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青野の鑑賞記録

『直虎』の魔法は高橋政次とともに

『直虎』のマジック・モーメント

 『直虎』の感想を32話以降書き始めて一つ気がついたことがあります。それは、私はこれまで『直虎』を2つのレベルで受け止めて楽しんできたのだなあ、ということです。あえて単純化すると、一つは感情のレベル、もう一つは理性のレベルです。

 最初は感情のレベルでドラマに引き込まれました。1話を見て「結構面白いな」と思いましたが、その後子役時代が4話もあると聞いて、正直少し敬遠したいような気持ちになりました。それでも何とか見続けて、6話で「おや」と改めて興味をひかれ、7話「検地回」で、「このドラマには何かがある」という確信を得ました。

 その後熱心に視聴するようになり、理性のレベルでもドラマの構成に関心を抱くようになりました。最初は丁寧な伏線の張り方に感心し、そのうち女性主人公の扱い方や、中世の社会経済の描き方にも注目しました。のちにはキリスト教のリファレンスや、ドラマの全体構造などについても考えるようになりました。

 そのどちらも、私にとっては楽しい作業です。後者のほうが大変そうだと思われるかもしれませんが、私は感覚的な言葉を紡いだり、登場人物の心理を慮ったりすることが特に得意なわけではありませんので、一つ一つコマを積み上げるような後者の作業の方が性に合っていると思うことすらあります。

 しかし物事にはバランスというものがあります。ドラマの感想などは特に、感情と理性の2つの要素が両方あるほうが望ましいのでしょう。しかし32話以降、回を追うごとに自分の感想の軸が理性のレベルに寄りつつあるなあと感じています。

 それはなぜかというと、おそらく私の感情のレベルに強く訴えかけるモメントがドラマの中に少なくなっているからだと思います。万千代が出てきてやや改善の兆しが見られましたが、34話~38話あたりは感情的な印象を書くのは非常に難しく、苦しい時期でした。

 思えば、私が感情レベルで最も強くドラマに反応していた時期は、おそらく7話から19話までの間です。その中でもベストの回は7話、15話、16話あたりです。なぜかというと、これらの回は私のセンス・オブ・ワンダー(素晴らしいものや超自然的なものを見て瞠目する感受性)を刺激する魔法の瞬間に溢れていたからです。普段長文ブログを書いていますが、このような魔法の瞬間を言語化するのは本当に難しいことです。あえて言えば、脚本、演出、演技、衣装、音楽など様々な要素が絶妙の配合で正の化学反応を起こし、魔法のような素晴らしい時空が生み出される瞬間ということです。その千載一遇の瞬間を目にすることは、視聴者にとってのこの上ない幸せです。

 そして私のセンス・オブ・ワンダーを刺激した要素のうち一番重要なものは、高橋一生さんによる小野但馬守政次の演技でした。

 私は高橋一生さんの演技力を賞賛してはいますが、自分は「イセクラ」とまでは言えないのではないかと思っています。それを最近強く感じたのは、『わろてんか』における高橋さんの演技を見たときです。彼はまだ数回しか出演していませんし、今後この伊能栞という人物を彼が驚くべき演技力で掘り下げる様が見られるかもしれません。しかしこれまでのところ、この登場人物から政次に感じたようなマジカルな特別感は感じません。

 『あさが来た』で五代さんが登場したときは、最初から何かが違っていました。出た瞬間から何か素敵なことが起こりそうな「違いを生む」空気が流れていました。

 もちろん政次も最初からずっとマジカルだったわけではありません。ですから栞さんにはもう少し時間を与えるべきでしょう。しかし私がある時期から政次に感じ始めたマジックは、栞を見て「ああ演技がうまいな」と思うような理性的な反応とは次元を異にする、臓腑に直接訴えかけてくるような感覚でした。

 小野政次を演じたことは、おそらく高橋一生さんにとってこれまでで最高の業績の一つでしょう。ドラマ自体の視聴率が振るわないのであまり高々そうと言うことがはばかられるような空気がありますが、私はそれをきちんと書いておきたいと思います。

 高橋一生という役者が、長い助走期間を経て、心技体が一致したこの2016~2017年という時期にNHK大河ドラマで準主役級の役を与えられた。それは彼にテーラーメイドされたような、難しくも挑みがいのある複雑な役だった。この役に取り組むにあたって、彼は「能面」「言葉で語らず演技で語る」「役として生きる」などのことを自分に課して、驚くべき解釈力で脚本を読み込み、誰も予想しなかった独自の政次像を作り出した。その政次の真骨頂は直虎への思いを秘めながら直虎と対立するシーンで遺憾なく発揮され、二面性の表現の見事さ、すなわち氷のような冷たい態度で切り捨てながら、直虎を深く思いやる政次の苦悩の演技の豊かさで観客を魅了した。その瞬間は奇跡のようなマジカル・モーメントとして私たちのイマジネーションを捉えたのです。

 このようなマジックはそう頻繁に起こることではありません。一つのドラマで一度でも起こればそれは幸運なことです。私にとっては、『直虎』の前半でそれは確かに起こり、そのことはずっと覚えておきたいことなのです。

 

それでも一つだけやはり指摘しておきたいこと

 政次はやりがいのある複雑な役でした。しかしこのブログでも何度も指摘してきたように、恋愛面における整合性は、なつへの突然のプロポーズ、直虎の不可解なほどの無関心、槍ドンヘのプロット変更などの撹乱要素が重なって、少し後味の悪いものになってしまいました。

 私は折に触れて政次の「もしかしたら」を考えるのですが、最近強く思うのは、32話のなつへのプロポーズ、百歩譲ってこのシーンが起きたこと自体は受け入れるとしても、やはり唐突過ぎたのではないかということです。仮にも政次は準主役です。彼の直虎に対する思いは1話から積み重なってきたロングスパンのスレッドでした。視聴者も政次に感情移入して、彼の思いの成就をずっと応援してきたのです。

 『直虎』は他の登場人物の恋愛感情のビルドアップや前フリはわりあい丁寧に行ってきました。直虎→龍雲丸、龍雲丸→直虎、なつ→政次、しの→直親などは、前フリのせいで違和感なく理解することができました。しかしノベライズを読んでいなかった私にとって、政次のなつへの求婚は本当に唐突で、不可解な展開でした。政次が、いつ、どのような経緯でそのような気持ちを抱くに至ったのか、全く理解できませんでした。そして後からそれを何とか理解しようと過去回を振り返って考察したのがこのブログの出発点です。

 仮に他のことはすべて水に流すとしても、この件に関しては、このような展開にするなら何か少しでも前フリをしてほしかったと思います。観客が、何とか話の辻褄を解釈の次元で合わせようとオロオロするような展開は、理想的な作話とはいえないと思います。

 

 私にとっての『直虎』のマジカルなモーメントは、政次の退場によって終わりました。それがこのドラマの中で一度でも起こったこと自体が奇跡だと思いますし、それを目撃することができて、とても幸運でした。2017年の春から初夏にかけて感じたあのセンス・オブ・ワンダー、毎週日曜日が楽しみで心が浮き立つような感覚は、ずっと忘れたくありません。そして、少数派かもしれませんが、『おんな城主直虎』における高橋一生さんの小野政次役は、彼の最高傑作であり代表作であると声を大にして叫びたいと思います。

『おんな城主直虎』40話~大河ドラマにおける歴代女性主人公と直虎~

女性主人公の役割の分類

 40話では井伊の家名再興のために草履番として働く万千代・万福の奮闘と、それに対する松下、近藤、旧井伊家の反応が並行して描かれました。見どころは家康と直虎の直接対決、松下源太郎の寛容さ、万千代の創意工夫など色々とありましたが、やはり一番のハイライトは直虎と万千代の対立でしょう。

 39話以降は『直虎』の第三幕、すなわち「和解」の章です。私も直虎がこれまで培った経験や知恵を生かして困難を解決するような展開を予想していました。そして今話で確かにそのような展開はあるにはあったのですが、視聴後の印象は単に胸のすくようなスッキリとしたものではなく、どこかほろ苦い後味の残るものでした。そして改めて、ここからが直虎の本当に苦しいところなのだと気付かされました。

 「直虎の苦しいところ」とはどういうことでしょうか。それについて説明するために、まず過去の大河ドラマの主人公が、50話という長きに渡る期間にどのような役割を演じ分けながら「主人公としての妥当性(relevancyという英語がぴったりくるのですが、よい訳が思いつきません…)」を保ってきたのかということを振り返ってみたいと思います。

 これまでの大河ドラマの主人公の多くは、多かれ少なかれ歴史の中で何事かを成し遂げた人(=多くの男性主人公)か、歴史の中で何事かを成し遂げた人の近親者(=幾人かの女性主人公)でした。男性が主人公の場合は、その活躍のパターンがさらに二つのタイプに分けられます。

 

A.全時期の主役…超有名人物。人生の最初から最後までがよく知られている。

B.一時期の主役…比較的マイナーな人物。一時期に歴史の表舞台に立つが、あとは裏方。

 

 「A 全時期の主役」のタイプの例としては織田信長豊臣秀吉徳川家康などがあげられます。このタイプを描く際には主人公の「立て方」にはそれほど苦労はありません(ただしよく知られた人物であるため、いかにして独自性を出すかには苦労があるでしょう)。

 「B 一時期の主役」の例としては真田信繁山本勘助直江兼続などがあげられます。このタイプの主人公の人生には次の二つの時期があります。

 

B1.主人公が歴史の表舞台に立つ時期

B2.主人公が歴史の裏方にまわる時期

 

「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」にはその人物の活躍そのものに焦点をあて、「B2 主人公が歴史の裏方にまわる時期」には彼らを「歴史の表舞台に立つ人」に絡ませることで主人公を「立てて」いきます。このB2の時期をどう描くかが作者の腕の見せどころでしょう。話がわざとらしくなったり、こじつけになったりすることなしに、裏方の時期でも主人公がドラマの主役としての必然性や存在感を持っていることを視聴者に納得させなければならないからです。

 ちなみに男性主人公の場合は主人公が裏方の時期の面白さを保つ手段として、しばしば「群像劇」という手法が用いられます。代表的な例が『真田丸』『新撰組!』などでしょう。『真田丸』などは主人公をほぼ傍観者のようにすることで、多彩な歴史的有名人を投入し、観客を飽きさせませんでした(ただしその『真田丸』でさえ、信繁の秀吉や茶々との過剰な接触には若干の「こじつけ」感が感じられましたが)。

 それでは女性が主人公の大河の場合はどうでしょうか。「A 全時期の主役」タイプの女性はほぼいませんので、女性主人公はその大多数が「B 一時期の主役」となります。彼女らはその多くの時期を「B2 裏方」として過ごしますが、誰の裏方になるかによってさらに次のようなサブカテゴリーに分かれます。

 

B2a. 配偶者の裏方

B2b. 父の裏方

B2c.  兄の裏方

 

B2aが最もポピュラーで、篤姫、八重、文、江、寧々、まつなどほぼすべての女性主人公がこの時期を過ごしました。B2bの時期を過ごしたのは篤姫、B2cの時期を過ごしたのは八重、文などです。

 これまでの女性大河は上記のパターンをいくつか組み合わせながら、女性主人公のシリーズ全編に渡る主役としての妥当性を担保しようと試みてきました。例えば八重は前半は兄の裏方として、後半は配偶者である新島襄の裏方として働きました。文は前半は兄の裏方として、中盤と後半は夫の裏方として活躍しました。江や文などは自分自身の歴史的業績はほぼ皆無でしたので、裏方としての働きの描写のみで全50話を乗り切らねばならず、作者には苦労が多かったことでしょう。女性主人公の大河で「群像劇」をやった人は、私はまだ知りません(やってみると面白いかもしれません)。

 このように考えてみると、38話までの直虎はB2a~cのどのパターンにも当てはまっていないことが分かります。すなわち直虎には配偶者も兄も有名な父もなく、「歴史の表舞台立つ男」の引き立て役となったこともありませんでした。直虎は女性でありながら独立した「個」として意思決定を行い、スケールは小さいながらも歴史を直接動かす立場にありました。すなわち38話までの直虎は、大河の「B 一時期の主役」のなかでも「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」が非常に長い、破格待遇の主人公だったのです。このような視点で見ると、直虎が過去大河と比較していかにユニークで多くの可能性を秘めた女性主人公だったかが分かります。

 しかし『直虎』も第三幕に入り、ついに直虎が「B2 裏方にまわる時期」を迎えてしまいました。直虎にとっての「歴史の表舞台で活躍する男」は養子の虎松です。すなわち直虎は今後

 

B2d. 子の裏方

 

して働きつつ、「主人公としての妥当性」を示していかなければなりません。

    過去大河において「子の裏方」として活躍した女性主人公はいたでしょうか。まず思い浮かぶのは春日局です。しかし彼女の場合は(主君の)子の養育そのものが彼女のキャリアですので、裏方という言い方は当てはまらないかもしれません。篤姫にも、後半に若干それに近い要素がありました。しかし彼女の場合はドラマの後半に最大の歴史的業績があるため、裏方であったという印象は強くありません。「子の裏方」というパターンは意外とめずらしいのかもしれません。

 しかしよく考えてみれば、直虎がいずれは直政の裏方となるという展開は、企画の当初から織り込み済みのものだったのです。そもそも直虎が大河ドラマの主人公に選ばれたのは、彼女に、後に井伊直政という豪傑を生み出した井伊家を女性地頭として率いたという業績があったからです。単に女性地頭だったというだけでは主人公にはなり得なかったでしょう。そして「歴史の表舞台で活躍する男」直政がひとたび登場してしまえば、直虎は表舞台から退き、裏方にまわらざるをえなかったのです。

 ただし『直虎』の制作陣は、「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」から「B2 裏方にまわる時期」へのシフトをできるだけ遅くしようとしたのだと思います。確かに直政の存在を前提とした直虎の人選ではありましたが、その足かせをできるだけ取り去り、純粋に直虎という女性の物語としてこの大河を構築しようとしたのでしょう。それが女性PD、女性脚本家、女性作曲家という女性がブレーンを務める制作チームの矜持でもあったのではないでしょうか。

 直政の知名度や、菅田将暉さんの人気を考えると、直政の登場はもっと早くてもよかったはずです。しかし直虎が「B1 自分が主役」の時期に少しでも長くとどまり続けるために、直政の登場を可能な限り後ろにずらしたのでしょう。直虎をあくまで「個」として立たせようとした制作者の姿勢に、私は好感を持ちます。

 40話で井伊家を再興しようとする万千代と、井伊家再興に反対する直虎は対立します。私は以前のエントリで、34話以降に直虎が井伊家再興を諦める展開を若干残念に感じたと書きました。今でもその気持に変わりはありません。しかし40話以降の展開を見ていると、ひょっとすると制作陣は後に直虎と万千代の対立の構造を作るため、あえて直虎に一旦井伊家再興を諦めさせたのではないかと考えるようになりました。

 というのも、直虎が万千代と同じ方向性を向いて最初から一緒に井伊家を再興しようとする、あるいは直虎が万千代を操って再興させるような展開では、過去の大河の女性主人公の行動パターンとかぶるうえに、直虎、万千代それぞれの個性が際立たず、直虎の独自性や存在意義も若干薄まってしまう(直虎と万千代は同じ考えだから)からです。

 少し話を戻して、「B2 裏方」の時期における女性主人公の役割のパターンについてさらに分解して考えてみましょう。裏方の時期に過去大河の女性主人公がとる行動には次のようなものがあります。

 

B2ア.「歴史の表舞台に立つ男」から学ぶ

B2イ.「歴史の表舞台に立つ男」を支える

B2ウ.「歴史の表舞台に立つ男」を操る

 

