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青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』40話~大河ドラマにおける歴代女性主人公と直虎~

女性主人公の役割の分類

 40話では井伊の家名再興のために草履番として働く万千代・万福の奮闘と、それに対する松下、近藤、旧井伊家の反応が並行して描かれました。見どころは家康と直虎の直接対決、松下源太郎の寛容さ、万千代の創意工夫など色々とありましたが、やはり一番のハイライトは直虎と万千代の対立でしょう。

 39話以降は『直虎』の第三幕、すなわち「和解」の章です。私も直虎がこれまで培った経験や知恵を生かして困難を解決するような展開を予想していました。そして今話で確かにそのような展開はあるにはあったのですが、視聴後の印象は単に胸のすくようなスッキリとしたものではなく、どこかほろ苦い後味の残るものでした。そして改めて、ここからが直虎の本当に苦しいところなのだと気付かされました。

 「直虎の苦しいところ」とはどういうことでしょうか。それについて説明するために、まず過去の大河ドラマの主人公が、50話という長きに渡る期間にどのような役割を演じ分けながら「主人公としての妥当性(relevancyという英語がぴったりくるのですが、よい訳が思いつきません…)」を保ってきたのかということを振り返ってみたいと思います。

 これまでの大河ドラマの主人公の多くは、多かれ少なかれ歴史の中で何事かを成し遂げた人(=多くの男性主人公)か、歴史の中で何事かを成し遂げた人の近親者(=幾人かの女性主人公)でした。男性が主人公の場合は、その活躍のパターンがさらに二つのタイプに分けられます。

 

A.全時期の主役…超有名人物。人生の最初から最後までがよく知られている。

B.一時期の主役…比較的マイナーな人物。一時期に歴史の表舞台に立つが、あとは裏方。

 

 「A 全時期の主役」のタイプの例としては織田信長豊臣秀吉徳川家康などがあげられます。このタイプを描く際には主人公の「立て方」にはそれほど苦労はありません(ただしよく知られた人物であるため、いかにして独自性を出すかには苦労があるでしょう)。

 「B 一時期の主役」の例としては真田信繁山本勘助直江兼続などがあげられます。このタイプの主人公の人生には次の二つの時期があります。

 

B1.主人公が歴史の表舞台に立つ時期

B2.主人公が歴史の裏方にまわる時期

 

「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」にはその人物の活躍そのものに焦点をあて、「B2 主人公が歴史の裏方にまわる時期」には彼らを「歴史の表舞台に立つ人」に絡ませることで主人公を「立てて」いきます。このB2の時期をどう描くかが作者の腕の見せどころでしょう。話がわざとらしくなったり、こじつけになったりすることなしに、裏方の時期でも主人公がドラマの主役としての必然性や存在感を持っていることを視聴者に納得させなければならないからです。

 ちなみに男性主人公の場合は主人公が裏方の時期の面白さを保つ手段として、しばしば「群像劇」という手法が用いられます。代表的な例が『真田丸』『新撰組!』などでしょう。『真田丸』などは主人公をほぼ傍観者のようにすることで、多彩な歴史的有名人を投入し、観客を飽きさせませんでした(ただしその『真田丸』でさえ、信繁の秀吉や茶々との過剰な接触には若干の「こじつけ」感が感じられましたが)。

 それでは女性が主人公の大河の場合はどうでしょうか。「A 全時期の主役」タイプの女性はほぼいませんので、女性主人公はその大多数が「B 一時期の主役」となります。彼女らはその多くの時期を「B2 裏方」として過ごしますが、誰の裏方になるかによってさらに次のようなサブカテゴリーに分かれます。

 

B2a. 配偶者の裏方

B2b. 父の裏方

B2c.  兄の裏方

 

B2aが最もポピュラーで、篤姫、八重、文、江、寧々、まつなどほぼすべての女性主人公がこの時期を過ごしました。B2bの時期を過ごしたのは篤姫、B2cの時期を過ごしたのは八重、文などです。

