟子に正体を明かし、これから起こる苦難を前に弟子に希望を与える、いわゆる「イエスの変容」の場面を思い起こさせました。

 三点目、そしておそらくこれが最も重要な点なのですが、それは、政次、近藤、徳川の関係が、イエスユダヤ系の敵対勢力(ユダ、あるいはユダヤ教権威主義者)、ローマ帝国にそれぞれ対応するという構図が示されたことです。どちらも政治的に見れば、同じ側につく者同士の内部抗争に、支配勢力の思惑(あるいは無関心)が絡むという図式になっています。これによって政次の処刑は政治的な構造においてもイエスの処刑と同じであるということが示されました。クライマックスに向けての役者と舞台が整ったのです。

 33話「嫌われ政次の一生」~死によって贖われるもの~

 近藤=イスカリオテのユダ

  32話のラストで、近藤が過去の恨みを根に持って井伊を陥れるための策をめぐらしたことが示されました。近藤とは誰でしょうか。12話で政次が井伊谷に帰還した時、付き従うように今川からやってきた井伊谷三人衆の一人、すなわちもとは政次サイドの人間です。私が近藤がユダかもしれないと考える理由はここにあります。

 ユダがイエスを裏切った理由は古来から色々と推測されてきました。嫉妬、不信、金銭欲、なかには独占欲などといったBL的な解釈まであります。しかしイエスはユダの裏切りを予言していました。それを知りつつ、ユダが裏切るのを許したのです。なぜならユダには裏切るという役目があったのです。裏切りがなければ、イエスの逮捕も処刑もありませんでした。そしてイエスは処刑されなければならなかったのです。

 私には近藤の裏切りは、ユダの裏切りと同じように思えます。近藤は政次をなぜ陥れたのでしょう。材木の件の恨み、政次に対するコンプレックス、領地拡大の好機、理由は様々にあることでしょう。近藤は近藤の論理で生きてきて、目の前の邪魔な人間を追い落とすのに絶好の機会がやってきた。そして彼はその機会を掴まなければならなかった。それが「世の習い」だからです。この物語ではたまたま近藤に裏切る役割が与えられていますが、彼でなければ別の誰かが裏切ったことでしょう。小野が世間を欺いてきたことによる恨みの蓄積は、どこかでブーメランのように跳ね返ってきていたはずです。そして政次は小野の負債と井伊の負債を返す役割が自分にはあると考えたのです。

 

家康=ポンテオ・ピラト

 近藤は「井伊の裏切り」について家康に讒言し、小野但馬を反逆者として断罪するように進言します。家康は近藤の説明の胡散臭さに気づき、これは仕組まれた罠ではないかと推測します。しかし武田からの出兵の催促というより優先順位の高い急務を前に、井伊の再興という望みを無視し、政次が謀反人として断罪されるのを見て見ぬふりをすることに決めます。

 これはポンテオ・ピラトのイエスの裁判への関わり方によく似ています。ポンテオ・ピラトイスラエルを植民地として支配するローマ帝国の総督でした。イエスとユダ、あるいはユダヤ教権威主義者との対立は、彼にとってはユダヤ人同士の内部抗争に過ぎません。彼にとっての優先事項は、できるだけ事態を大きくしないように揉め事を収めることでした。

 ピラトもイエスに罪を認めることはできませんでしたが(しかも彼の妻もイエスを赦すように進言しましたが)、自分の立場が悪くならないように、イエスの運命をユダヤ人の手に委ねてしまいました。罪はないと認められながら支配権力に見殺しにされる。これは「イエス受難」物語の大きな構造的ポイントで、『直虎』では家康をうまく使いながら政次についての構造の類似性をよく描いていたと思います。

 

政次=イエス

 直虎が牢に入れられたと聞いた政次は、一人井戸にやってきます。この井戸は祈りの場です。橘の木が生い茂る井戸の回りの風景は、外界から隔絶された楽園のようで、そこはかとなく異国情緒すら漂う不思議な空間です。それはイエスが毎晩一人で祈りを捧げた、オリーブが生い茂るゲツセマネの園を思い起こさせます。橘もオリーブも常緑木、私はかなりの確率で、この井戸はそもそもゲツセマネの園を想定して作られたものだと思います。

