Aono's Quill Pen

青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』34話 二つの悲劇の交差点~直虎はなぜ<政次の死>を悼まないのか~

二つの悲劇

    34話では、政次を失った後の直虎の悲しみと、気賀における民の殺戮という、静と動、個人と集団の二つの悲劇が同時並行に語られました。二つの悲劇は最後の直虎の幻想で交差し、来週の動きへとつながる予兆で話は終わります。

    この二つの筋には、相互に関連性がないわけではありませんが、それぞれ独自の意味や役割があります。そのためそれぞれを別々の観点から論じる必要があると思います。本エントリでは、まず気賀に何が起こったか、次に直虎の心に何が起こったかについて考察します。最後にこの二つが出会う地点についても少し触れておきたいと思います。

 

1.  気賀で何が起こったか

 今回、主人公である直虎は気賀で起こる歴史上の事件に直接的には関わりません。政次の死の衝撃で心身が正常に機能しておらず、気賀の動きに目を配ることができなかったからです。通常の直虎ならば、縁のある気賀の危機を黙って見過ごすようなことはしなかったでしょう。身の危険も顧みず、とりあえず気賀に飛んで行っていたに違いありません。しかし今回の直虎には、あえてそれができないような設定上の足かせがはめられています。この脚本が、直虎が気賀に直接関わることができないような客観的な状況(心神喪失で機能停止)をあえて作り出したのだと考えるのが自然ではないでしょうか。

    なぜそのようにしたのかというと、第一に、直虎を気賀に関わらせないことを通じて、井伊と気賀の状況を対比させるため、第二に、政次の死と気賀の悲劇の時系列をあえて逆にすることで、直虎がまず政次の死を経験し、その後に気賀の悲劇に対応するという順序にしたかったためではないかと思います。

 まず井伊と気賀の対比について考えてみます。私はこのドラマが、小野但馬による井伊谷城乗っ取り、徳川の侵攻、堀川城の虐殺、小野但馬の処刑をどのように関連させて描くのか、以前から興味を持っていました。史実では、小野但馬は井伊谷三人衆に井伊城を追われた後、しばらく近くに隠れていましたが、おりから堀川攻めにやってきた徳川勢に見つかり、捉えられ、堀川城虐殺の後に処刑されます。小野但馬の井伊谷城を乗っ取りが1568年11月、井伊谷三人衆の襲撃が同年12月13日、堀川城の悲劇が翌1569年3月27日、小野但馬処刑が同年4月7日ですから、実際の小野但馬は井伊谷城を追われたあと、堀川の虐殺を横目で見つつ、5ヶ月近くも生き延びたことになります。城を追われてコソコソ隠れた挙句、捕まって処刑。これでは単なる逃亡犯ですから、これをそのままドラマに描いては、政次の死にヒロイズムや正当性を見出すことは難しかったでしょう。

 この難題を解決するために、ドラマは大胆に政次の処刑を12月13日の井伊谷三人衆の襲撃のすぐ後に設定しました。そうすることで、徳川の遠州侵攻の流れを、前期(12月の井伊谷編)と後期(3月の気賀編)分け、それを対比させて描くことができたのです。すなわち①「政次の死で救われる井伊谷」と「方久の遁走で滅ぼされる気賀」の対比、②「名前の残る一人の死」と「名前の残らない多数の死」の対比です。

    ①の対比とはどのようなものだったのでしょうか。33話で政次は、牢から逃亡する意志がないことを龍雲丸に告げた際、次のように述べました。

「殿や俺は逃げればよいかもしれぬ。しかし恨みが晴れなければ、隠し里や寺、虎松様、民百姓、何をどうされるか分からぬ。そして、井伊にはそれを守りきれるだけの兵はおらぬ。俺一人の首で済ますのが最も血が流れぬ。」

政次は「恨みが晴れなければ」という一点にこだわり、禍根の根本を正確に見定めて、それを断ったのです。

  今回の徳川勢による気賀攻めは、前回の井伊谷襲撃と構造的に非常に似通っていました。どちらもリーダーは直接決断せず、実働部隊が独断で鉄の制裁を加えるのです。徳川家康は気賀の民を救うという温情策を示しましたが、実行部隊である酒井忠次は大沢が容易い相手ではないと見定め、「見せしめ」が必要だと考えました。井伊での見せしめは城主たる「政次の首」でしたが、城主が逃げてしまった気賀での見せしめは無実の「民の命」です。

 あえて似たような構造のエピソードを続けて見せることで、この二つの事件が似たような経緯からスタートしたにも関わらず、結果は大きく異なってしまったことを対比的に示します。その違いとは、その地を命に代えても守ろうとするリーダーの働きがあったかなかったかでした。

 井伊の場合は、南渓和尚が近藤に「これ以上のお咎めなし」という言質を取ったことで、近藤の恨みが晴れ、城をとった近藤は目的が達せられたことがはっきりしました。それは政次の死が「一つの命で多数の命を救い、将来の禍根の根をも断つ」ものであったことの証左でした。

 しかし気賀の場合、商人である方九も中村屋も気賀の地に代々の封建領主ほどの思い入れはありません。自分の命が危うければ逃げますし、何よりも実利が優先です。逃げられる手段をもった人はよいでしょう。しかしそれを持たない民はなぶり殺しにあうしかないのです。政次が「俺や殿は逃げればよいかもしれぬ」と言ったことの重みが改めて思い起こされます。

 しかしこのドラマは決して武士の論理を称賛しているわけではありません。むしろ②の対比において描かれる「名前の残らない多数の死」こそが、このドラマが描きたい「戦」の姿なのです。大多数の無名の民にとっては、戦とは、大義名分などとは無関係で、厄災のように巻き込まれ、意味なく死んでいくようなものなのです。

 気賀(堀川城)の戦いは、「士郷や農民が今川方について徳川方に抵抗した一揆」であるとする解釈が一般的ですが、このドラマでは農民は今川方に無理やり駆り出され、閉じ込められたという解釈をとりました。たしかに武士とは本来利害が一致しない末端の農民までが、支配されていた今川方に自発的につき従って武装・徹底抗戦するとは考えにくいと思います。ここでは龍雲党を含めた民は今川にも徳川にも利用され、裏切られ、見殺しにされた存在として描かれます。

    中世までの武士同士の戦は、名乗りをあげ、対戦する相手が誰かが分かったうえで、お互いの名誉をかけて争います。しかし近代の戦争は殺傷の力の高い武器による大量虐殺が主流です。そこでは名乗りもなければ名誉もない、死に意味など見出しようもありません。

 気賀の民は、まるでこうした近代戦に駆り出された無名戦士のようでした。徳川勢は大量破壊兵器こそ持っていませんが、農民は非武装、戦力の差は圧倒的です。

    無名戦士(市民)の死に私たちが感情移入するためには、私たちがその市民のストーリーを個人的に知っていなければなりません。「よく知っている市民」の役割を果たしたのがここでは龍雲党のメンバーでした。私たちが彼らの死を酷いと感じるのは、私たちが彼らの性格、歴史、願いなどを多少なりともこれまで見てきたからでしょう。統計が物語になるのはこのような瞬間です。

    気賀城の悲劇は、こうした理由から井伊谷と対比され、<リーダーの欠如>と<大国に踏みにじられる民の悲劇性>が強調して描かれました。直虎はその大半に関わることができませんでしたが、もはや裾を踏んで止めてくれる政次もいないなか、虐殺に加担も巻き込まれもしなかったことは彼女にとっては幸いでした。しかし主人公はいつまでも歴史の流れに無関係に立ち止まっているわけにはいきません。直虎と気賀が筋がクロスする地点が、あの劇的な夢の中の龍雲丸の刺殺のシーンなのです。

 

2.直虎に何が起こったか

 直虎は政次を「槍」で「突き殺し」たあと、一時的で選択的な記憶喪失になります。その後「政次の辞世」をきっかけに「正気に戻り」、直後に龍雲丸を「槍で突き殺す」という夢を見ます。

 この一連の出来事には「槍(武器)」「殺し」「否認」「夢」などといった精神分析学的なキーワードがちりばめられています。私は最初それらをなるべく見ないようにして、できれば「実際に起こったこと」のレベルだけで考察したいと思っていました。しかしその試みはあまりうまくいきませんでした。なぜならそのアプローチでは「なぜ夢の中で龍雲丸を突き殺したか」が理解できなかったからです。今話は本来ならきちんと精神分析学的に批評することが適切なのだろうと思います。できればジジェクにでも語ってもらい、私もぜひそれを聞いてみたいところです。しかしそうもいきませんので、及ばずながら見よう見まねでそれに近いことに終盤で少しだけトライしてみたいと思います。

    まず34話の直虎パートにおける、私にとっての最大の疑問を最初に述べておきます。前述した「なぜ夢の中で龍雲丸を突き殺したか」はもちろん大きな疑問なのですが、それに端を発して考えたあげく、最終的に最も疑問に思ったのは「なぜ直虎は<政次の死>を悼まないのか」ということでした。

    このように書くと「何を言っているのか、直虎は34話でずっと政次の死を悼んでいたではないか」と反論されるかもしれません。しかし本当にそうでしょうか。注意深く見てみると、直虎は前半では政次の死を「忘れて」います。そしてそれを思い出した後は、主として<人を殺した自分>に恐怖しているのです。政次の追悼はまだ本格的に始まってすらいません。

    これについての私の暫定的な結論も最初に書いておきます。脚本家は、当初の予定では直虎が<政次の死>に向き合う様子を34話で部分的にでも書こうとしたのだと思います。しかし33話のラストを変更したため、ドラマ内の直虎の心はより複雑で引き裂かれた、整合性を欠いたものになってしまいました。そしてその矛盾をそのままにしたままで、変更前の設定を引き継いで34話を描きました。その結果、直虎はまず悼むべき<政次の死>を悼んでいないような印象を与えてしまったのではないかと思います。

    こうしたことについて詳しく説明するため、この項では、直虎について①実際に何が起こったのか(ドラマ、ノベライズ)、②直虎の精神世界という二つのレベルで整理してみたいと思います。そのために今回はノベライズ3巻の32~34話を参考にします(私はノベライズ未読派ですが、これを書くために諦めて最近32~34話を読みました。35話は未読です)。なぜなら、ノベライズには脚本家が当初考えていた展開が描かれていると推測されるので、それとドラマの違いを分析することで、「あるべきだった展開」と「実際の展開」の齟齬が明確になるからです。

①-1 ドラマでは実際に何が起きたか

 直虎は政次を槍で突き殺したあと龍潭寺に戻り、その後ひたすら一人で碁をうちます。あまりにも辛い記憶から自分を守るために解離性の健忘になっているようです。やがて時がたち、直虎の白い頭巾の血のシミも消えた頃に、政次の辞世をきっかけに政次の死を理解します。その後、寝付けずに、震えながら自分の手を見つめて恐怖するシーンが描かれます。そして最後に龍雲丸を槍で突く夢を見るのです。

 直虎は政次殺害後に錯乱状態に陥りますが、ドラマでは彼女をそこへ追いやった原因は二つ考えられます。一つは<政次の死>の衝撃、もう一つは<人を殺した自分>への衝撃です。錯乱の世界の迷い込んでしまった直虎は、実はそのどちらについてもきちんと受け入れて向き合うことができませんでした。そして長い間、すなわち政次死亡の直後(12月半ば)から気賀の悲劇の直前(3月中旬)くらいまでその錯乱状態は続きました。ようやく錯乱から覚めた瞬間、彼女は二つの重たすぎる現実に直面します。二つを同時に処理できない直虎の意識は、ます<人を殺した自分>への恐怖や嫌悪感の方に集中したように見えました。ここで直虎が考えているのは主として<自分>のことです。

