Aono's Quill Pen

青野の鑑賞記録

『おんな城主直虎』48話~日本のフィクサーになった女、『あさイチ』についても

相見~直虎と家康

 前回、直虎は万千代と直之に「家康を使った戦のない世実現の方向性」を示しました。その時点で私は、「直虎が家康に直接説得をするような展開は非現実的なので、間接的にすることを選んだのだな」と思っていました。しかし今話ではなんと直虎が家康と直接対決、自らの口で家康に戦のない世を実現してほしいと語ります。直虎のモットーは「相見」、直接会って話をするからこそ気持ちが伝わるというものです。ずっと以前の回にきちんと前振りがあって、しかも二人は知り合いの間柄でしたから、このような一見荒唐無稽と思えるようなシーンもそれほどの不自然さは感じられませんでした。

 この作品において直虎と家康は相似的です。どちらも戦を好まず、性格的にも戦国の領主に向いているとは言えません。しかし両者とも家臣に恵まれ、周囲とよい人間関係を築きながら、気がつくと頭角を現しているのです。

 しかしこの二人には決定的な違いがありました。直虎はやむを得ない外的な要因もあり、自覚的に「戦を避ける」という戦法をとり、限られた領土で経済政策などで内政の充実を行ってきました。しかし家康は、人質という境遇からスタートしたものの、戦上手であったことから戦国武将として出世してしまいます。戦に明け暮れる家康は、少なくともドラマにおいては戦のない世について積極的に思考したり行動を起こしたりする存在としては描かれてきませんでした。

 現時点で直虎に多少はあり、家康にないものは、戦わない社会をいかに動かすかという試行錯誤の経験と、その世がどのようなものかについての実感や手応えです。直虎は井伊家を失うことで、戦いに参加する資格を失いました。その後は近藤のもとで村の再建と綿産業の充実、林業の発展に努めてきました。しかし家康は、家が潰れていないがゆえに、殺し合いのゲームから降りることができません。今の家康は、政次を失ったショックを龍雲丸を救うことで乗り越えたばかりの、35話くらいの直虎と同じような心境にあるといえるのかもしれません。

 私たちは家康が天下人であることを知っていますから、家康には天下統一の野望が最初からあったように思いがちです。しかしこの時点では数いる大名の一人にすぎません。その彼が「天下統一」という野望を抱くには、なにか触媒となる作用や、動機づけとなる出来事が必要でした。直虎は、その触媒の役割を果たしたのです。

 今話で家康に対峙する直虎は、半分カウンセラー、半分モチベーショナル・コーチのようでした。あえて家康から極端な反応を引き出すような話をして彼を自分のペースに引き込みます。そしてうまく誘導し、家康から「自分は戦が嫌いである、戦が起こらないような仕組み作りを考えたこともある」という言葉を引き出します。そのうえで、「戦のない世を作って欲しい、やってみなければわからない」とけしかけるのです。この権力者を誘導して自分の望む方向に持っていく話術は、もしかしたら直虎が近藤を相手に磨いたスキルだったのかもしれません。

 家康に「戦が起こらない仕組みづくり」という言葉を言わせたことで、直虎は井伊谷フィクサーから日本の(という概念がなかったとしても、かなりの広域における)フィクサーに昇格しました。このドラマでの直虎は過去の女性大河と違い、不自然に歴史的事象に関わったり権力者に一目置かれたりする存在ではありませんでした。しかしここに至って、江戸幕府創始者を自分の望む方向にもっていくという、どの女性大河よりも野心的な役割を果たすことになったのです。それも私利私欲のためではなく、相手に自分の考えを押し付けるわけでもなく、ただ適切に相手を選び、その相手がすでにやりたいと思っていたことをうまく引き出す、という方法でその目的を達成したのです。

 この達成は、彼女が遠江の潰れた家の領主だったからこそ可能でだったのではないでしょうか。もしかしたらこれこそが、ノブが万千代に言った「潰れた家の子だからこそできる働き」だったのかもしれません。

 家康は信長の誘いに乗って安土に向かうことを決意します。しかしミステリ仕立ての今話のポイントは、光秀の話がどこまで本当か、氏真の話がどこまで本当か、さらには信長が本当に家康を陥れようとしているのかどうか、私たちには全く分からないということです。信長の本意をできるだけ見せないようにしてきた本作の作りが、ここにきてうまく機能しています。私たちは本能寺の変が起こることも、家康が伊賀越をすることも知ってはいますが、それがどう描かれるのか今の時点では全く分かりません。終盤にミステリの要素を入れて登場人物を「信頼できない証言者」に仕立てあげ、最後まで興味を引くというという思いもよらないアプローチで突入した最終章、おそらく昨年とは全く違った本能寺の変と伊賀越が見られることでしょう。