 この井戸で、白い碁石を見つめながら政次は自分の身を差し出すことを考えます。イエスも処刑の前夜、ゲツセマネの園で祈りました。人間でもあったイエスは十字架刑にかけられて死ぬことの苦悩について悲しみもだえます。そして主に「み心なら、この杯を私から取り除けてください、しかし私の願いではなく、み心のままに」と祈ります。そしてとうとう自分に打ち勝ち、自ら逮捕されるために山を降りるのです。

 イエスの苦しみに比べて、政次の決意はずいぶんあっさりとした印象でした。思えば井伊谷の面々は自分の死を前にして淡々としている人が多かった。33話で井戸端で苦しみながら朝まで祈り続けたのはむしろ直虎でした。

 政次は白い碁石を手に、捕らえられるために近藤を襲います。明確な謀反の行動をとり、自分が罪人として罰せられる必然的状況を作りました。直虎と再開した時はすでに捕らえられ、ひどい暴力を受けた後でした。特に顔を豪打されたことがアザや血糊から分かります。『マタイ書』でも、イエスは捕らえられ、裁判にかけられたのち、葦の棒で頭部を何度も殴られたとあります。

 そして処刑当日、政次が牢を出て、足を引きずりながら刑場に向かって歩くシーン、十字架こそかついではいませんが、重傷のイエスゴルゴダの丘に向かって歩く場面を彷彿とさせます。処刑シーンそのものについては、「イエス受難」関連の芸術作品との類似性は他にも指摘がありますので、ここでは言及はしません。

 むしろここでは、政次の死がもつ意味の重要性に焦点をあてて考えてみたいと思います。政次は獄中で龍雲丸と次のような会話をします。

政次「殿や俺は逃げればよいかもしれぬ。しかし恨みが晴れなければ、隠し里や寺、虎松様、民百姓、何をどうされるか分からぬ。そして、井伊にはそれを守りきれるだけの兵はおらぬ。俺一人の首で済ますのが最も血が流れぬ。」

 

 龍雲丸「だいたい、あんたそれでいいのかよ。このまま行きゃあ、あんたは井伊を乗っ取ったあげく、罪人として裁かれるってことだろ。悔しくねえのかよ。井伊のためにって、あんなに、誰よりも、駆けずり回ってたのはあんたじゃねえかよ。」

 

政次「それこそが小野の本懐だからな。忌み嫌われ、井伊の仇となる。恐らく、私はこのため生まれてきたのだ。」

 

そしてBGMとしてグレゴリオ聖歌のレクイエムのような音楽が流れるのです。

 政次はここではっきりと、自分一人の命で井伊全体の命を救いたい、そして自分が罪人として死ぬことで恨みの連鎖を断ち切りたいという意図を述べています。小野は井伊のために汚れ役を引受け、その命脈を保ってきました。井伊が生き伸びるために犯さなければならなかった罪を、小野が一身に引き受けてきたのです。そしてたとえ井伊のために犯した罪であっても、それを背負って死ぬことで、罰が井伊全体に及ぶことを避けることこそが、彼の本懐だったのです。「本懐」とは「本来の望み」という意味です。政次が「私はこのために生まれてきた」というときの「このため」とは「嫌われる」ということだけではなく、「その罪を贖う」ということまで含まれると私は考えます。

 政次の死とパラレルになっているイエスの死の意味についても整理してみます。バビロン捕囚以後、何千年にも渡って流浪と植民地支配に苦しんできたイスラエルの民には、『旧約聖書』の時代から、いつか救世主が現れ、彼が罪を贖って民を救うという預言が与えられていました。

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(『旧約聖書』「イザヤ書」53:5,6)

 イエスの出現は、その預言の成就と言われています。ですからイエスは、自分がユダヤ人の罪を背負い、罪人として処刑される運命にあることを早くから知っていました。

 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである(『新約聖書』「マルコ書」10:45)

 『旧約聖書』の時代、ユダヤ教においては、罪を償うために生贄を捧げる習慣がありました。イエスは何か罪が犯される度にその代償として血が流されるという掟に終止符をうち、自分が究極の犠牲となることで、全ての人の罪を予め償ったのです。