    ここで鍵となるセリフは

「ああ、もう但馬はおらぬのですね。私が…。」

 この「私が…」は当然ながらノベライズにはないセリフです。そしてドラマの直虎は明らかに恐怖に震えています。この短いセリフが、その後の直虎の意識の優先順位が何なのかをはっきり示しています。

 もちろん<人を殺した自分>と和解するのは困難なことです。34話の冒頭は処刑シーンから始まりますが、短縮された編集の効果によって場面がより直虎視点で再現され、ぐさりと人体を刺す手ごたえや、目の前で殺めた人が死んでいくという恐怖が生々しく伝わってきました。私も思わず直虎視点で見てしまい、あたかも自分が政次を殺しているような感覚を追体験してショックを受けました。やりたくない殺人を犯してしまった事実に夜も眠れないほどの衝撃を受け、自分を責めてしまうのは無理からぬことです。

 しかしこの<人を殺した>ことへの罪悪感や恐怖が、直虎の<政次の死>への反応を覆い隠してしまっていることもまた事実です。なぜこのようなことが起こってしまったのでしょうか。それは前述したように、ノベライズから処刑シーンを変更したからです。ドラマでは直虎の錯乱の原因が<政次の死>と<人を殺した自分>に分散し、そのため一つ一つの要素の質量が半減してしまいました。加えて錯乱から覚めた後の感情が<人を殺した自分>への恐怖に見えるような演出だったため、その後の龍の描写とあいまって、<政次の死>への対処を後回しにしているような印象を与えたのです。

 私を含めたある程度の数の視聴者はおそらく、政次の死を悼む直虎を見たかったのだと思います。最初は否認したとしても、次には政次のことを考えると期待していました。しかし期待を裏切って直虎は龍雲丸の夢を見たので、政次よりも龍を優先しているような違和感を覚えたのです。

 <政次の死>を悼む場面は今後きっといつか描かれることでしょう。しかしそれはおそらく龍雲丸を助けた後のことで、大切な人を亡くした者同士で支え合いながら喪の苦しみを乗り越えていくというような展開のなかで行われるのでしょう。

 しかしそれは私たちが見たかったシーンではないのではないでしょうか。私たちは直虎が政次との純粋な二者関係の中で、ようやく直接に向き合って本音をさらけ出すようなシーンを期待していたはずです。34話のように直虎が歴史の動きに関わらない内省的な回はそう多くありません。このような絶好の機会に、直虎はその半分以上を政次の死を忘れて過ごし、終盤は自分と龍雲丸のことを考えて過ごしました。できれば34話のなかで、悲しみの深さを純粋に政次との内的な二者関係で表す場面がほしかったところです。

 

①-2 ノベライズでは何が起きたか

    直虎の意識が<政次の死>から離れたように見える原因は、人を殺すというあまりに重たい業を直虎が負ってしまったからです。ノベライズでは直虎は政次の死を納得も受け入れもしませんでした。ですから刑場にも行かず、処刑の場面も見ていません。死んだのだろうと心のどこかで気づいてはいましたが、それを意識的に認めようとはしませんでした。

    ノベライズの34話は、直虎の否認の描写から始まります。殺人をしていませんので、直虎が錯乱する原因は純粋に<政次の死>だけです。もしかしたら自分が原因となって政次が死んでしまった、すなわち「政次を見殺しにした」という罪悪感はあったかもしれませんが、いずれにせよ人を直接的に殺めるという行為に対する恐怖とは向き合う必要はありません。したがってノベライズの直虎はドラマの直虎よりも純粋に<政次の死>そのものに対峙している印象があります。龍雲丸をして「直虎の中で、政次はそれほど大きな存在だったのだ」と思わしめているほどです。ノベライズでも直虎の政次への気持ちの内容は語られませんが、その質量はドラマよりもずっと重く感じられ、得も言われぬ静かな悲劇性を醸し出しています。

    この展開であれば、少なくとも直虎の錯乱の原因は<政次の死>に確定されるため、錯乱という事実それ自体が直虎にとっての政次の重要性の何よりの証左になっています。ですからたとえ今話で政次に直虎が直接語りかけなくても、直虎と政次の二者関係の深さはより際立って感じることができます。

② それでもなお分からない「龍を殺す夢」~直虎の精神世界~

    さて、それではノベライズの展開であればすべてはすっきりと片付くのでしょうか。答えは否です。なぜならノベライズでもドラマでも夢の中の龍の刺殺は描かれるからです。この夢はどのように解釈すればよいのでしょうか。

    一つの明白に思える説明は、気賀のシーンに直虎を絡めるために、ここで直虎に予知夢を見させておくとうまく話がつながるからというものです。

    しかしそれはあまりにご都合主義というものです。実際にドラマを見た視聴者の中にも、この突然の龍雲丸の挿入に違和感を持たれた方も多かったはずです。政次のことをまだきちんと考えていないのに、なぜ龍雲丸にいってしまうのかと。

    もう一つの可能性は、大切な人を殺してしまった恐怖心から、自分がまた別の大切な人を殺してしまうのではないかと恐れた、というものです。

    それはあり得る話かもしれません。しかしこの設定では、政次の存在感はより薄くなってしまいます。直虎は<自分>にフォーカスするあまり、政次の死を飛ばして、すでに次の自分にとって意味ある人の死に意識が移っています。

    このように、二つの仮説はどちらも、これまでの緻密な物語構成や、この物語における政次の重要性を考えた時に、違和感が残ります。

    これについては、前述したように「実際に起こった出来事」のレベルでは理解できないので、「直虎の精神世界」に着目して、もう一度ストーリーを再構成してみたいと思います。

    直虎が、政次の辞世を読んで「正気に返る」シーンを見て、私は映画『マトリックス』(1999年)を思い出しました。主人公のネオは虚構の世界に生きていることに気づかずに生活していますが、ある日「現実世界」からやってきたモーフィアスからもらった「赤いピル」を飲むことで、自分が今まで虚構の世界に住んでいたこと、そして「現実世界」が別に存在することを知るのです。

    このマトリックスの二つの界について、ラカン派の考え方ではマトリックスは「想像界」、現実世界は「現実界」であるという解釈があります。ちなみに覚醒したネオが行き着く世界は「象徴界」、ここでは想像界がコードに見えたり、ピストルの玉が遅く感じたりするのです。

    『直虎』ではモーフィアスの役割は鈴木殿が、「赤いピル」の役割は政次の「辞世の歌」が果たします。直虎は<政次の死>という衝撃を受けて、現実界から想像界へ逃げ込んでしまい、そこで偽の日常を生きていました。想像界は自分の都合の良いようにコントロールもできる世界です。そこから、コントロールが効かない泥沼のような現実界に引き戻されてしまうのです。

    直虎はとはどのような女性でしょうか。彼女は女性ですが、母でも妻でもありません。社会的には、男性が担っているリーダーという役割を、ある意味ではやむをえず、しかし別の意味では自ら進んで引き受けている女性です。大雑把に言って、ラカン的な考え方(だと浅学な私が理解しているもの)では男性とはファルス、すなわち象徴的なペニスを持つ存在ですから、直虎は自分にはないファルスを得て象徴界(言語を用いる場所、例えば政治など)に参加したい女だと考えることができます。ファルスは象徴的で実態を伴わないものですから、たとえば<ファルス=知的能力>と置き換えることもできます。

    政次との関係において、直虎は自分にはないファルスを彼に求めていたのです。この場合、まさに<ファルス=知的能力>であったと私は考えます。直虎はよい城主になるために、象徴界での成功を切望していました。そして目の前には自分よりも知的能力が高い男がライバルとして屹立していたのです。

    錯乱中の直虎が「策なしでは政次に笑われる」とつぶやいたことは示唆的です。私にはこのセリフに二人の関係のエッセンスが凝縮しているように思えてなりません。

    しかしノベライズの展開では、直虎は結局政次のファルスを完全には手に入れることはできませんでした。そうする前に政次が突然この世から退場することを勝手に決めてしまったからです。ファルスへの欲望が充足されないまま残された直虎は、当然納得がいきませんし、それを受け入れることもできません。残された欲望は行き場をなくします。

    それに対してドラマの直虎は、政次の死が逃れられないものと納得し、自ら政次を殺害することを決意します。ここでは直虎は政次のファルスをただ欲しがる受け身の女ではなく、自分自身が槍という武器を持ったファリック・ウーマンです。もちろんこの文脈では<槍=ファルス>です。直虎は槍というファルスで政次を突き殺しますが、そのことで自分が貫通する側の主体になり、政次を完全に所有してしまいます。直虎の欲望は形式的には一応は(一時的にでも)満たされたわけですから、ここには象徴的な意味での喪失はありません。ということは、前項でも述べたように、ドラマ版で直虎が本当に向き合っている課題はむしろ<人を殺した自分>の方であるということになります。

    次に「龍雲丸刺殺」について考えてみます。政次のファルスは直虎が直虎であるために彼女が最も必要とするものでした。ノベライズで直虎はファルス入手失敗に伴う焦燥感や喪失感、恨み、不安などを感じて心が消耗していました。直虎はもう二度と欲望の対象を失いたくありません。政次の死に関われなかった直虎は、政次のファルスの代替である龍雲丸のファルスこそはきちんと所有したいのです。その欲望の強さが、彼女をして夢の中で龍を殺すという完全なる所有のシミュレーションをさせてしまいました。なぜなら殺人とは完全な所有のメタファーだからです。

    一方、ドラマ版の直虎にはファルス入手の失敗という苦い経験はありません。ですからあの時点で唐突に龍のファルスを取りに行くという攻撃性を見せる理由が見当たりません。したがって、精神世界に着目したとしても、やはり直虎の夢は解釈が非常に困難です。したがって「ドラマ版の直虎なら、あの夢は見ないのではないか」というのが私のささやかなる結論です。

    さて、私の意見や願いがどうであろうと、実際のドラマでは「龍の刺殺」で二つの悲劇が交差し、ここから直虎は現実の世界での奮闘を再開します。そしておそらく前述したような龍との交流の中から、立ち直りのヒントを得ていくのでしょう。

    33話のラストは確かにドラマ史に残る名場面でした。そして私が今回不完全ながらも行った精神世界の考察においても、あれは直虎による政次の完全なる所有(という概念そのものが幻想だというのがオチではあるのですが)以外の何ものでもないと思います。

    ただし、その完璧さのおかげで、34話に直虎が<政次の死>そのもの感じるシーンが犠牲になってしまったように感じられたことは少し残念でした。

    今後、直虎が<政次の死>を、そして政次が自分にとってどういう存在であったかをきちんと言語化するエピソードが訪れることを切望しています。

『おんな城主直虎』33話~政次の死にみる「イエス受難」のアナロジー~

はじめに~政次の死とイエスの死のパラレル構造~ 

 33話のラストで磔の刑に処される政次を見て、イエス・キリストの十字架の上での死に重ね合わせた方は多かったのではないでしょうか。私も政次の死には「イエスの受難」物語からの引用が多数散りばめられていると感じました。ただしそれは磔や槍といったビジュアル面での模倣だけではなく、もう少し深い意図があっての引用だったのではないかと思います。そしてその「意図」があったからこそ、諸説ある政次の処刑方法のうちで「磔」説が採用されたのではないか、さらに言えば、イエスの死がもつ意味に触発されて、『直虎』における政次の死の意味が形作られていったのではないか、と考えるようになりました。そこでこのエントリでは、どのような引用があったか、そしてなぜが行われたのかということについて考察してみたいと思います。

