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青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』39話~「乗り越えるべき壁」のアイデンティティの不確実性~

されど演技力

   39話では虎松の帰還と徳川仕官までが描かれました。スピーディーな展開、これまでの伏線をすべて回収するような次世代幼馴染の設定、そして虎松役の菅田将暉さんのキレのある演技に引き込まれ、あっという間の45分間でした。

 ドラマとしての出来は期待以上で、何より内容がまた面白くなったことに安堵しました。今週からは軽い気持ちでポジティブな感想を書けそうだと嬉しくもなりました。

 しかし「面白い」という感想と同じくらい強く、ある種の懸念も感じました。虎松、亥之助主従の関係など、今話の「面白い」部分についてはすでに様々な論点が出ていますし、私も部分的にtweetしました。そこでここでは「懸念」の部分について思うところを書いてみたいと思います。一つは主役の演技力について、もう一つは主役のアイデンティティについてです。

 今話を見て、一番強く印象に残ったのは菅田将暉さんの演技でした。

    ドラマは総合芸術です。制作、脚本、監督、演技、衣装、音楽、編集等の全ての総合力が一つの作品に結実します。ですから私はドラマを見る際には演技のみに意識を奪われないように注意して見ているつもりです。しかし今話ばかりは、役者の力量がドラマのダイナミクスにいかに影響するかを痛感させられました。

 演技力は才能と努力の両方によって磨かれていくものなのでしょう。しかし人には向き不向きがありますから、同じ努力をすれば全員が同じレベルに達するわけではありません。菅田将暉さんは努力家でもあるのでしょうが、やはり演技の才能に恵まれた人なのだと思います。しかも主役として輝ける華を持った人です。今話で彼は視聴者の心を一気につかみ、主役交代を印象づけるほどの存在感を示しました。

 真の主人公たる直虎を演じる柴咲コウさんは、とても誠実に演技をする女優さんです。彼女の真摯な姿勢は画面から痛いほど伝わってきます。歌など、芸術の多方面に才能を持った人なのでしょう。しかし演技に特化して見ると、彼女は天賦の才というより、どちらかというと努力の人なのではないでしょうか。

 彼女は菅田将暉さんと競おうという意識はおそらく持っていないのでしょうし、画面からもそこはかとなくそのような競争心を超越した度量の大きさが感じられました。しかしベテランが若者を凌駕する演技の深みや重厚感を表現してこそ、若者の単純だけれども激しく力強い表現が美しく映えます。『清盛』で言えば中井貴一さんの圧倒的な壁のような存在感があって、松山ケンイチさんの清盛の若さや反抗が際立ちました。

 直虎が主人公のドラマで、直虎以外の登場人物の存在感が直虎を凌駕したり、直虎以外の登場人物に視聴者が感情移入したりするのはあまり好ましくない事態です。今後、直虎には一層の存在感で主役として機能してもらいたいものです。

 

直虎のアイデンティティ

 今話は新章突入を印象づけるためか、話の構成の点でも想像以上に虎松メインの作りでした。虎松が仕官と井伊家再興に向けていかなる策を講じ、それがどのように裏目に出て、そこから彼がどうやって立ち上がるのか、短い中にもそのドラマが濃縮して詰め込まれていました。

 今後虎松は井伊家再興の方策を巡って直虎と対立していくのでしょう。そして直虎は今度は虎松の先達として、彼が対立して乗り越えていくべき存在として描かれていくのではないでしょうか。

 もし今後『直虎』が、虎松という才能はあっても若く経験不足な若者が、直虎という「経験豊富で賢い師」であり「父親」と対立し乗り越える物語にシフトしていくとしたら、直虎はこの時点である程度完成され、確固たるアイデンティティを持った人物でなければなりません。