 「B2ア」は「男」に知識、経験の面で劣る場合(ただし能力が劣っているわけではない場合が多い。例としては八重、文など)、「B2イ」はほぼ同等の場合、「B2ウ」は「男」に優る場合です。大河では女性主人公の能力の高さや有用性を示すために「B2イ 支える」と見せかけて「B2ウ 操る」さまがしばしば描かれてきました(まつ、寧々など)。直虎も対万千代においてはそのような展開になる可能性は秘めていました。というのもこれまでの通説では、虎松の徳川仕官は直虎が周到に準備し、一家をあげて計画的に実行したものとされていたからです。

 しかし『おんな城主直虎』においては上記のB2ア~ウのどのパターンも採用しませんでした。その代わりに

 

B2エ.「歴史の表舞台で活躍する男」と対立する

B2オ.「歴史の表舞台で活躍する男」を教える

 

という道を選んだのです。そうすることで万千代の主体性を曲げず、同時に直虎の「個」を際立たせ、さらに直虎に万千代に対して知識や経験の面で一日の長があることを示そうとしました。

 しかし、いかに直虎の「個」を立てようと努力しても、第三章の直虎が万千代の裏方であるという事実は変わりません。これ以降はこのドラマも過去の女性大河と同様に、直虎を「歴史の表舞台に立つ男」に有機的に絡ませる工夫をしていかなければなりません。40話、特に家康とのシーンを見ながらそのことに思い当たった時に、私は何とも言えず寂しい気持ちになりました。ああ、直虎がささやかでも自ら歴史的業績を残した時期は終わってしまったのだな、と。

 ただしこのドラマの主役はあくまで直虎であり、『おんな城主直虎』は直虎の自己形成の物語です。直虎が最後まで成長する存在であり続け、主役としての妥当性を示し続けてほしいと思います。

 

直虎と万千代の対立の構図

 40話で描かれた直虎と万千代の対立の構図は次のようなものでした。

    万千代は松下の家に背いても、両親に恩を仇で返したとしても、井伊家の家名を再興させたいと思っています。

 直虎は旧井伊家一族が松下に世話になっているという義理があることと、近藤の治世のもと波風を起こさせずに民の暮らしを改善していく現在のシステムが起動に乗っていることから、井伊家の家名を再興させることに反対します。

 単純化すると「名」と「実」の対立と言ってもよいかもしれません。もともとは井伊家のために出家し、井伊家のために「直虎」になった直虎ですが、彼女は様々な挫折を経て「家などない方がやりやすい」という結論に達しました。直虎は非常にプラグマティックな人物です。その強みがあるからこそ、柔軟に方久の案などを取り入れて様々な改革をすることができました。もともと家が大切だと思っていても、その考えに固執せず、実態に合わせて考えのフレームワークを変えていくことができます。

 しかし万千代には直虎のように経験からくる知恵がありません。子どもの時の純粋な誓いそのままに、「殿といっしょに井伊を治めていく」「自分は井伊の虎松だ」ということを信じて疑いません。

 直虎から見れば万千代は自己中心的で視野が狭く、万千代から見れば直虎は「転向」した裏切り者のように映ります。それはそれぞれの経験や生きてきた環境から来る違いであり、どちらが正しく誤っているわけでもありません。

 第一ラウンドの序盤はまず万千代が攻勢に出ます。直虎を「そなた」「百姓」呼ばわりし、その影響力の小ささを知らしめようとします。しかし家康の直虎に対する厚遇を目の当たりにし、彼女の業績の大きさを改めて思い知らされます。

 家康と直虎の対面は、様々な意味で感慨深いものでした。中でも家康が「万千代を育てる」という視点を直虎に与えたことには大きな意味がありました。かつて人材難で苦労した直虎だからこそ、経験的に理解できる視点です。

 しかし同時にこの対面は、前項でも述べたとおり直虎の裏方へのシフトを強く印象づけるものでもありました。今までの直虎ならば、家康という権威がなくとも、彼女自身の社会的地位によってその存在の正当性を保つことができました。しかし「百姓」であり「廃された家の先代」である今の直虎は、その存在や言葉の重要性を家康に権威づけてもらうしかありません。

 今思えば、これまで家康に何度も井伊家に借りを作らせ、直虎に対する興味や尊敬の念を抱かせておいたのは、こうして彼の権威が必要になった時のための伏線だったのかもしれません。

 中盤は直虎が盛り返した第一ラウンドですが、万福の登場により再び形勢が変化します。万福は万千代が井伊家再興を一番直虎と喜び合いたいと思っていたこと、そしてそもそも万千代がそこまで再興にこだわるのは、直虎の一言が原因の一つでもあったことを知らせます。そして最終的には痛み分けのような形で、しかし最後の最後には直虎が万千代に策を授けるという一撃を加えることで、第一ラウンドは終了となりました。

 このような二人の対立はこの先も何度か続いていくのでしょう。そしておそらく最終的には二人は心を合わせて井伊家再興に向かって歩みを揃えていくのでしょう。

 しかしそこに至るためには大きな障壁が一つあります。それは直虎と万千代の物理的な距離が離れているということです。同じ裏方のパターンでも、例えば「B2a. 配偶者の裏方」であれば、たいていの場合「男」は近くにいますから、主人公を「男」と関わらせることにそれほどの苦労はありません。しかし「子」で、しかもすでに他家に仕官している「男」では、女性主人公を彼に関わらせることは容易ではありません。対立や葛藤を人為的に設定し、直虎と万千代が関わる必然性を「創って」いかなければならないでしょう。ここからが脚本の知恵の見せどころだと思います。第二ラウンドの展開を楽しみにしたいと思います。

 

 

直虎 vs. なつ

 直虎となつのシーン、唐突に投げ込まれた「但馬」の話題に私も驚きました。私は直虎の口から政次のことを聞き出すことは半分諦めかけていたので、脚本の意外なこだわりに逆に意表を突かれたというのが正直な気持ちです。

 ただし、よく考えてみると政次に言及したのはなつであって、やはり直虎の口から政次のことを聞くことは今回もできなかったのです。

 あの夜直虎は、松下家の事情を知るなつから兄弟のやりとりを教えてもらっていました。なつはまず、常慶が「兄が良き人でいてくれることが自分の救い」だと言っていたと直虎に告げます。そしてかつての直虎と政次の関係を連想し、なつらしい心配りで先回りして政次の話題を持ち出します。

 

  「義兄は自分たちの前ではそれなり笑っていた、だから不幸だったと決めつけないで欲しい」

  

なつは善意と配慮の人ですから、純粋に直虎を励ますつもりでこれを言ったのでしょう。おそらくなつは「直虎は政次が不幸だったと思っていて、それは自分のせいだと自分を責めているかもしれない。しかし直虎には不幸そうに見えた政次も、彼なりに何気ない日常に幸せを感じて生きる一人の人だった」と伝えたかったのではないでしょうか。そのメッセージは、なつが18話で直虎に言った「目に見えるものだけが全てだと思わないで欲しい」という発言の意図とも通じるものがあります。

 なつは、直虎が政次に対して一面的な見方しかしていないのではないかと心の底で思っているのではないでしょうか。そしてある意味でそれは正しいと私は思います。確かにある次元では直虎と政次はなつが想像もつかない深いところで通じ合っていました。それは二人が政策の方向性で一致したときなどに表れました。しかし別の次元では、直虎は政次のことを全く分かっていませんでした。政次の思いに気付かず、私生活や情緒面にほとんど関心を示さず、彼が龍雲丸に抱く嫉妬にも無頓着でした。こうした直虎の無関心さをよく知っていた政次が、自分の私生活や情緒面の健康にも関心を持ち、日常生活のささいなあれこれを共有していたなつと結びついたのは、もしかすると必然の展開だったのかもしれません。

 なつと龍雲丸は、語り合わない直虎と政次のメッセンジャーのような役割を担っています。龍雲丸は直虎以上に直虎と政次の仲を理解し、気にかけていました。「政次にとって井伊とは直虎のことだ」と告げたのも彼でしたし、「百姓をしていても但馬様は戻ってこない」「前の男に未練たらたらな女なぞ願い下げ」などと、ことあるごとに政次に言及して直虎に政次を意識させました。

 なつも、直虎が心の奥底ではこだわっているであろう政次のことについてあえて話題に上げ、直虎に政次を意識させます。それは同時に、物言わぬ直虎に代わって作者が私たち視聴者に「直虎は政次を忘れていない、自分を許せていない」と伝えているようにも思えます。

 政次が「私たちの前ではそれなりに笑ってくれていた」とはどういうことでしょうか。「なつたちを気遣って、嬉しくもないのに作り笑いをしていた」ということではもちろんないでしょう。

 それでは「政次は井伊家の政(すなわち直虎との関係)においては不幸だったが、家では(すなわちなつとの関係においては)幸福だった」ということでしょうか。私はそうでもないと思います。常慶が善なる兄に仕えることでたとえ自分が悪に手を染めようとも救いがあったように、政次も太陽のような直虎に仕えることで、自分が悪役を引き受けようとも、そこに救いがあった、そしてそのような日常を実は楽しんでいて、それを家では素直に表現していた、と言いたかったのではないでしょうか。

 このような作者の「忘れた頃の言及」を度々見るにつけ、やはり最終的にどこかの地点で直虎に政次のことを振り返ってもらいたいという一縷の望みをつながずにはいられません。政次は、文字通り直虎のためにその命を捧げたのです。もちろん井伊谷の民のためでもありましたが、何より直接的に直虎の身代わりとなって、その生命を贖ったのです。そしていきさつはどうあれ、実際のドラマでは彼は直虎自身が手をかけて殺した唯一の人間でもあります。『直虎』で死んだ男の数は数え切れませんが、直虎のために死んだ男は彼一人です。その男のことを、軽々しく忘れ去るような人では、直虎はないのではないでしょうか。

 

 直虎は歴代の女性大河の中でも「B1 主人公が歴史の表舞台に立つ時期」をかくも長い間与えられた、稀有なキャラクターです。直虎を通じて描き得る「個」としての女性像には、色々な可能性があるはずです。最近の直虎は「個」がないことが個性、あるいは人のために生きることが最大の個性、という描写に寄りつつありますが、若い頃の彼女には人のために生きつつも、そこに選択の賢明さや視野の広さが感じられ、感動を生んだ場面がいくつかありました。例えば次郎時代に直親との駆け落ちを断ったシーンです。これは彼女の「竜宮小僧」の素養と井伊家の娘としての自覚が遺憾なく発揮され、確固たる意思を持った「個」としての女性の誇り高さや潔さを印象づけた名シーンでした。

 40話時点では解脱した賢者のように老成した印象のある直虎ですが、彼女もまだ不完全な人間であり、成長の余地を残しています。その方向性の手がかりとして私が注目するのが、万千代が井伊家再興にこだわった一つの理由が、隠し里で直虎が言った「共に井伊を護っていこう」という言葉だったという事実です。プラグマティックな直虎は、その時はそれを本気で思ったのでしょうが、情勢が変わると考えそのものを変えてしまいます。しかし一度自分が発してしまった言葉の影響力は永遠です。それをなかったことにすることは誰にもできないのです。直虎は、万千代を通じてかつての自分の思いに再び向き合わざるをえないでしょう。そうなったときに直虎が家の再興と井伊谷の経営にどのように折り合いをつけていくのか、見ものだと思います。

 40話は他にも氏真の開き直りぶりや家康家臣団の多様性など多くの見どころがありました。話のテンポは確実によくなっています。直虎が「B2 裏方」の主人公にシフトしたことを受け止めたうえで、今後どのような創意工夫で制作者が直虎の「個」を描いていくのか、それを見守りたいと思います。

『おんな城主直虎』39話~「乗り越えるべき壁」のアイデンティティの不確実性~

されど演技力

   39話では虎松の帰還と徳川仕官までが描かれました。スピーディーな展開、これまでの伏線をすべて回収するような次世代幼馴染の設定、そして虎松役の菅田将暉さんのキレのある演技に引き込まれ、あっという間の45分間でした。

 ドラマとしての出来は期待以上で、何より内容がまた面白くなったことに安堵しました。今週からは軽い気持ちでポジティブな感想を書けそうだと嬉しくもなりました。

 しかし「面白い」という感想と同じくらい強く、ある種の懸念も感じました。虎松、亥之助主従の関係など、今話の「面白い」部分についてはすでに様々な論点が出ていますし、私も部分的にtweetしました。そこでここでは「懸念」の部分について思うところを書いてみたいと思います。一つは主役の演技力について、もう一つは主役のアイデンティティについてです。

 今話を見て、一番強く印象に残ったのは菅田将暉さんの演技でした。

    ドラマは総合芸術です。制作、脚本、監督、演技、衣装、音楽、編集等の全ての総合力が一つの作品に結実します。ですから私はドラマを見る際には演技のみに意識を奪われないように注意して見ているつもりです。しかし今話ばかりは、役者の力量がドラマのダイナミクスにいかに影響するかを痛感させられました。

 演技力は才能と努力の両方によって磨かれていくものなのでしょう。しかし人には向き不向きがありますから、同じ努力をすれば全員が同じレベルに達するわけではありません。菅田将暉さんは努力家でもあるのでしょうが、やはり演技の才能に恵まれた人なのだと思います。しかも主役として輝ける華を持った人です。今話で彼は視聴者の心を一気につかみ、主役交代を印象づけるほどの存在感を示しました。

 真の主人公たる直虎を演じる柴咲コウさんは、とても誠実に演技をする女優さんです。彼女の真摯な姿勢は画面から痛いほど伝わってきます。歌など、芸術の多方面に才能を持った人なのでしょう。しかし演技に特化して見ると、彼女は天賦の才というより、どちらかというと努力の人なのではないでしょうか。

 彼女は菅田将暉さんと競おうという意識はおそらく持っていないのでしょうし、画面からもそこはかとなくそのような競争心を超越した度量の大きさが感じられました。しかしベテランが若者を凌駕する演技の深みや重厚感を表現してこそ、若者の単純だけれども激しく力強い表現が美しく映えます。『清盛』で言えば中井貴一さんの圧倒的な壁のような存在感があって、松山ケンイチさんの清盛の若さや反抗が際立ちました。

 直虎が主人公のドラマで、直虎以外の登場人物の存在感が直虎を凌駕したり、直虎以外の登場人物に視聴者が感情移入したりするのはあまり好ましくない事態です。今後、直虎には一層の存在感で主役として機能してもらいたいものです。

 

直虎のアイデンティティ

 今話は新章突入を印象づけるためか、話の構成の点でも想像以上に虎松メインの作りでした。虎松が仕官と井伊家再興に向けていかなる策を講じ、それがどのように裏目に出て、そこから彼がどうやって立ち上がるのか、短い中にもそのドラマが濃縮して詰め込まれていました。

 今後虎松は井伊家再興の方策を巡って直虎と対立していくのでしょう。そして直虎は今度は虎松の先達として、彼が対立して乗り越えていくべき存在として描かれていくのではないでしょうか。

 もし今後『直虎』が、虎松という才能はあっても若く経験不足な若者が、直虎という「経験豊富で賢い師」であり「父親」と対立し乗り越える物語にシフトしていくとしたら、直虎はこの時点である程度完成され、確固たるアイデンティティを持った人物でなければなりません。

 しかし今の時点で直虎はそのような人物として「完成」されているのでしょうか。38話では直虎は龍雲丸に「袖にされ」て、背中を押されるように井伊谷に戻ってきました。私たちが最後に見たのは、直虎が龍雲丸のために井伊谷を捨て、堺での生活を始めようと決意し、しかしそこで龍雲丸に諭されて井伊谷に戻っていく、その歩みの途中でした。確かにこの時点で直虎は、城主としての業績、井伊家を断絶させてしまったという失敗、政次の死や気賀城の悲劇、武田襲来などといった色々な経験をしていました。しかし直虎はそれらすべてを捨て、井伊谷を去る準備をしていたのです。井伊家の再興はおろか、井伊谷の未来についても、それが自分の手を離れてもよいと思っていたのです。