    政次の意図はおそらくこれと同じようなものだと思います。自分が何よりも愛した井伊の過去と現在、そして未来のために自分が究極の犠牲を払うこと、これこそが彼の「本懐」だったのです。

 

直虎=マグダラのマリア→イエス

 最後に直虎について考えてみます。私は33話の直虎は、処刑場に居合わせて政次の死を見届ける女性という意味で、最初はマグダラのマリアではないかと思いました。しかし徐々に、直虎もまたイエスなのではないかと考えるようになりました。

 話題になった「槍で一突き」のシーンですが、ノベライズとは展開が異なっているそうです。ノベライズでは直虎は処刑場に行かず、しかも槍で殺したりはしなかった。私はこれまでの直虎の人物造形、そして物語の構造を考えた時、ノベライズの方がむしろ納得できると考えている少数派です。

    補足説明すると、「あの二人は二人で一人」という南渓の言葉をそのまま受け取り、<直虎=政次>であると考えると、槍で突いても、処刑場に行かなくても、直虎が本質的に向き合わなければならない課題はそれほど変わらなかったということです。

    大きな影響を受けたのは政次の気持ちの方でしょう。政次は白い碁石を持って近藤を襲いました。その時点では二度と直虎と連絡が取れるとは思っていなかったのです。龍雲丸が訪ねたのは予想外の出来事でしたから、彼の生前に白い碁石が直虎のもとに戻ったのは偶然の成り行きでした。ということは、政次は直虎に最後の一手を期待していたわけではなかったのです。すなわち、直虎が何をしようとも、政次の最後の一手は決まっており、それ自体を「今さら」直虎がどうにかすることはできなかったのです。

    私は脚本家はもともとはノベライズの展開でいこうと考えていて、途中から物語の根本構造を変えずに、政次が少しでも報われるように「槍で一突きの」展開に変えたのではないかと思っています。

    なぜ「槍で一突き」は政次にとっては僥倖で、直虎にとっては(もちろん影響はありましたが)根本的な変化ではなかったのでしょうか。

    政次の視点から見ると、まず期待していなかったのに刑場で最後にもう一度直虎に会うことができました。最後の言葉を交わすことができ、しかも自分の愛する人に「送って」もらうことができました。刑の苦痛は和らぎ、さらには直虎からの返戻の気持ちすら生前に受け取ることすらできたのです。

    もちろん直虎の方も、刑場に行くことすらしないという受け身で混乱した(らしい)ノベライズの展開と比べて、政次を殺す覚悟を見せたドラマの展開の方が、より城主としての成長を印象づけるものでした。政次を有効に使い、近藤に、そして徳川に対して、井伊に謀反の意図がないこと、謀反人はきちんと処罰されたことを印象づけることができました。何よりもテレビドラマ史上に残る名シーンが生み出されたことの意義は大きいと思います。

    しかし直虎の本質的な部分を考えると、「政次が誰によってどのように殺されたか」ということより、「政次が自分を含めた井伊の人々の罪を背負って死んだ」という事実そのものの方が重要です。

    「二人が一人」であるなら、直虎にとってはあの日、もう一人の自分が死んだ(殺した、あるいは殺されるのを為す術もなくそのままにした)のです。

    ここでイエスに話を戻します。イエスは処刑の3日後にキリストとして復活し、マグダラのマリアの前に姿を現します。「キリストの復活によってすべての人は生きる」とするのがキリスト教信仰告白の中心をなす教義です。

    政次はメシアではなく人間ですから、復活することはできません。しかし彼には半身たる直虎がいます。政次は直虎を通じて復活することができる、これが二人が「半身」であることの設定上の肝なのではないかと私は思っています。

    『直虎』のオープニングでは、椿の花が槍で打たれて死に絶える様と、その後に新たな芽吹きが起こり、まるで復活のように緑が蘇っていく様が描かれています。この椿は<政次=直虎>だと思います。だとすれば、今後は復活した政次を抱え込んだ直虎が、井伊を再び芽吹かせる様子が描かるのではないでしょうか。

    しかし今後、堀川城や武田による井伊焼き討ちなどのさらなる苦難が待っています。イエスも生前エルサレムの陥落を予言しました。そこから直虎がどのように立ち上がるか、その時彼女の中の政次はどのような役割を果たすのか、その点に注目して見ていきたいと思います。