 しかし今の時点で直虎はそのような人物として「完成」されているのでしょうか。38話では直虎は龍雲丸に「袖にされ」て、背中を押されるように井伊谷に戻ってきました。私たちが最後に見たのは、直虎が龍雲丸のために井伊谷を捨て、堺での生活を始めようと決意し、しかしそこで龍雲丸に諭されて井伊谷に戻っていく、その歩みの途中でした。確かにこの時点で直虎は、城主としての業績、井伊家を断絶させてしまったという失敗、政次の死や気賀城の悲劇、武田襲来などといった色々な経験をしていました。しかし直虎はそれらすべてを捨て、井伊谷を去る準備をしていたのです。井伊家の再興はおろか、井伊谷の未来についても、それが自分の手を離れてもよいと思っていたのです。

 それが39話の冒頭では、近藤の治世において直虎が影のアドバイザーとして影響力を行使している様子にまで話が飛んでいます。井伊谷に戻った直虎が、如何にして井伊谷の未来像を描き、井伊谷経営のビジョンを構想し、それをライフワークにしようと思ったのか、さらにはここまで深く井伊谷経営に関わりながら、なぜそこまでさっぱりと家の再興という考えを捨て去ったのか、その過程は私たちには知らされていません。

 これら全てが宙ぶらりんになったままに、直虎は一気に「井伊谷を再生させ、繁栄させた影の立役者」に格上げされてしまいました。

 新章は「少年マンガ」とも評されます。アニメでいえばファースト・ガンダムエヴァのように、多感な思春期の男性主人公が大人に反発しながら自己形成する物語なのでしょう。それはそれとして面白い物語なのでしょうし、それがどのように展開するのか楽しみでもあります。

 しかし私には、虎松が乗り越えるべき直虎のアイデンティティや人格そのものが、まだよく分かりません。そのよくわからない直虎が、虎松が乗り越えるべき高い壁として存在しているという設定そのものに違和感もあります。

 なにより、このドラマには、あくまで直虎の「教養小説」であってほしいという希望もあります。主人公であるはずの女性が、少年の自己形成の物語における成長の養分の一要素として回収されてほしくないのです。私にとっては直虎自身が未知の部分が多い、未完成な人物です。まずはそれをきっちりと示してほしいと思います。

 このように、今話はあまりにも虎松の活躍にフォーカスして展開したことが私には驚きでしたし、演技面、構成面の両面から「直虎」を主役に冠するドラマとして存続可能なのかということに若干の危惧を持ちました。個人的には次話はもう少し直虎の物語に軸が戻ることを期待します。

 

 直虎と虎松にとっての<家>

 おそらく近々の対立は、家の再興にこだわる万千代と、こだわらない直虎の立場の違いから起こるのではないでしょうか。「家などないほうがよい」というのは家の経営に失敗した直虎の偽らざる感想なのでしょうが、そもそも彼女が「直虎」となったのは「家のため」だったはずです。彼女が今でも「影の影響力」を行使できるのは、彼女の家の背景があるからです。なぜ「家はない方がよい」という結論に達したのかという点に関して、もう少し説明が必要ではないでしょうか。

 井伊家にとって家という存在には少なくとも三つの意味があります。一つは家父長制的な家族の形態としての井伊家、二つめは武家としての井伊家、そして三つめは武家をまとめ、領民を治める領主として井伊家です。井伊家をめぐる文脈ではこの三つがほぼ同義として語られますが、実際的にはそうではないはずです。例えば今川家は三つの意味での家を失いましたが、一、二番目の家を維持して永らえました。

 万千代はおそらくまず二つめの意味での井伊家再興を目指しているのでしょう。しかしそれと第三の意味での井伊家の経営権再獲得には大きな隔たりがあります。直虎はどのレベルで「家はないほうがよい」と言っているのでしょうか。

 一つめの家父長制的なイエの抑圧性を「女性ならではの視点から」批判しているのか(おそらくそうではないでしょうが)、第二の武家としての家を存続させることに必死になり、そのために生死をかけてしまうようなその愚かさに批判的なのか、さらにはどちらかというと企業経営者のような第三の意味での家を批判しているのか、その点についても明確にしてほしいと思います。

 明日はいよいよ40話ですね。とても楽しみです。言い訳のようですが、10月は特に繁忙期で、感想も今回のような気軽な感じになってしまうと思います。続けることに価値があるという感じで気軽に書こうと思いますので、よろしくお願いします。