 それが39話の冒頭では、近藤の治世において直虎が影のアドバイザーとして影響力を行使している様子にまで話が飛んでいます。井伊谷に戻った直虎が、如何にして井伊谷の未来像を描き、井伊谷経営のビジョンを構想し、それをライフワークにしようと思ったのか、さらにはここまで深く井伊谷経営に関わりながら、なぜそこまでさっぱりと家の再興という考えを捨て去ったのか、その過程は私たちには知らされていません。

 これら全てが宙ぶらりんになったままに、直虎は一気に「井伊谷を再生させ、繁栄させた影の立役者」に格上げされてしまいました。

 新章は「少年マンガ」とも評されます。アニメでいえばファースト・ガンダムエヴァのように、多感な思春期の男性主人公が大人に反発しながら自己形成する物語なのでしょう。それはそれとして面白い物語なのでしょうし、それがどのように展開するのか楽しみでもあります。

 しかし私には、虎松が乗り越えるべき直虎のアイデンティティや人格そのものが、まだよく分かりません。そのよくわからない直虎が、虎松が乗り越えるべき高い壁として存在しているという設定そのものに違和感もあります。

 なにより、このドラマには、あくまで直虎の「教養小説」であってほしいという希望もあります。主人公であるはずの女性が、少年の自己形成の物語における成長の養分の一要素として回収されてほしくないのです。私にとっては直虎自身が未知の部分が多い、未完成な人物です。まずはそれをきっちりと示してほしいと思います。

 このように、今話はあまりにも虎松の活躍にフォーカスして展開したことが私には驚きでしたし、演技面、構成面の両面から「直虎」を主役に冠するドラマとして存続可能なのかということに若干の危惧を持ちました。個人的には次話はもう少し直虎の物語に軸が戻ることを期待します。

 

 直虎と虎松にとっての<家>

 おそらく近々の対立は、家の再興にこだわる万千代と、こだわらない直虎の立場の違いから起こるのではないでしょうか。「家などないほうがよい」というのは家の経営に失敗した直虎の偽らざる感想なのでしょうが、そもそも彼女が「直虎」となったのは「家のため」だったはずです。彼女が今でも「影の影響力」を行使できるのは、彼女の家の背景があるからです。なぜ「家はない方がよい」という結論に達したのかという点に関して、もう少し説明が必要ではないでしょうか。

 井伊家にとって家という存在には少なくとも三つの意味があります。一つは家父長制的な家族の形態としての井伊家、二つめは武家としての井伊家、そして三つめは武家をまとめ、領民を治める領主として井伊家です。井伊家をめぐる文脈ではこの三つがほぼ同義として語られますが、実際的にはそうではないはずです。例えば今川家は三つの意味での家を失いましたが、一、二番目の家を維持して永らえました。

 万千代はおそらくまず二つめの意味での井伊家再興を目指しているのでしょう。しかしそれと第三の意味での井伊家の経営権再獲得には大きな隔たりがあります。直虎はどのレベルで「家はないほうがよい」と言っているのでしょうか。

 一つめの家父長制的なイエの抑圧性を「女性ならではの視点から」批判しているのか(おそらくそうではないでしょうが)、第二の武家としての家を存続させることに必死になり、そのために生死をかけてしまうようなその愚かさに批判的なのか、さらにはどちらかというと企業経営者のような第三の意味での家を批判しているのか、その点についても明確にしてほしいと思います。

 明日はいよいよ40話ですね。とても楽しみです。言い訳のようですが、10月は特に繁忙期で、感想も今回のような気軽な感じになってしまうと思います。続けることに価値があるという感じで気軽に書こうと思いますので、よろしくお願いします。

『おんな城主直虎』38回~武田襲来の顛末と龍雲丸の存在意義を中心に~

はじめに

 38話ではとうとう武田が襲来し井伊谷を占拠しますが、あっという間に信玄が死亡し、隠し里の民は時を置かずして井伊谷に戻ることになりました。その間に高瀬の正体が明かされ、直虎の堺行きが中止になり、最後には虎松の帰還が描かれます。今話で「三幕構成」の第二幕(ミドル・葛藤)が終わり、いよいよ第三幕(エンド・解決)がスタートしたのです。第二幕で展開した様々なスレッドを収束させるため、多くのことが慌ただしく起こったように感じられました。

 その中でも重要なものは、①武田襲来の顛末を描くこと、②龍雲丸のストーリーラインに区切りをつけることの二つでした。というのも、これらは第二幕における直虎の城主としての成長のアーチに深く関わるものだったからです。

    思えば第二幕は見えない武田の脅威を常に感じながら進行してきました。第一幕の終わりで今川の世が終わり、次の勢力として徳川、織田、武田らがクローズアップされましたが、中でも井伊にとっての最大の恐怖の対象となったのは甲斐の武田です。姿は見えなくとも、強大な武力で全てを壊滅する破壊神のような武田の存在は、やがて来る不可避の厄災のように井伊谷に影を落としてきました。

 大名の圧倒的「武力」に対して、井伊谷の直虎・政次チームがとった策は「不戦」でした。また戦で領地を拡大することができない直虎は「経済と教育」によって領民を潤す方法を考え出します。「不戦」は政次から得たアイデア、「経済と教育」は方久や村人との交流から得られた方向性でした。龍雲丸は直虎の武家的な価値観に対して外側から揺さぶりかける存在として登場し、直虎の視野を広げ、発想をランクアップさせる役割を果たし(たと制作者は考え)ました。第二幕は、ある意味龍雲丸の登場とともに始まり、その退場とともに終わったともいえます。

 このエントリでは、武田の襲来の終焉が意味するものについて、そして龍雲丸とはどのような存在だったのかということについて、それぞれ論じていきたいと思います。

 

1.武田襲来の終焉が意味するもの

 今回のエントリの主たる資料は『TVガイド特別編集 おんな城主直虎完全ガイドブックPart 2』の岡本幸江プロデューサーのインタビューです。

 その中で彼女は大河ドラマのメッセージについて次のように語っています。

 

大河ドラマはエンターテイメントでありながら、その底流には50年以上にわたり、「国家とは何か」「よりよき暮らしとは何か」という大きなテーマが流れていたと思うんです。

 

 確かに歴代の大河ドラマは、それぞれの放映時期の世相も反映させつつ「あるべき社会像」を描き出してきました。ここではPDはネタバレを避けてそうと明言はしせんが、私は『直虎』において示される「あるべき社会像」とは、「不戦」を貫き、「経済と教育」を重視する社会だと思います。

 言うまでもなくこれは大国に挟まれた小国井伊を日本になぞらえた世界観です。日本を囲む大国にはアメリカ合衆国、ロシア、中国があり、日本はまさに政次が言うように「難しい舵取り」を迫られています。そこで日本がとるべき(だとこのドラマが主張する)道は、「回りの動きにいやらしく目を配り、卑怯者、臆病者とのそしりを受けようとも決して戦」わないことです。

 これは武田のあり方とは対照的です。彼らは他国へ侵略し、そしてヒト、モノ、カネの全てを奪い尽くすことでその勢力を拡大してきました。

 井伊谷占領後の武田に交渉に来た南渓は、信玄と酒を酌み交わしながら、信玄に「戦に飽きたり疲れたりしたことはなかったのか」と問います。それに対して信玄は次のように答えます。

 

甲斐というのはな、山に囲まれた厳しい土地でな、切り開かねば道とてなく、川はすぐに溢れ出す。他国を襲い、切り取らねば生きていけなかった。戦に強くなることこそが、何よりの生業、疲れているいとますらなかったわ

 

 ここで信玄は、甲斐は海を持たず、天然の地形に恵まれた土地ではなかったと説明しています。三方を山で囲まれていたとはいえ、海に近く温暖な井伊谷と比べると、甲斐は地政学的に遥かに厳しい状況におかれていたのでしょう。ただし甲斐も、借金まみれの井伊も、もともと「持たざるもの」であったという点では共通点があります。

 しかしそれを打開するための方策は大きく異なっていました。信玄は「他国を襲い、切り取る」ことで力を得ます。そんな彼の生業は「戦に強くなること」です。国の根幹を軍事力に置き、そこにすべての資源をつぎ込んだのです。そして武力にモノをいせて領土拡大と収奪を行い、それを元手としたさらなる兵力の増強を行いました。これを現代風に言い換えると、他国の領土と資源を得るために侵略して植民地化する19世紀的な覇権主義帝国主義です。

 それに対して小国の井伊は「不戦」の道を選んで軍事力強化を放棄します。男子が途絶え、今川からの軍役の重さで兵力が削がれた井伊にはそれしか道がありませんでした。武家でありながら彼らの「生業」は生産活動、すなわち綿と綿布の生産でした。政治的には井伊と小野の対立を装った二枚舌外交で何とか命脈を保ちます。

 しかし歴史の大きな流れには抗えず、とうとう武田襲来の日はやってきてしまいました。私の含めた多くの人が、今まで見たこともないような地獄絵が井伊谷で繰り広げられ、民は皆殺しにあって、直虎は打ちのめされるのだろうと予想していたのではないでしょうか。

 しかし今話で描かれたのは圧倒的な武田の武力ではなく、「武力」に対して「不戦」で抗するという直虎の戦略でした。武田軍の襲来を知った直虎らは民と近藤の家臣団を隠し里に逃し、井伊谷を空にします。焼かれたのは空き家と田畑のみ、しかもその直後に信玄は謎の死をとげ、川名に避難した面々は早々に井伊谷に帰れることになります。

 ここで制作者が描きたかったことは、武田襲来という史実上の井伊谷最大の敗北が、実は井伊の実質的な勝利であり、「不戦」というアプローチの成功の証左であったということでしょう。これは小野が実は裏切り者ではなく協力者だったという作りと同様の、逆転の発想です。

 以前のエントリにも書きましたが、脚本家は4つの出来事をハイライトとして『直虎』を構成したと語っています。1つは直親の死と城主誕生、2つめは直虎が「ある業績」を達成した時、3つめが武田襲来、4つめが伊賀越えです。この武田襲来は、2つめのハイライト、すなわち気賀城築城と同じように、直虎がこれまで積み上げてきた業績の成果としてポジティブに描かれる出来事だったのです。そして本当の悲劇はその前段、すなわち政次の死と気賀の虐殺の方でした。

 武田の襲来の終焉を通じてドラマが投げかけるメッセージは、孫子の 

 

百戦百勝は善(ぜん)の善なるものに非(あら)ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり

 

 です。そしておそらくこの場面で直虎が参考にしたと思われるのは 

 

上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。城を攻むるの法は已むを得ざるが為なり。

(最も良い戦い方は敵の策を読んでその策を潰したり無力化することであり、次が敵を孤立させること、その次が武力衝突であり、最も下手なやり方は城攻めである)

  や 

若かざれば則ち能く之を避く。故に、小敵の堅なるは大敵の擒なり。

(兵力が敵より大きく劣る場合は武力衝突を避けねばならない。小さな兵力しかないのに大きな兵力と戦うのは、敵の餌食となるだけである)

 

でしょう。すなわち、敵が圧倒的な武力で襲ってきても、敵が本当に欲しいもの(ヒト・モノ・カネ)を与えなければ敵は目的を達したことにならない。敵は下の策で攻めており、たとえ一時勝ったとしても大きな恨みを残すため、次によい展開は期待できない。しかし自軍が策をもって制すれば自分と相手の兵力を削がず、恨みも買わずに勝利を手にすることができるということです。

 このように後から冷静に振り返ってみると、武田襲来の顛末は、直虎の施政方針のエッセンスが込められ、感動的なクライマックスとなりうる要素がつまった面白い構成になっていたと分かります。

 しかし、リアルタイムでオンエアを見ていた時、私はこの展開に胸を熱くし、直虎の成長に感激したでしょうか。残念ながら答えは「否」です。

 私は個人的には脚本家やPDから感じる歴史解釈における攻めの姿勢が好きです。例として、小野を裏切り者にしない代わりに近藤を裏切り者にし、その近藤とも秘密裏に結託して共に大国から身を守ったという設定があげられます。近藤家は史実上も井伊谷城を占領しますので、本来なら井伊家と確執があったとしてもおかしくはありません。しかし近藤は後に直政の家臣ともなります。本当に禍根があれば、臣従はありえなかったでしょう。秘密結託関係はこの矛盾を解消する面白い解釈です。しかも背後には「敵である近藤を赦し、隣人として愛す」という直虎のピースメーカーとしての働きが組み込まれており、さらに孫子による「恨みによる禍根を残さない」という教えも踏襲しているのです。

 しかしこうした解釈の斬新さや鮮やかさは、しばしば細部のご都合展開とセットになっています。今話であれば「隠し里は少し便利に使われ過ぎではないか」「武田軍が攻めてきたのに一人も死ななかったとはいくらなんでも都合が良すぎるのではないのか」というような疑問はしごくまっとうなものです。

 私自身はそうした都合の良さは、それがストーリーの面白さに資することであればそれほど気になりません。例えば隠し里については、そもそも隠し里自体がファンタジーの世界の産物だとも考えられます。隠し里は柳田国男的な民俗学における「隠れ里」とも通じる、庶民が求める理想郷のような場所であり、さらに現代的な視点から見ると災害時の「避難所」「仮設住宅」のような場所です。隠し里を避難所のメタファーのように捉えれば、里の実際的なキャパシティはそれほど気にする必要はないでしょう。

 しかしどこまでが許される範囲なのか、そしてそれによって感動が生まれたかどうかはまた別の問題です。ご都合主義的展開が度をすぎれば、いくら見事な構成でもリアリティが感じられないでしょうし、歴史ドラマにリアリティもなければ感動は生まれにくいでしょう。

 私は『直虎』の過去のご都合展開、例えばおとわが蹴鞠で放免を勝ち取ったり、農民の嘆願書が窮地を救ったり、駿府に海路で材木が届いたりというような展開には、ちらりと「都合がよすぎる」という考えが頭をかすめたものの、素直にカタルシスを感じることができました。主人公の熱意に説得力があり、展開もギリギリ無理すぎないもので、なおかつドラマそのものにエネルギーや疾走感があったからです。

 しかし今回の武田襲来の顛末については、そうした理屈抜きの感動は残念ながらありませんでした。第二幕の最後のエピソードであり、直虎的な平和主義が武田の覇権主義に「勝利」した瞬間であるはずなのに、何ともあっけないアンチ・クライマックスでした。

 その理由な何でしょうか。おそらく、直虎の心が井伊谷の民へ100%向けられておらず、武田襲来への回避の策が、引退した歌手が一夜だけ復帰するようにその場限りのもののように扱われたからでしょう。

 そしてそのようになってしまった大きな原因は、武田来襲の前に、直虎に井伊の再興を諦めただけでなく、「ただの女性」として井伊谷を去り、龍雲丸について堺へ行くという決断をさせてしまっていたことです。

 36話以降、『直虎』は明らかに失速しています。お家再興を諦めた直虎の指揮のもと井伊家は解散となり、戦後処理と「城主をやめた直虎」という動きのない展開にほぼ三話も費やしているからです。

 武田襲来は、本来ならば直虎の「不戦」という業績の集大成であり、なおかつ彼女の城主としての情熱にもう一度火をつける感動の山場になるはずでした。しかし「堺へ行く」という決断をしていたばかりにそのカタルシスは大きく損なわれました。主人公の熱意に疑問符がつき、ドラマに説得力や疾走感が失われた状態で感動を生むのは難しいでしょう。しかも今話の真のクライマックスは龍雲丸との別れに設定されていたため、武田襲来への備えの成功のインパクトはさらに後景に退いてしまいました。