 よくご存知の方には蛇足かもしれませんが、最初にイエスとその受難(Passion of the Christ)について、概要を説明しておきます。イエスは約2050年前頃に現在のイスラエル北部に生まれたユダヤ人で、30歳頃から地方でユダヤ教に根ざしつつも、ユダヤ教形式主義権威主義に異を唱えて独自の宣教活動をはじめました。そしてついに南部の首都エルサレムに入城し、信奉者を増やして、ユダヤ教権威主義の指導者に妬みや脅威の対象として敵視されるようになります。当時エルサレムローマ帝国支配下にありました。ユダヤ教権威主義者は反逆罪でイエスを逮捕し、不当に裁判し、暴行し、ローマ帝国総督に引き渡しました。総督はイエスが無実であることを知りながらも死刑執行を黙認、イエスは十字架に架けられます。その後彼はキリストとして復活し、それを目撃した使徒たちによってキリスト教の世界的な布教が始まるのです。

 「受難」とはイエスエルサレム入城から処刑までの短期間の出来事を指します。この「受難」の過程が、31話に政次が井伊谷に城主として入城し、33話で処刑されるまでの出来事に非常によく対応しています。ですから私の説明は33話からではなく31話に遡って始まります。

 本題に入る前に3つのお断りをしておきます。第一に、このエントリは宗教・神学そのものについて論じる意図はありません。第二にイエスの位置づけは宗教によって異なりますが、ここでは広い意味でのキリスト教の世界観に従って論じます。第三にキリスト教世界ではイエス・キリストは三位一体の神と考えられていますが、政次は人間ですので、あくまで話の構造上の類似点を指摘するに留めます。

 今回のエントリは長くなりそうですので、最初に結論を述べておきます。私はこのドラマが「イエス受難」を引用した意図は、政次の死が「一つの命で多くの命を贖う」「一つの究極の犠牲で、すべての人の罪を予め償う」という意味をもつものであると強調するためだったと考えます。

    そのヒントは政次の「おそらく、私はこのために生まれてきたのだ」という台詞にあります。これは「忌み嫌われるために生まれてきた」という意味ではなく、「忌み嫌われて、恨みを一身に引受け、罪人として死ぬことで、愛する井伊谷のすべての人の命を救い、恨みの連鎖を断ち切り、さらには罪を犯すたびに犠牲を払い続ける(=井伊谷で失策があるたびに犠牲者を出す)という悪循環を終わりにする」という意味でした。

    キリスト教の世界では「(罪はないのに)罪人として裁かれることで犠牲の連鎖を断ち切り、すべての人の罪を許す」ことこそ、イエス・キリストがこの世に生を受けた理由であったと考えられています。そしてよく知られたこの『聖書』の描写を引用することで、政次の死の必然性や運命性がより浮き彫りになるのです。

 私の仮説では、『直虎』とイエス受難物語の登場人物は次のように対応します。

『直虎』

「イエス受難」

政次

エス

直虎

ペテロ(31話)、マリア、イエス(33話)

家康

ポンテオ・ピラト

近藤

イスカリオテのユダカヤパ

直之

トマス

  政次はイエス、直虎は使徒の一人ペテロ(31話)、マグダラのマリアかイエス(33話)、家康はローマ帝国総督ポンテオ・ピラト、近藤は一番分かりやすいのはイスカリオテのユダ、ただしユダヤ教の大祭司カヤパの要素もあり、脇役として直之は使徒の一人トマス、龍雲丸はメッセンジャー役ですからキリスト教世界で言うところの天使のような役どころです。

 

31話「虎松の首」~試される信頼~

 33話がクライマックスとすれば、31話はそれに向けての序章でした。この回では直虎の政次に対する信頼が試され、直虎が疑いに苛まれる様子が描かれました。

    冒頭で農民たちの嘆願を見て一つの策を思いついた政次、直虎に刀を向け「俺を信じろ、おとわ」と語りかけます。

  「信じろ」とはどういう意味でしょうか。信じることは、目に見えないものを確信すること。それはイエスのメッセージでもあります。物質的な生贄や目に見える戒律で人間生活を縛る(とイエスが考えた)ユダヤ教に対するアンチテーゼです。しかしあまつさえ刀を向けられて、なお目に見えないものを信じるのは人間にとっては困難なことです。

 それでも直虎は一度は信じました。政次の策に乗って徳政令を受け入れます。しかし隠し里で直之に「それも含めて騙されているのでは」と揺さぶりをかけられます。直之は熱くまっすぐな人物ですが、目に見えることしか信じません。私は直之は十二使徒の一人トマスのようだと思いました。トマスはイエスが復活したことを他の弟子に聞きますが、実際にその目で見るまでそれを信じませんでした。そのことから「疑いトマス」と呼ばれています。

 直之に言われて、直虎の胸に疑念がわきます。あれほど信じあい、通じ合っていたのに、政次が表面的に演じる分かりやすい芝居に騙されてしまいます。それがよく表されているのが、龍潭寺で座禅しながら夜を明かす場面です。疑念で落ち着かず、思わず不信感を表す声をあげてしまいます。その時、鶏が鬨の声を告げるのです。

 この場面はイエスの弟子のペテロがイエスを否認した場面に重なります。イエスの一番弟子を自認していたペテロは「最後の晩餐」の際にイエスに「あなたは今日、鶏が鳴く前に三度私を否む」と予言されます。それを自信満々に否定したペテロですが、イエスが捕らえられた夜、ペテロは追い詰められて「イエスのことなど知らない」と否認してしまいます。そして予言どおり夜明けに鶏が鳴き、それを聞いたペテロは自分が犯した過ちの大きさに打ちのめされ、涙するのです。

 この場面は、『直虎』では直虎が名も知れぬ子の首をかき抱いて号泣するシーンで再現されます。あの涙はもちろん子どもを供養するための涙でしたが、同時に政次に負わせた業と、政次を疑ったことへの後悔に対する涙でもありました。

 ペテロはイエスの死後、信仰心を強めます。あの過ちがあったからこそ、後に岩のようだと言われた彼の固い信仰心が生まれたのです。そして最後には壮絶な殉教をとげます。

 私は31話を最初に見た時、この期に及んでまだ政次を疑う直虎の行動に疑問を感じました。しかし33話を見た後では、このエピソードが是非とも必要であったことが分かります。直虎が岩のように揺るがない信頼を基盤に「我はもう騙されぬぞ」と言うため、そしての政次の演技や悪態に惑わされることなく、目に見えないものを頼りにラストのあの行動に行き着くためには、最終テストのようなこのプロセスが必要だったのです。

 32話「復活の火」~政次とイエス、それぞれの入城~

 32話では主として武田・今川・徳川の歴史的事件の進行と、政虎なつの人間関係に焦点があてられました。イエスの物語からの引用はそれほど多いとは思いませんでしたが、それでも次の三点については指摘しておきたいと思います。

 一点目は、政次が井伊谷城に「主」として入城したことです。政次は井伊谷の王として、そしてイエスエルサレムに精神世界における王として入城します。どちらも華々しい入城ではありませんでした。政次は打ち捨てられ広間に一人孤独に、そしてイエスは貧相なロバに乗って、それぞれの人生の終局の舞台へと上がっていくのです。

 二点目は、政次が家臣に自分の意図を語り、小野家と自分が何者かを明かしたシーンです。一段高いプラットフォームから話す演説のような構図、関口の家臣に語りかけると見せかけて実は視聴者に「そなたらはどうする(俺についてくるか)」と語りかける劇的なアングル。それはまるで『マルコ書』9章に出てくる、イエスが弟子に正体を明かし、これから起こる苦難を前に弟子に希望を与える、いわゆる「イエスの変容」の場面を思い起こさせました。

 三点目、そしておそらくこれが最も重要な点なのですが、それは、政次、近藤、徳川の関係が、イエスユダヤ系の敵対勢力(ユダ、あるいはユダヤ教権威主義者)、ローマ帝国にそれぞれ対応するという構図が示されたことです。どちらも政治的に見れば、同じ側につく者同士の内部抗争に、支配勢力の思惑(あるいは無関心)が絡むという図式になっています。これによって政次の処刑は政治的な構造においてもイエスの処刑と同じであるということが示されました。クライマックスに向けての役者と舞台が整ったのです。

 33話「嫌われ政次の一生」~死によって贖われるもの~

 近藤=イスカリオテのユダ

  32話のラストで、近藤が過去の恨みを根に持って井伊を陥れるための策をめぐらしたことが示されました。近藤とは誰でしょうか。12話で政次が井伊谷に帰還した時、付き従うように今川からやってきた井伊谷三人衆の一人、すなわちもとは政次サイドの人間です。私が近藤がユダかもしれないと考える理由はここにあります。

 ユダがイエスを裏切った理由は古来から色々と推測されてきました。嫉妬、不信、金銭欲、なかには独占欲などといったBL的な解釈まであります。しかしイエスはユダの裏切りを予言していました。それを知りつつ、ユダが裏切るのを許したのです。なぜならユダには裏切るという役目があったのです。裏切りがなければ、イエスの逮捕も処刑もありませんでした。そしてイエスは処刑されなければならなかったのです。

 私には近藤の裏切りは、ユダの裏切りと同じように思えます。近藤は政次をなぜ陥れたのでしょう。材木の件の恨み、政次に対するコンプレックス、領地拡大の好機、理由は様々にあることでしょう。近藤は近藤の論理で生きてきて、目の前の邪魔な人間を追い落とすのに絶好の機会がやってきた。そして彼はその機会を掴まなければならなかった。それが「世の習い」だからです。この物語ではたまたま近藤に裏切る役割が与えられていますが、彼でなければ別の誰かが裏切ったことでしょう。小野が世間を欺いてきたことによる恨みの蓄積は、どこかでブーメランのように跳ね返ってきていたはずです。そして政次は小野の負債と井伊の負債を返す役割が自分にはあると考えたのです。

 

家康=ポンテオ・ピラト

 近藤は「井伊の裏切り」について家康に讒言し、小野但馬を反逆者として断罪するように進言します。家康は近藤の説明の胡散臭さに気づき、これは仕組まれた罠ではないかと推測します。しかし武田からの出兵の催促というより優先順位の高い急務を前に、井伊の再興という望みを無視し、政次が謀反人として断罪されるのを見て見ぬふりをすることに決めます。

 これはポンテオ・ピラトのイエスの裁判への関わり方によく似ています。ポンテオ・ピラトイスラエルを植民地として支配するローマ帝国の総督でした。イエスとユダ、あるいはユダヤ教権威主義者との対立は、彼にとってはユダヤ人同士の内部抗争に過ぎません。彼にとっての優先事項は、できるだけ事態を大きくしないように揉め事を収めることでした。

 ピラトもイエスに罪を認めることはできませんでしたが(しかも彼の妻もイエスを赦すように進言しましたが)、自分の立場が悪くならないように、イエスの運命をユダヤ人の手に委ねてしまいました。罪はないと認められながら支配権力に見殺しにされる。これは「イエス受難」物語の大きな構造的ポイントで、『直虎』では家康をうまく使いながら政次についての構造の類似性をよく描いていたと思います。

 