 

氏真と直虎

 万千代が最終シーンで直虎を「殿」と呼んで跪いた場面も地味ながら名シーンでした。直虎の悲劇を追体験して成長した万千代が、直虎の実力の前に素直に敬意を払うシーンは、18話での直虎と政次の和解のシーンや、政次が直虎の殿としての実力を認めた32話を彷彿とさせ、じんわりとした感動を呼び起こしました。

    48話では氏真と直虎の対決も見どころでした。25話の時点では、まさかこんな二人の相見の場が最終回近くであろうとはとても予想できませんでした。柴咲さんが「後に直虎が氏真を憐れむような場面もある」と言っていたのはこのシーンのことだったのかもしれません。氏真が瀬名の仇を取るというのは若干唐突に感じましたが、おそらくは今川滅亡のきっかけを作った信長に対する直近の恨みとしての瀬名の復讐なのだろうと思います。元大名のプライドを捨てて時代の流れに乗ったかに見えた表面上の顔の裏に、矜持と誇りが見え隠れする尾上松也さんの演技は見ごたえがありました。また同じように家を滅ぼされた同世代の二人が、全く違ったやり方でそれぞれの「戦後」を生き延びているという対比も興味深いと思いました。特に戦を嫌っていたように見え、家康よりも早く「蹴鞠で勝ち負けを決めれば良い」とすら言っていた氏真が、敵討ちの戦に一番に誰よりも熱心に名乗りを上げた点が面白いと思います。考えてみれば、かつて今川家で寿桂尼の影響を受けた氏真、家康、直虎は、みななぜか戦嫌いに成長したということになります。寿桂尼による「今川仮名目録」の考え方が、彼らの治世の基本に関する姿勢を方向づけたと考えるのは、穿った見方でしょうか。

 

 

あさイチ柴咲コウさん発言から推測する、柴咲直虎から見た政次

 

 『あさイチ』を見ての感想を、ノーカット、ポエム混じりの長文でつらつらと書いてみたいと思います。読んでいて恥ずかしい気持ちにさせてしまったらすみません(^^;。

 

柴咲:やっぱり政次を見送らなければいけなかった直虎さんの感覚というか感情というか、あのさっき槍で突いたときにはとうてい出せなかった秘めた思いみたいなものが含まれていますね。

 

井ノ原:本当のところはどうだったんだろう、というのはこの曲を聞きながら想像したりするね。

  

 『あさイチ』の柴咲コウさんの「いざよい」についての解説は、ここまで踏み込んで言ってくれた、という点に本当に驚きました。ふつうアーティストというのは曲や歌詞の解釈を限定するような発言は避けようとすると思います。しかしあえてこのように発言したのは、やはり柴咲さんご自身が「視聴者に自分の言葉で思いを伝えるのはこの機会しかない」と思われていたからではないでしょうか。雑誌の記事には編集者の手が入ります。しかし生放送の番組ならば、カットもされず、第三者による編集や解釈の余地もありません。

 その思いとはどのようなものでしょうか。ここから先は私の想像です。柴咲さんが、役になりきって直虎として生きてきた過程で、政次に伝えたい思いがあったとします。しかし脚本の中にはその思いを伝える機会は政次の生前も死後もありませんでした。柴咲さんはドラマを第三者として見る視聴者とは違い、直虎の人生を間接的に生きる存在であり、ある意味直虎自身でもあります。その柴咲さんの中には、もしかしたら脚本の方向性とは少し違った柴咲直虎がきちんと生きていて、その柴咲直虎の感情ベクトルは、私たち視聴者の解釈のベクトルと同じ方向を向いていた、すなわち柴咲さんの中の直虎は政次に「いざよい」の歌詞に示されていたような思いを感じていて、その思いを伝えられないことに忸怩たる思いがあったのではないでしょうか。

 思えば彼女のブログにも、政次の死をめぐっては「伝えたいけれど、伝えきれない溢れる思い」が感じられるような記述があったように思います。彼女は芸能事務所に所属するプロの女優であり、しかもドラマの主役という座長のような役割を担っています。全体のことを考えなければならない立場上、個人的な解釈を直接公言するようなことは憚られたでしょう。まして同じ事務所の所属男優が公式の相手役である状況で、それ以外の役に対するドラマの表現以上の思い入れを語ることは難しかったはずです。