 制作者が第二幕のクライマックスを犠牲にし、「あるべき社会像」に対するメッセージ性を薄めてまで描きたかった直虎と龍雲丸との結びつきとは一体何だったのでしょうか。それについて次項で考察します。

 

2.龍雲丸について

「竜宮小僧」カードの切り方

 龍雲丸について言及する前に、直虎の「竜宮小僧」性について触れておきたいと思います。前掲のインタビューでPDは次のように語っています。

 

 本作では竜宮小僧というテーマをずっと出していますが、直虎のベースにはいつもその意識があって彼女が何か行動を起こすときは、もちろん自分の喜びもあるけれど、自分のためだけでなく誰かの役に立っている。それは「共に生きる」ということであり、その志を持って諦めずに突き進んでいくのが直虎だと思うんです。国を治める方法論に「こうすれば成功」という正解があるわけではなく、取り組む姿勢にしか答えはない。だから「挑み続ける姿が美しい」と感じてもらえるといいなと思います。

  

    確かに直虎はピュアな人物で、その時々に自分より他人を優先し、誰かのために役立つことに喜びを見出すタイプです。しかし私は大河ドラマが打ち出す「国を治める方法論」が、「挑み続ける姿が美しい」だけでは少し足りないと感じます。「正解がない」というのはその通りでしょう。しかし「挑戦し続ける姿」はそれだけで肯定されるべきものではなく、その方向性が問題なのです。すなわち「少しでもよい回答を求めて、知恵を働かせ、視野を広げ、学び、分析し、よりよい選択をする」というプロセスがセットでなければ、共感を生むことはできないでしょう。

 我々は視聴者として、確かに直虎の挑む姿を見続けてきました。しかし明らかに疑問符がつくような選択も中にはあり、それらのうちには未だにそのおとしまえがつけられていないようなものもあります。その最たるものが材木事件の時に龍雲丸を罰しなかったことでしょう。

 材木事件では直虎は私情から武家の理を曲げて龍雲丸を助けます。この時の彼女の行動は確かに「人のため」だったのかもしれませんが、それは彼女がその時にたまたま感情移入していた人のためであったに過ぎません。私たちは19回「罪と罰」で政次に突きつけられた「殿が今守らなければならないものは何だ」という問に、直虎はいつか、おそらくは政次の死の際に、答えを出さねばならないだろうと予想しました。しかし実際は政次の死は選択の余地もなく降り掛かってきました。そして直虎は政次の死の遠因が材木事件の際の自分の判断に端を発していることに思いを至らせていません。

 龍雲丸と堺へ行くという選択も、確かに龍雲丸や母のため、という面はあるかもしれません。しかしそれは他の多くの人々、すなわち井伊谷の民、旧家臣、虎松などに対する責任の放棄と、本当は彼らともまだ共に生きていきたいという自分の思いを裏切るということの選択でもあるのです。

 後ろ髪を引かれる直虎に、龍雲丸はついに別れを切り出します。龍雲丸の優しさが描かれたよいシーンでしたが、私には同時に直虎の主体性のなさ残念に思えました。確かに直虎が一人で考え、一人で結論を出してはドラマ的には盛り上がりに欠けるでしょう。しかし直虎が「竜宮小僧」の名のもとに、あそこまで自分の運命を他人任せにしようとし、なおかつ男に肯定してもらわなければ自分の生き方を決められなかったというところに歯がゆさを感じます。

 「人のため」というのは主人公の行動の動機としては玉虫色の危険なカードです。主人公が与えられた状況で精一杯によい選択をしようと努力し、失敗から学んで成長する姿が描かれれば感動を生みますが、主人公が視野が狭く間違った選択をすることの免罪符になれば、主体性の欠如として映るでしょう。私は「竜宮小僧」のカードは、城主や僧として「民の利益を考え、民に尽くす」ときにこそその効力を発すると思います。「民のため」という軸がブレたり、私的な選択をする際にこのカードが使われると、色々なことが混ざったおかしな状況になります。そしてここ数話はまさにその軸がブレて、混乱が起きている状況にあるのです。すなわち「龍雲丸について堺へ行く」という選択にまで「竜宮小僧」的な要素を入れようとすると、材木のときのように私情と公の論理が混ざり、主人公の主体性や判断力に疑問符がつくことになってしまうのです。

 

①直虎との公的な関係

 長い前置きを終えて、いよいよ龍雲丸について論じていきましょう。ここでは龍雲丸について、①直虎との公的な関係、②直虎との私的な関係、③龍雲丸の存在意義という3つの事柄について考察します。

 まず龍雲丸と直虎の公的な関係について見ていきましょう。『TVガイド後編』のインタビューで、PDは紙面の約三分の一の分量を龍雲丸関連の事柄を語るのに費やしています(政次については十分の一程度です)。今回改めてその分量の多さに驚き、龍雲丸こそが直虎の成長のキーパーソンかつパートナーとして制作陣の大きな期待を担っていたことが分かります。一部を引用します。

 

あえて武家社会からも秩序からも自由な流浪の民であり、武家に支配されることをよしとしない龍雲丸をアウトローとして登場させました。もちろん直虎自身が掟破りの存在ではあるのですが、龍雲丸はそれをも凌駕する。根底の部分でとてつもなく大きな問をつきつけられることで直虎自身が城主としてよりスケールアップするために、非常に必要な人物です。武家社会の中では、国のため、お家のために自分の感情を押し殺し、いろんなものを犠牲にする「ガマンする男たち」が多い中、あけっぴろげで何ものにもとらわれない男性像として龍雲丸が魅力的に映ればいいなと思います。

 

 「根底の部分での大きな問い」というのは、21話で龍雲丸に言われた「武家は泥棒ではないか」で、それに対する直虎の答えは「奪われない世を作る」というものでした。「なぜ自分たちを雇うのか」という龍雲丸の問いには「武家が泥棒だと認めるのが嫌、つまりは自分のためだ」と答えています。

 ここでは龍雲丸が直虎の価値観を根底から覆し、彼女大きくスケールアップさせる人物として構想されています。

 しかし実際の龍雲丸は、本当に直虎の発想にコペルニクス的転回を与え、彼女の視野を広げて次のステージに押し上げるような働きをしたのでしょうか。

 確かに直虎は龍雲丸によって初めて武家が搾取する特権階級であるという知識を得たのかもしれません。しかしその後も武家であることをやめようとはしませんでしたし、むしろより井伊を守るためによりよい武家になろうと精進を重ねます。貧しい農民の実情は次郎時代から間近で見てきましたし、武士が搾取階級だと知ったところで、領主として構造的な搾取をやめることはないのです。

 そして「奪わず、与える」ための方策についてですが、こちらの方は16話時点で方久に綿の栽培を持ちかけられ、すでに殖産興業を始めていました。さらに教育については14話時点でその必要性を感じ、15話では一定の成果をあげています。「経済、教育」という「不戦」の具体策をすでに実行していた直虎にとって、「武家が奪う存在である」という知識を得る事自体にどのような重要性があったのか、今となっては疑問に思います。直虎は社会構造的には搾取する側、すなわち現在の表現で言えば99%を支配する1%の側の人間です。そのこと自体を彼女が否定することはありません。彼女は領民を戦争に駆り出す代わりに生産の手段を与え、人の流れを流動的にして生産性を上げ、その上前をはねることで利益を得る新自由主義的な経済領主です。

 むしろ龍雲丸が本当にドラマに持ち込んだ課題は材木問題でした。彼はまずそれを盗む悪党として登場します。井伊や近藤の領地から盗みを働いて捕まるも、直虎に気に入られたために罪は全く問われず、逆に木こりの仕事をオファーされます。材木は井伊を繁栄させ、気賀城建築の礎にもなりますが、その気賀城では虐殺が起こり、恨みの結果政次を失います。材木は第二幕中盤の展開の鍵となり、物語を先に進ませる要素となったと同時に中盤の停滞の原因ともなりました。井伊が取り潰しになった後では材木のスレッドは忘れられています。38話の時点で井伊の民を潤しているのは元々行っていた綿業の方です。

 龍雲丸は直虎に刺激を与える存在であったのかもしれませんが、彼が直虎の城主としての方向性が決定づけたかというと、そうではないと思います。

    むしろ公私混同によって話が色々とややこしくなった面が多かったのではないでしょうか。21~23話や36~38話など龍雲丸がメインの小アーチがいずれも停滞したのは直虎の「竜宮小僧」設定の軸がブレて判断の基準が怪しくなり、それに視聴者がヤキモキしたためだと思います。

    与えられた立場や役割を全く考慮に入れずに見れば、龍雲丸は頭がよく、さっぱりとして思いやりに溢れた男です。しかしそのスケール感は、制作者の期待と比べるとずいぶん小じんまりしたものに思われました。彼と直虎の公的なやりとりに私が今一つ興奮しなかったのは、彼の言い分が「世界を見てきた男が視野の狭い武家に光を見せる」というようなスケールの大きなものではなく、むしろ武家社会に幻滅した男の武家に対する反抗のように思えてしまったからです。

 公的な存在としての龍雲丸は、直虎の世界を変える人物として構想されながらも、実際には城主としての方向性にそれほど決定的な影響を与えず、むしろ公私混同による政策の混乱を招いた存在であったと思います。

 

②直虎との私的な関係

 直虎と龍雲丸は19話の再会からお互いを意識し、徐々に惹かれ合っていきました。しかし身分や立場の差から、直虎が城主である間は結ばれることはありませんでした。

 特に23話で龍雲党が井伊谷を去ってからは、直虎は意識的に龍雲丸とは精神的な距離をおき、自分からその距離をつめることはありませんでした。23話で仕官のオファーを断られたときに拒絶されたと思ったのかもしれません。あるいは自分の公私混同が招いたかもしれない致命的な失敗に対してさすがに慎重になったのかもしれません。

 龍雲丸も同様でした。気賀に根を張ると決意することで静かに直虎の近くにいると宣言はしましたが、あくまで一歩引いた立場で見守る道を選んだように見えます。それには、賢い龍雲丸が、直虎と政次の間にある強い結びつきを当の直虎よりも敏感に感じ取り、それに敬意を払って遠慮したという理由もがあるのではないかと思います。

    龍雲丸は政次の直虎に対する秘めた思いにも気づいていたでしょう。それと同時に政次はその思いをどうにかしようとしていたわけではなく、あくまで家老として井伊のため直虎のために心を尽くして働こうとしていたことも分かっていたと思います。その真摯な思いに打たれたからこそ、彼らは密かに共闘関係を結ぶことができたのです。

    そして龍雲丸は、直虎の中にある政次への全幅の信頼もよく分かっていたと思います。同時に二人の中へは入っていけないようにも感じていたはずです。直虎の政次に対する思いは、彼女自身名前をつけられないものではあったけれど、強く、まっすぐで、全面的なものであったことは確かでしょう。それは当人には「愛」だとは分からないものでも、その人に関心を持って見つめる他人からは「愛」以外のなにものでもないように映ったのではないでしょうか。

    ここで先のインタビューにおけるPDの政次に関する発言を引用します。

 

少し長い目で追っていただくと、やはり二人はベストパートナーになっていくんです。それが秘められたラブ・ストーリーに見えなくもないけれど、本人たちにはそのつもりもなく、井伊家を維持し、国を守るために尽力している。そこには単純な男女関係になるわけにいかないもどかしくも切ない事情もあるのですが…。最終的には恋愛を超えた強い結びつきになり、政次は直虎の半身のような存在になっていく…

 

直虎と政次の間には信頼と同時に一種の緊張関係もあります。井伊を守るための綱渡りをする二人にとって、毎日が必死のサバイバルなのです。そこで二人は真面目に力を合わせて戦っている。直虎にとっても政次にとっても、お互いは同志だったのです。しかし二人の間の信頼関係は、愛と呼んでもよいものでした。

 個人的な話をすると、私にとって愛というのは究極的には神の愛です。それに最も近いのは、人間が他の人間を無条件で受け入れ、赦し、その人の幸福を願う気持ちです。その他にも愛には色々な形があり、政次のそれは恋情に振れていたのでしょうし、直虎も政次を認め、頼り、信頼するなかで政次に好意をいだいていたのでしょう。

 直虎の愛が男女間の恋愛と全く同義だったとは思いませんが、政次と直虎はそれでも(異性愛の)男女です。人間は性を含めた総合的な存在であり、直虎や政次から性の部分だけを切り離して考えることはできませんから、この二人には男性同士の結びつき、女性同士の結びつきとは違う独特のケミストリーがあったはずです。それを一番敏感に感じ取ることができたのは、目の前のことに必死の当人同士ではなく、むしろ一歩引いたところから観察し、なおかつ政次と同じ女を愛していた龍雲丸だったのではないでしょうか。

 実際に龍雲丸は、政次と直虎の間には入っていけないということを当の直虎から二回も突きつけられています。一度目は虎松の代わりに死んだ子を弔った時、二度目は政次の死の覚悟を告げたときです。どちらもセリフは「頭に何が分かる」でした。

    愛する人から、このように告げられた男の心境はいかほどのものでしょう。直虎は龍雲丸に「政次と自分のことは、政次と自分にしか分からないのだから、外部の者はつべこべ言うな」と言っているも同じなのです。このように言われれば、二人の中にはとても入っていけないと感じるのも無理はないでしょう。

    龍雲丸と直虎は本来ならば結ばれるはずのない二人でした。しかし直虎が井伊家再興を諦めたことで急にその可能性が開け、互いに寄り添う決意を固めます。しかしこれは手負いの鳥が翼を寄せ合って羽を休める一時的な避難のようなものでした。通常の結婚と違い、二人には将来のビジョンも、共に見つめる方向性もありませんでした。ただお互いに見つめ合い、傷を直し合うだけです。

    果たして年月が過ぎるにつれて二人の自己実現欲求が首をもたげ、その方向性に齟齬がみえるようになります。龍雲丸は再び商人として飛び立ちたい、直虎は井伊谷の役に立ちたいのです。直虎は「龍雲丸のため」「母のため」と自分を騙して堺へ行こうとしますが、すんでのところで龍雲丸に止められます。

 

前の男に未練たらたらなくせに、ついて来るんじゃねえわ

 

    これは龍雲丸の率直な気持ちだったと思います。なぜなら龍雲丸と直虎は、政次が生きていれば決して一緒になることはなかっただろうからです。少なことも龍はそう思っていたと思います。なぜなら龍は、政次と直虎には名前のつけようのない強い結びつきがあり、直虎にとっていちばん大切な男は政次だったということが分かっていたからです。直虎にとっては城主であることは彼女のアイデンティティの中核であり、それを支える政次は彼女にとって最も必要な人です。それだけでなく、友人で、幼馴染で、一番近しい男性である政次を人間として最も信頼し、尊敬し、大切に思っていたのです。そのような拗らせた関係の男がいる女に手を出すような野暮な男では龍雲丸はないでしょう。

    龍は出発のあとに、直虎に井伊に戻るように説得します。「家はなくとも、城はなくとも、あんたは城主だ、もうそういうふうになっちまっているんだ」、龍に言われて、初めて直虎は自分の願いを再確認します。他人に、しかも男に言われないと自己肯定できないヒロイン像に私が不満を持っているのは以前のエントリにも書いたとおりです。しかしここではそれを繰り返すことはしません。

    それよりも、前項に書いた「なぜ「あるべき社会像」描写におけるクライマックスを犠牲にしてまでも、龍雲丸と直虎のストーリーに重点をおいたかということを考えてみましょう。