政次=イエス

 直虎が牢に入れられたと聞いた政次は、一人井戸にやってきます。この井戸は祈りの場です。橘の木が生い茂る井戸の回りの風景は、外界から隔絶された楽園のようで、そこはかとなく異国情緒すら漂う不思議な空間です。それはイエスが毎晩一人で祈りを捧げた、オリーブが生い茂るゲツセマネの園を思い起こさせます。橘もオリーブも常緑木、私はかなりの確率で、この井戸はそもそもゲツセマネの園を想定して作られたものだと思います。

 この井戸で、白い碁石を見つめながら政次は自分の身を差し出すことを考えます。イエスも処刑の前夜、ゲツセマネの園で祈りました。人間でもあったイエスは十字架刑にかけられて死ぬことの苦悩について悲しみもだえます。そして主に「み心なら、この杯を私から取り除けてください、しかし私の願いではなく、み心のままに」と祈ります。そしてとうとう自分に打ち勝ち、自ら逮捕されるために山を降りるのです。

 イエスの苦しみに比べて、政次の決意はずいぶんあっさりとした印象でした。思えば井伊谷の面々は自分の死を前にして淡々としている人が多かった。33話で井戸端で苦しみながら朝まで祈り続けたのはむしろ直虎でした。

 政次は白い碁石を手に、捕らえられるために近藤を襲います。明確な謀反の行動をとり、自分が罪人として罰せられる必然的状況を作りました。直虎と再開した時はすでに捕らえられ、ひどい暴力を受けた後でした。特に顔を豪打されたことがアザや血糊から分かります。『マタイ書』でも、イエスは捕らえられ、裁判にかけられたのち、葦の棒で頭部を何度も殴られたとあります。

 そして処刑当日、政次が牢を出て、足を引きずりながら刑場に向かって歩くシーン、十字架こそかついではいませんが、重傷のイエスゴルゴダの丘に向かって歩く場面を彷彿とさせます。処刑シーンそのものについては、「イエス受難」関連の芸術作品との類似性は他にも指摘がありますので、ここでは言及はしません。

 むしろここでは、政次の死がもつ意味の重要性に焦点をあてて考えてみたいと思います。政次は獄中で龍雲丸と次のような会話をします。

政次「殿や俺は逃げればよいかもしれぬ。しかし恨みが晴れなければ、隠し里や寺、虎松様、民百姓、何をどうされるか分からぬ。そして、井伊にはそれを守りきれるだけの兵はおらぬ。俺一人の首で済ますのが最も血が流れぬ。」

 

 龍雲丸「だいたい、あんたそれでいいのかよ。このまま行きゃあ、あんたは井伊を乗っ取ったあげく、罪人として裁かれるってことだろ。悔しくねえのかよ。井伊のためにって、あんなに、誰よりも、駆けずり回ってたのはあんたじゃねえかよ。」

 

政次「それこそが小野の本懐だからな。忌み嫌われ、井伊の仇となる。恐らく、私はこのため生まれてきたのだ。」

 

そしてBGMとしてグレゴリオ聖歌のレクイエムのような音楽が流れるのです。

 政次はここではっきりと、自分一人の命で井伊全体の命を救いたい、そして自分が罪人として死ぬことで恨みの連鎖を断ち切りたいという意図を述べています。小野は井伊のために汚れ役を引受け、その命脈を保ってきました。井伊が生き伸びるために犯さなければならなかった罪を、小野が一身に引き受けてきたのです。そしてたとえ井伊のために犯した罪であっても、それを背負って死ぬことで、罰が井伊全体に及ぶことを避けることこそが、彼の本懐だったのです。「本懐」とは「本来の望み」という意味です。政次が「私はこのために生まれてきた」というときの「このため」とは「嫌われる」ということだけではなく、「その罪を贖う」ということまで含まれると私は考えます。

 政次の死とパラレルになっているイエスの死の意味についても整理してみます。バビロン捕囚以後、何千年にも渡って流浪と植民地支配に苦しんできたイスラエルの民には、『旧約聖書』の時代から、いつか救世主が現れ、彼が罪を贖って民を救うという預言が与えられていました。

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(『旧約聖書』「イザヤ書」53:5,6)

 イエスの出現は、その預言の成就と言われています。ですからイエスは、自分がユダヤ人の罪を背負い、罪人として処刑される運命にあることを早くから知っていました。

 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである(『新約聖書』「マルコ書」10:45)

 『旧約聖書』の時代、ユダヤ教においては、罪を償うために生贄を捧げる習慣がありました。イエスは何か罪が犯される度にその代償として血が流されるという掟に終止符をうち、自分が究極の犠牲となることで、全ての人の罪を予め償ったのです。

    政次の意図はおそらくこれと同じようなものだと思います。自分が何よりも愛した井伊の過去と現在、そして未来のために自分が究極の犠牲を払うこと、これこそが彼の「本懐」だったのです。

 

直虎=マグダラのマリア→イエス

 最後に直虎について考えてみます。私は33話の直虎は、処刑場に居合わせて政次の死を見届ける女性という意味で、最初はマグダラのマリアではないかと思いました。しかし徐々に、直虎もまたイエスなのではないかと考えるようになりました。

 話題になった「槍で一突き」のシーンですが、ノベライズとは展開が異なっているそうです。ノベライズでは直虎は処刑場に行かず、しかも槍で殺したりはしなかった。私はこれまでの直虎の人物造形、そして物語の構造を考えた時、ノベライズの方がむしろ納得できると考えている少数派です。

    補足説明すると、「あの二人は二人で一人」という南渓の言葉をそのまま受け取り、<直虎=政次>であると考えると、槍で突いても、処刑場に行かなくても、直虎が本質的に向き合わなければならない課題はそれほど変わらなかったということです。

    大きな影響を受けたのは政次の気持ちの方でしょう。政次は白い碁石を持って近藤を襲いました。その時点では二度と直虎と連絡が取れるとは思っていなかったのです。龍雲丸が訪ねたのは予想外の出来事でしたから、彼の生前に白い碁石が直虎のもとに戻ったのは偶然の成り行きでした。ということは、政次は直虎に最後の一手を期待していたわけではなかったのです。すなわち、直虎が何をしようとも、政次の最後の一手は決まっており、それ自体を「今さら」直虎がどうにかすることはできなかったのです。

    私は脚本家はもともとはノベライズの展開でいこうと考えていて、途中から物語の根本構造を変えずに、政次が少しでも報われるように「槍で一突きの」展開に変えたのではないかと思っています。

    なぜ「槍で一突き」は政次にとっては僥倖で、直虎にとっては(もちろん影響はありましたが)根本的な変化ではなかったのでしょうか。

    政次の視点から見ると、まず期待していなかったのに刑場で最後にもう一度直虎に会うことができました。最後の言葉を交わすことができ、しかも自分の愛する人に「送って」もらうことができました。刑の苦痛は和らぎ、さらには直虎からの返戻の気持ちすら生前に受け取ることすらできたのです。

    もちろん直虎の方も、刑場に行くことすらしないという受け身で混乱した(らしい)ノベライズの展開と比べて、政次を殺す覚悟を見せたドラマの展開の方が、より城主としての成長を印象づけるものでした。政次を有効に使い、近藤に、そして徳川に対して、井伊に謀反の意図がないこと、謀反人はきちんと処罰されたことを印象づけることができました。何よりもテレビドラマ史上に残る名シーンが生み出されたことの意義は大きいと思います。

    しかし直虎の本質的な部分を考えると、「政次が誰によってどのように殺されたか」ということより、「政次が自分を含めた井伊の人々の罪を背負って死んだ」という事実そのものの方が重要です。

    「二人が一人」であるなら、直虎にとってはあの日、もう一人の自分が死んだ(殺した、あるいは殺されるのを為す術もなくそのままにした)のです。

    ここでイエスに話を戻します。イエスは処刑の3日後にキリストとして復活し、マグダラのマリアの前に姿を現します。「キリストの復活によってすべての人は生きる」とするのがキリスト教信仰告白の中心をなす教義です。

    政次はメシアではなく人間ですから、復活することはできません。しかし彼には半身たる直虎がいます。政次は直虎を通じて復活することができる、これが二人が「半身」であることの設定上の肝なのではないかと私は思っています。

    『直虎』のオープニングでは、椿の花が槍で打たれて死に絶える様と、その後に新たな芽吹きが起こり、まるで復活のように緑が蘇っていく様が描かれています。この椿は<政次=直虎>だと思います。だとすれば、今後は復活した政次を抱え込んだ直虎が、井伊を再び芽吹かせる様子が描かるのではないでしょうか。

    しかし今後、堀川城や武田による井伊焼き討ちなどのさらなる苦難が待っています。イエスも生前エルサレムの陥落を予言しました。そこから直虎がどのように立ち上がるか、その時彼女の中の政次はどのような役割を果たすのか、その点に注目して見ていきたいと思います。

『おんな城主直虎』33話~直虎と政次、非言語コミュニケーションの果て~

 衝撃のラストを向かえた33話、しかし二人の物語はまだ終わりではありません。政治以外の話の9割を本音と裏腹の言葉でしかコミュニケーションしかしてこなかった二人、あの「ハートに一突き」というアクションですべての言語を超えて一気に魂が結ばれてしまいましたが、その瞬間に比翼の翼の片方は折れてしまったのです。

 ここから、直虎はどこへ向かうのでしょう。私には、直虎が自分の気持ちを言語化してこなかったツケをこれから払うのではないかと思えてなりません。二人のコミュニケーションの歴史を紐解きつつ、残された直虎の状況を整理してみたいと思います。

 政次と直虎は、立場の上からも、また個人的な関係性においても、それがもう習い性になっているように、自分の気持ちを相手に素直に伝えることをしません。しかしそうなってしまった理由は大きく異なっています。

 

政次の場合

 政次から見ていきましょう。1話の鶴、子どもらしく元気はつらつとした聡い少年です。おとわと同じくらい表情豊かで、すべての感情が顔に出ます。竜宮小僧探しに嫌気がさしたときのムスッとしたふてくされた態度、亀のぽやっとした無邪気な表情と対照的でした。鶴は本来、こういう素直で活発で短気で物怖じしない、おとわと似たはっきりとした性格の少年でした。似ているからぶつかりあいます。おとわの欠点を遠慮なく指摘する鶴、何でも受け入れてくれるやさしい亀とはここでも対照的です。

 しかし家臣という立場と小野という家の性質が、だんだん鶴の行動や考えに影響を及ぼしていきます。自分はとわや亀とは違う身分だから一歩引かねば、小野の家のものだから疑われて当然。そのような考えや周囲の扱いが、鶴の中にとわや亀と同列でありたいと願う本来の自分と、家臣として小野として感情を殺して役割を演じる自分という二つの人格を作り上げていきました。

 政次が直虎に自分の気持ちを素直に言えない理由は、一つには直虎が自分に男として関心を持っていないということを幼いころから肌で感じているからです。自分の感情を相手に知ってほしくはないし、ダメだと分かっていてぶつける勇気もありません。何より家臣としてとわと亀の夫婦約束に納得し、トライする前からすでに諦めているのです。

 もう一つは直虎が選ぶ道が、自分との恋愛とは両立しないものばかりだったからです。次郎時代は亀のために出家しており、直虎になってからは敵、そして家臣として政治的な関係性になりました。そしておとわはいつでも自分が選んだ道で輝いていた。その輝きを奪うことは政次にはできなかったのです。