 しかしそれでも、なんとかして思いを表現したかったのではないでしょうか。彼女には歌という表現手段があります。シンガーとして歌詞に思いを込めるのは彼女の自由です。女優として言えない思いを歌手として表す。多面的なアーティストである柴咲さんならではの方法だと思います。

 柴咲さんの解釈では、直虎には政次に対して口には出して言えない「秘めた思い」がありました。そして「いざよい」の語り手(直虎)は相手(政次)に対して「恋しい、愛しいきみ」と呼びかけています。さらに「あさイチ」では、「そんな風に(隠す方向に)行かなくてもいいのに」という政次に対するもどかしい思いも語られました。

 そこから感じられる私なりの柴咲直虎の気持ちは、次のようなものではないかと思います。

 

すべてをオープンにして正面から向き合ってくれたらよかったのに、気持ちもすべて話してくれたらよかったのに、あなたはそれをしてくれなかった。だから私はあなたの周波をキャッチしようと必死で感受性を研ぎ澄ますしかなかった。あなたに素直に気持ちを伝えてほしかったのに、あなたはそれをしてくれなかった。だから私は自分の気持ちを伝えることができなかった。

 

そこから連想される、18話の「女子だから守ってやらねば、はお門違い」というセリフの意図は、「あなたは男性としては対象外だから、私を女性扱いしないで」という意味ではなく、「勝手に私のことを想像してあれこれ配慮しないで、何でも率直に話してほしい。私の気持ちに耳を傾けてほしい」ということだったのではないでしょうか。

 直虎が政次を男性としてきちんと意識していたことは、彼女の仕草からも見て取れます。例えば、彼女は井戸で政次を引き止めるとき、袖を引いてもじもじとしていた様子を見せました。直虎は井戸で何人かの親しい人を引き止めましたが、万千代や直之は落ち着いて声だけで引き止め、瀬名は同性同士の気安さからもっと直接的に腕をがっしりとつかんで引き止めました。こんなに逡巡して、必死に引き止めたのは政次一人なのです。

    龍が現れて、直虎は本能的に龍に惹かれます。龍と直虎はお互いへの気持ちを少しずつ育てていくことができました。その理由の一つとして大きかったのは、龍が自分の気持ちに素直なオープンな性格だったということだと思います。直虎と龍は自分の気持ちについて相手に率直に語りかけることができました。

 政次は直虎に対してそうすることができません。自分の感情を押し殺し、相手を欺くことが習い性になっていますから、今更突然自分の気持ちを素直に語ることなどできません。そのことが時に直虎を苛立たせ、「本音で話せ」という言葉を言わせることになりました。

    思えば、12話以降の政虎の敵対関係も、元はといえば政次が井伊家を欺く計画を一人で勝手に立てたところに端を発します。あの時点で政次が直虎を信頼して何もかも打ち明けていれば、敵対は避けられたはずです。もちろんそれではドラマになりませんので、ありえなかった展開ではありますが、要するに政次の側からのコミュニケーション不足が政虎関係の発展の障害の一因になっていたことは確かでしょう。

 私も含めて、視聴者の中には「直虎から政次への思いの表現の欠如」を指摘する声がありました。確かにそうした表現が脚本に少なかったことは事実でしょう。しかし政次の方にも、直虎に限らず全ての事柄において自分の気持ちや考えを相手にわかり易く伝える、現在の言葉でいえばコミュニケーション能力が不足していたこともまた事実なのではないでしょうか。

 それでも24話時点で直虎は一旦龍に対する気持ちに区切りをつけ、城主の仕事に集中し始めます。直虎は21~23話の混乱期を除いては、政次が生きている間、龍を政次より優先することはありませんでした。政次にも、「政次の考えを一番尊重する」とはっきり伝えています。

 ここからはまた私の想像です。城主をしているときの直虎は、出家の身でもありましたので、意識的に恋愛や結婚を追い求めるような行動は取りませんでした。龍に対してさえも、ある時期からは一定の距離を置きます。基本的に城主時代の直虎にとって恋愛の優先度は低いものだったと言ってよいでしょう。

 しかしだからといって他人に対する恋情や愛情が完全にシャットダウンされていたということにはなりません。その証左に、龍への思いは彼女の心の奥底にずっとくすぶっていました。政次への思いはどうでしょうか。直虎は政次に焦がれるような強い恋愛感情を感じたことはなかったかもしれません。特に龍に感じるような強い性愛の情を意識化することはなかったでしょう。しかしだからといって何も感じていなかったということにはらないと思います。脚本の基本姿勢はおそらく「秘めた思い」のレベルでさえ何もなかった、というものでしょう。しかしドラマで表現されたものは、「語られない思いがあった」という解釈の余地を残すものでした。