    そもそも龍雲丸は直虎にとって私的な面ではどのような存在として構想されていたのでしょうか。再びPDのインタビューからです。

 

直虎が方久や気賀の商人たち、そして龍雲丸と築いたものが壊れ、戦国の非情な波が気賀にも井伊家にも押し寄せてきます。けれどそのなかからでも直虎と龍雲丸はもう一度立ち上がります。辛いことも起こりますが、その経験が彼らの本当の強さになっていくはずですし、そこは丁寧に描きたいと思っています。

 

    ここでは「二人」が色々な悲劇を経験し、その「二人」がもう一度立ち上がる、と書かれています。すなわち直虎と龍雲丸は手を携えて運命を共にするパートナーとして想定されているのです。

    しかし龍雲丸は直虎のパートナーたるに十分な説得力を持っていたでしょうか。あくまでも個人的な見方ですが、まず龍雲丸と直虎には運命のパートナーであると視聴者を説得するに足るケミストリーがなかったと思います。外面的には二人ともくっきり二重の濃い顔立ちで、画面にコントラストがありません。身長差もそれほどなく、年も男性の方が相当に若いため、異性愛の男女というより、仲のよい似た者同士の姉弟のようです。内面的には、そもそもカップルは対極的な方が引き合うはずなのに、この二人の性格は酷似しています。二人ともある事柄に似たようなリアクションをとるので、二人の掛け合いには意外性がなく、テンポに変化がありません。

    そして政次と登場の時期をかぶたことも助けにはなりませんでした。政次をメインの相手役としたいのか、それとも龍雲丸なのか、視聴者は混乱しました。出場の回数や尺、ストーリーの基軸に関わる重要性からいえば政次の方がメインの相手役のように思えるのに、直虎は政次の気持ちには鈍感で、忘れた頃に時々登場する龍雲丸にはいつも格別の関心を払います。

    二人の活躍の時期を重ねて恋愛のラインを混乱させたうえに、政次の死の直後に龍雲丸の悲劇を配置し、直虎の目を政次の死からそらします。物事は後に起こった方にインパクトがあります。直虎が井伊再興を諦めるきっかけになるのも、政次の死ではなく気賀の悲劇でした。政次の死は直虎も井伊谷の面々も(なつでさえも)わりあいにあっさりと乗り越え、すぐに直虎が龍雲丸と「手を取り合って再び立ち上がる」様子が描かれます。これでは、政次は本当に何のために死んだのかよく分からなくなってしまいます。もちろん井伊谷と直虎を護って死んだのですが、その死を受け止めて遺志を継いでいるのは、皮肉にも一番対立していた直之ぐらいのものです。

    このような状況で、視聴者に龍雲丸とのラブ・ストーリーに感情移入し、直虎が「人のために」行う選択や、彼女の迷い、そして龍に背中を押されてやっと行う決断に共感しろというのは無理な話ではないでしょうか。なぜ制作者はこのように混乱した事件の配置を行ったのでしょうか。

 

③龍雲丸の存在意義

 混乱した私にヒントを与えてくれたのは、先日公式HPにアップされた脚本家のインタビューでした。

 

龍雲丸は、直虎にとってはもう一人の自分みたいなものですかね。ふたりの持っている核のようなものはとても似ている。生きてきた世界や立場が全く違うからいちいちぶつかるけれど、その奥底にあるものは同じだから、お互いの気持ちは分かる、分かってしまう。同じ波長を持つ、出会うべくして出会った相手として存在しているのが龍雲丸、ということです。

 

 「龍雲丸はもう一人の直虎」だと考えると、なんとなく疑問の答えが見えてくるような気がしました。

 二人は立場は違えど似た者同士です。制作者はこの二人に合わせ鏡のように同じことを体験させ、それを協力して解決させたかったのではないでしょうか。

 まず二人はともに組織のリーダーです。組織の運営とメンバーの福祉がリーダーとしての最大の関心事です。まずこの二人に、大切な人の死を経験させます。直虎にとっては政次であり、龍雲丸にとっては龍雲党のメンバーです。そして次に自分が世話をするべき組織を失わせます。直虎にとってはそれは井伊家や井伊谷であり、龍雲丸にとっては龍雲党です。ここではリーダーとして二人が抱える課題や挫折、ジレンマは共通しています。ともに支えてくれた仲間を失って意気消沈し、自分のせいで組織がダメになってしまったと自分を責め、組織を率いていくことに対しての意欲を失います。その結果が結婚して農民として井伊谷に住むという選択でした。

 そして再生の過程も二人は共に経験していくのです。直虎は徐々に眠っていた城主への情熱を思い出し、龍雲丸は商売への意欲を取り戻します。お互いがお互いの気持ちが分かるからこそ、最初こそ遠慮しあったり自分を抑えようしたりとしますが、それに無理があることに二人とも気づき、相手の背中を押して行くべき方向に行かせようとするのです。

 制作者は二人が共通の経験を経て、共通の課題に悩みながら対話し、そして一緒に立ち上がりながらも別々の方向へ進んでいくという過程を「丁寧に」描きたかったのでしょう。だから武田襲来は後景に追いやられ、二人の対話と逡巡に長い尺を割いたのです。それはなぜでしょうか。原点に戻りますが、『おんな城主直虎』が、なによりも城主としての直虎の成長物語であるからなのでしょう。ですから長いアーチで武田襲来までの伏線を張り、「不戦」の勝利を迎えることができたにもかかわらず、「龍雲丸と別れる直虎」の方に重点が置かれてしまったのです。

 だとすれば、龍雲丸の本当の存在意義とは、もう一人の直虎としての彼に直虎と同じような経験をさせ、二人が対話しながら一緒に困難を乗り越えていく過程を描くことにあったのでしょう。もしかしたら恋愛は副次的な設定だったのかもしれません。

 そのように考えると、政次の死と気賀の悲劇が立て続けに起こった理由も分かるような気がします。そうと認めたくはないけれど、究極的には直虎と龍雲丸に同時期に似たような経験をさせるためだったのです。

 しかし実際の視聴者には制作者のこうした意図は(仮に私の解釈が合っていたとして)ほとんど伝わらず、政次の死の消化不良と、不自然な龍推しの違和感のみが残ったのではないかと思います。

 私は以前から、龍と直虎はよく会話をするな、と思っていました。直虎が何か着想を得る時は決まって龍と長い会話をします。直虎は龍と会話することによって成長したり、次のステップに行けたりするというパターンが何度も出てきます。その流れからすると、最後もやはり龍との会話で、龍に後を押されて復帰という決断をするのは当然の展開だったのかもしれません。

 しかしこれまで見てきたように、公的には龍のビジョンはそれほど革新的なものではなく、私的にも直虎とのケミストリーも今一歩でした。それなのに、制作者が、直虎は龍と手を携えて成長するという作りにこだわったため、何とも説得力に欠けた、感情移入しにくい展開になってしまったのではないでしょうか。

 龍雲丸や話の展開の方向性に対して少し辛口の感想になってしまったかもしれません。龍雲丸が好きで、話の展開も楽しんだという方々には申し訳なく思います。個人の感想としてご容赦ください。

 虎松の帰還について語る時間がなくなってしまいました。来週以降の活躍を楽しみにしたいと思います。ただし来週はずっと出張なので、感想が書けないかもしれません。その際は再来週にまたお会いしましょう。

『おんな城主直虎』37話~主人公の設定に関する制作者の思いと視聴者の期待のズレについて~

「空白の時空」を埋める通俗性

  37話は井伊直虎の生涯の中で最も史料の少ない時期です。そこをこのドラマがどのように描くのか、以前から興味を持っていました。史実の制約の中でオリジナリティを出していくのは大きなチャレンジですが、史実の合間の「空白の時空」をどう料理するかということは、もしかしたらさらに難しい課題かもしれません。そしてそのような時にその作家が本来持っている展開のパターンが顕在化することがしばしばあります。

 37話を視聴して感じたのは、この「空白の時空」が、作者のサービス精神の表れともとれる通俗性で埋められてしまったかな、ということです。

 「サービス精神ともとれる通俗性」というのは、「空白の時空」を利用して直虎に「普通の女性」としての生き方を試させ、結婚、出産、親の期待、彼氏の転勤についていくかといったような「普通の女性」が悩むであろう問題に直面させておこうとする配慮のことです。

 しかし私は不思議に思うのです。それは一体誰に対する配慮なのか。そもそも「普通の女性」とは誰なのか。この日本に住む女性に分類される人々の最大公約数的な平均値のことなのか。数奇な運命を生きた歴史上の人物である直虎は、そうした「普通の女性」が経験すべき事柄をチェックリストのようにすべてクリアしなければならないのか。そのようなものを、視聴者は見たいと思っているのだろうか、と。

 このブログで、私は直虎の人物造形について一つの疑問を呈してきました。それは直虎には物語のエンジンとなるような明確な「欲求」がなく、全ての行動を何かのハプニングのリアクションとして行っている、というものです。

 37話を見て、私はなぜそうなっているのかが何となく分かったような気がしました。おそらく制作者は、直虎を視聴者が瞠目するような超人的な主人公としてではなく、むしろ視聴者が感情移入しやすいような「等身大」の人物として描こうとしたのだと思います。しかし「感情移入しやすいだろう」と制作側が考えて想定した主人公の能力や成長の度合いが、実際の視聴者の理解力や期待値に対して低すぎたのです。

 もう少し詳しく説明します。エンターテイメント作品においてヒーローを描く際には、大きく分けて二つのアプローチがあります。一つは非凡なヒーローを非凡に描くというもの、もう一つは平凡なヒーローが失敗しながら観客と一緒に成長するというものです。一般に非凡な人に感情移入するのは難しいので、多くの作品は後者のパターンを採用します。

 しかしこのアプローチはさじ加減が非常に難しいのです。ヒーローはあくまでヒーローですから、視聴者と終始同じレベルではまずい。最終的には視聴者を感嘆させる成長や業績を示さなければなりません。主人公はある段階までは試行錯誤を繰り返しながら、視聴者と足並みを揃えて成長します。しかしその段階を超えると、視聴者を追い越して高みに昇っていかなければなりません。なぜなら私たちが彼らに究極的に求めているのは、彼らの非日常的な「胸のすく活躍」だからです。

 そのためには想定する視聴者の目線を高く見積もりすぎても、低く見積もりすぎてもいけません。ちょうど同じ目線の高さで成長を追体験してもらうことで、初めて共感が生まれるからです。そして大河ドラマのような幅広い視聴者層を想定するドラマでは、その目線をやや低めに設定しておくのは、理解できる配慮なのかもしれません。

 しかし、そうだとすれば『直虎』は非常にバランスが悪い作品ということになってしまいます。というのも、主人公の能力や思考パターン(、加えて男の趣味)の凡庸さを除けば、それ以外のストーリー展開は凡庸とは似ても似つかない、よく言えば万人に媚びない、悪く言えばあまり大河らしくないものであるからです。

    よく引き合いに出される『平清盛』では、清盛は最初から非凡な人物として描かれています。視聴者は彼と完全に共感することはできませんし、そのように想定されてもいません。最初から最後まで「分かるやつだけ分かればいい」という頑固一徹な制作姿勢で、多くの視聴者を虎の穴に突き落とすような展開でした。しかしだからこそ、今のカルト・クラシックとしての地位を獲得できたのです。

    それと比較すると、『直虎』は想定する主たる視聴者層が分かりにくい作品です。勝手に予測すると、プロデューサーの当初の意図としては、『直虎』は多くの「現代女性」に最大公約数的に共感してもらえることを狙って作られたのでしょう。その考えの痕跡が直虎の人物造形から感じられます。しかし脚本家は脚本家で描きたい世界観があり、その世界観はおそらく「現代女性が共感する」はずの「等身大」のヒロインとはある意味相容れないものだったのではないでしょうか。

    はたして実際の『直虎』は万人に愛される娯楽大作ではなく、どちらかというと一部の熱狂的なフォロワーに支持されるカルト・クラシック的な地位を獲得しつつあります。フォロワーが最も惹きつけられているのは、『直虎』の甘えを許さないストーリー展開や練りに練った構造の美しさだと思います。もちろん特定の俳優の人気という要素もあるのかもしれませんが、そのキャラクターが人気になったのも、この話の世界観や話の筋そのものに魅力があったからです。

    しかし37話を見て、私は果たして『直虎』が真のカルト・クラシックになれるのかどうか、少し不安になってきました。私の当初の予想では、第二幕の終わり、すなわち武田が攻めてくる頃には、直虎も真の成長をとげ、武田襲来という最大の危機を乗り越えて城主として独り立ちするのだろうと思っていました。しかし武田襲来は今週の段階では何となくアンチ・クライマックスに終わりそうですし、予告では武田が来た後、直虎はそれでも堺へ龍と一緒に旅立とうとしています。そして37話の直虎の私生活は、成長どころか後退ともとれるような迷走ぶりですなのです。

    これまでも薄々感じてきたことですが、政次がいたころはそれほど目立たなかった直虎の凡庸性が、彼がいなくなったとたんに大きくクローズアップされ、それがストーリー展開の面白さや切れ味にも影響を与えるようになってきているようです。改めて考えると、政次は予測不能な変化や動きを与えてくれる非凡なサブヒーローであり、甘えのないシャープな展開の象徴のような存在でした。

    37話は前半は還俗した直虎の日常生活が描かれました。そこで直虎は、今までの激動の展開がまるで嘘だったかのように「普通の女性」の生活を営み、「普通の女性」が直面する悩みに煩悶します。後半は一転し、直虎が突如としてスーパーヒーローのような活躍をみせます。これは15話で見たのと同じような展開です。

    この前半の「普通の女性」展開と、後半の「スーパーヒーロー」展開について、次項でそれぞれ詳しく見ていきましょう。

 

直虎と「普通の女性」の生き方

    37話では帰農したおとわが綿の摘み取りや綿糸作りに精を出す様が描かれました。共に暮す龍雲丸は炭を焼いて生計を立てています。

    外の世界へ出ていきたい龍と、井伊谷という小世界の内側で生きる直虎。直虎は農業を営みますが、龍は農業に手を染めません。もともと農業は「定住」を意味する生産活動ですので、龍がそれを行うはずがありません。代わり龍が行うのは「炭焼」。職能集団だった龍雲党時代に座を組んで行っていたかもしれない工業活動です。龍の体は井伊谷にあっても、心は龍雲党の世界、すなわち座や市、商業や工業の世界にあるのです。

    二人の住まいには墓石があり、そこには花が備えられています。その花の新鮮さから、二人の暮らしは常に死者とともにあることが分かります。平凡で幸せそうに見える暮らしですが、最初から生き方の違う二人、共に死に損なった二人が、彼岸へ行ってしまった人の魂と共に、この世に留まっています。生きている二人に対して不適切かもしれませんが、彼らがいるところは、どこにも属さない中途半端な中間地点、すなわち煉獄のような場所です。煉獄とは、天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところです。

    この設定自体は悪くないと思います。はからずも生き残ってしまった二人が寄り添って暮らしていこうとするのを、生き方の本質的違いや、死者との因縁といった阻害要因が真綿で首を閉めるように邪魔をする。非常に現実的で、面白いセットアップです。

    しかしこのせっかくのセットアップを、続く直虎のセリフや行動が台無しにしているように思えます。

    堺から誘いの手紙が来た時、龍はおとわも堺へ誘います。これに対する直虎の最初の反応はこうです。

 

「家を潰し、皆の菩提を弔うべきところを還俗し、このうえ井伊を出て行くなど罰当たりにも程があろう」。

   