 しかし同時に政次は自分の思いを消し去ることもできませんでした。思いは形を変えつつどんどん膨らみ、とうとう生きる目的にまでなっていきました。

 ここで興味深いのは、政次の直虎に対する思いは、彼は何も語らないのに周囲には盛大にバレていたということです。おそらく最初に南渓和尚が気づき、次になつ、龍雲丸、もしかしたら寿桂尼や六左衛門にまで分かっていたかもしれません。なぜでしょうか。それは政次の直虎に対する気持ちは、本人の中でかなりはっきりと意識化されていたため、彼の行動に一貫性があったからです。もちろんその気持が恋なのかどうかはっきりしない部分もあったでしょう。しかし彼が直虎を大切に思い、彼女を守りたいと思っているということ、すなわち現代的な言葉で言えば「愛している」ということは、彼自身が完全に自覚しており、それは周囲にも透けて見えたのです。

 ですから32話でなつに問い詰められた時、立て板に水のようにそれが語られました。

うまく伝わらぬかもしれぬが…私は幼きときより、伸び伸びとふるまうおとわ様に憧れておったのだと思う。それは今も変わらぬ。殿をやっておられる殿が好きだ。身を挺してお助けしたいと思う。その気持を何かと比べることはできぬ。捨て去ることもできぬ。生涯消えることもあるまい。

 自分の思いを完全に自覚している政次はある意味では幸せでした。直虎からの覚悟と気持ちの返戻を一心にあびて、積年の願いが成就した最も幸せな瞬間に旅立ったのです。

 直虎の場合

 しかし直虎はどうでしょうか。思えばおとわは鶴に無関心な子どもでした。亀にだけ挨拶したり、鶴の気持ちに気づかず何度も残酷な言葉を浴びせたり…。鶴のことをよく知っているはずなのに、皆の竜宮小僧のはずなのに、「鶴の立場に立ってものを考えること」が確かに少なかったと思います。

 この直虎の政次に対する一貫した無関心さには、常々疑問を感じていました。なぜ他の人にはあんなに興味津々な直虎が親しいはずの政次にこれほど無頓着なのか。もしかすると意識的にそのように描いているのか、だとしたらその意図は何なのか。

 33話で政次が牢から出ないと龍雲丸に聞かされて、直虎は次のように述べます。

 忌み嫌われるために生まれてくるなど、そんなふざげた話があるか。お前に何が分かる。政次は幼い頃から、家に振り回され、踏み潰され、それの、それの何が本懐じゃ。

  ここに至って、まだ直虎は政次の意図が分かりません。他の人には透明なヴェールのように透けて見える政次の気持ちが、「比翼の翼」の片方たる当の直虎には全く分かっていないのです。

 あの人の言う井伊ってのは、あんたのことなんだよ。…あんたを守ることを選んだんだ。だから本懐だって言うんでさ。

そこまではっきり言ってもらって、ようやく何かを理解する直虎。それでも

頼んだ覚えなどない。守ってくれなどと頼んだ覚えは一度もない

と反発して混乱する。しかしその後南渓に

誰よりもあやつのことがわかるのは、そなたじゃろ、答えはそなたにしかわからぬのではないか。

と言われ、熟慮、そして一挙に二人の真骨頂、最後のエア碁シーンに突入します。離れているのにお互いに思い出すシーンは「我をうまく使え、我もそなたをうまく使う」。そしてもはや盤面すらもなく、一つの白い石のみで決する最後の手が描かれます。

 この二人の非言語のシンクロ感と、言語コミュニケーションのレベルの徹底した齟齬、ここまでくると、意図的でないと考えるほうが逆に違和感があるように思えます。

 

直虎の愛情が言語化されないことで何が起こるのか

  そこでこれが意図的であると仮定して、どのようしてにそうなっていったか、そしてこれからどうなるのかを考えてみたいと思います。

 直虎は政次への思いを言語化してこなかったし、それ故に意識化もしてきませんでした。そもそも12話までは、幼馴染として親しみは感じていたでしょうが、興味が引かれる対象ではなかったのでしょう。亀という太陽のような分かりやすい輝きにかき消されて、月のささやかな光は直虎の目に入ることはありませんでした。

 それが12話で、嫌でも視界に入れざるをえない存在になります。敵であるとはいえ、直親なきいま、政次が政次としてピンで直虎の前に立ったのです。直虎の最初の感情は強い憎しみと反発でした。当時私は直虎がよく知っているはずの鶴の本当の心を探ろうともしなかったことに少し落胆し、鶴は本当に不憫だと思ったものです。

 18話以降は理解と共闘でした。誤解はとけましたが、18話の井戸での会話もお互いの気持ちに関する内容はなく、表面的には非常にミニマルでビジネスライクなものでした。しかし言語化されない部分で二人の絆は水面下で確実に強まっていったのです。

 18話以降、二人は碁を通じてテレパシーのような特殊な通信方法を確立させていきます。そもそも碁で分かり合う、という行為が言語的理解を避ける装置のようにも思えます。物言わず互いの次の一手を探り合う、そうした行為を続けるうちに、二人はあるレベルでは完全に分かり合っているのに、別のレベルでは全く分かりあっていないといういびつな関係性を作り上げました。ですから囲碁の次の一手は完全にシンクロするのに、政次は頼んでもいないのに直虎を守ろうとするし、直虎は政次の自分に対する愛情に全く気づかないのです。(補足すると、言語レベルで分かり合えていないから、31話で他人の疑いの言葉に心が揺れたのですね。でもそれはまた別の話)。

 そして刑場という切羽詰まった究極の場面において、言葉の相互理解ができないまま、二人は史上最高の一手で通じ合ってしまいました。

 

<悲哀>と<メランコリー>

 直虎は、政次の生前、彼に対する思いを分節化して言語化してきませんでした。ですから政次が死んだ時、本当に何を亡くしたのかが分かっていなかったのではないかと思います。

 これは直親を亡くした時とは対照的です。直虎は直親への自分の思いを完全に理解していましたから、衝撃は大きくとも、少なくとも何を亡くしたかは分かっていました。

 少し堅い話で恐縮ですが、フロイトは『悲哀とメランコリー』において、(簡単に言うと)<悲哀>とは亡くした対象が明確で、それを亡くした時に示す正常な反応であり、悲哀の作業が終われば再び自由になるもの、<メランコリー>とは誰を失ったかは分かっていても、その人の何を失ったかは分かっていない状態で、すなわち意識されない対象喪失であり、しばしば自我意識の低下や自己非難を招くとしています。

 

すなわち

 

  • 直親の死に対する反応 = 悲哀(grief)→ 自由になって城主に 

 

  • 政次の死に対する反応 = メランコリー →❓(今後の展開)

 

  おそらくは今後は直親の死よりも深く苦しい時期が待っているのではないでしょうか。直虎にとって今後必要なのは、政次とは自分にとっていったい何だったか、政次の何を失ったのかを意識化することです。そのためには言語化しなければなりません。政次が自分にとってどういう存在だったかを語るという生前してこなかった作業を、誰かの力を借りてでも、やらなければならないのです。それしか彼女が立ち直る道はありません。

 幸いにも政次の思いについてはなつや龍雲丸といった証人もいます。どのような言葉が語られるのか私は全く知りませんが、いち視聴者として、直虎にはぜひ政次について考え、自分の思いを明確にしてほしいと思います。

 

さらなる妄想

 さて、ここまでが「直虎に意識的に政次について語らせてこなかったのでは」という仮説に基づいた私なりの推測です。いつものように単なる妄想かもしれませんので、当てはまっていなくても笑って許してください。

 ついでに一つ、さらなる妄言を吐きます。<メランコリー>は、エディプス的な関係に当てはまらない関係に起こるという説があります。エディプス・コンプレックスというのは息子が父を殺して母を得たいという欲望のことです。これが満たされないと<悲哀(grief)>が起こります。しかしそうではない関係、例えば娘が父を殺して母を得たいというような同性愛的な関係において、この欲望は正当化されないので言語化できない、すなわち語ることができず沈黙しなければならない。これが満たされないと<メランコリー>が起きるとされます。ですから政次と直虎の関係は、実は母と娘の関係に近いのかもしれないと密かに思ったりもしています。

 それでは34話、楽しみに待ちましょう。実はさらにトンデモな妄想解釈を33話についてもう一つ書きたいのですが、なかなか筆が進まず…。がんばります。

『おんな城主直虎』32話 ③駿河・遠州侵攻を描く省略とディテールの美学

『直虎』のテーマと、直虎が描く未来

  「政虎なつ」の衝撃が大きすぎて、その他のことがすべてふっとんでしまった感のある32話でしたが、実は大河ドラマらしく大文字の歴史がようやく動き出した回でもありました。いや、その書き方には語弊があります。これまでも「歴史的事件」(戦国時代であれば例えば合戦)は起こり続けていたのですが、それが本作のテーマ(と私が考える)「リーダーとして生きた中世日本の一女性の人格的成長」と直接関わる事象ではなかったので、前景化されてこなかっただけです。

 前回合戦が描かれたのは桶狭間の戦いの際でした。あのときも「桶狭間が開始数分で終わってしまった」と話題になりましたが、それは直虎の成長物語に関わる事件は直盛と家臣団の死であり、義元がどのように死んだかは重要なことではなかったからです。このドラマのこうした思い切った焦点の合わせ方は、もう少し評価されてもよい点だと思います。個人の視点から出発し、人々の営みがより合わさった糸で編むタペストリーのように丁寧に歴史像を作り上げていく、そのディテールへのこだわりこそが、このドラマの面白さの一つです。

 しかし『直虎』は民衆史ではありません。小規模ではあっても為政者の立場にある人物が、自分の理想とする社会をどう作り上げようと奮闘するか、その過程を楽しむドラマです。これまでも為政者のドラマは数多くありました。その中で『直虎』のユニークさとはどのようなものでしょうか。これについて脚本家は「トップに立つ人はピュアなところがないといけない」と語っています。直虎は女性で禅僧です。政治や戦争を行うことを期待もされなければ、訓練も受けていません。性格は猪突猛進で直情径行、心には竜宮小僧が住んでいます。すなわち脚本家が想定するユニークな為政者像とは「戦国時代の主流の政治に対する先入観がなく、純粋な心で、人々が殺し合わない、奪い合わない世を作ろうと猪突猛進するリーダー」なのです。

 思えば龍雲丸と直虎の会話には、そのような脚本家の自問自答が多く反映されています。例えば21話の「追い詰められれば人は奪う」「奪い合わない世の中を作る」という寺の庭での会話です。最初に聞いた時は、文脈に似合わないほど観念的で大きな話をするな、と思ったのですが、これは直虎の、というより脚本家が直虎を通じて発したい、最大のメッセージなのだと思います。龍との会話は未来を向いています。直虎は龍に触発されてそのような未来を具体的にイメージすることができました。

 それでは政次はどうでしょうか。政次は「戦国の流儀」に通じた人物です。直虎は政次からトップに立つものの責任や策の立て方を学びます。しかし彼には直虎にはない「政治や戦の教養や訓練」がありますから、逆に直虎のように先入観なしに未来像を組み立てることはできません。したがって、前述のような「あるべき未来」について政次と語り合うことはできないのです。そこに龍のオリジナル・キャラクターとしての役割の独自性があります。やはり龍は政次のあとにくるべき役割を背負わされた人なのでしょう。

 

32話の歴史的背景とストーリーテリングのうまさ ~省略とディテール~

  前置きが長くなりましたが、ようやく32話についてです。「政虎なつ」については散々語ったので、ここではもう語りません。彼ら三人のパートは数分の出来事で、それ以外にも様々な動きがありました。そしてそれらは、直虎のリーダーとしての成長物語に直接関わるエピソードだと制作者が考えたため、時間を割いて描かれたものなのです。その展開についてはきちんと理解しておく必要があるでしょう。