 これまでの女性大河は上記のパターンをいくつか組み合わせながら、女性主人公のシリーズ全編に渡る主役としての妥当性を担保しようと試みてきました。例えば八重は前半は兄の裏方として、後半は配偶者である新島襄の裏方として働きました。文は前半は兄の裏方として、中盤と後半は夫の裏方として活躍しました。江や文などは自分自身の歴史的業績はほぼ皆無でしたので、裏方としての働きの描写のみで全50話を乗り切らねばならず、作者には苦労が多かったことでしょう。女性主人公の大河で「群像劇」をやった人は、私はまだ知りません(やってみると面白いかもしれません)。

 このように考えてみると、38話までの直虎はB2a~cのどのパターンにも当てはまっていないことが分かります。すなわち直虎には配偶者も兄も有名な父もなく、「歴史の表舞台立つ男」の引き立て役となったこともありませんでした。直虎は女性でありながら独立した「個」として意思決定を行い、スケールは小さいながらも歴史を直接動かす立場にありました。すなわち38話までの直虎は、大河の「B 一時期の主役」のなかでも「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」が非常に長い、破格待遇の主人公だったのです。このような視点で見ると、直虎が過去大河と比較していかにユニークで多くの可能性を秘めた女性主人公だったかが分かります。

 しかし『直虎』も第三幕に入り、ついに直虎が「B2 裏方にまわる時期」を迎えてしまいました。直虎にとっての「歴史の表舞台で活躍する男」は養子の虎松です。すなわち直虎は今後

 

B2d. 子の裏方

 

して働きつつ、「主人公としての妥当性」を示していかなければなりません。

    過去大河において「子の裏方」として活躍した女性主人公はいたでしょうか。まず思い浮かぶのは春日局です。しかし彼女の場合は(主君の)子の養育そのものが彼女のキャリアですので、裏方という言い方は当てはまらないかもしれません。篤姫にも、後半に若干それに近い要素がありました。しかし彼女の場合はドラマの後半に最大の歴史的業績があるため、裏方であったという印象は強くありません。「子の裏方」というパターンは意外とめずらしいのかもしれません。

 しかしよく考えてみれば、直虎がいずれは直政の裏方となるという展開は、企画の当初から織り込み済みのものだったのです。そもそも直虎が大河ドラマの主人公に選ばれたのは、彼女に、後に井伊直政という豪傑を生み出した井伊家を女性地頭として率いたという業績があったからです。単に女性地頭だったというだけでは主人公にはなり得なかったでしょう。そして「歴史の表舞台で活躍する男」直政がひとたび登場してしまえば、直虎は表舞台から退き、裏方にまわらざるをえなかったのです。

 ただし『直虎』の制作陣は、「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」から「B2 裏方にまわる時期」へのシフトをできるだけ遅くしようとしたのだと思います。確かに直政の存在を前提とした直虎の人選ではありましたが、その足かせをできるだけ取り去り、純粋に直虎という女性の物語としてこの大河を構築しようとしたのでしょう。それが女性PD、女性脚本家、女性作曲家という女性がブレーンを務める制作チームの矜持でもあったのではないでしょうか。

 直政の知名度や、菅田将暉さんの人気を考えると、直政の登場はもっと早くてもよかったはずです。しかし直虎が「B1 自分が主役」の時期に少しでも長くとどまり続けるために、直政の登場を可能な限り後ろにずらしたのでしょう。直虎をあくまで「個」として立たせようとした制作者の姿勢に、私は好感を持ちます。

 40話で井伊家を再興しようとする万千代と、井伊家再興に反対する直虎は対立します。私は以前のエントリで、34話以降に直虎が井伊家再興を諦める展開を若干残念に感じたと書きました。今でもその気持に変わりはありません。しかし40話以降の展開を見ていると、ひょっとすると制作陣は後に直虎と万千代の対立の構造を作るため、あえて直虎に一旦井伊家再興を諦めさせたのではないかと考えるようになりました。

 というのも、直虎が万千代と同じ方向性を向いて最初から一緒に井伊家を再興しようとする、あるいは直虎が万千代を操って再興させるような展開では、過去の大河の女性主人公の行動パターンとかぶるうえに、直虎、万千代それぞれの個性が際立たず、直虎の独自性や存在意義も若干薄まってしまう(直虎と万千代は同じ考えだから)からです。