    これは敗戦の将としてはまっとうな感覚です。直虎は井伊を潰した究極の責任者です。トップというのは失敗の責任を追うのが仕事なのです。

    しかしこの彼女のまっとうな感覚は、母親の説得の前にあっさりと覆されてしまいます。祐椿尼はおとわに「そなたの孫が抱きたいのです」と言います。そして、よい年なのだから頭を逃せばもう相手はいない、とたたみかけます。娘に「普通の女性」としての幸せを掴んでもらいたいという母の願いにほだされて、おとわは龍に告げます。

 

直虎「頭、共に行く」

龍雲丸「よいのか」

直虎「母上が孫の顔が見たいと。故に行けと言うてくださった」

   

    このセリフを聞いて、私は耳を疑ってしまいました。井伊家は断絶したとは言え、まだ虎松は生きており、直之は近藤のもとで井伊の残党を食わせるために奮闘し、龍潭寺も通常営業しており、六左衛門は虎松のもとで苦労し、しのは直虎の命令でお家のために松下に嫁ぎました。すべての失敗の責任者である敗戦の将、そして政次がその命を繋いだ井伊の象徴である直虎が、井伊を捨て、全ての責任から逃れて、「普通の女性」としての幸せを掴むために、「彼氏の転勤についていく」という選択をたとえ一時でも大真面目に行う。そして私たち視聴者は「その気持ち分かる」「私でもそうするかも」と感情移入したり共感したりするように期待されているのです。私はこれには何とも言えない居心地の悪さを感じました。「普通の女性」の幸せとは、社会的責任の放棄を正当化するほどの強い切り札なのでしょうか。

    37話には直虎と龍の二人暮らしの住まいに同居する政次の亡霊について、龍が語ったシーンもありました。

 

 「あんたがここで百姓をやってたって但馬様が生き返るわけじゃねえし」

 

 直虎はこの数年間の間に、政次のことをどう整理をつけたのでしょうか。直虎の政次に対する思いは37話でも結局語られずじまいでした。私は以前はそのうち直虎の口から語られる日が来るのではないかと希望的観測を持っていました。しかし最近は、そんな日が本当に来るのかどうか、少し不安になってきています。

 というのも、ここまで何も言わない、向き合うことすらしないということは、もしかしたら直虎はおろか作者自身も、政次が直虎にとってどういう存在であるかがきちんと整理できていないのではないかと思うようになってきたからです。政次は複雑な人物です。直虎にとっては、彼がどのような存在かを一言で説明することは難しいのでしょう。おそらく説明した途端に、その言葉が全てを内包することができなくて、色々なものがこぼれ落ちてしまう、そのような存在だったのでしょう。

 今思えば示唆的だったと思えるのは、政次の死後、直虎はその死を受け入れず長い間「忘れて」いたということです。これは彼の死の打撃の大きさを表すのに便利な方法でしたが、同時にずるいやり方でもありました。忘れていれば向き合わずにすむからです。そして直虎が思い出した瞬間に堀川城の悲劇が起きます。直虎は政次の死を悼む暇もなく、龍の悲劇に心を奪われます。そして龍の命を救うことが、政次の死を悼むことにとって替わります。本来なら独自の悲劇として対処すべき政次の死が、代替の命としての龍を救うという使命にすり替わったのです。

 私は、このことによって直虎は政次の死をじっくり考える機会を逃してしまったと思っています。政次の死を思い出して以降、直虎が発した政次関連の言葉は、私の記憶では「私が、政次を…(殺した)」、「なんじゃ、政次は生きておったのじゃな」の二つだけです。特に二番目のセリフは、何とも客観的な、他人事のセリフのように聞こえてしまいます。

 多くの政次のファンが残念に思うのは、こうした直虎の無責任・無自覚な態度でしょう。こうした政次への態度は、彼の生前の彼女の態度と全く変わっていません。政次以外のすべての人の気持ちにあんなに過剰に反応する直虎が、政次のことについては本当に淡白です。

 そもそも、直虎は自分が龍の罪を見逃したことが政次の死の遠因になっているということに気がついているのでしょうか。私は気がついていないと思います。分かっていれば、いくら直虎でも、還俗して龍と一緒になるという選択をあれほど気軽にしたか疑問です。だから、傍から見たら因縁に絡め取られたように見える暮らしにさして疑問も持たず、二人して「全て捨てて、一からやり直そう」というお気楽な結論に達するのだと思います。

 おそらく来週、直虎は堺へは行かず、龍とも最終的には別れるのでしょう。しかし私には、直虎が自分の置かれた立場の複雑さをきちんと理解せず、龍との因縁についても深くは考えず、「普通の女性」の幸せを簡単につかみとろうと一瞬でも考えた事自体が残念でなりません。そしてこうした通俗的な展開をお約束のように持ってきて、「ほら、<普通の女性>ならこういうことに悩むものでしょう」と示してくる制作側にも正直失望します。

 このドラマの一ファンとしては、まず直虎に政次の死にきちんと向き合ってもらいたかったと思います。そしてたとえ難しくても、「忘れてしまう」という都合の良い展開にはせずに、きちんと言語化してほしかったと思います。そして政次の死の贖いを龍の命を助けることにすり替えてほしくなかったと思います。それは政次の死の価値を貶めるだけでなく、直虎の誠意や思慮の深さに疑問を抱かせることです。

 繰り返しになりますが、直虎には着実に成長し、37話の時点ではそろそろ視聴者の目線を乗り越えてほしかったと思います。そういう観点から見ると、特に前半の展開はやや残念なものでした。

 

スーパーヒーロー展開への疑問

 次に後半の展開について述べます。後半はようやく武田が攻めてきて、それに伴って徳川、近藤、高瀬の動きがありました。その中でも、私は直虎の井伊谷城潜入大作戦について述べたいと思います。

 直虎が井伊谷武士のモブの中から突然甲をとって正体を明かした展開、既視感がありました。15回『おんな城主対おんな大名』、対寿桂尼のシーンです。あのシーンは意外性があって楽しく大好きな場面でした。

 しかし当時から一抹の違和感があったことも確かです。あのシーンの直前まで直虎は政次の制止を聞かずに無謀に駿府に出向こうとする自分に迷いがあるように見えました。実際に蛇にも怯え、本格的な攻撃の前には自分の身を守ることすらできず、部下の命を危険にさらしたのです。

 しかし蓋を開けてみれば、いつの間にか直之との服の取り替えという奇策を思いつき、「男になって」寿桂尼の前に現れます。その時も、その流れは唐突に感じられました(もちろん1話での亀との服の取り替えという伏線はありましたが)。

 今回も、最前まですべてを捨てて堺に転居するという算段をしていたのに、井伊谷の危機に突然スイッチが入ったかのように熱心に話し合いに参加し、突然奇策を思いついて「男に変身して」井伊谷城に潜入します。

 この男への突然のコスチュームチェンジは若干アニメ的演出に思えます。マーヴェル系のダークヒーローもののようでもあり、日本で言えば『リボンの騎士』のようでもあります。

 このアニメ的な過剰なドラマチックさは全体の流れから浮いていて、よく言えば盛り上がるポイントでもありますが、悪く言えば唐突な流れです。

 なぜこのようなことになるか考えてみると、やはりそこには直虎の人物造形の問題点が関係しているように思えます。

 直虎は「最大公約数的な視聴者」が感情移入しやすいように、知的レベルは平均的に設定されています。そして視聴者が直虎の経験を疑似体験できるように、何かハプニングがおこると、それに対して視聴者が抱くであろう疑問や感想を彼女に代弁させて、視聴者が直虎と共に成長できるように設計されています。したがって彼女の行動や思考は、基本的には視聴者の想定の範囲であることが必要です。

 しかし直虎は物語のヒーローでもありますので、時には視聴者をすっきりとさせるような爽快な活躍をしなければなりません。しかしその過程までもを視聴者に追体験させてはプライズは生まれません。そのプロセスは視聴者には伏せる必要があります。ですから普段の思考と、時々起こるヒーロー的な活躍のギャップが大きいのです。

 ただし、私見ではマンガ的ではないカタルシスが『直虎』シリーズでは一回ありました。それは25話『材木を抱いて飛べ』です。この回では、直虎は全ての思考プロセスを言葉で詳らかにしました。そして変装もせず、奇策もとらず、正攻法と練りに練った策の周到さによって堂々の勝利を収めたのです。そして仮にサプライズがなくとも、視聴者は重厚な満足感を得ることができました。

 おそらくこのような描き方が、視聴者が最も納得する主人公の成長のあり方なのではないでしょうか。そしてそれが25話ではきちんとできていたのです。

 最近の展開は、あの頃から比べるとややパターン化していて、良い意味での意外性や動きがありません。しかし、私は第三幕の『直虎』への期待を捨てたわけではありません。かなりその希望がついえてきたとは言え、直虎には正攻法で成長して欲しいですし、視野を広げ、もっと賢く、責任感溢れ、自信を持って再び城主に返り咲いて欲しいと思います。そして第三幕が、直政の物語ではなく、あくまで直虎の成長の物語であり続けて欲しいと思います。

 

ps. 私は無から価値を生み出す創作活動に敬意を持っていて、基本的には作品に対しては良い面の評価を優先させたい思っています。しかし今回はやはり言うべき点がたくさんあると感じて、このような内容になってしまいました。誠意を持って書いたつもりですが、気分を害された方がおられたらすみません。

『おんな城主直虎』新ポスターに思う~38話以降に期待すること~

はじめに

 新ポスター発表になりましたね。菅田将暉さんの清々しいビジュアルと、直虎の成熟した眼差しの対比に心が浮き立つのを感じました。新しいことが始まる高揚感が楽しくて、「第三幕」について何か書いてみたくなりました。そこでこのエントリでは、箸休め的に、38話以降の演技陣に期待することを気楽に述べてみたいと思います。

 

第一幕~直親の成長と「主従関係」~

    38話以降について述べる前に、その前段階として、前回のエントリに補足して『直虎』全体構造の中における12話までの位置づけについて、主として政次と直親を中心に整理してみたいと思います。

 前回のエントリでは『直虎』を「三幕構成」という視点から3つのパートに分解し、特に第二幕について詳しく論じました。そして第二幕の前後半に、それぞれ小ミッドポイントがあるのではないかという考えを提起してみました。

 その際に第一幕についてはほとんど言及しませんでした。しかしあのエントリをアップした後に、12話程度のまとまりを前後半に分けるという考え方は、おそらく第一幕にも当てはまっているのだろうと考えるようになりました。

 その視点から第一幕を捉え直すと、少ミッドポイントは7話「検地がやってきた」になるだろうと思います

 

第一幕城主誕生編(1~12話)前半 次郎法師(竜宮小僧)誕生編(1~7話)

               小ミッドポイント 7話 検地がやってきた

                                                             (直親と政虎の主従関係の確立)

               後半 直親成長編(8~12話)

 

 川名で岩松殿を騙すために必死に工作し、目線と目線で会話をした直親と政次。その後の井戸では直親から「おとわのためにともに井伊を守る」という提案が行われ、政次はそれに言葉で同意こそしないものの、否定しないことでそれに乗ります。二人は、緊張関係を孕みながらも、おとわのために手を携えて「主従になる」ことを了解したのです。ここでいう「主従になる」というのは、二人が同じ目的を持ち、リーダーたる直親を政次が支えることで共闘する同志になるというような意味です。

 7話終盤の政次と直親の井戸での会話は、今思えば18話の政次と直虎のシーンに重なります。このときも直虎と政次は言葉で「主従になる」と宣言しはしませんでしたが、二人はかつての政次と直親と同じような暗黙の了解で共闘する主従関係を結びました。

 そのような視点で見ると、第一幕の後半は城主(正確には後継ですが)になろうとする直親の成長の物語と捉え直すことができます。そしてそれは第二幕で直親の移し身として同じような段階を踏んでいく直虎の物語のプレリュードでもあったのです。

 だとすれば第一幕後半の影の主役は直親であり、ここで最も重要なのは直親と政次の「主従関係」です。二人は最初は対立していましたが、井伊のために協力して隠し里を守り、それが遠州騒乱の折の井伊の避難所として機能しました。また時期尚早で失敗したとは言え、今川から離れ松平につくという方向性も二人の同意で決められました。直親が生きていれば、もっと多くの事柄を二人で成し遂げることができたかもしれません。

 続く第二幕においては、対立を経て結ばれた直虎と政次の「主従関係」が井伊の繁栄の鍵でした。そしてその主従関係がなくなったとき、直虎は一歩も先に進めなくなってしまいます。ここから読み取れるのは、『直虎』において主従関係の段階的発展、すなわち主従の対立から和解、共闘関係の確立は、「主」を成長させる主要ファクターなのです。

 第一幕で主従を演じた三浦春馬さんと高橋一生さん、「検地回」では高橋さんの演技が注目されましたが、三浦さんの演技も繊細かつ堂々とした立派なものでした。実年齢では高橋さんより10歳も年下の三浦さんですが、全く気後れする風もなく互角に渡り合って存在感を示しました。今でも直親が色あせないのは三浦さんの演技のおかげもあるしょう。

 第二幕では、直虎と政次の演技のケミストリーが物語の鍵でした。この二人の演技に緊張感が欠けていたり、力量のバランスが崩れていたとしたら、ドラマの説得力が大幅に損なわれていたでしょう。すなわち『直虎』において、「主従関係」の緊張感は演技上の大きなポイントであると言えます。

 第三幕ではどのような「主従関係」の緊張が描かれるのでしょうか。まず考えられるのは、直虎と虎松です。この二人は厳密な意味での主従ではありませんが、直虎は主役ですから、旧リーダーと新リーダー間で井伊の方向性を巡って初期には何らかの対立があるかもしれません。

 その他に考えられるのは、家康と直政、そして直政と亥之助・直久です。そのうち家康と直政については、この二人の圧倒的に不平等な関係性を考えると、直政が家康とあえて対立する道を選ぶとは思えません。となると残りは井伊家内部、すなわち亥之助・直久との関係です。

 私は亥之助・直久がドラマの中でどれほどの重要性を占める役であるか全く知りません。彼らと直政は全く対立せず、政次と玄蕃のように終始良い関係が描かれるのかもしれません。しかし彼ら三人は、いわば旧世代の幼馴染三人組の継承者です。できれば何らかの葛藤や対立を経て、井伊を守るという強固な目的のもとに共闘する絆を築く過程を見たいものです。

 

第三幕に望むこと=若手の演技合戦

 38話以降で楽しみにしていることの一つは、若手俳優さんたちによる新世代幼馴染「主従関係」の演技合戦です。

 第一幕では直親と政次の俳優さんの年齢差は10歳でした。しかし虎松役の菅田将暉さんは1993年生まれ、亥之助役の井之脇海さんは1995年、直久役の冨田佳輔さんは1991年生まれです。わりあい年齢も近く、第一幕の二人とはまた違ったケミストリーが生まれることが予想されます。

 私は俳優さんに詳しいわけでもないですし、このブログでも俳優さん一人ひとりのプロフィールについて深く論じているわけでもありません。しかし今回はあえてそのあたりに少しこだわり、芸能記事的なものも参考にしながら何を楽しみにしているかを語ってみたいと思います。

 若手の男性俳優といえば、その登竜門としては戦隊モノや仮面ライダーがメジャーです。それを足がかりに、次には『35歳の高校生』のような同世代の男性俳優が大量出演する群像劇に出て知名度を上げるのがセオリーです。そのような群像モノの現場には、すでに売れている俳優とこれから売り出す俳優が混在しています。舞台裏報道ではしばしば、キャストは仲良く、撮影は和気あいあいとした雰囲気で行われていると伝えられます。しかし生き馬の目を抜く芸能界、実際にはライバル意識や嫉妬も渦巻いていることでしょう。そのような、同世代の同業者なら持っていて何の不思議もないライバル意識や嫉妬は通常はほとんど報道されません。しかし今日紹介する記事にはそれらのことがわりあい素直に書かれていて、私は興味を持ちました。