 今回の主たる歴史的事件は、武田による駿河侵攻と、それに呼応した徳川の遠州侵攻です。この部分について考えるには、私は時系列を整理しておく必要があると感じました。これまでの展開はこうです。

 

1560年 桶狭間の戦いで直盛、今川義元死す(9話)

1562年 直親死す(11話)

1565年 直虎城主となる(12話)

1566年 徳政令をはねつける(15話)

1568年11月19日 徳政令を受け入れる(31話)

     12月12日 家康が井伊谷三人衆に領土の安堵状を渡す(32話)

     12月13日 徳川の遠州侵攻開始、武田軍今川館を焼く(32話)

            井伊谷三人衆来訪、近藤が政次を罠にかける(32話)

 

 31話で描かれた「虎松の首」事件は1568年の11月下旬頃のことだと想定されます。そして32話では1568年の11月下旬から12月初旬の20日間前後の事柄が描かれます。そしてハイライトは12月13日におかれています。この日は、武田軍が今川館を焼くという井伊家の悲願が成就した日でありながら、政次が近藤に罠にはめられ、悲劇が始まる運命の日となりました。この12月13日に照準を合わせて、希望の光が見えてきた時にさらに深い谷に突き落とされるという展開を「直虎と政次の個人的関係」と「井伊家をめぐる政治的状況」のパラレルで見せる構成は見事なものです。

 32話、まるで普通の戦記物の大河を見ているような既視感もありましたが、よく見れば単なる戦の説明に陥らず、要領よく史実を説明しつつも、本筋を「政次の業」が跳ね返る過程と、直虎が密約で命脈を保とうと奮闘する過程に保つように様々な工夫がこらされています。それらの工夫は、まさにこのドラマの白眉の一つである「省略の美学」「ディテールへのこだわり」によって表現されています。私が気がついたシーンをいくつかをあげてみます。

 第一に、武田軍による<薩埵峠の戦い~今川館襲撃>のプランを、信玄が地図に朱筆を入れることだけでその残酷さまで含めて表現しきったシーンです。今川氏真は当初薩埵峠で武田を迎え撃つ予定でしたが、相次ぐ離反によりそれが実現せず、とうとう館を襲撃されて駿府を追われます。この一シーンによって信玄の意図が明らか示されたお陰で、今川家臣の離反、関口の描写、氏真の絶望、逃走場面などもっと重要なシーンに尺をとることができました。

 第二に、冒頭で家康が遠州侵攻のプランを練る際に、地図に碁石を並べて説明するシーンです。井伊などすでに味方である勢力は黒い碁石を、堀江や浜名など沿岸の今川勢力には白い碁石を配置し、これから調略しようとする気賀は井伊方であるため黒い碁石を配置しています。<今川=白>、<徳川=黒>なのですね。政次の羽織からこぼれ落ちた白い碁石、ここにも何か関係があるのでしょうか。

 第三に、前述のシーンで徳川方が気賀について言及していることです。気賀の調略がうまくいかないため、陸ルートである井伊谷を通じて気賀方面に南下するというプランが家康の口から語られます。気賀とは堀川城のこと、堀川城ではこのあと政次も関わるであろうある事件がおきますが、まず井伊谷制圧があって、次に気賀(堀川)が来るのだ、という順番がさり気なく示され、それに向けての布石がここで打たれています。

 第四に、細かいことですが個人的にツボだったのは、この徳川の地図には引間が大きく書かれて、そこにのみ朱囲みがしてあることです。セリフでは何も語られませんが、引間城は浜松城のこと、新野左馬之助や中野直由が氏真に命じられて戦をしかけて戦死した因縁の相手であると同時に、家康の次の本拠地ともなる重要な城です。通常のドラマならばここで何か一言言わせたいところでしょう。そこをあえて何もいわない姿勢、潔いです。

 最後に、信玄が家康の書状で鼻をかむシーンです。「調略に手間取る輩など…」というセリフのインパクトが強すぎましたが、その前段で「望みの日までに掛川に入るのは難しいと書いてよこしおった」と、家康がなかなか掛川に入れない様子もさらりと入れています。掛川の攻防は今川氏真も関わる今後の重要事項のはずですが、これもくどくど説明せず、でも言及はしておく。制作者からの「抜かりはないですぞ」というメッセージのようです。

 このようなディテールの差し込みによる省略法の多用で、本話は駿河侵攻と遠州侵攻のエッセンスを示しながら、井伊谷が置かれた政治的状況を説明し、直虎と政次がその流れにどのように飲み込まれているのかを示しました。そして重要なことは、ここでも本筋と関係ない合戦シーンは一切描かれないのです。矢が飛んだのは、政次が罠にはめられたシーンのみでした。

 

政次、「必要悪」の正負の遺産

  このような歴史のうねりを背景に、政次が必要悪として演じてきた二面性の正負の遺産がブーメランのように跳ね返る過程が描かれました。それについてはすでにtweetしたので全ては繰り返しませんが、正の遺産はもちろん二面性を演じることで保たれてきた井伊家の命脈そのものでしょう。ようやく今川の支配から抜けるという希望の光が見えるところまでどうにか持ちこたえてきたのです。さらに政次がそれを宣言することで、小野家家臣団も自らの存在意義を正当化することができました。政次が一段高いプラットフォームに立って語る様はまさに演説風景、あのシーンはどこか演劇的な香りのする構成美に溢れた見どころでした。

 負の遺産は疑念と禍根の蓄積。政次自身がかつて「味方から裏切られるのは恐ろしい」と語った、そのままのことが彼自身に降りかかります。彼を疑うのは直之、近藤、瀬名、そして家康です。瀬名と家康の冒頭のシーン、「政次が誤解される」とハラハラした視聴者は多かったのではないでしょうか。そのあと直虎から書状が届き、誤解がとけて一安心したものの、最後の最後で近藤がさしはさんだ疑念に家康の心が揺れます。そこに瀬名の「小野は奸臣」という言葉がインクの染みのように広がり、視聴者の心も恐怖で震え上がります。小野が演じた悪役は必要悪ではあったが、決して代償なくやれるものではなかった。意図がどうであれ、「信用ならない人物」を演じたことのつけは払わなければならないのです。それは因果応報という砂に足を絡め取られてずるずると渦に引きずり降ろされるような恐ろしい感覚です。鶴はどのようにそのつけを払わされるのか、それを見ろというのなら仕方ない、見るしかないではありませんか。

 最後に「今川館が焼け落ちる」という表現の回収について述べます。駿府の館を攻め落としたのは馬場信春という人物のようですが、武田信玄は今川の館を焼けとまでは命令しなかったようです。城は資産ですから、よほどの理由がない限り焼き尽くすというのは理にかないません。しかしこの馬場という人はあえて今川館と駿府の町を焼き払ったとされています。今考えると、この史実から遡って「今川館が焼け落ちる」という表現を最初から何度も入れてきたのかな、と思えます。実際に「焼け落ちる」という異常事態がありえてしまったこと、でもそれは思い描いたような理想の展開ではなかった。なかなかに苦い伏線回収でした。

 

 まとめます。『直虎』に描かれる「歴史的事件」は、主人公の成長という本筋に密接に絡むもののみ、というのが私の仮説です。それに沿って、制作者が示してくれた「描かれたこと」と「描かれなかったこと」を読み取ることで、できればメッセージを正しく受け取りたい、そして33話に向けて心を整えていきたいと思います。

『直虎』の成立過程から<なつ事件>の真相に迫る

 前回までのエントリでは<なつ事件>について、ドラマの筋に沿って人物の心情の変化の読み解こうとしました。

 今回は脚本や製作の過程が伺える幾つかの資料をもとに、なぜこのようなことが起こったかを推理してみたいと思います。

 私はノベは2巻まで、公式ガイドブックは前後編とも持っていますが、読んだのは前編だけです。資料は主として公式ガイドブック前編の脚本家とプロデューサーのインタビュー、ほぼ日ウェブサイトの情報など、公開されているものです。ガイド後編やノベ3巻は読んでいないという限界があることを最初にお断りしておきます。

 一般にテレビドラマは、脚本家とプロデューサーで話し合いながら大まかな筋を決めていくとされています。題材や企画意図はプロデューサーが提示し、それを受けた脚本家がまずプロットを考え、その後セリフやト書きとして具体化していきます。

 『おんな城主直虎』の製作過程について岡本Pは、「森下さんはまず一気に50本分のプロットを書き終えた」と語っています。すなわち非常に早い段階でおおまかな展開は決まっていたのです。このことから脚本家は大河という一つの長い物語に明確な構造をもたせることを意識していたことが分かります。早い段階での全体の見通しがあるから、セリフやト書き執筆の段階で伏線の超ロングパスなどを入れ込むことができるのですね。

 この物語の主題は、城主直虎という人間の成長。すなわち中世日本でリーダーとして生きた一人の女性のビルドゥングスロマンです。そしてクライマックスは4つ設定されました。直虎が城主になる時(12話)、城主としてある業績を達成する時(今から考えると気賀城築城、すなわち27話)、武田に焼き払われる時(おそらく35~37話あたり)、そして伊賀越えであるとされています。

 それと同じくらい早く決まったのが、直虎をめぐる4人の男だったと思われます。初恋の人直親、幼馴染で、敵で、後に同志となる政次、直虎に違う世界を見せる男龍雲丸、そして直政。各人が4つのそれぞれの時期を直虎と密に関わる展開が企画されたことでしょう。

 この4人について、私は以前のtweetで「煎じ詰めれば主人公の成長過程に異なった影響を与えるために構造的に配置された、記号的な存在」であると書きました。決してこの4人に血が通っていないということではなく、先述したような物語の構成からみて、彼らは直虎という主人公の成長過程のそれぞれの段階に必要な栄養分を与えるような存在であり、その配置は自ら戦略的なものであらざるをえないという意味です。

 その中で政次の役割は、敵として、同志として、直虎の城主としての成長を刺激し促すことです。恋愛の筋は直親と龍に振られていて、政次にも少しはありますが、それが彼のメイン・ファンクションではありません。

 さて、本題のなつについて考えます。なつという登場人物は、この構造的に組み上げられたドラマにおいて、本来補助的役割をもつ人物です。少なくとも50本のプロットが構想された段階では、政次となつが夫婦約束をするということまでは決められていなかったのではないかと推測します。

 森下さんはインタビューで「脚本を書いているうちに、この人がこの人を好きにならなかったらおかしいよね、という気づきがあるので、それは書いている過程でどんどん反映させていきたい」という趣旨の発言をしています(出先で、手元に資料がないので逐語ではありません)。私はずっとこの「気づき」はなつのことを指していると思っていました。だからなつが政次を熱く見つめるシーンがあったり、25話で抱きついたりしたとき、「このへんに入れてきたのね」と思っていました。

 しかしそのときは、まさか政次がなつにプロポーズするとまでは予測していませんでした。それで改めて考えてみて、「この人がこの人を好きにならなければおかしい」というのは、もしかすると政次がなつを、ということだったのかもしれないと思い当たりました。あるいは全く他の人のことを指していたのかもしれません。