 少し話を戻して、「B2 裏方」の時期における女性主人公の役割のパターンについてさらに分解して考えてみましょう。裏方の時期に過去大河の女性主人公がとる行動には次のようなものがあります。

 

B2ア.「歴史の表舞台に立つ男」から学ぶ

B2イ.「歴史の表舞台に立つ男」を支える

B2ウ.「歴史の表舞台に立つ男」を操る

 

 「B2ア」は「男」に知識、経験の面で劣る場合(ただし能力が劣っているわけではない場合が多い。例としては八重、文など)、「B2イ」はほぼ同等の場合、「B2ウ」は「男」に優る場合です。大河では女性主人公の能力の高さや有用性を示すために「B2イ 支える」と見せかけて「B2ウ 操る」さまがしばしば描かれてきました(まつ、寧々など)。直虎も対万千代においてはそのような展開になる可能性は秘めていました。というのもこれまでの通説では、虎松の徳川仕官は直虎が周到に準備し、一家をあげて計画的に実行したものとされていたからです。

 しかし『おんな城主直虎』においては上記のB2ア~ウのどのパターンも採用しませんでした。その代わりに

 

B2エ.「歴史の表舞台で活躍する男」と対立する

B2オ.「歴史の表舞台で活躍する男」を教える

 

という道を選んだのです。そうすることで万千代の主体性を曲げず、同時に直虎の「個」を際立たせ、さらに直虎に万千代に対して知識や経験の面で一日の長があることを示そうとしました。

 しかし、いかに直虎の「個」を立てようと努力しても、第三章の直虎が万千代の裏方であるという事実は変わりません。これ以降はこのドラマも過去の女性大河と同様に、直虎を「歴史の表舞台に立つ男」に有機的に絡ませる工夫をしていかなければなりません。40話、特に家康とのシーンを見ながらそのことに思い当たった時に、私は何とも言えず寂しい気持ちになりました。ああ、直虎がささやかでも自ら歴史的業績を残した時期は終わってしまったのだな、と。

 ただしこのドラマの主役はあくまで直虎であり、『おんな城主直虎』は直虎の自己形成の物語です。直虎が最後まで成長する存在であり続け、主役としての妥当性を示し続けてほしいと思います。

 

直虎と万千代の対立の構図

 40話で描かれた直虎と万千代の対立の構図は次のようなものでした。

    万千代は松下の家に背いても、両親に恩を仇で返したとしても、井伊家の家名を再興させたいと思っています。

 直虎は旧井伊家一族が松下に世話になっているという義理があることと、近藤の治世のもと波風を起こさせずに民の暮らしを改善していく現在のシステムが起動に乗っていることから、井伊家の家名を再興させることに反対します。

 単純化すると「名」と「実」の対立と言ってもよいかもしれません。もともとは井伊家のために出家し、井伊家のために「直虎」になった直虎ですが、彼女は様々な挫折を経て「家などない方がやりやすい」という結論に達しました。直虎は非常にプラグマティックな人物です。その強みがあるからこそ、柔軟に方久の案などを取り入れて様々な改革をすることができました。もともと家が大切だと思っていても、その考えに固執せず、実態に合わせて考えのフレームワークを変えていくことができます。

 しかし万千代には直虎のように経験からくる知恵がありません。子どもの時の純粋な誓いそのままに、「殿といっしょに井伊を治めていく」「自分は井伊の虎松だ」ということを信じて疑いません。

 直虎から見れば万千代は自己中心的で視野が狭く、万千代から見れば直虎は「転向」した裏切り者のように映ります。それはそれぞれの経験や生きてきた環境から来る違いであり、どちらが正しく誤っているわけでもありません。

 第一ラウンドの序盤はまず万千代が攻勢に出ます。直虎を「そなた」「百姓」呼ばわりし、その影響力の小ささを知らしめようとします。しかし家康の直虎に対する厚遇を目の当たりにし、彼女の業績の大きさを改めて思い知らされます。