 その記事とは、直政役の菅田将暉さんと映画監督永井聡さんが映画『帝一の國』(2017年)について語ったインタビューです。

 

菅田将暉の勝負作『帝一の國』 「僕がここで消えるか、残るか。消えたらそれで負けです」 映画『帝一の國』菅田将暉&永井聡監督インタビュー - インタビュー&レポート | ぴあ関西版WEB

 

 『帝一の國』はエリート高校の生徒会長選挙をめぐるコメディで、男子高校生役として菅田将暉さん、野村周平さん、竹内涼真さん、間宮祥太朗さん、志尊淳さん、千葉雄大さんらが出演しています。ここで菅田将暉さんは、主役の重みと責任感、そしてある意味で損な面についても率直に語っています。

 興味深いのは、「主役をはること」に関して、『直虎』では龍雲丸を演じた柳楽優弥さんに対して次のように語っていることです。

 

菅田:あ、ただ『ディストラクション・ベイビーズ』(2016)は、初めて自分で負けを意識しましたね。主役を張っていた、柳楽優弥という男に対して。

(中略)

――菅田さんが主役としてそうやって臨んでいるからこそ、共演者のみなさんの意気もあがりますよね。『帝一の國』はリーダー論の映画でもありますが、それこそ先ほど挙がった『ディストラクション・ベイビーズ』の柳楽優弥さんなんかは、現場全員を引っぱっていたことが作品から伝わってきましたし。

 

菅田:本当にそうです。柳楽くんは一番考えていたし、もっとも悩んでいた。監督とも深く話し合っていた。そういう作業が大事ですよね。どんな形でもいいけど、自分の本気度を示すのが真ん中に立つ人間の役割ですよね。

 

 私は柳楽優弥さんの作品を初期の映画以外それほど見ていないので、菅田将暉さんの言う柳楽さんのすごみがまだ本当には実感できていません。『直虎』での柳楽優弥さんは、むしろ暴走しないように、主役を立てるように、そして直虎と政次の物語を邪魔しないように、少し抑えた演技をしていたように思えます。破天荒で、キレキレに演じようと思えばいくらでもできた可能性のある龍雲丸をあのように演じたのは、好意的に見れば柳楽優弥さんが全体を見る目を持っていたからなのかもしれません。

 逆にそのようなバランス感覚を良い意味でもたない若手俳優が、龍雲丸をとことん突き抜けて演じていたら、直虎、政次、龍雲丸の関係はどのようになっていたでしょうか。そして政次を他の誰かがもう少し冷たい、覚めた感じで演じていたら…。興味深い「もしかして」の世界です。

 しかし柳楽さんに「負けた」と思わされた菅田将暉さんも、他の共演者からは逆に敗北感を抱かれているようでした。

 

永井:そういえばさ、『帝一の國』の関係者試写会の後、(共演の)竹内涼真くんが悔しがっていたよ。

菅田:え、なんで?

永井:「菅田くんが凄い、やっぱり違う」って。作品自体はすごく楽しんでくれたけど、でも役者としては菅田くんの凄さを目の当たりにして落ち込むところもあったそうです。

 

 竹内涼真さんは、その正統派のルックスからは想像できない丁寧で繊細な演技で最近注目されている役者さんです。私も『ひよっこ』を見て、彼の間のとり方や表情の作り方の絶妙さに感心していたところでした。そんな恵まれた存在の彼も、菅田将暉さんという規格外の才能に対して色々とコンプレックスがあるということが興味深いと思いました。

 しかし私がこのインタビューで最も着目したのは、次の永井監督の発言でした。

 

永井:やっぱり、役者同士でそういうことがあるんだと思う。たくさんの若手俳優やエキストラがこの映画には出ていて、みんな、メインキャストに対してきっと「なぜこの人たちが売れているんだ」、「俺だってチャンスを与えてもらえれば」とギラギラしていたけど、菅田くんたちの演技を見て、「自分に足りないものが分かった」と言っている人が多かった。覚悟の違いを感じた、って。

 

 これを読んで私は、すでに売れているメインキャストの6人、特に主役の菅田将暉さんにライバル意識を燃やしながらチャンスを伺う若手の俳優さんたちのハングリー精神を想像し、胸がぞわぞわとするように感じました。

 さらに胸熱なのは、この『帝一の國』キャスト集団の中に、亥之助を演じる井之脇海さんも含まれているということです。勝手な想像ですが、井之脇さんも、「なぜ自分があの六人の中にいないのか」「なぜ自分が主役ではないのか」と思いながら映画に出演し、菅田将暉さんの「覚悟」に敗北感を抱いたか、あるいは心の底では「機会さえあれば、やはり自分のほうが」と思ったのかもしれません。

 だとすれば、『直虎』は彼にとっての「機会」だといえます。この世代の俳優を確実に牽引している存在である菅田将暉さんと、真っ向から演技で勝負して自分を証明するチャンスです。

 若手同士の切磋琢磨について、菅田将暉さん自身は次のように語っています。

 

菅田:映画の冒頭、帝一が生徒たちの前に立ち、「僕は、自分の国を作る」と宣言して始まるじゃないですか。実際、そのシーンでみんなの前に立ったとき、同世代の役者が前にずらっと並んでいて、「僕はこれだけの人のアタマ(主演)なんだ」と強く感じたんです。仁王立ちしながら、自問自答していた。「大丈夫だ、誰にも文句を言われない作品にしよう」と決意できる瞬間でした。帝一同様、野心を持って撮影に挑んでいました。せっかく同じ世代が集まったので、それぞれ個の強さを磨いていこうって。

 

 切磋琢磨していく、それぞれの個を磨いていく、しかし自分があくまで主役として牽引していく、これらが同世代の役者に対する菅田将暉さんの意識のようです。こうした意識を持った菅田将暉さんが井伊谷パートにおける家臣団をどのように牽引してくれるか、そしてそれに応えて井之脇海さんや冨田佳輔さんがどのようにケミストリーを起こしてくれるか、それが私にとっての第三幕の見どころの一つです。

 最後に「主役」についての菅田将暉さんの意見を見ておきたいと思います。

 

――主役が損をして、脇役が得をする傾向は近年とくにありますし、あえて脇を選ぶ人もいますね。

 

菅田:だけど、それは甘さでもあると思うんです。その損得をみんなが一度知ってしまったから。でも、昔の映画を観ていると、不器用でぶっきらぼうで、芝居としては良くないのかもしれないけど、それでも引き込まれるスター俳優さんはいましたよね。あの格好良さが僕の理想の一つ。真ん中でやるということから逃げていない。

 

 おそらくは、菅田将暉さんも主役ということにこだわりのある役者さんの一人だと思います。柳楽優弥さんもその一人で、彼はインタビューでもはっきりと将来大河ドラマでの主役も意識していると言っています。菅田将暉さんと柳楽優弥さんは、このまま順調にキャリアを積めば、そのうち大河の主役が回ってくる位置にいるのかもしれません。

 その二人のうち、柳楽さんは前述したように『直虎』では破天荒な役どころをやや抑え気味に演じました。柳楽さんにとっては柴咲さんは事務所の先輩でもあり、遠慮もあったことでしょう。しかし同時に柳楽さんがバランス感覚のある人だったから、あのような描写になったのではないかと思います。

    菅田さんもポジションとしては柳楽さんと同じ主役の直虎を支える脇のキャストの一人です。しかし龍雲丸と直政の違いは、直政は直虎のサポート役ではないということです。ここで私は菅田さんが直虎をも食う勢いでキレキレに演じるのか、バランス感覚が感じられる抑えた演技をするのか、その点にも注目しています。

 菅田将暉さんがここまで率直に考えを開陳できるのは、彼のオープンな性格のなせる業なのはもちろんのこと、彼が今それができる年齢と地位にいるというということも大きいと思います。今の高橋一生さんならば、もうここまで率直に語ることはないでしょう。柳楽さんは性格上ここまでは語らなさそうです。ですからこのインタビューは若い俳優の夢や覚悟や自負心が素直に表れた、私にとっては非常に興味深い読み物でした。そしてその「夢、覚悟、自負心」は次のような現実に対する焦燥感に立脚しているものだと思います。

 

菅田:(前略)勝ち負けについて考えるなら、現在まで役者を続けてくることができたという意味で、それを勝ちとするならば、トーナメントでいうところの負けていった人たちも当然いるわけで。この8、9年間でいなくなった人もたくさんいます。中には「あの人、凄い俳優だったのに」と尊敬していた方もいた。だからこそこれからも生き残っていけば、30代、40代でもっと何か大きなことが起きるんじゃないかって。

 

 彼が若い世代の役者が抱える必死さについて素直に吐露してくれたことに感謝し、『直虎』第三幕の若手演技合戦に注目して見ていきたいと思います。

『おんな城主直虎』36話~全体構造からみた36 話の位置づけと直虎、政次の人物造形~

連続ドラマのリアルタイム各話感想を書くことの限界

 36話を視聴して、あらためて連続ドラマを各話ごとにリアルタイムで批評することの難しさについて考えてしまいました。文学や映画の批評は作品を最初から最後までまるごと読んだり見たりして、時には何度も読み返して、全体から部分を考察することができます。何にせよ作品の批評とは本来そういうものだろうと思います。

    しかし連続ドラマのリアルタイム各話批評をすること、しかも先の展開が分からずに途中経過で何かを考えることは、「全体」というフレームワークなしに何らかの構造的な解釈を加えていかないといけない。喩えて言えば、文学や映画の批評者が完成されたパズルの全体を見ながら様々な構成要素についてあれこれ考えることができるのに対し、連続ドラマのリアタイ視聴者は、パズルのピースを手にしながら完成図を予想し、時には盛大に的をはずしつつ、完成図をすでに知っている制作者に対して圧倒的に不利な戦いを挑んでいるようなものです。要するに視聴者と制作者にはものすごく大きなインフォメーション・ギャップがあって、それはもう部分だけを見てウロウロ迷う子羊と、それを空から笑ってみている神様くらいの違いだと思うのです。

    こういうタイプの批評が存在するジャンルは他にあるでしょうか。新聞や週刊誌などの連載小説を、日毎、週ごとに各話で感想を書く人はあまりいないと思います。他にあるとすれば、実写やアニメの連続シリーズか、コミックの連載などでしょうか。このようなジャンルの感想が陥りがちなのは、全体像の欠如から来る、部分へのアンバランスな注目です。具体的に言うと、個々のストーリーラインの断片を個別に見て、それぞれに対してしばしば感情的な反応をすることです。これはまさに木を見て森を見ずの状態で、それによって本当に見るべき部分を見失ってしまうことが多々あるように思います。

    たとえ連続ドラマであっても、それでも何かまとまりのあることを言おうと思えば、少なくとも数話の単位で物語のアーチごとに全体を見る必要があります。『直虎』でいえば、例えば30話~33話、龍雲丸が活躍した21~23話などがそれにあたるでしょう。

    しかし36回のようないわば中継ぎの回に対して単独で何か言えるとしたら、直虎が(一時的に)井伊再興を諦めること、あるいは龍雲丸と結婚する(ように見える)ことになどといった彼女のアクションの途中経過について、価値判断や希望的観測を述べるしかありません。それはリビューワーに問題があるのではなく、そのような感想しか抱きようがないというリアタイ・ドラマ・リビューワーの立場が構造的にもつ限界の問題なのです。

    今回このような前置きをするのは、36話の個々のストーリーラインについて私がオリジナルに言える、あるいは言いたいと思うようなことはほとんどなかったからです。すべてがあまりに途中経過すぎて判断に困るようなことが多かったですし、うっかり書くと感情的に龍を叩きそうになったり、直虎を叱咤激励したくなったりしてしまいそうで、それは本意ではありませんでした。

    そこで、今回のエントリでは少し目先を変えて、あえて36話を単体として論じるのではなく、まだ未完の物語ではありますが、『直虎』の全体の構成について予測し、リアタイドラマ視聴者が宿命的に奪われている「『全体』というフレームワーク」を勝手に得たつもりになって、そこから見た36話の位置づけについて考えてみたいと思います。そして個別に直虎、政次、最後に少し南渓谷、龍雲丸についてもそれに位置づけて整理してみたいと思います。

  

『直虎』全体構造を勝手に予想~「三幕構成」~

     今回私が全体構成の予測のために使用する補助線は、「三幕構成」という概念です。

    いつだったか、「大河ドラマではよく33回あたりに一度クライマックスが来る」というような趣旨のtweetを見かけたことがあります。これは的を射た観察だと思います。それはおそらく、『直虎』を含めた多くのドラマや映画がいわゆる「三幕構成」を採用していることと関係しています。

    「三幕構成」はエンターテイメントの王道の構成だと言われ、次のようなパーツに分かれています。

 

第一幕 ビギニング(場面設定、主人公のキャラ設定)

第二幕 ミドル(葛藤)

第三幕 エンド(解決)

 

    この3つの長さの黄金比は1:2:1だと言われています。第二幕は尺として一番長く、しばしば前半と後半に分かれます。そしてここが物語の「本論」のような部分です。第二幕の前半と後半の中間地点に置かれるのがミッドポイントです。この構成を『直虎』にあてはめ、分解してみましょう。

 

第一幕 城主誕生編(1~12話)

第二幕前半 城主成長編(13~27話) 前半(13~18話)政次との対立編

                    小ミッドポイント 18話 政虎和解

                    後半(19~27話)材木編

ミッドポイント 27話「気賀を我が手に」→戦わず、潤すことで城主に

第二幕後半 城主試練編(28~37話) 前半(28~33話)政次受難編

                    小ミッドポイント 33話 政次の死

                    後半(34~37話)最大の危機

第三幕 城主成熟編(38~50話)

 

第一幕

    各パートについてさらに詳しく見ていきます。通常、第一幕では最初の方にキャラクター設定が行われ、次に「主人公の欲求」という視聴者が主人公に感情移入して見るための核となるアイデアが示されます(弱小チームを強くしたい、歌手として成功したい、など)。そして第一幕の最後の方で「第一の事件」が起こります。この事件がきっかけとなって物語が本格的に展開していくのです。

    これを『直虎』に当てはめてみると、「キャラクター設定」では、子ども時代に、おとわは無鉄砲な性格であること、何でもとりあえずやってみること、天真爛漫で人を惹きつける存在であること、人のために無条件で何かをしてあげたいと思っていること、学問の素養があること、後先考えない思慮の浅さがあることなどが描かれます。

    「主人公の欲求」については、幼いころに直盛に言われて領主に興味を持ったかに見えますが、その他にも人に言われて亀との結婚に乗り気になったり、竜宮小僧になろうと思ったりと、様々に移り変わっていきます。おとわが自分で選んだのは出家することと、亀の代わりに城主になることですが、これらも何かの反動であったり、リアクションであったりして、それぞれの職業に魅力を感じてそれを志したようには見えませんでした。後述しますが、私はこの「主人公の欲求」設定が、このドラマではこれまでのところそれほどうまくいっているようには思えません。そしてこれが私が直虎というキャラクターに感じる違和感に深く関わっています。

    「第一の事件」は言うまでもなく直親の死と、それに伴う井伊家断絶の危機です。この危機を救うために直虎が立ち上がり、城主直虎が誕生して、ストーリーが本格的に動き出すのです。

 

第二幕前半

    第二幕は、物語全体の核になるパートです。ここで描かれる事柄が、「主人公の欲求」とリンクした物語のメイン・イベントです。まず第二幕前半では第一幕の最後に発生した事件によって悪化した状況を主人公が立て直そうと奮闘する過程が描かれます。そして必然的にここには対立の軸が置かれます。すなわち主人公が成長する過程で衝突し、その衝突を通じて主人公がさらに強くなっていくような敵の存在が必要なのです。