 ここではひとまず、「なつが政次を」という仮定で話を進めます。先述したようになつは物語中で補助的な機能をもった人物です。その機能とは11話までは玄蕃の名代として井伊家と小野家の架け橋になることです。そして15話以降は、なつ自身としては政次を支えることがでしたが、それと同時に物語の構成上は亥之助を小野家に戻すということが重要だったと思います。亥之助は小野の男子として育たなければなりません。政次の薫陶をうけ、その意思を引き継いで直政の家臣として表舞台を歩く。そのためには亥之助が新野の館で育つわけにはいきません。

 この設定が決まった時点で、作者はなつの最終的な処遇に困ったはずです。11話までは単に実家に戻らずにいたというだけでしたが、15話では外面的にはさしたる必要性もないのに小野家にわざわざ転居したのです。当時の感覚でも好奇の目にさらされたことでしょう。そして小野家が敵ではなくなった瞬間になつ自身の役割は終わります。

 その時点で政次になつを追い出させることはできたでしょうか。選択肢は2つありました。一つは政次がその時点でもまだ身も心も直虎に囚われていたことにして、なつの思いを拒絶させ、何とか世間体を損ねない処遇を考えさせる、そしてもう一つはなつと結婚させることです。

 残念ながら制作陣は後者を選びました。もともと政次には一般的な意味での恋愛の筋は振られてないはずでした。しかし鶴の片思い設定をずっと引っ張り、直親や龍と三角関係的な緊張感を出すことで、このドラマの恋愛面での見どころを作りました。その結果、鶴は少年期の初恋をずっと引きずっていい大人になり、ついに死に際まで来てしまいました。そこで制作陣はもしかしたら渡りに船と、なつを利用して鶴をおとわから半分だけでも卒業させようとしたのかもしれません。半分とは、恋愛的な意味で両思いになることを永遠に放棄することです。そのゴールはなつと結婚までしなくても、他の手段である程度は達成できたかもしれません。直虎に拒否されるという展開でもよかったでしょう。しかしあえてそのルート選んだのです。

 それはもしかしたら「下手」ではなかったかと現時点では思います。多くの視聴者がネガティブな反応を示しました。この反応は放映直前にはある程度は予測されていたと思いますが、かなり前倒しで進められていたという製作過程では予想できなかった要素もあったのではないでしょうか。

 その一つは政次を演じる高橋一生さんの人気とその演技です。高橋さんのキャスティングは早い段階で決まっていて、当然『カルテット』のはるか以前でした。森下さんはインタビューで、『民王』が好きで、中でも高橋さん演じる貝原のキャラクターを気に入っていると述べています。森下さんがイメージした政次は、貝原のような無表情で感情の起伏に乏しい人物だったのではないでしょうか。

 しかし予想に反して、高橋さんは政次を情感たっぷりに演じました。11話までは直親よりも共感を呼び、12話以降もおとわへの愛が全身から漏れ出すような演技で、ドラマの視聴者のコア層の気持ちを掴みました。その結果多くの視聴者が政次と直虎の関係に胸をときめかせ、何かが起こることを期待しました。

 もう一つの誤算は、龍雲丸との恋愛話に思ったほどの関心が集まらなかったことです。インタビューを読んでいると、プロデューサーと脚本家が龍雲丸に大きな期待をかけていたことが分かります。岡本Pは政次のことは「切っても切れない因縁の相手」とさらりと表現しているのに、森下さんは「龍雲丸とは感情的にごちゃごちゃしてほしい」と述べています。おそらくプレ・プロダクションの段階では柳楽さんにもっと女性の関心が集まり、龍と虎の恋の行方を気にする人が増えると予測していたのではないでしょうか。しかし現実的には龍メインの回は視聴率が低迷を続け、批評も芳しいものではありませんでした。そして視聴者は相変わらず政次と直虎の恋愛を期待し続けたのです。

 ここで制作陣の考えについて2つの疑問が浮かびます。一つは本当に龍と虎の恋愛に関心が集中し、政次と直虎に対する期待が薄れると思っていたのか、もう一つは、仮に龍と虎に恋愛の焦点が移っていたとしても、政次となつの唐突な結婚話に視聴者が納得すると思っていたか、ということです。

 もし2つについて「そうだ」と考えていたとすると、かなり甘い展望だったと言わざるをえません。今回の政次となつの婚約は、1話から鶴と鶴の思いに感情移入し、32話までずっと鶴とわを応援してきた多くの視聴者にとっては、容易に受け入れられるものではありませんでした。「それを狙った」と言われても、仮に色々な理屈をつけて頭では理解したとしても、気持ちの面で納得できるものではありません。そして本来感動を生むべく編み出される「物語」において、感情的なリアクションはとても大切なものです。そして制作者は、主たるターゲットとなる視聴者の知性を信頼しなければなりません。どんなに鬼畜な展開でもそこにきちんとした筋が通っていれば視聴者は受け入れるでしょう。しかし1話から丁寧に描いてきた優しく賢い鶴に「好きな人はいるけど、お前も離したくない」というようなプロポーズをさせてはいけません。それは「人生思い通りにいかないもの」という一般論とはまた別の話です。

 そろそろまとめに入ります。政次がなつにプロポーズする設定は、脚本家が50本のプロットを書き終えたはるか後、15話以降のセリフやト書きを書く中で徐々に生まれていったものではないかと思います。なつはサブキャラながら多くの役割が盛られた設定で、役割を演じるうちにその存在の重要性がどんどん大きくなっていき、とうとうその処遇に困った、そして制作者が選んだ結論があの展開なのではないか、ということです。

 もちろんこの考えは全て間違っているかもしれません。単なる一つの仮説、しかも32話時点での途中経過ということでご笑覧ください。

『おんな城主直虎』32話「復活の火」②風穴を塞ぎにいく男、政次と直虎

 政次となつのシーンに先立つ直虎との邂逅。これはもう色々な解釈が成り立つ味わいの深いものでした。以下はその一つに過ぎません。

 直虎が政次に城主の座を譲ると言ったとき、政次はとても素直に、直虎の方にトップとしての資質があると返しました。政次にコンプレックスを持ってきた直虎にとって、師であり敵であり同志でもあった彼からの初めての認証と賞賛の言葉は、本当に嬉しいものだったでしょう。これまで政次が直虎に向けてきた表情は殆どの場合堅くて怖く、直虎はいつもその表情を恐る恐る伺ってきました。まるで厳しい恩師にお墨付きをもらったような喜びだったはずです。

 同時に聡い政次は城主を降りて一人の女性になったおとわについても一瞬思いをめぐらしたはずです。自由に、安全に生きてほしいと願った愛しい女性。自分が城主になればそれが叶うかもしれない。しかし政次も直虎も、井伊谷にその身を捧げて生きる人たちです。自分のことよりも公共の利益を考えます。公人としての政次が曇りのない目で見たとき、客観的に直虎の方にトップの資質があると認めるのは当然の成り行きでした。そして幼少時から自分が領主になりたいと密かに願ってきた直虎、「男子でもなく、子もなさず、無用の長物」と絶望してきた直虎にとって、その存在意義を具体的な賛辞とともに肯定することは政次にしか贈れない最良のギフトだったと思います。

 政次は自分の愛情とはどのように折り合いをつけたのでしょうか。私は以前に行った考察で、政虎の関係性について、「直虎の城主としての成長過程に必要な葛藤や相克、対立の相手として設定された政次と恋愛関係になることはできない」という趣旨の考えを述べました(https://twitter.com/i/moments/896247161112870912)。しかしこの考えが当てはまるのは、直虎が成長過程にあって、対立軸が必要な時だけでした。今川館が焼け、徳川の国衆として生きる展望が開けたいま、このすべての縛りがとけて、やっと二人がロマンティック・ラブも含めた唯一の相手になる可能性が見えたのです。未来がないとメタ的に分かっているという絶望的な条件のもとで、あえてすべての選択肢がありうるように思える一瞬の風穴を作者が意図的に開けたとも言えます。

 しかしその風穴は、閉じられることが前提の束の間の夢でした。脚本は残酷にも、そして若干の希望を交えて、政次によって閉じさせるように仕組むのです。

  脚本が巧みなのは、まず殿と家臣の仮想入れ替えのシーンで、この状況のぎこちなさや違和感が表現されたことです。主従の関係が自然になりすぎてしまい、それ以外の関係はもはやこの二人にはフィットしない。そういう客観的、外面的状況が示されました。

 内面的にはどうでしょうか。城主であれ、なかれ、今川の支配を抜ければ還俗はできます。結婚や恋愛の可能性は開かれ、しかも城主でなければその自由度は格段に高まるのです。しかし政次はその一瞬、玉砕覚悟でその万が一つの可能性にすべてを賭けようとはしませんでした。なぜでしょうか。

 一つは、ロマンティック・ラブのパートナーとして直虎が自分を選ぶことを想像することができなかったからだと思います。幼い頃からの自分を振り返らなかったおとわ、常に他人のために尽くし、亀との結婚すらあきらめたおとわ。11話で直親におとわとの婚姻を勧められ断った政次は「次郎様は望まれぬでしょう」と言いました。そしておそらくその時点でその観察は正しかったのだと思います。誰よりもよくおとわを見てきた政次には、おとわの望むもの、望まないものが本能的に察知できたのです。

 しかしおとわのモットーは「やってみなければ、分からぬではないか」です。人の気持ちは永遠ではありません。直親もあの時「分からぬぞ」と言いました。政次はあの一瞬、なつに言った言葉をおとわに言うべきでした。何も望まず、見返りを求めないとしても、心からの気持ちが人を動かすことはあります。おとわの心は石ではありません。鶴の心からの愛の告白に、心が動いた可能性はあったのではないかと思います。仮にその時に返戻がなかったとしても、言うこと自体に価値がある。好意の返戻作用は時間をおいて起こることもあります。もっというと、城主として認めることと、好意を伝えることは二者択一じゃない。両方言えばよかった。

 しかしあの時点では政次も直虎も、どちらかがすぐに死ぬということをリアルに想定してはいませんでした。二人は戦後の井伊谷での暮らしを想像し、楽しみにしていたのです。失敗した時の気まずさを考えると玉砕覚悟までして突撃をする動機が、政次にはなかった。

 そして公人としての但馬の判断により、後先考えず情に流された私人としての感情よりも、井伊谷全体を考えた発言が優先されました。あの「風穴」はドラマ上は不意に訪れた一瞬として劇的に描かれましたが、政次の頭のなかには戦後の直虎の還俗は想定済みのシナリオだったと思います。そして当然のように直虎を城主に据え直し、自分はそれを支えると考えていた。もしかしたら直虎と他家の婚姻も調略の一環として考えていたかもしれません。だから一瞬の誘惑に打ち勝って、正しいと思える返答をしたのです。

 私はノベライズは2巻までしか読んでいませんが、政次の直虎に対する感情の温度はドラマよりは低めに描かれています。ノベライズの政次はあらゆる感情表現が抑制された、もっと冷たい感じのする人物で、突然後先考えずに行動するような人物ではありません。しかしドラマの政次はずっと表情豊かです。高橋一生さんがあさイチで言っていた「突然感情が爆発する沸点のようなもの」が、ノベライズより強調して描かれます。あの不思議な空間、雰囲気のなかで、ドラマ政次ならば、言えたような気もします。

 なつのことが頭にあったから言わなかったのかどうかはよくわかりません。私に分かったのは「政次は素直に城主として直虎の方がふさわしいという客観的判断を伝え、それが直虎には何よりのプレゼントだった」ということと「愛情の返戻が当然ないものと思い込み、すでにそれを期待もしていなかったので、言ってもせんないこととして言わなかった」という二点だけです。