 家康と直虎の対面は、様々な意味で感慨深いものでした。中でも家康が「万千代を育てる」という視点を直虎に与えたことには大きな意味がありました。かつて人材難で苦労した直虎だからこそ、経験的に理解できる視点です。

 しかし同時にこの対面は、前項でも述べたとおり直虎の裏方へのシフトを強く印象づけるものでもありました。今までの直虎ならば、家康という権威がなくとも、彼女自身の社会的地位によってその存在の正当性を保つことができました。しかし「百姓」であり「廃された家の先代」である今の直虎は、その存在や言葉の重要性を家康に権威づけてもらうしかありません。

 今思えば、これまで家康に何度も井伊家に借りを作らせ、直虎に対する興味や尊敬の念を抱かせておいたのは、こうして彼の権威が必要になった時のための伏線だったのかもしれません。

 中盤は直虎が盛り返した第一ラウンドですが、万福の登場により再び形勢が変化します。万福は万千代が井伊家再興を一番直虎と喜び合いたいと思っていたこと、そしてそもそも万千代がそこまで再興にこだわるのは、直虎の一言が原因の一つでもあったことを知らせます。そして最終的には痛み分けのような形で、しかし最後の最後には直虎が万千代に策を授けるという一撃を加えることで、第一ラウンドは終了となりました。

 このような二人の対立はこの先も何度か続いていくのでしょう。そしておそらく最終的には二人は心を合わせて井伊家再興に向かって歩みを揃えていくのでしょう。

 しかしそこに至るためには大きな障壁が一つあります。それは直虎と万千代の物理的な距離が離れているということです。同じ裏方のパターンでも、例えば「B2a. 配偶者の裏方」であれば、たいていの場合「男」は近くにいますから、主人公を「男」と関わらせることにそれほどの苦労はありません。しかし「子」で、しかもすでに他家に仕官している「男」では、女性主人公を彼に関わらせることは容易ではありません。対立や葛藤を人為的に設定し、直虎と万千代が関わる必然性を「創って」いかなければならないでしょう。ここからが脚本の知恵の見せどころだと思います。第二ラウンドの展開を楽しみにしたいと思います。

 

 

直虎 vs. なつ

 直虎となつのシーン、唐突に投げ込まれた「但馬」の話題に私も驚きました。私は直虎の口から政次のことを聞き出すことは半分諦めかけていたので、脚本の意外なこだわりに逆に意表を突かれたというのが正直な気持ちです。

 ただし、よく考えてみると政次に言及したのはなつであって、やはり直虎の口から政次のことを聞くことは今回もできなかったのです。

 あの夜直虎は、松下家の事情を知るなつから兄弟のやりとりを教えてもらっていました。なつはまず、常慶が「兄が良き人でいてくれることが自分の救い」だと言っていたと直虎に告げます。そしてかつての直虎と政次の関係を連想し、なつらしい心配りで先回りして政次の話題を持ち出します。

 

  「義兄は自分たちの前ではそれなり笑っていた、だから不幸だったと決めつけないで欲しい」

  

なつは善意と配慮の人ですから、純粋に直虎を励ますつもりでこれを言ったのでしょう。おそらくなつは「直虎は政次が不幸だったと思っていて、それは自分のせいだと自分を責めているかもしれない。しかし直虎には不幸そうに見えた政次も、彼なりに何気ない日常に幸せを感じて生きる一人の人だった」と伝えたかったのではないでしょうか。そのメッセージは、なつが18話で直虎に言った「目に見えるものだけが全てだと思わないで欲しい」という発言の意図とも通じるものがあります。

 なつは、直虎が政次に対して一面的な見方しかしていないのではないかと心の底で思っているのではないでしょうか。そしてある意味でそれは正しいと私は思います。確かにある次元では直虎と政次はなつが想像もつかない深いところで通じ合っていました。それは二人が政策の方向性で一致したときなどに表れました。しかし別の次元では、直虎は政次のことを全く分かっていませんでした。政次の思いに気付かず、私生活や情緒面にほとんど関心を示さず、彼が龍雲丸に抱く嫉妬にも無頓着でした。こうした直虎の無関心さをよく知っていた政次が、自分の私生活や情緒面の健康にも関心を持ち、日常生活のささいなあれこれを共有していたなつと結びついたのは、もしかすると必然の展開だったのかもしれません。