 政次と直虎の間にあったかもしれない秘めた思いについて、高橋政次は、わりあい分かりやすく、自由に解釈して表現していました。聖典たる脚本にも政次から直虎への思いについては暗示されていました。

 それに対して、直虎の演技はより難しいものだったのではないでしょうか。脚本には直虎から政次への思いを示す手がかりはほとんどありません。さらに高橋さんと違って柴咲さんは座長の立場です。原典であうる脚本に忠実に演じるという責任感も感じていたことでしょう。さらに事務所の同僚に対する配慮もあったでしょう。ですから政次の生前や死後の展開に仮に疑問があっとしてもそれを抑えて、脚本の方向性に忠実に演じようとしたのではないでしょうか。

 視聴者の立場から見れば、高橋政次の解釈が視聴者の波長と合っていればいるほど(というより、我々が高橋さんの演技のベクトルに引き寄せられているので)、柴咲直虎の脚本に忠実な方向性の方が不可解に思えたのだと思います。そしてそのことに柴咲さんはある程度気づいていたのではないでしょうか。自分の中に表現したい思いはたまっていくのに、それを吐き出す場がない、さらにドラマの反響も耳に入ったでしょうから、視聴者の思いに応えたいという気持ちにもなったのではないでしょうか。

 政次と直虎の物語は公式には終わってしまいました。私の中でも、いつしか「政次と直虎にはワンチャンスさえもなかった」という諦めのような考えが生まれていました。しかし昨日の『あさイチ』を見て、必ずしもそうではなかったのかもしれない、と思うようになりました。実は政次には、いついかなる時でもチャンスがあったのではないでしょうか。言う前から諦めてしまい、気持ちを伝えないという決断をしたのは政次の方です。直虎のモットーは「やってみなければ分からぬではないか」です。もしかしたら直虎にはいつでも、政次の気持ちを受け止め、考える用意はできていたのではないでしょうか。

 特に18話以降、直虎は政次を頼りきっていましたから、チャンスの確率はどんどん上がっていったと言ってもよいのではないかと思います。四六時中その人がどう考えるかを考え、離れていても考えが分かるようになるなど、嫌いな人に対してできることではありません。22話で政次が龍雲党を訪ねたときも、直虎は政次の一挙手一投足を終始気にしていました。このようなディテールににじみ出る思いに気づくのは、本人ではなく龍の方です。政次が死ぬ直前などは、龍には「頭に何が分かる」と言って龍の方をシャットアウトしていたほどです。

 直虎と龍は、政次が死んだからこそ結びつくことができました。その意味では、まさに「お前しか残らなかったから」ということになります。だから頭は、政次の死後も直虎以上に政次の存在を意識していたのでしょう。

 『あさイチ』の柴咲発言から見えてきた、私にとっての直虎の政次観を整理します。

 直虎にとって政次は、一目惚れのような強い自発的な恋愛や性愛の感情を換気するような存在ではなかったのかもしれません。脚本でも政次に友情以上の強い感情を抱くような描写はありませんでした。しかし友として家老として彼を頼り、彼の行動を慮り、彼の思考に波長を合わせようとするなかで、ある意味誰よりも深く彼のことを思うようになっていったのではないでしょうか。直虎の政次に対する感情の根本には「信頼」があったと思います。そして信頼する異性を心の何処かで密かに愛するようになったとしても、その心の動きには、不可解な点や非論理的な点は一つもないのです。

 柴咲さんも視聴者も、基本的にはこの方向性で物事が進むことを予測していたのではないでしょうか。しかし脚本の方向性は不自然なまでに政次と直虎の共闘以外の感情の発展を否定するものでした。

 33話の別れは直虎にとって自己の存続の危機をもたらすようなトラウマティックな経験でした。しかし3話後には直虎は別の男性と結婚してしまいます。その展開が多くの人にとって受け入れがたいものでした。そのことは『あさイチ』で龍が全く登場しなかったことにもある程度反映しているのではないでしょうか。直截に言って、政次を立てれば、龍は成り立たないのです。これは龍を否定しているのではなく、主人公の心は二人同時には捧げることはできないということなのです。

 柴咲さんの思いを知ったことで、私たち視聴者は苦しかった気持ちに「名付け」をもらったのではないでしょうか。それは一つの症状にやっと病名がついたような、苦しい中にも前に進める足がかりとなるような、そんな救いをもたらす「名付け」でした。そしてそれはおそらく、柴咲さんからの私たちに与えることができうる最高のプレゼントだったのではないかと思います。