 ただし、基本的には、この邂逅に至るまでの長い年月をかけて、政次の直虎に対する気持ちのうちの恋愛の割合は緩やかに下がっていき、それと反比例してなつに対する思いは緩やかに上がってきていたのだと思います。

 前エントリの冒頭に胸熱だと書いたのは、たとえおとわの前では遠慮がちで、自分の気持ちを全部はさらけ出せない鶴のままだったとしても、おとわとの関わり方を自分で決め、おとわ以外の女性との未来を思い描くところまで鶴がたどり着いたからです。それは、悲しく、痛い成長だったけれど、おとわを守らなければならないという使命感や、求めても得られないものを求め続けるという呪縛から鶴丸が自由になった瞬間でもありました。今後彼は何らかの形で井伊谷かおとわのために命を捨てるのだろうけれど、この時点でなつを選ぶことを見せることで、彼は囚われていたのではなく、自由だった、守りたいから、選びたいから、そうしたのだ、ということを描く布石になるのかな、と漠然と感じています。またなつや家臣や不自然なほど雄弁だった政次が、直虎には全てのことは言えなかったということは、それは後から伝えられて、おそらく直虎を苦しめる要素となるのではないかと思います。

  さて、最後に視聴者の視点です。私はノベライズ未読だったので、なつへのプロポーズには心底驚きました。まさかそこまでするとは。政次と直虎がありえないと気がついた日から、それでも何とか最後だけでも、と期待してきました。しかしそのルートが32話時点では塞がれたように思われるうえに、傷口に塩を塗るように、なつさんというストッパーが現れました。

 正直に言うと、政次には恋愛や性愛を含めた直虎へのはちきれんばかりの愛をハイテンションで最後まで維持してもらいたかった。そして直虎には男として政次を受け入れる度量を示してもらいたかったです。

 だから、あの奇跡のような一瞬の風穴を開けてもらったのに、それを自ら塞ぎに行く政次が歯がゆく、もどかしい思いがしました。しかしその穴は神の視点で見る我々には二度と来ない機会だった分かっているのに、自分で折り合いをつけた未来のルートが見えている政次にはそれが分かりません。作者は「もしも」の可能性を我々にだけ見せて、それを政次自身に塞がせざるをえないような状況をも同時に示しました。少なくとも可能性は見せてくれたことに感謝しつつも、政次自身が塞ぐことを選んだという状況を我々につきつけ、それを飲むように迫ってきているように思えます。

 これについて、現時点での考えを述べておきます。

 第一に、亀と鶴に現世での別の配偶者を与えることで、三人の結びつきは井伊谷を介した精神的なものであると印象づけるというものです。私は亀が帰参したとたんに別の人と結婚した展開に唖然とし、「ヒーロー役とのロマンティック・ラブを禁じ手としたところから始まるこのドラマ、面白い」とtweetしました。しかもその禁じ手を機に「止まっていた運命が動き出した」というナレーションが入るのです。これはこのドラマにおいて結婚や婚約はゴールではなく、ましては幸福を保証するものでもないことを示しています。実際、直親としのの結婚は幸せなものとは言えず、直親と直虎との夫婦約束も二度に渡って破れ、政次となつの結婚も結局は実現はしません。このドラマで重視されているのは、結婚していない直虎と直親、直虎と政次の関係です。

 第二に、不憫とされていた政次に現世の相手をあてがうことで、政次の不遇感を軽減し、この先直虎が龍を含めた別の男に向かうことに対する視聴者の嫌悪感を減らそうとしたのかな、と思います。

 第三に、政次も生身の男だと意識させることで最後の悲劇感を煽る作りなのかもしれないと思います。だったら直虎との夫婦約束でもよかったような気がしますが、直親のときと違い、今生の別れとは思っていない状況で、突然夫婦約束まで話を持っていくのは強引です。それに私の考えでは物語の構成上恋愛の筋は龍に振ってあるので、それとも矛盾します。

  徐々に明らかになりつつある、政次にとっての直虎、井伊、井伊谷。33話予告で龍が「あの人にとって井伊なあんたのこと」と言っていた、あれが解答の一端かと思います。しかしこんなに自由を費やしても、まだ書き足らない、書いていないことが多いドラマ、視聴者の人生も狂わせていますね。

『おんな城主直虎』32話「復活の火」①愛することは赦すこと、政次となつ

 さて、そもそもこのテーマについて書くために始めたブログ、自分の中ではやや苦手分野ではありますが、登場人物の関係や心理を中心に思うことを書いてみたいと思います。

  32話、初見では鋭い衝撃、再見ではボディーブローのような鈍い痛み、しばらく言葉を失い、そして鶴丸少年の顔が脳裏に浮かんで胸が焼けたように熱くなり、涙がこみ上げました。あのかわいい鶴丸少年、おとわの背中をひたすら追いかけ、井戸では枝をシャンシャンしながら慰め、時に叱咤し、見つめ続けてきた、賢く、まっすぐで、優しく、強い、私の愛しい愛しい鶴丸が、少年時代の思いにけじめをつけ、たとえ不完全で、弱く、愚かに見えても、自分の立ち位置を自分で決めてすっくと立ちあがったように思えたからです。

 政次となつのシーン、私の印象はこうです。なつに「徳川が攻めてくればすべてが終わり」と別れを示唆されたとき、政次は純粋に虚をつかれて、反射的に「それはいやだ」と思った。それがはっきりと表情に出ていたと思います。政次はもうずっと、ぼんやりとながらもなつの処遇を考えていたのだと思います。外面的には、世間から後ろ指をさされてでも自分に寄り添ってくれた人を、役目が終わったからといって放り出すわけにはいかない。父も兄も姉も甥も去ったなつを心細い境遇にはしておけない、と。

 内面的にはどうでしょうか。政次がなつに感じる感情の第一は安心です。政次はなつのまえでよく酒を飲んでいます。家での晩酌はプライベートな空間でリラックスしていることの象徴、それを共有しているということは、なつの前では仮面を脱いで素の自分を出してきたということです。最初からそうだったとは思いませんが、年月を重ねるうちに、だんだんそのようなうちとけた関係になってきたのでしょう。

 第二は信頼です。なつは政次のために何度も助け舟を出してきました。父の敵であり、獅子身中の虫である小野に自ら飛び込んできてもくれました。その信頼があるから、政次はなつに盗賊の逃走支援などの危険なミッションも託したのです。

 第三は暖かい家庭生活に感じる心地よさです。家に帰っても一人ではなく、元気な子どもの声が響き、心を込めて衣食の心配をしてくれる優しい女性がいる。それは家族の愛情に乏しかったと推測される政次にとって、手放すのが惜しいものだったに違いありません。

 さて、では信頼と安心と心地よさは、誰かと結婚するに十分な条件でしょうか。現在の感覚から言えばおそらく違うのでしょう。視聴者の違和感の根本もここにあると思います。古臭いクリシェで恐縮ですが、ロマンチック・ラブにおいては、性的欲求を通底として一対一の男女の間で結ばれる恋愛感情が結婚の前提になるべきだとされています。政次のなつへの気持ちには、この恋愛感情の温度は低いと思います。しかし私は高橋一生さんの演技から、それぞれの温度は低めでも、性的欲求、独占欲、美しい女性に惹かれる気持ちなど、現代の恋愛結婚の基準のしきい値をぎりぎり超えてくるものを感じることができました。それらは自覚的にセカンド・ベストを選ぶ諦めの気持ちではなく、なつへの積極的な気持ちだったと思います。これが第四の感情です。

 ではその第四の感情はその場で別れを切り出されたリアクションとして突然湧いてきたものなのでしょうか。私は違うと思います。その気持も、徐々に彼の中に育っていったものです。18話で駿府から肉球落雁のみやげを買ってきた時、政次はなつの喜ぶ顔を想像し、相手を思いやりながら選んだのだと思います。

 また25話でなつが抱きついたとき、私は政次がなつの手をきちんと触って、決して振りほどこうとしなかったことに驚きました。あれを「拒絶」だとは思えませんでした。それくらい優しい空気を少なくとも政次はまとっていたと思います。なつを傷つけたのは、政次と直虎との見えない絆を察知するなつ自身の感受性の強い心でした。

 では結婚を切り出すタイミングがなぜ今なのか、もっと早ければ、というのは本当にその通りです。それが男のエゴに見える一つの理由でしょう。しかしこれは純粋にドラマの構成上の都合だと思います。

 このように外面的だけではなく内面的な動機も持っている政次が、なぜ婚姻を「形だけのもの」と言ったのか、そしてその後の二人の抱擁はいかなる意味を持つのでしょうか。

 まず「形だけ」と提案したのは、なつが自分と実質的な夫婦になる、すなわち性的関係を結ぶことを望んでいるかどうか、政次には分からなかったからだと思います。ただでさえ人の気持ちには臆病な政次、まして相手は弟玄蕃の妻です。その遠慮を察したなつは、すぐさま行動に出ました。「義兄上をお慕いする」とはっきりと言葉で伝え、そして自分から政次に体を預けて、実質的な夫婦になりたいと意思表示をしたのです。政次が少し戸惑ったのは、「自分と実質的な夫婦になりたいと思ってくれているのか」と驚いたから、ぎこちなく手を添えるのは、おそるおそるもその気持に応えようという意思の表れだと思います。私は政次は、初めて自分の意思で、自分から、自分の好きな人に、自分だけのものになってほしいと告げることができたのだと思います。

 もちろん完璧な関係ではありません。自分の直虎に対する愛情が消えたわけではなく、直虎にぶつかって玉砕したわけでもない。そのことをなつに告げることで、なつを傷つけ、一生心理的な負担を背負わすことを強いたわけです。政次を責めることができるでしょうか。私にはできません。直虎を愛したことも、それが叶わなかったことも、それでも思いを消しされないことも、彼が計画したことではなかった。そしてなつに感じる信頼や低温の恋愛感情も事実で、さらに外面的にも何らかのけじめが必要とされている。政次は全てのカードをテーブルに置いて、フェアに勝負したと思います。

 そしてなつには選ぶ余地はありません。愛した人が、別の人を愛していて、でもその愛は事情があって成就しない。選択肢は2つ、その人を諦めるか、それとも別の人を愛する人をより大きな愛で包み込むか。後者は自分が彼と同じ次元に立ってはうまくいきません。同じ次元に立てば、しのと同じ苦しみが待っています。高次の愛を貫ける覚悟があればこそ、後者を選ぶことができる。究極の愛は、愛する対象が自分を愛するかどうかすら問わないもの。相手の欠点や罪をもなかったものとすること。愛は赦しです。私はなつはそれができる可能性のあった人だと思います。だから政次が選んだのです。

  そのような愛のリファレンスとして思いつくのは、河惣益巳『サラディナーサ』(白泉社)で主人公サーラがリカルドに言うプロポーズ「今でもレオンが一番好きで、ドン・ファンも好き。でも生きている人間ではお前が一番よ、それじゃダメなの?」(記憶をもとに書いているので逐語ではありません)。サーラの男たちに対する愛情をずっと見てきて、それでもサーラから離れることができないリカルドには、もちろん選ぶ余地などない。

  ちなみに『サラディナーサ』は16世紀のスペインとイギリスを舞台にフェリペ2世治世下の海戦を描いた歴史ドラマ。大河な上に歴史上の人物がたくさん出てきて、とっても勉強になるおすすめのマンガです。ぜひ!そして私に感想を語ってください。

  長くなりました。政次と直虎は別エントリーに分けます。