 なつと龍雲丸は、語り合わない直虎と政次のメッセンジャーのような役割を担っています。龍雲丸は直虎以上に直虎と政次の仲を理解し、気にかけていました。「政次にとって井伊とは直虎のことだ」と告げたのも彼でしたし、「百姓をしていても但馬様は戻ってこない」「前の男に未練たらたらな女なぞ願い下げ」などと、ことあるごとに政次に言及して直虎に政次を意識させました。

 なつも、直虎が心の奥底ではこだわっているであろう政次のことについてあえて話題に上げ、直虎に政次を意識させます。それは同時に、物言わぬ直虎に代わって作者が私たち視聴者に「直虎は政次を忘れていない、自分を許せていない」と伝えているようにも思えます。

 政次が「私たちの前ではそれなりに笑ってくれていた」とはどういうことでしょうか。「なつたちを気遣って、嬉しくもないのに作り笑いをしていた」ということではもちろんないでしょう。

 それでは「政次は井伊家の政(すなわち直虎との関係)においては不幸だったが、家では(すなわちなつとの関係においては)幸福だった」ということでしょうか。私はそうでもないと思います。常慶が善なる兄に仕えることでたとえ自分が悪に手を染めようとも救いがあったように、政次も太陽のような直虎に仕えることで、自分が悪役を引き受けようとも、そこに救いがあった、そしてそのような日常を実は楽しんでいて、それを家では素直に表現していた、と言いたかったのではないでしょうか。

 このような作者の「忘れた頃の言及」を度々見るにつけ、やはり最終的にどこかの地点で直虎に政次のことを振り返ってもらいたいという一縷の望みをつながずにはいられません。政次は、文字通り直虎のためにその命を捧げたのです。もちろん井伊谷の民のためでもありましたが、何より直接的に直虎の身代わりとなって、その生命を贖ったのです。そしていきさつはどうあれ、実際のドラマでは彼は直虎自身が手をかけて殺した唯一の人間でもあります。『直虎』で死んだ男の数は数え切れませんが、直虎のために死んだ男は彼一人です。その男のことを、軽々しく忘れ去るような人では、直虎はないのではないでしょうか。

 

 直虎は歴代の女性大河の中でも「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」をかくも長い間与えられた、稀有なキャラクターです。直虎を通じて描き得る「個」としての女性像には、色々な可能性があるはずです。最近の直虎は「個」がないことが個性、あるいは人のために生きることが最大の個性、という描写に寄りつつありますが、若い頃の彼女には人のために生きつつも、そこに選択の賢明さや視野の広さが感じられ、感動を生んだ場面がいくつかありました。例えば次郎時代に直親との駆け落ちを断ったシーンです。これは彼女の「竜宮小僧」の素養と井伊家の娘としての自覚が遺憾なく発揮され、確固たる意思を持った「個」としての女性の誇り高さや潔さを印象づけた名シーンでした。

 40話時点では解脱した賢者のように老成した印象のある直虎ですが、彼女もまだ不完全な人間であり、成長の余地を残しています。その方向性の手がかりとして私が注目するのが、万千代が井伊家再興にこだわった一つの理由が、隠し里で直虎が言った「共に井伊を護っていこう」という言葉だったという事実です。プラグマティックな直虎は、その時はそれを本気で思ったのでしょうが、情勢が変わると考えそのものを変えてしまいます。しかし一度自分が発してしまった言葉の影響力は永遠です。それをなかったことにすることは誰にもできないのです。直虎は、万千代を通じてかつての自分の思いに再び向き合わざるをえないでしょう。そうなったときに直虎が家の再興と井伊谷の経営にどのように折り合いをつけていくのか、見ものだと思います。

 40話は他にも氏真の開き直りぶりや家康家臣団の多様性など多くの見どころがありました。話のテンポは確実によくなっています。直虎が「B2 裏方」の主人公にシフトしたことを受け止めたうえで、今後どのような創意工夫で制作者が直虎の「個」を描いていくのか、それを見守りたいと思います。