    『直虎』においてはその役割を政次が担いました。『直虎』の興味深いところは、その敵が幼馴染で、しかも本当の敵ではない、むしろ味方だということです。そういうひねりを加えつつ、しかし表面上は「三幕構成」の王道に従って、二人の対立によって直虎が成長する過程が描かれます。それが13~18話にあたります。

 『直虎』は50話からなる長い大河ドラマです。私は作者はこの長い第二幕を、さらに四分割したのではないかと考えます。すなわち第二幕前半をさらに前半と後半に、そして第二幕後半をさらに前半と後半に分けたのです。そして第二幕の前後半に大きなミッドポイントを置いたうえで、第二幕の前半の前後半にも小ミッドポイントを、そして第二幕の後半の前後半にも少ミッドポイントを置きました。そしてその二つの少ミッドポイントは、いずれも政次メインのエピソードでした。

 第二幕前半の小ミッドポイントは、政次が敵ではなかったと明かされ、二人が共闘関係に入ることとなった18話「あるいは裏切りという名の鶴」です。今となれば、ここで二人の関係性は「相棒」のようなものに決定したこと、それを示すための相棒もののフランス映画からの引用だったことがはっきりと分かります。

 18話で敵対する相手がいなくなってしまいましたから、第二幕前半の後半では、主人公が成功への階段を登る過程が描かれます。『直虎』では相棒であり師である政次から指南を受けつつ、共闘しながら井伊を盛り立てていく過程が描かれます。しかし成功の失敗は表裏一体、井伊をささやかな繁栄の絶頂に導いた材木は、井伊を悲劇に陥れる遠因ともなります。幸せに上り詰める過程に悲劇の底流が少しずつ勢いを増して脈々と流れているという二重構造は、この脚本の本当にうまいところです。

 材木は現在の文脈で例えると、石油のような天然資源です。これを手に入れることは富と直結します。直虎は龍雲党を引き入れることで材木の販路を切り開いて富を手にし、これを足がかりに気賀城を築きます。これが27話「気賀をわが手に」、私が考える『直虎』のミッドポイントです。

 

ミッドポイント

    通常ミッドポイントでは、それまでの展開の一つの到達点であり、同時にその後の事件の原因ともなるような事柄が描かれます。またその到達点は、第一幕で設定された「主人公の欲求」のとりあえずの実現として示されます。ここで重要なことは「とりあえず」という点です。ミッドポイントの達成はあくまでも一時的なものでなければなりません。そうでなければ話はそこで終わってしまいます。そしてそれは同時にこれから訪れるさらに大きな試練の前触れでもなければなりません。

    『直虎』においては、気賀城の築城は直虎の城主としての理想像(奪わず、潤す)の体現でした。しかし同時に「材木」は政次の死につながる遺恨の遠因となり、さらに気賀の悲劇の舞台ともなります。

 

第二幕後半

    ミッドポイントは、「良いことが」起きるパターンと「悪いこと」が起きるパターンがあります。良いことが起きた場合は、第二幕後半では悪いことが起きる過程が描かれます。そして第二幕後半の最後に「最悪のこと」が起きるのです。『直虎』ではミッドポイントに「良いこと」が描かれましたので、そこから第二幕の終わりに至る過程は、基本的に破局に向かって事態がどんどん悪くなる苦しい過程が描かれます。

    まず第二幕の後半の前半では遠州騒乱にともなう井伊の試練が、主として政次の試練という形で描かれました。そのクライマックス、すなわち小ミッドポイントが33話です。ここで城主直虎は片腕ともいうべき相棒を失ってしまいます。二人三脚、両輪で運営していた組織の片方の車輪がはずれれば、運営がうまくいかなくなるのは必定、井伊はバランスを崩し、直虎も精神的ダメージを深く受けてなかなか立ち上がることができません。その直虎に追い打ちをかけるように第二幕の後半の後半ではさらなる悲劇が連発され、まず気賀が殲滅、最後にこの物語の最大の危機である武田の襲来が起きるのです。

    この第二幕の最終盤で起きる最大の事件が「三幕構成」における「第二の事件」です。これは通常主人公にとって最大の困難であり、絶体絶命のピンチです。これを乗り越える過程こそが主人公の成長の山場となります。この部分を描くのが第三幕のメインテーマとなることでしょう。

    以上が私が考える『直虎』の全体構成です。次項ではそれを踏まえた個々のキャラクターの設定や描写について見ていきましょう。

 

直虎~リアクションではなく、アクションを~

    まずは直虎です。

    前述したように、私は、本来第一幕で行われるべきであった直虎のキャラクター設定の核、すなわち「主人公の欲求」の設定が、思いの外うまくいっていないように感じています。

    直虎は一体何がしたい人なのでしょう。幼少期にまず直盛によって「領主」という空想ルートが示されました。しかし女子であるという現実の前にこのルートが開くことはありませんでした。次に「亀の嫁になる」というルートが開かれました。最初は乗り気ではなかったのですが、母に説得されてすぐにその気になります。しかしこれもうまくいかず、鶴の嫁にさせられそうになり、逃れるために出家をします。しかし熟慮の末の行動ではなかったのですぐにまた後悔し、逆に鶴から「竜宮小僧になること」というルートを示されて、その気になります。色々あって直親が死に、今度は和尚様から改めて「領主」ルートが示されました。これを直虎は「直親の移し身になる」という理由から「選択」する(と自称する)のですが、これも「直親のために頑張りたい」という感情主導の行動であり、領主になることの何たるか、自分の適性、領主をしたいかどうかなどに考えを致した行動ではありませんでした。

    このように見ていくと、直虎はこれまで常に自分の役割を周囲の人の言葉や起きた事件に影響されて決めてきたことが分かります。すなわち直虎はリアクションの人なのです。付記すると、「欲求」以外の面でも直虎は分かりにくい人物です。彼女は基本的にすべての思考過程を何かの出来事のリアクションとして開始するので、何も出来事がない時に何を考えているのかがよく分かりません。従って、彼女が自発的に何か賢げなことを言っているシーンがたまに挟まれると違和感があるのです。

    いくらその他の選択肢が限られていたとはいえ、城主については「自分で選んだ」仕事でありながら、適性で選んだ仕事ではないため、直虎は城主としての自分に自信がありません。それは27話で気賀城築城という業績を成し遂げても、32話で政次に認められても、変わることはありませんでした。32話では「領主を降りてもよい」と語っていますし、36話で井伊をたたむことを決意したのも、気力とともに能力の欠如を痛感していたからでしょう。それは一時的な意欲の減退だったのかもしれません。しかし直虎自身の中に「自分は成り行きで城主の座についてしまった中継ぎであり、知力も経験適性も不足している」という意識があるので、城主という座を石にかじりついてでも守りたいという強固な欲求を持つことがなかったのでしょう。政次を失い、井伊谷城を失い、お家取り潰しにあうというこれ以上ない不運の連続も彼女の自信を奪います。

    しかし我々が見ているのは『おんな城主直虎』というドラマです。最初の出発点がどうであれ、直虎は「主人公の欲求」という物語のエンジンを持つ必要があります。そしてそれは「よりよい城主になりたい」というものであるべきなのです。

    私は直虎は自信はなくとも、それと示さなくとも、心の底では「よりよい城主になりたい」という気持ちをずっと持ってきたのだと思います。自分の業績に少しは手応えも感じていたでしょうし、領民を幸せにするという仕事にやりがいももっていたはずです。

    遅ればせながらですが、今後直虎には「よい城主でありたい」という強い「欲求」を強く前面に押し出すような展開が望まれます。その「欲求」こそが物語を動かす動力ですし、そこにこそ視聴者が感情移入するのです。そしてリアクションではなく、アクションをおこす城主に成長してもらいたいと思います。

    最後に少し希望的な観測を述べておきます。「三幕構成」の話に戻ると、36話は第二幕後半の終盤に位置します。第二幕後半の最初のエピソード28話サブタイトルは「死の帳面」でした。ここに書かれた「井伊直虎」の上の朱の✕印は記憶に新しいところです。デスノートに名前が書かれた人は死ななければなりません。政次も死にました。当然直虎も死ぬ運命なのです。

    36話は寿桂尼の呪いがついに成就した回でした。「直虎」はその翼を折られ、生身の肉体ではなく城主としての精神が殺されてしまいます。直虎が龍雲丸と夫婦約束をして「とわ」と名乗った瞬間は、「直虎」が死んだ瞬間でもあったのです。

    しかし政次=直虎ですから、政次が死んで復活したように、直虎も復活するはずです。この物語は『おんな城主直虎』なのですから、「よい城主であること」が直虎の「主人公の欲求」であるはずです。その核を失っては、もはや物語とは言えません。ですから「直虎」は城主として必ず復活します。そしてその時はきっと「よい城主になりたい」という熱く強い思いを胸にだいて、政次のスピリットと共に一人ですっくと立ち上がるのでしょう。

 

政次~設定の盛りすぎ✕予想を超えた怪演=混乱~

    次に政次です。

    今回全体像を整理してみて、私は政次というキャラクターの重要性を再認識しました。なぜなら政次中心のエピソードが、第二幕というこの物語の「本論」の展開の要所に戦略的に配置されているからです。それらを具体的には第二幕前半の小ミッドポイント(18話)と、第二幕後半の小ミッドポイント(33話)です。

    政次は13~18話では直虎の成長に必要不可欠な敵対勢力の役割を演じ、19話以降では城主としての直虎の相棒・片腕になりました。25話以降は聖霊パワーで離れていても意思疎通ができるほどのシンクロしていた二人、お互いの内部の中にお互いが生きているような感覚だったのかもしれません。そしてそれら全ての関係性の底流には、幼馴染だったおとわと鶴の絆がありました。これは本当に名前のつけられない特別な関係です。

    ドラマでは高橋一生さんの好演もあって、政次に感情移入する視聴者が予想を超えて急増しました。感情移入するキャラクターに、主人公と結ばれて欲しいと思うのは視聴者として当然の願いです。しかしそれが叶えられなかったので、各方面からフラストレーションの声があげられました。

    私はその現象は2つの点、すなわち一つは直虎の人物造形との関連で、もう一つは政次の人物造形との関連で面白いと思いました。

    視聴者が政次にこれほど感情移入したのは、逆に真の主役である直虎に視聴者が感情移入しにくかったということの裏返しです。前述したように直虎は「主人公の欲求」という核を持たないリアクションのキャラクターです。天真爛漫で優しさはあるのかもしれませんが、短慮で、感情的で、何を考えているのか分からない人物でもあります。このような得体の知れない人物が、視聴者がひいきにする政次を袖にし、ぽっと出の素性も知れない男を選び、政次の死の遠因になったその男と結婚するなど、多くの視聴者には納得のいかない展開でしょう。私は主人公の結婚がこれほどまでに冷ややかに受け止められた例を他に知りません。

    もう一つは、作者が政次という人物の造形についてコントロールしきれなかったという点です。政次は設定が複雑な人物です。原作の段階で色々な要素が盛り込まれすぎて、もはや各シーンでその設定のどれがその時の彼の行動の中心動機なのかが分かりにくくなっていました。そして最後のなつへのプロポーズでさらに混乱度が増しました。加えて予想を超えた高橋一生さんの好演、そしておそらくそれに伴う死刑シーンの変更によって、メッセージはさらに混乱したものとなりました。それでも高橋一生さんの演技から、政次の根底には直虎への愛があるということが伝わり、それが彼の「欲求の核」として一貫性があったので、直虎よりは感情移入しやすかったと思います。

    しかし最後まで問題として残ったのは直虎との関係でした。私は作者は政次と直虎の関係をもう少し分かりやすく整理して提示すべきだったと思います。本音を言えば、ここまで設定を盛ったのだから、政次は最後まで直虎を女性としても密かに愛していた、というシンプルな設定のままでよかったと思います。恋愛のストーリーラインを立てるために役割を作為的に龍に振ったから、このような混乱が起きたのです。そうではなく、恋愛のラインをあえてことさら立てずに、直虎は政次を、彼が望むような形と強さで愛し返すことはできなかったけれど、彼の男性としての愛を理解して、受け止めた、というあっさりした形でまとめればよかったのです。

    作者はどういうわけか、幼馴染三人には現世で三人の輪の外に配偶者をあてがいたかったようですので、亀に史実上の配偶者がいるなら、直虎にはオリキャラを、そしておそらく最後に政次になつ、という組み合わせが浮かび上がってきたのではないかと思います。しかしこれは必ずしも必要ではなかったように思います。なぜならこの物語は『おんな城主直虎』です。ある城主が、相棒・片腕、そして自分を愛してくれた同士を失い、一人になって少しの間休息し、そこからまた英気を養って一人で立ち上がる、このシンプルな構成のどこに問題があるのでしょう。

    たらればを言ってもせんないことですが、私は、直虎が周囲の人に支えられながらも究極的には一人で政次の死に向き合い、弔い切ってから次へ向かう展開のほうが、主人公の強さと覚悟が感じられ、視聴者からは静かな共感を得られたのではないかと思います。

 

南渓~井伊谷キングメーカー

    今回の南渓の「キングメーカー」ぶり、なかなかしたたかでした。ただし私は南渓は最初から直虎を見限って虎松に首をすげ替えようとまで計算していたとは思いません。最初に碁石を取り上げたのは、純粋に「重荷を取り除きたい」という伯父として、僧としての慈愛の気持ちからだったと思います。しかし虎松の思わぬ抵抗を見て、考えが変わったのでしょう。そこから先は、「キングメーカー」の本領発揮、虎松に色々言い含めたに違いありません。虎松の不敵な笑顔が全てを物語っていました。

    私は直虎の自立のためには、彼女が南渓を「キングメーカー」の地位から追い落とす必要があると思います。直虎は誰かの思惑に動かされて自分の行動を決める段階をそろそろ脱するべきです。そして彼女こそが次の井伊の「キングメーカー」になるべきなのです。

 

龍雲丸~究極の架空キャラ~

    最後に龍雲丸について少々。今回、物語の全体構造を整理をしながら、龍雲丸は本当に「材木」の物語のアーチのキーパーソンで、井伊の繁栄と悲劇の両方の引き金になる人だと分かりました。そして改めてそのマルチプレーヤーぶりには驚きました。盗賊であり、商人であり、木こりであり、人材派遣会社社長であり、建築士であり、海賊であり、忍びでもあります。このように考えていくと、彼は本来ならば別々の人に当てはめてもよいような役割を集約させた、別の意味での設定盛り合わせのキャラクターだといえます。それはもはや現実味の薄い究極の架空キャラ、すなわち文字通りの「オリジナル・キャラクター」なのです。龍雲丸は多面性と矛盾を抱えつつも何らかの一貫性を持とうとするアイデンティティのある人物というより、むしろ直虎に本来ならば別々の人が別々の段階で与えたかもしれない様々な影響を一人で与える使命を課された役割の集合体です。

    そのように考えると、直虎との結婚も、もしかしたら井伊取り潰しから武田襲来までの空白期間、直虎にあったかもしれない一市井の女性としての生活を象徴する役割の一つのようなものだとも考えられます。

    私が龍が究極的には不要なキャラだと考えるのはこのあたりに理由があります。すなわち恋愛面ではその設定自体必要なかったと思えますし、その他については役割別に別のキャラがいたとしても問題なかったからです。

    ただこのように考えると、あの井戸での事故もそんなに深刻に捉える必要もないように思えて、少しは気が晴れるような気もします。

 

おわりに

    今回も長くなりました。直虎には早く龍の話に区切りをつけて、本来の仕事である城主に戻って欲しいものです。そして、今度こそは、リアクションではなく、アクションを!